上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第二十七話改 清き血を浴びた者に

 義龍軍には多くの死者が出ていた。

 長良川が死んだ者達の血で赤く染まっていた。勝ったはずの戦で何故かまだ戦をしている。

 将兵たちは現実を受け入れられないでいた。

 小牧源太が道利の首を取った報告を受けると国人衆は歓声を上げた。彼らにとって閻魔よりも恐ろしい蝮が死んだのだから。

 しかし、彼らの本当の地獄の幕開けはこれからだった。

 官兵衛の言葉に皆が耳を疑った。彼女は義龍軍に矛先を向けてこう言った。

 

「殿に属する者を殺せ!」

 

 その叫びは義龍も聞こえていたそうだ。

 聞き間違いだと思ったが、本当だったことに当初は衝撃を受けたらしい。

 一鉄さえも踵を変えて、義龍軍に向かっている。

 さらに両兵衛の軍もこちらに向かっている。

 四人の軍はこちらの兵達を薙ぎ倒している。

 義龍は驚きを隠せず、ただ呆然とするかなかった。

 信頼していた者達がいきなり寝返り、驚くなという方が無理がある。だが、聡い彼女は次第に四人が企む真の目的が分かった。

 しばらく眺めている間に口を三日月の形に変えた。

 四人の行動の真意は義龍を討ち、斎藤家を転覆させることに非ず。

 よく見ると四人の軍勢は義龍の居る本陣や美濃三人衆の安藤守就、氏家直元が居る陣の中心を狙っていない。

 信頼出来ない国人衆の軍勢を狙い、徹底して本陣に突撃しようとはしていない。

 戦前にこの陣形を考えたのは龍兵衛である。

 彼が考えた陣形を義龍は二つ返事で承諾したが、外側という接敵しやすい国人衆には上手くいかない。そこで、国人衆が大好きなことで承諾させた。

 道三の首は喉から手が出るほど欲しい。

 当然のことだが、今回の戦で敵大将である道三の首を取れば、莫大な恩賞が出ることになっている。彼は国人衆達に道三を討ち取った者には重臣としての扱いを約束していたと義龍が言っていたと見え透いた嘘をついた。

 その嘘を国人衆達は簡単に信じた。

 故に、義龍に見向きもせずに道三の陣に近い所に我先にと部隊を配置したのだ。

 義龍の陣から外れる程、斎藤家に要らない屑である。

 義龍は察し良く、安藤と氏家に自身を守らせ、境界を作った。

 此処から外の敵を討てと彼らに示した。

 いち早く察した一鉄と二兵衛は其処までで進撃を止めて周りの敵を徹底的に叩いた。

 どさくさに紛れて三人衆の二人も国人衆の一部を討ち取った。後で怪しい動きをしていたとでも言っておけば良い。

 周りには多くの汚れた強欲者の血が流れた。

 長良川の色はさらに変わり鮮やかな赤色がどす黒い赤色に変わっていく。

 同時に払拭されていく美濃の怨念。しかし、その代償は重かった。

 ここからが河田直親の一生の不覚であった。これが無ければこの世界で上杉軍の河田直親は存在しなかったかもしれない。

 天はそれを許さなかった。

 

 龍兵衛が境界線を越えてしまったのである。

 もちろん境界線は気付いていた。

 だが、経験の浅さが出てしまい、軍を反転させる機会を誤ったのだ。

 慌てて一鉄に止められて気付いた時にはもう遅かった。彼が率いていた兵達が守就の軍の兵を何人か殺してしまい、龍兵衛も誤って安藤軍の兵二人の命を奪ってしまった。

 義心にかられ、刀を握って義龍の邪魔者を排除せんと先陣を切っていた。そのために兵への指揮が疎かになった。

 言い訳も出来ない完全な過ちだった。この瞬間に斎藤家の河田長親は完全に終わった。

 

 龍兵衛は守就が鍛えた清廉潔白な兵の血を浴びたまま一鉄達と一緒に捕らえられた。

 目の前で義龍は表向きの咎め、厳罰に処することを言った。夕日の中で縛られた四人の姿は罪人そのものだった。

 稲葉山に戻り、牢屋に入れられた四人の前に義龍が現れて頭を下げ、義龍は道三と再会した。弊害は消え、妨げる壁も何も無い。親子は抱き合った。暖かった。

 道三は心から愛する娘に今まで言うことの無かった言葉を掛けた。

 

