加賀の国境に入った時、上杉軍の緊張感は最高潮に達していたと言って良かった。
「(いよいよ・・・・・・入るか)」
謙信は強く心に言い聞かせ、戒めるように何度もこの言葉を頭の中で反響させる。
加賀の国境に入り上杉軍の雰囲気は戦に出掛けるようなものに変わった。晴貞は既に使者を出して来て、是非とも帰路に付いた上杉軍を歓待したいと願って来た。
これには殆どの将が無視しておくべきだという意見が出て謙信もこれを是としたが、一人反対する者がいた。
官兵衛である。彼女が正式に上杉家に加わった事はまだ美濃との兼ね合いの為、内々の秘密になっていたが、龍兵衛の師匠としてかなりの存在感を出していた。
「ひとまず承諾しないと晴貞は上杉がこちらの動きを悟ったって思う。危険なのは分かっているけど無視した方がもっと危ないよ」
二兵衛の一角を占める官兵衛の立て板に水のように繋げて理路整然とした言葉には全員が考えを改める必要があるという思いが入っていた。
最初の頃はその口調と歯に衣着せぬ物言いで兼続や景家からはあまり良い思いをされなかったが、彼女の性格を理解している龍兵衛が間に入った。
「慶次よりはましだろ」
そう窘めると「ああ確かに」とすんなりと丸く収まり、存在感を発揮し始めた官兵衛を認めた。
出汁にされた慶次は少し凹んでいたが、全員に無視されたのは余談である。
結局は官兵衛の意見が通り、晴貞の使者によろしくと謙信は言ってさらに加賀へと進んで行く。
そして、いよいよ加賀へと入った。
ひとまず尾山御坊近くの寺に招かれた謙信達は晴貞の嘘臭い労いを受けた。
「いやあ、上洛の任、御苦労様でした。謙信殿」
「いえ、富樫殿には行きも帰りもこのようにさせて頂きこの謙信、感謝の極みです」
「あーいえいえ、頭をお上げ下さい。ささ、こちらです。ご案内します」
晴貞は謙信に堅苦しくするなと低姿勢だが、気軽で気を和ますような物言いで上杉軍の面々を迎え入れる。
件のことを知っている上杉軍の面々はそれに無性に腹が立ったが、決してそれを悟らせないように恭しく頭を下げながら晴貞に付いて行く。
彼の背中に刀を突き付けたい気持ちを抑えながら、その日は大人しく晴貞の歓待を受けた。
謙信は晴貞に探りを入れてどのような反応をするのか試したい事があった。
「富樫殿、実は長く越後を離れていましたので明日には発ちたいのですが」
「なるほど、確かに国主が何時までも国を離れている訳にはいきませんからね・・・・・・分かりました。では今日だけでもゆっくりとお過ごし下さい」
迷うことの無い晴貞の返答に謙信は内心驚いた。
計画に深く関わっている彼ならもう少し居ていくれなど言って引き留めることをすると思っていたが、意外にあっさりと明日発つこと許した。
驚きを隠しながら晴貞に付いて行く謙信からすれば全くの想定外で謙信の頭を混乱させるのには十分だった。
「(やはり思惑が掴めない。この者は一体何を企んでいるのだ?)」
謙信には猜疑心の心が目覚め、彼が何を企んでいるのかますます分からなくなった。彼の背中を睨んだところで何かが変わる訳では無いが、今はそうしなければ気持ちを抑えることが出来ない。
それと同時に謙信は何かが動き出したことを悟った。
大きな影となり、謙信と彼女自慢の配下達。さらには大切な越後の民達をも飲み込もうと迫って来ている。
「動いた者も分からずにどこで何が起きるのかも分からない。八方塞がりだな」
「そんなに軽く言えることではありません」
その日の夜に謙信はいつも通りに軍師達を呼んで会議をしていた。颯馬以外の四人も謙信を咎めるように見ている。
謙信は失言だったと詫びて改めて話し合いを続ける。しかし、先程の謙信の発言のように今の上杉は八方塞がりの状態である。
明日には尾山を出る。二、三日で上杉軍は加賀を出ることになる。そうなっては晴貞も手は出せない筈だ。
「裏で越中と手を組んでいるとかはないの?」
「うーん、それは無いと思うの。神保さんも椎名さんも今のところはこっちの味方かな」
