龍兵衛が謙信に仕え始めてまもなく、颯馬が越後の治安維持の為に領内視察を行っていて春日山を留守にしていた時のことだった。
定満は謙信に呼び出された。
悩んでいるようで、どこか浮かない顔をしていた。聞くと一通の書状を見せてきた。
差出人は天童頼道。
文面を読んでみると最上と戦をするために兵を貸してほしいと書いてあった。
謙信はどう返答するべきか定満に聞いてきた。
書状に書いてある天童からの見返りは悪いものではない。羽州の領地の一部を分けてくれる。
だが、よく読み返すと主要な要地は天童が全て治めることになっている。しかも、上杉軍がそれ以上に北上も出来ないように天童が城と領地を所有することも見逃せない。
定満はすぐさま断るべきだと言った。
幸いにも越後は統一されたばかりで、まだ外征が出来る状態では無い。
断る理由は十分にあるが、謙信が人から助けを求められたら断り難い性格であることも知っている。
もしかしたら天童はそのことも計算に入れているのでは無いか。
仮にそうだとしたら謙信の義の心と性格に付け込むことだ。
上杉への忠義が篤い定満にとって、主君を汚す、許し難い行為である。
定満はこの件を任せて欲しいと言い、早速動いた。
まず、間者を放って天童を探らせた。
定満の予感は的中する。
間者の一人が天童の家臣に接触することに成功し、酒と金で情報を聞き出した。彼は謙信に戦を任せて漁夫の利を狙っていた。
それだけでなく、あわよくば統一直後に兵を出して弱体化した越後も乗っ取ろうと画策していたのだ。
謙信をよく知り、一番近くで見て来た自負のある定満は憤った。
彼女がここまで説明すると龍兵衛が手を挙げた。
「一ついいですか? 何故、天童は謙信様ばかりを狙ったのです?」
「頼道は東北の覇者になるのが夢。だから、他が大きくなるのを嫌ったんだと思うの」
伊達などが大きくなると自分の野望が実現出来なくなってしまう可能性が高い。それは東北の複雑な情勢を理解していない上杉である方が都合が良いと考えたのだろう。
「あと、謙信様以外に兵を貸してくれそうな所がなかったんだと思うの」
当時は東北のどの地方でも内乱状態にあった。
その中で最上と伊達はいち早く領内を統一し、対立も早くからしてきた。だが、その二つの家も一枚岩ではない。そこに天童は付け込んだ。
伊達が大きくなるのは、定満が述べたように都合が悪い。となると残るは越後を治める上杉しかいない。
寒さを感じるようになってきたので、龍兵衛の持っている松明を中心に自然と固まった。
定満は謙信を説得し、出兵は断じて禁じて欲しいと言うとこの書状も秘密にするように頼み、計画を実行に移した。
まずは偽の書状を作り上げ、間者に天童では無く、最上派で天童城に近い中野城に敢えて渡した。
中野がすぐに義守に伝えたことで天童と上杉が繋がっていることが明らかになった。
すぐに義守は天童を討つべく出陣した。一方の天童もことが明らかになったことを悟ると反最上派の連合を作り上げて義守に対抗した。
いわゆる最上八楯による内乱、天正最上の乱である。
結果として、両者は和睦を結び、一時休戦となった。
その後、義守与党だった延沢満延が正式に最上の傘下になったことで天童は簡単に最上を攻めることは出来なくなった。
ここまでは龍兵衛達にも伝わっていることである。
楯岡が調略によって寝返り、徐々に最上優勢になると天童はもう一度上杉に援軍を頼んだ。
使者が到着したのは龍兵衛達が石礫投げで盛り上がっていた日のこと。
定満は謙信がいないと嘘をついて代わりに使者と面会した。
快諾したふりをしてその後、謙信がいることに気付かれないようにそっと使者を帰らせた後にこのことを密かに最上に伝えた。
「謙信様に何故使者が来たという報告が行かなかったのですか?」
颯馬はもっともなことを聞いてきたが、定満があらかじめ門番にもし天童からの使者が来たら自分に伝えて欲しいと金を握らせておいた。
門番も定満の気迫に押し負けて応諾してしまった。
使者には頼道に上杉が承諾した旨を伝え、上杉の陣で共に戦うことを条件とした。
自尊心が高く、独立の野望がある頼道は上杉の下に入るような扱いに激怒したが、それを呑まないともはや頼道自身の命運はない状況にまで来ていた。
頼道はもう宇佐美定満という稀代の策士の手の平に転がっていて握り潰されるのを待つしかなかった。
援軍が来たと思った彼は出陣した。上杉軍を見つけて合流しようと馬を走らせた。
しかし、彼を定満以外の上杉軍全員が頼道を敵と見た。全てを知る定満は敵を倒すべきと言った。
「どうして、頼道をこちらに引き込まなかったのですか?」
「颯馬、それは愚問だ。俺達と考えていたことは定満殿も同じだったということだ。針生盛信の時のようにな」
「うん。はっきり言うとね、頼道は要らなかったの。直接会ったことは無いけど、書状の書き方、間者からの報告、使者の態度……全部、彼の性格を表していたの。とっても傲慢で独善的」
定満の目は怒りに燃えていた。
めったに見せない怒りの表情を隠そうともしない。
それほど気に食わなかったことが分かる。
二人は定満の気持ちと蘆名の時の盛信に対する気持ちが同じであると今感じた。
夜風は厳しく松明の火では和らぐ事は無い。暖かい雰囲気などはすでに雲散していた。だが、暗くて冷たい風が吹くほど三人の顔は活き活きとしていた。