「よくやった……」

 

 お互いは泣き崩れた。この時が親子であって親子で無い環境から抜け出して真の親子となった瞬間であった。

 その後、斎藤道三は長井道利として表では偽って生きることになった。

 道三も戦が終わってから計画の終点は親子の仲を修復することであったことを始めて知り大変驚いていた。

 命を賭してまで美濃を守ろうと行ってくれた頭を下げ、四人に感謝の弁を何度も述べた。

 国人衆の多くは無差別な粛清を受けて、一人立ちなど夢のまた夢となり、完全に斎藤に頼らざるを得なくなった。

 これで斎藤家は美濃を完全に掌握し、脅威を払拭した。

 義龍は国の経営を任されることになり、その隠された能力を遺憾なく発揮することになった。 

 その姿は実にはつらつとしていて、かつての暗い面影など、どこにもなかった。

 美濃から強力な闇と強欲が払われ、斎藤家に真の栄光の道が開き、皆が幸せになれる国となる。

 しかし、龍兵衛だけは幸せになれることは無かった。 

 彼の戦で守就の兵を殺してしまったことは問題となった。国人衆の方は握り潰せるが、斎藤家の重臣で名高い美濃三人衆の一角の守就の兵を殺した事に関してはどうすることも出来ない。

 何も知らない兵からの不満を受け取っておきながら、何もしないとなると側近には甘いと考えられてはまたどこかで道利のような人が現れるかもしれない。

 一鉄達三人は兵達の暴走というかなり強引に結末を変えた。

 しかし、三人衆の兵を殺めた龍兵衛はどうするか。

 別に殺すつもりはない。だが、それに近い刑罰を与えなければ、また周りから何か言われることは明白。

 現に彼らの計画を知らない家臣からは龍兵衛を処刑するべきだという声もあった。

 彼自身もここに居て、立場が無いことは分かっていた為、覚悟出来ていた。死を人一倍恐れる彼もその時は投げやりになっていた。

 しかし、道三と義龍が取り計らい、龍兵衛の了承を得て、追放するということになった。

 本来なら、反逆罪で首が無くなるところだったが、道三達の手回しによって処刑を龍兵衛は免れた。

 また、官兵衛も実家の事と自分の弟子を止めることの出来なかった責任感を感じ、自分を同罪にしてほしいと聞かなかった。

 半兵衛が止めたが、あの戦で弟子が醜態をさらした事に心がやられた。彼がもう大丈夫だと思っていたからこそ、この衝撃は大きかったのだ。

 彼女も龍兵衛に荷担していたと、国外追放される事になった。

 一鉄と半兵衛はこのことを密告していたとして、強引に無罪となった。

 

「……そして今、ここに自分が居る訳ですが」

「兵達を討った。まだ、後悔してる?」

 

 当然と暗い顔で龍兵衛は頷いた。

 

「ですが、最近分かったことがあったのです。これが無ければ自分とて人間不信にはなりません」

 

 確かに先の事は龍兵衛の過失で本人も認めていることだ。最悪なのはここからだった。

  

 小牧源太が首を持ち去った理由を知っていた人物が一人だけ居たのだ。それは道三があの戦には参加していないのを知っていて尚且つ道三が道利である事を直ぐに分かる事が可能な人物。

 井上道勝は道利を組み敷いた時に一瞬だけ顔が見えたそうだ。それに驚愕している間に源太に道利の首を取られたということらしい。

 彼女は兄の事を知らなかった。兄の道利は道勝の事は大切にしていた。溺愛という言葉が当てはまる位に、道勝も少々の鬱陶しいと思っていたが、道勝自身も兄の事は慕っていた。

 その兄を目の前で斬られ、彼女は悪人と名高き道三が道利として、兄として生きる事となったのは耐え難いことだった。

 彼女は真っ直ぐな人であった。それはもう綺麗に引かれた細い糸のように。

 だが、細かったが故に進んでいた道も脆く、外れること容易かった。

 

「今川を倒した織田と早々に手を組んだそうです。義龍様を見限って」

 