富山城の神保氏はかつて敵対していたが今は上杉に降伏状態。
松倉城の椎名氏は元々上杉家とは密接な関係がある。神保は警戒しておく必要があるが、上杉軍の敵ではない。
椎名の本城である松倉城辺りまで行ってしまえば越後に帰ったも同然である。
「誰が味方で、誰が敵なのか・・・・・・」
謙信の独り言に全員は眉間に皺を寄せて黙り込む。
その沈黙は長く、この部屋に一本だけある蝋燭の蝋がかなり溶けていった。
晴貞の言う通りにこのまま素直に加賀を出ても良いのかも怪しくなってきた。
早いところ出た方が良いのは知っているが、急いては事を仕損じるとも言う。だが、今は善は急げの状態であると言った方が良い。
「とりあえず、動いてみないと分かりませんね。今後はさらに警戒を強化しましょう」
颯馬の発言を最後に話し合いは自然解散の形で終わってしまった。
立ち上がる者の足取り重く、全員が明日の到来を人生の中で最も嫌だと思っていた。
それでも時間は止まる筈が無く、無情に時を刻むだけだった。
散会になると師弟の二人は夜の廊下をひたひたと歩きながら静かな声で話し合っている。
「随分と大変な所だね~」
「入ってきた自分を恨みなさい」
軽口を言う官兵衛と龍兵衛の表情は真逆である。
官兵衛が謙信や龍兵衛から今の上杉家が立たされている苦境を聞いて驚愕したのは少し前の事だ。
別に上杉家に入ったことを後悔する事は無いし、彼女は少なくとも織田よりは良いだと思っていた。
道勝の見えない恐怖の下よりも苦境であっても楽しみを見つけられる。しかし、それはこの地獄を突破してからの話であって今はただの気休めにしかならない。
「これは出たとこ勝負になるよ、龍兵衛」
「もちろん覚悟は出来ています」
一方の龍兵衛は師匠の官兵衛でさえ手を拱くこの状況下で自分がやっていけるのか不安になっていた。
だが、切り抜けなければ生きることは出来ない。生きることこそが善であると考えている彼にとって死ぬということは出来ない選択肢である。
その為に気になるのは謙信と軍師達に景資が言っていた事だ。
『京は日の本の闇の中枢』
やはり黒幕は京に居るのだろうかと龍兵衛は頭を働かせる。だが、織田と違いまだそこまで将軍家は上杉家を敵視していない筈だ。
関東管領の謙信には管領並みの特権を与えて東日本に平穏を取り戻して欲しいと義昭は言っていた。
だとしたら上杉家を無くすのは将軍家にとっては大きな痛手。やはり本願寺だろうかと龍兵衛は頭を捻る。それにしては以前も彼は考えていたが少し名前が出過ぎているように思える。
以前に春日山で起きた暴動も簡単に加賀が差し金だと分かった。今回の上洛にも存在が見え隠れしていた。
定満と龍兵衛が主導で色々と調べても本願寺が最後には必ず出てくる。いとも簡単に、簡単過ぎる程。
「こうなったら片っ端から片付けていくしかないかもしれませんね」
「下策だけどそれしか無いね。せめて誰が敵なのか分かれば良いんだけど」
軒猿も手を尽くしているが、如何せん関係していそうなところはどこも警戒が強くなり、上手く集まっていない。
「砦が見えない戦なんて初めてだよ」
「自分もです」
「だけど逃げるつもりは無いよ」
「もちろんです」
それ以降はお互い無言で歩いて行く。始まるのは悪夢かそれともこの世の地獄かはまだ分からない。
その頃、謙信は颯馬と二人きりで話していた。
「しかし、何のだここの皆は・・・・・・」
晴貞に付き従う家臣達の目には何もなかった。謙信はいち早く、上洛行きの時にそれに気付いていた。
「確かに何かがおかしい。何でも晴貞の言う事には『はい・承知』だけだ。表情も無だった。だけど龍兵衛みたいに心に何かを秘めている訳でもなさそうだった。本当に何なんだろうな・・・・・・」
一旦は謙信の部屋から出た颯馬も彼女が気になってまた戻って来ていた。颯馬は分かっていた。人一倍不安な心を持ったまま謙信はこの後をどうするべきか何が起きるのか不安になっている。そして、富樫の家臣達の不穏な様子もだ。
富樫家の家臣達は目に覇気がなく、まるで晴貞の人形のように動いている。ふらふらと晴貞の後ろを歩くだけなのだ。
