上杉軍は今日、越後に帰還する。それは上杉家の未来を掛ける攻防戦の始まりでもあった。
朝一番に謙信は信頼の置ける配下の将を集めて件の計画に対応する為に軍議を開いた。
寒々とした空からは雪の降る気配は今のところは無いが、その寒さは越後の冬にも負けないものがあり、上杉軍の間にも広がっている。雰囲気はお世辞にも良いとは言えない。
何故ならここにいる全員が元より計画を知っている者ばかりなのだから。だが、知っていても具体的に知る者は誰もいない。
軍師達でさえ掴めない詳細な情報を知れる訳が無い。
「弥太郎と景家は先頭を頼む。何かあればすぐに伝えるように」
二人が頷くと謙信は他の将に矢継ぎ早に指示を出す。
長重と義清には後背を突かれないように警戒を怠らないこと。またそれ以外の将も両翼からいつ襲撃されてもいいようにしておくことを命じた。
「よいか? 何としてでも兵士達を無事に越後に帰すのだ」
全員が頭下げて軍議が開かれた部屋から出る謙信の後ろを付いていく。
その中でようやく越後に帰れると安堵の心がある者などいない。謙信を含めた全員が内心、いつ襲撃が来るのか分からない戦々恐々とした気持ちであった。
逆に言えばこの地獄を突破出来た時に上杉家は天下への道を進むことが出来る。しかし、そのような上向きな考えを持つ者など誰もいない。
上杉軍が京から越後に帰るには北近江を通ってから越前北陸を通るのが普通である。軍を引き連れている以上はこの道以外に通るという選択肢は無い。
謙信はとにかく急ぐようにと各部隊に命じた。
一方、早急に戻る必要があるが、兵士達に休息を与えない訳にもいかない。
京を離れて早三日。上洛前に立てた予定以上の早さで上杉軍は北近江に入った。ここで一日休息を取ってすぐに出立する事になった。
しかし、一日と言っても北近江に入ったのは巳の正刻(午前十時)さらに明日は日の出と共に移動を始める予定の為、実質的には約半日しか無い。
兵士達は陣の設営が終わるとすぐに死んだように眠りに就いた。
今のところもっと休ませて欲しいなどの不満は出ていないが、このような行軍を続けていれば兵士達の疲労は溜まるばかりで越後に着くまでに脱落者が出るかもしれない。
それでも今は我慢のしどころである。ここで一日でも無駄にすれば帰る前に何が起きるか分からない。
それに兵士達だけでなく、将達は陣の見回りと来襲の警戒。軍師達も越後に帰る前と帰った後に起こるであろうことを考えてそれを話し合うなど忙しく、疲れているのは皆である。
故に、兵士達からは不満の声が上がらないのかもしれない。
一方、不満が無くても不安がある為、将達は疲れなど気にしてもいなかった。
「どうしたもんかね」
龍兵衛もその一人である。
うろうろと陣の近くを歩いていた。先程までは他の軍師達と議論を重ねていたが、結局は今後の対応策を練るだけでどこが戦場になるかさえ分からない以上は正直言ってあまり意味をなさないのは誰もが分かっていた。
それでも議論をしていないと気が収まらない。故に、無駄な話し合いが続いている。
終わった後に不安を解消する術も無く、気晴らしにと歩いていた訳だ。
相変わらず不安な心は解消されない。それどころか一日毎に積み重なる石のように徐々に重くなって行く。
その中で心身共に寒い雰囲気を少しだけ温かくするような者がいた。
「・・・・・・誰ですか?」
先程から沿って歩いている近くの茂みに何かが居ることは分かっていた。
龍兵衛に付いて行くように動いていて彼が上杉軍の陣に近付いてもそれは変わりない。
間者にしては動きがバレバレなのでどうするべきか考えあぐねていたのだが、いい加減陣に戻らないといけないのでとりあえず誰かでも知っておこうと思い、龍兵衛は声を掛けた。