 龍兵衛は怒りを隠す事無く拳を床に打ち付ける。顔を震わせ、赤くなっている左手を痛がることも無い。それどころか、景勝に向けてまくしたてるように口を開いた。

 

「それで済んだらまだいいですよ! あの戦いには無関係で中立を保っていた明智光安殿という方がいらっしゃるのですが、あの戦いの後、自分達が居なくなった後を見計らって、明智殿の居城を襲撃しました。道三様につき、斎藤家を乗っ取ろうとした首謀者だと。不忠者だと、汚名を着せて! 娘さん達を逃がす為に光安殿は死にました。そして、井上は……」

 

 その後、彼は長井道勝がどんな事して来たのか語った。

 道勝は影で斎藤家を意のままにし、民から税を絞り取り、義龍がそれを咎めようとすると道三の事を国人衆にばらすと逆に脅して黙らせ、全て義龍の命令であると大々的に公表し、義龍の弟の龍興が少し町の女性と話していたのを見ると彼は女好きのだらしない奴であると言いふらすなど、やりたい放題を繰り返していた。

 これを見た半兵衛は道勝を暗殺する為に襲撃計画を龍興や美濃三人衆と共に立てて、義龍が稲葉山を離れている時に実行した。彼らが外から襲い、龍興は城の中で背後を突く算段だったが、道勝は計画をあらかじめ察していて城から抜け出していた。

 結局、その事件は半兵衛が首謀者として片付けられ、だらしない龍興に活を入れる為の物であったとされた。

 半兵衛も首謀者にされた以上、命は助かってもいずれ讒言にて首が飛ぶ事を恐れて隠居してしまった。

 三人衆は謹慎の後、復帰したが、今までの力は失った。

 その後、いち早く織田に降ったのも道勝であった。

 今や美濃は国として貧しさを増しており、かつての豊かさが見る影も無くなりつつある。斎藤一族も今は織田の大河に飲まれよる事をよしとせずに必死になっているだろう。

 

「今でも斎藤家の方々は道勝の恐怖に影響され続けています。あんないい人がこんなに変わると……」

 

 龍兵衛は溜め息を吐いて景勝を真っ直ぐ向く。

 

「どうでもいいことですが、実は自分は子供の頃は周りからいじめを受けていて、元々人の本性は悪ではないかという思考になっていたのです」

 

 景勝は驚き、目を丸くしている。

 それを察した龍兵衛は苦笑いを浮かべる。

 培われた負の思想を斎藤家の面々は救ってくれた。龍兵衛から負の心は霞のように小さくなり、上向きな性格の部分が出てくるようになった。

 長良川の一件も最後はともかく、斎藤家がより良くなると信じ、彼は越後へと向かった。

 

「……あの女は、見事なまでに捻り潰してくれた。誰でもいつか狂者となり、人を恐怖に陥れる。斎藤家の方はその考えを、塞がれていた自分の負の考えを解放してくれたんです。なのに……あれの本性は邪悪なのに、織田の庇護下でのうのうと生きていやがるのが許せない。自分の人間不信を蘇らせる一端を作ったあの悪魔を……っ!?」

 

 声を段々と荒げ、怒り感情を完全に表面に出し、景勝に向かって身体を震わせる。

 彼女への敬意を失い、ここに居ない者への怒りの矛先を向けるかのように睨んでいた。

 景勝がそれを止めるように龍兵衛に抱き付いた。

 彼はその暖かさでようやく落ち着き、呆然としていたが、少しずつ平静さを取り戻すと今度は現状を把握し、顔を赤くする。

 景勝も抱き付いたまま、龍兵衛に負けないぐらい顔を赤くして、明後日の方向を向く。

 

「あの、景勝様? 大丈夫ですので離れて欲しいのですが……」

 

 そう言ったが、景勝はそのまま龍兵衛を見ずに口を開く。

 

「龍兵衛、上杉の軍師、違う?」

「そのようなことありません」

 

 龍兵衛はもう上杉軍の一員であり、仕えた時から上杉家をさらに繁栄させる為に全力を尽くすと決めていた。

 

「なら、もう気にしない。誰もいない。居ない人怒る。周り、困る」

 