「さっき定満殿達と話してみたんだが、龍兵衛が何か術みたいのに掛かっているようだと言っていたな」
「術?」
頷くと颯馬は先程、龍兵衛が言っていた事を話し始める。
『あれはもしかしたら術ではないかな? 催眠術って言って相手の頭脳の中から相手が意思する力を抜き取って自分の意のままにする。まるで人形のように動かすようにするんだ』
「ちょっと待て、まさか颯馬はその話をまともに受けたのか?」
「まさか、龍兵衛にもそれは無いだろうと言ったよ。でも龍兵衛は『じゃあ、なんであの者達はあんな風になっている?』と言ってな・・・・・・」
「確かに・・・・・・反論出来ないな」
「それに龍兵衛は催眠術というのは誰でも習得しようと思えば習得出来ると言っていた」
実際かれらは龍兵衛の言うように機会のように動いている。
あの者達は自分の意思があるようには謙信も見えなかったのだし、それに誰でも習得出来るものなら晴貞がそれを持っていることも考えられる。そう考えると龍兵衛の言っていることも頷ける。
「だけど確かに龍兵衛もその催眠術というものの可能性は低いと思っていたらしいが、それでもう一つの可能性があると言っていた・・・・・・」
『俺も催眠術は人に掛けようと思えば出来るかもしれない。何故ならたまに催眠術のような人を惹き付ける能力を産まれた時から持っている人も確率はかなり低いけどいるらしい。霊に取り憑かれたように人はその人を崇めるように付いていく。その人以外の言葉など耳にも入らない。もし、晴貞がそれを持っていたとしたら・・・・・・どうだ?』
「何でもそれは主君のような人から慕われるものとも違ってかなり特殊なものらしいな。一回そうなった人は本当に霊に取り憑かれたようになかなかその人の依存から離れられないそうだ」
「なるほど・・・・・・心から晴貞を慕っている訳ではなく、晴貞がかれらを慕わせているのか・・・・・・」
もしそうならばそれから解放させてやりたい。
だが、その為にはこれからの戦に勝たないといけない。さらに弊害がある。
謙信自ら公表した内政に三年は集中する政策が破棄される危険性が出て来る。
宗教上及び越後という国は一向宗との完全な対立を引き起こしかねない。
いずれは一向宗は討たないといけない相手。だが、背後には東北のまだ上杉に対抗しようとしている勢力もいる。
まさに上杉軍は前門の虎に後門の狼の状態だ。
それは越後に戻ってからの話で今は敵の中にいる。もはや網の中にいる魚だが、海に捨てられ生きるかまな板の上で捌かれて死ぬかは最後まで分からない。
「謙信の奴は明日に出ると言っている。だが、俺達にはそんなことどうでも良い。計画は完璧。漏れることなど無い。漏れていてもこの動きは止められない」
晴貞は一人、誰もいない部屋で誰かに言い聞かせるように話しながらにやにやと笑っていた。
端から見れば恐ろしい悪魔が笑っているにしか見えない。それ程彼の野心と欲の為の計略は上手く行っている。
上杉家が滅べば心おきなく北陸を自分の意のままに出来る。一向宗という強大な力を背景にここまでのし上がったが、さらに欲のままに生きることが出来る。
あわよくば独立して朝倉にも手を伸ばして勝手にやれることも可能だ。
欲望は人間が持ち、脱することが出来ないもの。それをよく知る晴貞はそのままに生きているだけなのだ。それが彼の生き方である。
全ての人を一向宗の名の下に自身の前に跪かせる。仏教の禁欲とは逆行して欲望に支配された彼の野望は始まったばかりである。彼の欲に終わることなどあるのだろうか。
二日後、いよいよ越中に入った。加賀を抜ける時は何も起きることは無いまま上杉軍は歩みを進める。
晴貞の思惑を掴めることは無いまま上杉軍軍師は加賀を出た。軒猿には残るように謙信は命じて晴貞の動向を探らせた。
もはや何も動きが無いまま春日山に到着する事を祈るしか上杉軍には残された道はない。
「ところで、龍兵衛」
颯馬が前から気になっていたと前置きを置いて龍兵衛にそっと尋ねて来た。