万が一に備えて腰を落とした龍兵衛が問い掛けると思ったよりも素直にがさがさと茂みから何かが出て来た。
言うまでもなく人である。まず立ち上がったらしく頭が出て来た。しかし、顔が見えない。背が小さいので仕方ないのだろう。
茶髪の頭に緑色の葉っぱがだらしなくくっついているのが見える。
それから出ようとしているのだが、身体のどこかが木の枝に引っかかったようで「うーん、うーん」と強引にはがそうとしている。
声からして明らかに女性であるが、背丈はまだ子供だ。どうにか引っ掛かりからは抜け出せたみたいだが、勢い余って出て来た途端にずっこけた。
「ぐべっ」というあまりよろしくない声を出すとその光景をにやにやと面白そうに眺めながらこけても助けようとしなかった龍兵衛を黒い服を身にまとい、出て来た少女は立ち上がって恨みがましく睨み付けている。
「河田殿、そこにおったか。定満殿が呼ん・・・・・・」
少女に話し掛けようとした途端、背後から義清の声がした。義清は龍兵衛の背後にいたすぐに少女に気付き、目に一気に火が灯った。
「覚悟ー!!」
「いきなりかい!」
龍兵衛の指摘を無視して少女に斬り掛かる。
少女は全くその動きに反応出来ずにどすっという音がしたと思うと少女の視界は真っ暗になった。
「で、なんであたしはこの世にいるの?」
「起きるなりいきなり物騒な言いなさんな。義清殿が控えていますので今呼んで来ますね」
とりあえず龍兵衛は気絶していた少女を義清の天幕を借りて寝かせていた。
目が覚めたことを龍兵衛が伝えると少女をこうさせた張本人である義清は入って来るなり土下座をして少女に謝罪をした。
「申し訳なかったのじゃ!」
頭を地面に付ける綺麗な土下座だった。
少女も自分で怪しい行動をしていたと自覚があったのでそこまでされると思っていなかったので間抜け面で口を開いている。
「いや、義清殿、何もそこまで・・・・・・」
「何を言っておる! まさか河田殿の師匠だとは思いもよらずにあんなことを・・・・・・」
龍兵衛が宥めるが、義清は聞かずに更に頭を下げようとぐりぐりと土に額を擦る。
義清はあの時、殺してはいなかった。まず第一に彼女は少女を間者だと思い、捕らえようと槍の矛先とは逆を使って気絶させた。
龍兵衛はその時、止めようとしなかったのは突然すぎる出来事だったので対応も出来なかったからだ。
「よ、義清殿・・・・・・」
「大丈夫か? 河田殿、怪我は無いか?」
「えっ? ええ」
完全に義清の覇気に圧されて龍兵衛は何も言えない状態になってしまい、言われるがままに頷いて説明出来ない状況になってしまった。
「よし、ならば手伝って欲しい! この愚か者を謙信殿の所に運んで、何を企んでいたのか聞き出すのじゃ!」
その剣幕は凄まじいもので龍兵衛は気付いた時には義清に代わって少女を運んでいたのを兼続に見られて変な目で見られたのを必死に義清に力を貸してもらって誤解を解いてもらっていた。
そのまま陣に入って主だった将全員でその少女をどうするのか話し合われた。
「龍兵衛! いつまでぼーっとしているんだ!?」
取り敢えず、どうやって皆に説明をするかしか頭に無かった龍兵衛は話し合っている皆をよそに考え事をするようにおとがいに手を当て続けていたが、兼続の脳天を貫くような雷が落ちたことによってようやく龍兵衛は覚醒した。
呆れられながらも謙信から少女をどうするか聞かれるとそれ以外の全員は意見を言い終わっているようで視線が龍兵衛に集まる。
大人数の前で発表するのが実は苦手な龍兵衛は痛い程の視線を一気に受けてこの寒い冬なのに少し汗をかいている状態になりながらも自分の意見を言った。