 確かに今の龍兵衛はただの狂人となり、せっかくの心を許せる者達から遠ざけられる。

 怒りは要らぬ所に影響を及ぼす。龍兵衛はようやく、怒りをぶつける人が居ない所で何も良いことはないと気付いた。

 後悔などしていても意味がない。終わったことをあれこれ言うのは簡単だが、これからを考えなければ人は先に進むことは出来ないのだから。

 

「すみませんでした。そして、ありがとうございます。自身の原因が分かりました」

 

 先程までとは違う穏やかに笑顔を作る龍兵衛の笑みが浮かぶ。

 

「もういい加減に離れて頂きたいのですが……」

 

 いまだに景勝はくっついている。龍兵衛から顔は見えないが、赤くなっているのが簡単に想像出来た。

 

「もう少し、こうさせる」

 

 龍兵衛は頭を掻くが、愛しいと思った人にこう言われ、抗える訳が無く、このままでしばらく居る事にした。

 顔がお互いに真っ赤で何とも気まずい雰囲気が続き、龍兵衛はもう一度口を開く。

 

「自分だからいいですけど。人だと勘違いする人もいますよ?」

 

 もう少し内容を選ぶべきだったと言った後に気付いたが、景勝は首を横に振った。

 

「別に……勘違いでも、いい」

「……は?」

 

 素っ頓狂な声を上げた龍兵衛を誰が責められようか。いきなりの発言に必死に頭を正常に戻そうとする。

 一方、景勝は完全に茹で上がり、龍兵衛の腕の中で口をぱくぱくさせている。

 自分よりも舞い上がっている人を見ると冷静になれるもので、その動きを感じた龍兵衛は景勝の肩を叩いて正常に戻そうとする。

 すると景勝はどうにか少し落ち着いたので、真意を聞こうと真っ直ぐ彼女を見る。

 

「ぼ。は、はわわわわ……」

 

 景勝は再び真っ赤になっておろおろしてしまった。

 

「(駄目だこりゃ……)」

 

 とりあえず、身体を離して居住まいを正す。そして、真面目な顔を景勝に向けると雰囲気を感じ取ったのか、徐々に落ち着いた。

 景勝は謙信が世継ぎ。いずれはどこかの家格の高い人と婚姻するのは分かっている。

 

「自分よりもいい人は、この世の中にごまんといますよ」

 

 好意を向けられつつも平然としているが、景勝は首を激しく横に振って否定する。

 

「龍兵衛、景勝の事、一番、分かってくれた。龍兵衛、景勝、分からない。だから景勝、龍兵衛の事、知りたかった。龍兵衛、ずっとはぐらかした。でも、今日教えてくれた。嬉しかった。本当は龍兵衛、いい人、今日、わかった。だから……景勝、龍兵衛がいい!」

 

 意を決したような最後の言葉に龍兵衛は胸を撃たれた。

 自己管理の出来ないような人を次期当主になる方が好きになることなどあり得ない。

 本当なのか。ただの戯れ言ではないのか。

 猜疑心は強くなる一方で、龍兵衛は景勝をじっと観察する。顔を赤くして何も言わない。返事を待っているのだろう。

 

「自分は無実の人間の綺麗な血を浴びているんです。そんな人と景勝様は一緒にさせるなど許される筈がありません」

 

 疑いが潔白になる事など無く、もっともらしい理由で突き放す。それに清い景勝は清き者と居るべきと龍兵衛が思った時、胸を拳で叩かれた

 痛がっている隙に顔が彼女の方に向けられ、唇を重ねられた。

 

「か、景勝様? いったい……」

 

 互いに顔を赤くさせて残っている唇の感触を確かである事を確認する。

 間違いではなかった。さらに顔を赤くしながら景勝は龍兵衛を上目で見つめて言った。

 

「景勝、本気」

 

 龍兵衛は愚か者だったと自覚させられた。

 どこまでも人を信じる事出来ない愚か者だ。それでも景勝は本気でいいと言ってくれた。

 疑り深い彼でも口付けまでされたら信じられないわけがない。

「はぁ」と息を吐くと龍兵衛は景勝を動かせる左腕で抱き締めた。景勝も両手を龍兵衛の背中に回す。それはお互いに満足するまでずっと続いた。

 人の心は揺れやすく、人を疑うことは容易くても信じることは難しい。それでも、景勝は龍兵衛を信じた。

 それは人間不信の彼には何とも愚かなことである。

 彼も景勝を信じた。

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