「官兵衛ってなんで馬に乗らないんだ?」
「あっ、そうそうぉ、あたしも気になっていたのよぉ」
慶次の他にも何人かの人が龍兵衛に視線を集める。ここのところ官兵衛のことについて龍兵衛に質問が入ってくることがもの凄く多い。
彼からすれば本人に聞けよと思ってしまうような質問も入ってくるのでいい加減辟易としているのだが、官兵衛に聞いても必ずこう返ってくる。
「あたしじゃなくて龍兵衛に聞いて」
そういう訳で龍兵衛に全員が聞くのだが、当の本人は全然そんなこと知らない。
その理由は官兵衛曰わく。
「龍兵衛って怒らせたら何するか分からないから」
そう口止めしているのだ。
官兵衛は歩いて先の方にいる。しかし、その態度は弟子に何かを押し付けたという罪悪感は全く見えない。
その師匠の悪巧みを知らない龍兵衛は内心の溜め息をぐっと抑えながら回答する。
「あの人が馬に乗るとね・・・・・・」
それは龍兵衛がまだ美濃で修行中だった頃。
織田家との戦に向かう為に進んでいた時の事であった。やっと馬に乗りこなせるようになった龍兵衛を見て官兵衛の好奇心の歯車が回転し始めた。
彼女が龍兵衛に少しだけ馬に乗せて欲しいと言うと何も知らなかった龍兵衛はすんなりと交代したが、それは完全な龍兵衛の失態だった。
馬に乗った瞬間、官兵衛は辺りをきょろきょろと見回して馬を抑えること無く、普段の官兵衛の背丈では見えない高い所から見える情景に意識が行ってしまい馬の事など関係なくさらに辺りを見回す。
そうしている内に馬がどんどんと官兵衛に無理やり振り回されている内に乗られていることに嫌になった。
「・・・・・・それで、地面に真っ逆様」
「落ちたんだな・・・・・・」
察した颯馬に龍兵衛が大きく頷くと全員ががっくりとうなだれてしまった。
「そんな子供じみた理由で馬に乗らないとは・・・・・・」という目で全員が官兵衛を見るが、その視線の先の子供は凝りもせずに近くにいた兵士に馬に乗せろと言っている。
それを見た龍兵衛が頭を掻きながら官兵衛の下に向かい拳を振り上げる。『ゴツン!』という音が良く聞こえてきた。
キーキーと弟子に文句を言っている官兵衛の頭には大きなたんこぶが出来ていた。
一方の龍兵衛は師匠の小言に聞く耳を持たない。
緊張感漂う上杉軍は少しだけの癒やしを味わう事が出来た。
その後、神保領はつつがなく襲撃も無いまま通り過ぎることが出来た。これで後は椎名の領地を通り抜ければそれでこの上洛は終わる。
上杉軍の誰もが安堵したが油断はしていない。椎名家にも念のためにと探りを入れさせて粛々と歩みを進める。
その念のためが最悪の事態を教えてくれた。
椎名家が反旗を翻し、斎藤朝信の籠もる魚津城を包囲。さらに安東愛季が離反。秋田城の安東家家臣団が密かに愛季を秋田城に連れ戻して旧領を取り戻さんと侵攻を開始した。
「慌てることはない! 今まで通り勝つだけだ! 全軍に命ずる! 魚津城を救援せよ!」
「「「応っっっ!!!」」」
謙信の号令に動揺していた兵士達は士気を持ち直す。
軍師達は内心の恐怖を隠すのに精一杯だった。晴貞が馬鹿ではないのは分かっていた。人を惹き付けるのに長けているのも分かっていた。
ここまで彼と本願寺の手が伸びているとは夢にも思っていなかった。
また安東愛季までがそうなっているのに一番の恐怖を覚えた。
秋田まで手が届いているということはもしかしたら越後も同時に調略の手が伸びているのではないか。
とりあえず弥太郎と義清を魚津城に向かわせて故郷の山形を案じた義守達に景家と秀綱を付けて派遣させた後、定満達は謙信の許可を得て越後国内にも軒猿・斥候を放ち報告を待つことにした。
その報告前にとんでもない報告が舞い込んで来た。
新発田城城主新発田重家が上杉家から独立を宣言。安田城城主安田顕元がその反乱を阻止出来なかったことに責を感じ切腹。急遽、弟の能元が跡を継ぎ、新発田重家と交戦の準備を進めてる。