「えーと・・・・・・とりあえず、保護しましょうか」
「「「「はぁ!?」」」」
当然のごとく何人かが『何言ってんだお前!?』という目をしている。
「あれがもし間者だったらどうするんだ!?」
「そうじゃ! いくら何でもそれには承伏できぬ!」
兼続と義清が声を上げるが「いや、間者じゃないだろう」と龍兵衛は苦笑いをしながらどう説明しようか迷い、誤魔化す為に頭を掻いている。
「いつもの龍兵衛らしくないな・・・・・・どうした?」
今度は謙信から聞かれてもぽりぽりと頬を掻いてやれやれと首を振ってから誰に向けるでもなく引きつった笑いを浮かべる。
他の将達も彼のいつもと違いすぎる様子に何かあると思いながら龍兵衛を見る。
龍兵衛は周りの目がこちらに向くのはもう嫌になったので仕方ないと単刀直入に言うことにした。
「あの方は自分の師匠です」
『・・・・・・はっ?』
皆の目が点になり、沈黙が広がって外の風の音がうるさく聞こえる。
「あの方は自分の師匠の一人の黒田官兵衛です」
『はぁあああ!?』
今度は人の声が天地を揺らす程響き渡る。龍兵衛は陣が声によってぐらっと揺れた気がした。
「・・・・・・というわけで、孝さんは上杉軍の保護下に入ってもらいますよ」
「えぇ~あたしは聞いてないし~」
「そりゃあ、寝てたからしょうがない」
駄々をこねて早く自由になりたいとぶーぶー文句を言っている少女が龍兵衛の師匠だと思うと義清ははっきり言って納得が出来ない。
義清自身も背は低い方だが、それより背丈も身体付きも子供である。
「諦めて謙信様と会って下さいね」
「え~もう少し待ってよ~」
相変わらず官兵衛は文句を言っているが、龍兵衛は全く抗議など受け付けないと謙信を呼びに行く。
しばらくすると謙信が何人かの将を連れてやって来た。龍兵衛が官兵衛を紹介すると彼女を初めて見た全員が目を丸くする。
「まぁ、何とも・・・・・・」
「子供ではないか・・・・・・」
弥太郎と景資は唖然として出してはいけない言葉が出てしまった。
「あたしはもう大人だ!」
聞いた途端に官兵衛の怒りに火が点いた。
ワーワーと謙信が宥めようと何を言っても止まらない。定満が「静かにするの」とこめかみに青筋を立てて言っても彼女は一向に止まる気配がない。
黙っていようと思っていた龍兵衛だが「はぁ」と溜め息を吐いて拳を握った。
「いったーい! 龍兵衛なにすんの!?」
ゴツンといい音がして官兵衛の頭に龍兵衛の拳骨が落ちた。
子供扱いすると何かと抗議して周りを困らせるところは本当に変わっていないと龍兵衛は思った。取り敢えず、こうなった官兵衛は手を使わないと止まってくれない。
「ここは上杉軍の陣ですよ。孝さん?」
拳骨と弟子の低く威圧感のある一言に官兵衛は言葉を詰まらせる。端から見ればどう見ても師弟同士のやり取りではない。それからちゃんと官兵衛は謙信達に非礼を詫びて改めて頭を下げた。
「黒田官兵衛孝高です。見苦しい姿をお見せしてしまいました」
「気にすることはない。しかし、このような所で龍兵衛の師匠殿と出会えるとは思わなかったな」
謙信が感慨深く官兵衛を見ている一方、龍兵衛は何故ここに官兵衛が居るのかが不思議でしょうがない。
聞くと彼女はどうも言いづらそうにしているので耳元でぼそりと「道勝」と呟いてみると大当たりだったようで官兵衛はぴくっと身体を震わせる。
だいたいのことは察せたので龍兵衛は謙信に人払いを願った。
謙信は自分が残ることを条件に承諾した為、未だに官兵衛を信用出来ない兼続達はそれは危険だと反対したが、聞き入れるような謙信ではなく、結局は鶴の一声で強引に決まった。