まるでそちらの方が自分達が生きていて行きやすいと思わせるように。
「そして、仕上げは終わったの。これで私のお仕事は終わり……ううん。後、もう一個あった」
定満は燃え粕となった書状をまるで頼道が燃えているように侮蔑の表情で眺めている。二人は察した。
頼道から送られた書状は二枚だ。
今一枚が燃えているが、もう何が書いてあるか分からない。後一つの仕事というのは言うまでもなく天童城にあるであろう二度目の使者に送らせた書状を燃やすこと。
最初の中野城に届けた書状はこちらの手違いで一応は済む。
だが、もう一枚はそうはいかない。
あの書状を掲げられてしまっては上杉は不義の輩で味方さえも討つという本当の慮外者という烙印を押される。
幸いにも頼道は死に、ほとんどの将も先の戦で倒した。あとは二枚目の書状を焼くだけで終わる。
「定満殿は自らの手で葬りたかったのですね? それほどまで彼を許せなかった……」
颯馬はまだ定満を責めるような口調を続けるが、龍兵衛がそれを許さない。
「颯馬、もう言うなこれは終わったことだ。この事はもう言わなくていいだろう。そして、定満殿」
颯馬を諫めると龍兵衛は改めて定満の目を見て言った。定満を責めるような視線ではなく彼女の働きを労るような雰囲気に変わっていた。
「この事は我々の墓場まで持って行く、謙信様にも言わない……そうですね?」
定満は頷いて三人は陣に戻る為に立ち上がる。燃え粕を池の中に入れて終わった筈だった。
木陰からの物音で三人は振り返る。
「誰だ?」と颯馬が刀に手にして、言うと出て来た人影はすんなりと姿を現した。
「私だよ颯馬」
出て来た人物を龍兵衛は松明を掲げて確かめる。
すぐに誰か分かった。
ここに一番いてほしくなかった人物だった。
三人は悟った。全部聞いていたに違いないと。話に集中し過ぎた事に後悔したがもう遅い。
「定満よ、今の話は真だな? 何故私に言わなかった?」
その声は冷たく三人の足を凍らせるのには十分だった。最初に刀を向けられた定満は頭を下げる。
「謙信様、ごめんなさい」
「詫びはいい。理由を私は聞いている」
はぐらかそうとしても出来ない。
謙信をよく知る定満には分かっていた。
家臣を信じて来た謙信にはつらい現実を突き付けることになる。それでも定満はもう言うしか無かった。
頼道を許せなかったこと、籾つぶすことで上杉の今後の為になったこと。上杉を強くするためにやむを得なかったこと。
「謙信様を愚弄する事が、許せなかったの」
つらつらと全てを話した定満に何も言わずに今度は颯馬と龍兵衛に聞いてきた。
「そなた達も蘆名攻めの際に同じことをしたようだな? 何故……とは言わん。定満と同じ考えだったのだな?」
力無き声で二人は返事をする。そして謙信は一つ息を吐き、三人を戦場の敵を見るように睨み付けた。
「そなた達は私に黙って何をしていたんだ? 上杉の為によかれと思いやったのはよく分かっている。だがな、当主たる私に何も言わないとはどういうことだ?」
その剣幕はさらに燃え上がる。
謙信は家臣が上杉の利益の為に恨みを買うようなことをしているのを責めているのではなく三人がこのようなことをしてのうのうとして知らぬ存ぜぬでいたのが許せなかったのだろう。
「この罪は重いぞ。別にこのようなことを止めろとは言わん。だが、私に黙っておくことは許し難い行為である。もっとも、そなた達から見て私が当主に相応しくないのなら話しは別だが」
最後の台詞には三人は大きく首を左右に振る。
謙信もさすがに熱くなり過ぎたと思い冷静になるべく一息入れる。
「すまぬ。ちょっと言い過ぎたな。だが、主君である私に黙っているのはあってはならないことだぞ。今後はしっかりと私に報告するんだ。私とて嘘や謀無しに乱世を生きることは出来るとは思ってない」
謙信はいつもの雰囲気に戻った。
それだけなのかと三人は首を傾げる。てっきり罪を着せられると思っていたが、不問に付されたことに違和感を覚えた。
互いに顔を見合わせて戸惑っている三人に謙信は気付きもう一度振り向く。
「そなた達を罰して、何か良いことでもあるのか?」
「謙信様……」
「そなた達は上杉になくてはならない存在だ。罰してみろ。損害は兵一万人以上を失うのに等しい」
そう言うと謙信は定満の頭に持って来ていたウサ耳を着けた。
「定満はそれが一番いい。無理はもうするな。私とてもう大人だ。ま、そなたから見ればまだ子供だけどな」
いつもの冗談に定満は頭を無言で下げた。今度は龍兵衛を見る
「影で色々とやっていたことは把握している……驚くな。黙っていたのだ。何も言わぬ。ただ今後はきちんと報告を怠るな」
龍兵衛は謙信の懐の広さに驚くしかない。
今度は颯馬に視線を向けている。
「颯馬も同じだ。それにそなたには色々といてもらわないと困るぞ」
颯馬も頭を下げる。
三人は改めて思った。
綺麗な正義も汚れた謀略も包み込むこの人こそ日の本を天下統一へと導く御方に相応しい。
自分達は軍師として支えよう。決して踏み止まらせることはさせない。
「さぁ、陣に戻るぞ。早く寝て明日に備えるんだ」
謙信の後に続いて三人の軍師は歩いて行く。
冷たい風は止み、少し寒さも和らいだ。
三人は心の安らぎとは裏腹に上杉の闇を支配する正式な黒幕へと変わった。
清々しく残虐で美しい物をこれからどれだけ見ることになるのかはまだ知らない。