これはさすがにまずいと判断した謙信はすかさず箝口令を敷いてすぐに長重を数十人の兵と共に海路より派遣させ、蘆名を預かる金上盛備にも使者を出し、背後から挟撃するように要請をした。
次々と暴発する反乱に上杉軍の軍師達は奥歯をぎりっと噛んでいた。
兵力をかなり分散することになったが、どこが黒幕なのか分からない以上は仕方がない。ましてや越後の国内で乱が起きたことは上杉軍に衝撃を与えた。
このままでは自国民までもが巻き込まれる。
だが、重家の本城である新発田城はかなりの規模を誇る越後第二の拠点と言ってもおかしくない城。
早く終わらせることが約束されている訳ではない。
そして、先の報告が最悪の事態というのは間違いだった。あれが最悪ならばこれはなんと言えばよいのだろうか。
雪が降り始めた魚津城付近の上杉軍本陣に軒猿がもたらした報告に謙信達は雷を受けたかのような衝撃を受けた。
坂戸城上田長尾家当主長尾政景に謀反の兆しあり。
その報告を第一に受けたのは謙信ではなくたまたま本陣で控えていた龍兵衛であった。
「・・・・・・真なのか・・・・・・それは・・・・・・?」
「間違いございません」
軒猿の無情な返答に龍兵衛は天を仰いだ。
上杉家一門による謀反が起きるかもしれないという憤りよりも何故あの政景がそのようなことを起こそうとしているのかが分からない。
野心家の父、房長と違い、実直な政景がどうしてこのような疑いを持たれたのだろうか。
だが、迷っている訳にはいかずに龍兵衛は謙信の下に走った。
謙信は魚津城の救援の準備の指揮を執っていた。龍兵衛がやってきた時に感じたのは彼から出て来るよくわからない複雑なものが入り混じった雰囲気であった。
近くにいた定満もやってきて龍兵衛は軒猿からの報告を謙信に言った。
「・・・・・・そうか」
政景の謀反は計算外。龍兵衛はそう言いたいのであろうと謙信は感じた。故に、謙信は龍兵衛を励ますように言った。
「仕方ない。まだ起きた訳ではないのだ」
気休めにしか過ぎないが、龍兵衛も少し落ち着いたようなので謙信は聞きたいことを聞き始める。
「軒猿の報告は確かか?」
「間違い無いと」
「確証はあるのか?」
「政景殿の文箱に謀反を煽る書状が」
「・・・・・・どこからだ?」
「・・・・・・本願寺です」
三人の怒気が辺りを支配したのは気のせいではない。
またもやその名前が出て来た事に三人はこめかみの青筋を無くすのに精一杯だった。
「景勝には?」
「言っていません」
最後の質問は謙信にとっても定満や龍兵衛にとっても最も気になったことだ。最悪のことを考えて不安げに見つめる定満と龍兵衛に対して謙信は笑って返す。
「景勝は既に我が娘だ。気にすることはない」
二人はほっとした。景勝に事が知られれば彼女は不安になって戦を切り抜けるよりも政景の方を気にしてしまうかもしれない。
更に下手をすれば謀反人の娘として廃嫡ということも考えられたが、謙信は慈愛が深かった。
「これは軒猿に任せる訳にはいかぬ。そなた達二人で解決してくれ」
突然の二人はその命令に目を見開くが、謙信は構わず続ける。
今は時間が無い。故に、軒猿のように命令で動く者では無く二人のように自分の判断で動けるような者がこれに当たるべきだ。他の軍師達に任せて二人は政景の事に集中してほしい。
「いざという時の判断は任せる」
謙信はそう締めくくった。
完全に任されたことはありがたい。しかし、複雑な思いは拭えなかった。
敵の姿は未だに見えないまま嘲笑うように風が吹いている。
かけ違えたのはいつだろうか。
自身があの方に降った時。それともその後に自身を見失った時。あの戦で心に熱いものが蘇った時。
考えても分からない。
否、そもそも自身はかけ違えた存在だったのだろう。そうでなければこのような事をしている筈がない。ましてやあの誘いには乗るつもりなど毛頭無かった。
それでもどうして自分は乗ったのだろうか。
政景には分からなかった。しかし、自身の決意は固過ぎた。退くに退けない状態に自らを追い込んだ以上、動かなければならない。
もし、失敗した時には潔く果てるのみ。固い決意は揺るがない。