謙信以外の全員が出て行くのを確認すると龍兵衛は真剣な顔付きになって官兵衛を見る。
「例の事で呼び出されたのですね?」
官兵衛は残っている謙信を警戒して何も言わない。
察した龍兵衛が「謙信様にはあの書状を見せました」と言うと安心したらしく嫌そうに頷く。龍兵衛は心にある忌々しい道勝の姿を斬り捨てた。
「孝さんが行くと自分も危なくなりますよ?」
「でも・・・・・・行くしかないし・・・・・・」
「そうなんだよな~」と官兵衛と龍兵衛は天を仰ぐ。友が危ない以上、救わなければならない。裏の秘密を知られれば斎藤はもう終わりだ。
龍兵衛はふと疑問に思った。
「なんで南近江を通らないで北から美濃に向かおうとしているんですか?」
美濃に向かうには琵琶湖の南を通って行った方が断然早い。その理由には官兵衛はあっさり答えた。
美濃に向かう途中に京に立ち寄った際に上杉軍と遭遇してその軍勢に興味本位で見ていたら龍兵衛の姿を認めて驚いたそうだ。
「で、試しに付いて来てみたらこうなったと」
「そう、当たり」
がっくりとしてしまう龍兵衛に官兵衛は「でも」と慌てて抗議する。
「いや、絶対に美濃に着いたら何も言わないから、本当に絶対誓う!」
「本当か? 黒田殿?」
今度は謙信が覇気を出して官兵衛を上から睨み付ける。官兵衛はびくびくしながら首が取れる勢いで何度も何度も頷いた。
それを見て謙信は面白そうにからかいがいのある官兵衛に冗談であると安心させると笑いながら「ゆっくりしていくといい」と言って陣を出た。
師弟は久々に腹を割って話せる状態になる。
「久し振りですね。孝さん」
「そうだね~案外早い再会だったね」
綻ぶような二人の心からの笑顔。美濃の時以来顔を合わせる事はもちろんなかった。しかし、この楽しい時間はすぐに終わることは分かっている。
談笑するほどの余裕はすぐに無くなり、お互いに真剣な顔になった。
「書状。見せてもらえませんか?」
官兵衛は懐から書状を出した。この時、官兵衛は書状の書の字も口に出していなかったが、龍兵衛は分かっていた。
官兵衛も自分から嫌な所に行くような人ではない。ならば美濃に向かう理由はただ一つ。道勝に脅されたに違いない。
それは半兵衛と同様に官兵衛も死地に向かうようなものだ。
「どうしようもないし・・・・・・諦めているから・・・・・・」
だが、秘密をばらされる訳には行かない。
段々とここだけが曇天の空が広がっているかのように重い雰囲気になっている。もう少しすれば雨が降ってきそうだ。
お互いの溜め息が広がる度に雲が広がるのが分かる。そんな嫌な雰囲気が続いていたが、そんなことをしていても意味がないことは分かっている。
「とりあえず、孝さんと重さんに運があることを祈りますよ」
「・・・・・・他人事だと思ってない?」
「当然です」
「・・・・・・最低」
「いつぞやのお返しです」
お互いに薄い笑いを浮かべる。それで互いに少しは雲は晴れた気がした。
「重さんに宜しく」と言うと龍兵衛は官兵衛と別れを告げるように頭を下げた。笑顔だった。しかし、心は空しい風が吹く。
「かなりお前もあの事でまだ参っているようだな」
幕を出た龍兵衛が振り返ると謙信が影から出て来た。
一礼して彼は謙信の一歩後ろを歩いて行く。気持ちはどうも晴れない。自分は景勝のおかげで解放されたが、師匠二人は解放されていない。
それを助ける術を龍兵衛は持っていない。今は上杉存亡の時でもあるのに私情に近い方に心が行ってしまうのは龍兵衛もまだ人間くさいところがあるのだ。
「謙信様。孝さん・・・・・・いえ、官兵衛殿はあれでも約束は必ず守る方です。上杉軍の内情を知っても決して漏らす事は無いでしょう」
