上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第三十九話改 悪人正機

 長尾政景に謀反の兆しありという知らせは謙信達三人で内密にすることになった。

 誰かが聞いたら景勝だけでなく上杉一門や長尾一門にも累が及ぶ。

 危害は間違いなく政景の娘である景勝に及び、廃嫡を言い出す者も現れるかもしれない。そうなれば謙信が何と言おうと間違いなく景勝を推す者と反対する者との間で内乱が起きる。

 ただでさえ上田長尾家は今まで反旗を翻し続けて来た事があってあまり良い目で見られてはいなかった。

 更にここでこのようなことが公になれば政景は自身の保身の為に真実であろうと無かろうと兵を率いて春日山に侵攻するだろう。

 春日山城には実及がいるとはいえ政景の能力を考えると激戦になる。

 国内での平和が続き、ようやく築き上げた雪の美しい春日山城下が赤い血で染められてしまう。それはなんとしても避けなければならない。

 定満と龍兵衛は謙信からの命を受けた後にすぐ春日山城に向かった。

 まず密かに実及を訪ねて政景の事を告げると彼女も目を見開いた。

 溜め息を付いて残念そうに「そう・・・・・・」と呟いただけで彼女はそれ以上、何も言わなかった。何を思っているのだろうか気になったが、二人には分からなかった。

 実及は綺麗に整えられた白く長い髪をさすっているだけであった。

 多くを語らず自身の役目を考え、自らが為すべきことを思い直しているのかもしれない。二人はそう思って城を出た。

 さすがに二人が帰って来たことがばれるとまずいので城下では定満は象徴とも言えるうさ耳を外し、普段黒い服を着ている龍兵衛はこんなこともあろうかと密かに持っていた灰色の服に着替え、顔に化粧をしてひっそりと抜け出した。

 二人は城を出て出来るだけ南下し、偶然見つけた宿屋で宿を取った。

 二、三日後には坂戸城城下に入り、様々な方法を使って探りを入れることになっている。

 いざとなれば政景を殺めることも考えなければならない。誰も気付かれないような方法を考えて称賛されないようにしなければならない。

 汚れることは覚悟の上。やらなければ越後は外で勝利しても国内から滅びるだけだ。

 

 それから長重はどうにか直江津から居城に戻り、兵を集めて新発田へと向かうことが出来た。

 新発田城は南に伸びる三の丸手前に大手門町口と二の丸前に大手門前門がそびえ、加治川の流れを入れた外堀と前門を守る櫓を配置している。

 その先にも攻略すべき古丸などがあるのだが、先ずは大手門と櫓を突破攻略することが必要である。

 新発田城攻略を任された長重は先に到着していた安田能元と合流して善後策を練っている。

 手筈では蘆名家を任されている金上盛備が援軍を引き連れてやってくる筈だったが、それは抗えないものに阻まれた。

 蘆名領が深雪の為、蘆名軍は行軍不可能になってしまった。

 雪は北陸や東北を治めている以上は仕方の無いことではある。しかし、気候のせいにしてだらだらとやっていると北条や佐竹がやってくることは間違いない。長重も能元も十分によくわかっている。

 彼らが持っている軍勢と城に籠もる兵力は兵法の城攻めに必要な三倍の兵力よりも上ではあるが、新発田城の堅牢さを考えると足りないのが現実である。

 長重とて突っ込むだけの将ではない。今は中条達の援軍を待って包囲を固め、相手の隙を窺うしか方法が無かった。

 新発田城の戦いは掛けたくない時間が掛かると長重と能元は考えていた。

 兵法では速攻こそが勝利の道であると書かれている。一方、大きな蘆名という援軍を頼めるような状況でもないことも知っている。

 今は恨めしく新発田城を見つめるしか長重達には手段がなかった。

 この場には景家や義守ら山形に向かおうとする者達もいた。それは当然のことといえば当然である。

 新発田城は越後と羽州を繋ぐいわば連絡路に築かれた城。突破しない限りは山形に戻ることなど不可能である。

 新潟港を経由して山形に迂回しようにも新潟港は既に重家方の加地衆に制圧されている為に陸路からの進軍を余儀無くされる。

 今のところは山形に安東の手は伸びてはいないが、新発田城に手こずっていては上杉家の重要な財源である雄勝郡の院内銀山や北秋田郡の阿仁鉱山を間違いなく安東家に制圧される。