「そんな事、私はとうに分かっていたぞ」
謙信が嘘と真を見抜くことに長けていることは分かりきっていた事だったが、龍兵衛は師匠が心配で仕方がなかった。
謙信も龍兵衛の気持ちをよく理解していた。官兵衛が恐怖に怯える内心を抑え込み、望まない場所に行くことで生き残るしかないという哀れな立場をどうにかしてやりたかった。
道勝さえ居なければこうはならなかった。官兵衛もあの書状が無ければどうにかならない物なのか。
「そうだよ龍兵衛、無かったことにすればいいんだよ」
「・・・・・・はっ?」
急に何かにひらめいたようで謙信は素っ頓狂な声を出して不思議そうに彼女を見ている龍兵衛に定満と颯馬を呼ぶように命じた。
官兵衛は今日だけ上杉軍がここにいることは龍兵衛から聞いていたので朝早くに起きてすぐに出られるように準備を始めていた。
向こうの恩義を無駄にすることになったが、美濃に行かないといけない事情がある。友の為に動かねばならない。
外は星空が出ているとはいえ寝るにはまだ早い。それでも官兵衛は明日の為に早く寝ることにした。
完全に意識を手放したのを見計らったように誰かが入ってきたと思うと官兵衛を素早く縛り上げてしまった。
慌てて起きた官兵衛が暴れて抵抗する。手を拱いたのか侵入者は手刀で官兵衛を気絶させた。そのまま彼女を担ぎ上げて侵入者は去って行った。
官兵衛が目を覚ますと当然だが先程と違う所に寝かされていた。身体を確認すると縛られている訳ではなく、これといった怪我も無さそうだ。
だが、外に人の気配がある以上は簡単には動けない。官兵衛は武芸はからっきしなのでこのような所に弱い見張りを置いていてもすぐにやられる。
仕方ないと思いながらも誰か来るまで素直に待っていることにした。
官兵衛はぼーっとしていると外で誰かが見張りと話している声が聞こえた。
一通り話し終わったようで足音を立てながら見慣れた顔が四人やってきた。
「いや、済まなかった。また気絶するような事をさせて」
「でも、あれは暴れる孝さんが悪いですよ」
「あれで暴れるなというのは無理な話だ」
「うんうん。龍兵衛君もちょっと手荒だったの」
呆然としている官兵衛をよそに謙信とその配下の軍師達は次々と言葉を繋げる。
何と言うべきか迷う官兵衛を嘲笑うように龍兵衛が何かをひらひらとさせる。
途端に官兵衛はがばっと立ち上がってそれを奪おうと龍兵衛に飛びかかるが、龍兵衛はひょいと避ける。
そこに颯馬が加わって龍兵衛が持っていたある物を受け取る。
手ぶらになった龍兵衛はすかさず官兵衛を羽織い締めにして動きを封じ込めた。
「何するの!?」
官兵衛が喚くが龍兵衛は力を弱めることはない。強引に彼は官兵衛を座らせた。
その前に謙信が官兵衛と目線を合わせるように座り、語り掛ける。
「そなたも人の子、美濃には行きたくないのだろう?」
「うっさい! あなただって龍兵衛からの書状が読んだんでしょ!? なら、あたしがどんな気持ちであそこに行くか分かってるでしょ!?」
友が常日頃から窮地に立たされていて、寝ている間も恐怖に怯えているのを少しでも和らげるのは友として当然のこと。
謙信も承知している。しかし、頷いたその目に同情の感情は全く感じられない。
謙信は官兵衛をしっかりと見て言った。
「官兵衛殿、我らと共に来ないか?」
目を見開いて官兵衛は驚いている。謙信も知っている。今は美濃に向かわないと友が危ない。
分かっているのなら何故ここから出してくれない。
目で訴えるが、謙信は首を横に振るだけ。
謙信も馬鹿ではない。弟子の龍兵衛が馬鹿に仕える訳がない。
龍兵衛を見るとなにも感じさせない無の表情だ。彼が人からの返答を待っている時の顔だ。
確かに官兵衛だって織田の下に行きたくない。だが、官兵衛は半兵衛という友が道勝の見えない背後の刃を突き立てられて今、颯馬が持っている書状を書いて官兵衛に送った。
それがある以上は官兵衛は行かないといけない。しかも無かったとしても受け取った証拠は黙って誤魔化せば無いのだ。
「そうか・・・・・・」
「そうなんですよ。官兵衛殿、無いんです。これが無くなれば後は知らぬ存ぜぬを貫けばいいんです」
颯馬の言う通り書状が消えてしまえばそれでいい。この書状を送った者はいるが、書状を良く読むと半兵衛は道勝が織田家お抱えの伝馬役を使わない筈だということをそれとなく書いている。
強欲な道勝はおそらく官兵衛に書状を書いた後、それに官兵衛が来る頃になってから彼女を呼んだと信長に言うつもりだったのだろう。そうすれば道勝の評価は上がり易い。
龍兵衛もそこが気になっていたそうだが、書状を官兵衛からくすねて謙信達と読んだ時にすぐに分かったそうだ。
「弟子に出し抜かれましたね~」
「う、うっさい!」
ふてくされてぷいっと頬を膨らませてそっぽを向いてしまったが、悪魔の恐怖から解放されたせいかその頬には何かが輝いて落ちていっている。
それを見ると龍兵衛は心の中でここにはいないもう一人の師匠に心からの感謝の言葉を述べた。
「お互いに重さんに感謝しませんとね」
「おうよ!」
まだ少し涙目のままの官兵衛と龍兵衛の拳がこつんと触れ合った。また一人、過去の恐怖から解放された瞬間だった。
代償として友には更なる重みを背負ってもらうことになるだろう。しかし、友はそれを承知で行ってくれた飼い主へのささやかで大きな抵抗を無駄にする訳にはいかない。
官兵衛は自らその書状を蝋燭で丁寧に燃やすことはしなかった。
龍兵衛を除く全員がこれには驚いたが、三年も近くにいた龍兵衛には官兵衛の思いは分かっていた。
官兵衛はここにはいない友への感謝の気持ちを忘れない為にもこれは大切に取って置くことにする、と言った。
それには誰も何も言わない。龍兵衛も薄く笑っている。
何故なら誰もがこの哀れな師弟二人にはここにはいない同士を含めて負ける訳にはいかない戦いはこれからあるのだと知っているから。それは自分達もそうなのだから。
懐に書状をしまうと官兵衛は思い出したように謙信を見る。
「今、思い出したんですけど。謙信様はあたしを襲った時に一緒に居たんですか?」
謙信が当然のように頷くと官兵衛はかなり驚いている。
「う、うそ~謙信様って巷では正義を掲げているってもっぱらの噂なのにそんな事しているんですか~?」
「ふっ、私とてそれだけでこの乱世は生きて行けないことぐらい分かっているさ。だが、ここにいる三人がどうしても私を汚したくないそうでな・・・・・・ま、私も潔白な方が居やすくて良いがな」
官兵衛は何か嫌な予感しかしなかった。
謙信は格好良く言っているが、言っている内容は官兵衛が思い描いていた謙信とは全然違い、想像がぼろぼろと崩れていくのを感じた。
謙信は呆然としている官兵衛を見て悪戯っぽく笑いながら通告した。
「そなたもそうなるのだ。覚悟しておくのだぞ」
まだ謙信という人間の想像と現実から脱却出来ない官兵衛が戸惑いながら「え~え~」と目を白黒させている。
後ろでは三人の軍師達が同情の目をしている。これからは随分と大変なことになりそうだと思いながらも一度頷いた以上は断る訳にはいかない。
どうして龍兵衛がここに居る事が出来るのかがよくよく分かった気がした。
現実に見た謙信なら彼の仕官を許しても何ら不思議ではない。
この日だけ、師弟が再会した良い日はこれで終わり、明日からまた上杉軍は修羅場になる。