 上杉家にとっても東北の動乱は佐渡・院内・阿仁の三つの内の二つが消えることでもあり、稲作がそれ程豊富ではない上杉家にかなりの痛手を被ることになる。

 上杉家にとっても最上と蘆名家にとっても大事な戦線を任されている以上、長重達は時を待つようなことはせずに先ず確実に支城を落として行くことにした。

 長重は景家と最上家の氏家定直に重家が築いた新潟城と沼垂城を落として新潟港を奪還する。そこから山形城に安東家討伐の軍を海路から派遣させることにした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魚津城を包囲していた椎名康胤は思ったよりも早い上杉軍の到来に目を見開きながらも余裕の心持ちを崩さなかった。

 そもそも上杉家と神保・椎名家は因縁があった。

 かつて越中は畠山氏の所領だったが、当主は越中には来ずにいたので東部を椎名氏が西部は神保氏が取り仕切る事になった。

 しかし、神保氏が応仁の乱以降に畠山氏から独立する構えを見せると椎名氏もそれに同調し、畠山氏与党の越後長尾家と対立した。

 一旦は長尾家を撃破したが、為景が長尾家当主になると形勢が逆転した。

 椎名氏は畠山・長尾連合軍に降伏。神保家当主は討死。守護代職を実質上は長尾為景に奪われてしまう。

 ここで神保家当主の息子である長職が現れる。

 彼は神保家再興を誓って新川郡に富山城を築き、一応は守護代職であった椎名氏を攻撃した。

 この時、椎名氏は長尾家に援軍を頼むが当時景虎と名乗っていた謙信が軍師達の意見を聞き入れて越中方面に不干渉の姿勢を取った為に椎名氏当主の康胤は一門の椎名民部と重臣の神前孫五郎を失い、居城の松倉城に追い詰められ、神保家と繋がりがあった能登畠山家の仲介でどうにか和睦をしたが、不利な条件を押し付けられた。

 この時に不干渉の姿勢を取った上杉家に椎名家が不満を持ったといえる。

 因みに上杉家は史実と異なる行動を取っていた。

 史実では椎名家を援助していた謙信だが、この世界では龍兵衛が主張した東北征伐を是とした為に越中には不干渉の姿勢を取っていた。

 結果として上杉家は領土を大幅に拡大することに成功したが、その裏でかなりの不満を持たれることにも繋がった。

 康胤は上杉家に対抗する機会を虎視眈々と狙っていたが、油断なく魚津城で朝信が見張っていたのでなかなか機が巡って来なかった。

 だが、それは本願寺率いる一向一揆勢が手を差し伸べて来るまでの話である。

 上杉家の上洛命令が出た時は康胤は天から恵みを受けたような気分になった。

 彼はすぐにでも越後に攻め込みたかったが、それでは将軍家からの命令で上洛する上杉家の領土を攻めることになるので周りから白い目で見られるのは確実だった。

 故に、役目を終えた上杉軍が帰って来た時、康胤は有頂天に等しい気分になっていた。

 すかさず出陣を決意して魚津城が囲んだ。上杉軍が越中に入ってすぐに囲まなかったのは謙信達に目の前で悔しい思いをぶつけてやろうと思ったからに他ならない。

 上杉側から見れば越中勢の離反は起きるべくして起こることだと、元々は心のどこかで感じていた。

 しかし、神保家の方が確率では椎名家よりも遥かに高いと思っていた。現当主である長職の父である慶宗は長尾為景によって殺されている。

 一族である謙信は神保家から見れば怨敵に等しい。軍師達も何か行動を起こすとすれば長職だと考えていた。

 故に、康胤による魚津城包囲は予測出来ていたが、警戒していなかった。

 先陣を任された弥太郎と義清は官兵衛を軍師として椎名家家臣、土肥政重が構えている対上杉軍用の陣に進軍を始めた。

 今回の戦で松倉城には椎名家は余剰の兵力をあまり残していなかった。

 それに何かあると思った官兵衛は松倉城を攻めて魚津城の包囲を解く事はせずに敢えてそのまま魚津城を目指し、天神山城の小国頼久を松倉城に向かわせるように弥太郎に進言すると直ちに彼女は使者を出した。

 結果的に官兵衛の予測は当たった。頼久は松倉城に入っていた一向一揆勢の伏兵に攻められ、撤退を余儀無くされた。

 一方の神保も危機に晒されていた。上杉軍を出迎えて送った後すぐに加賀の一向一揆勢と能登の畠山家家臣の畠山七人衆が率いる軍勢が侵攻を始めていた。

 当主の長職は上杉家に援軍を頼んだが、状勢が状勢だけに上杉軍も援軍を出す余裕などがある訳ない。

 しかも、神保家家臣は一枚岩ではなかった。

 重臣の二頭で一向一揆与党派の寺島職定ともう一人の実力者である上杉家与党派の小島職鎮率いる派閥の対立が激化していた。

 先に動いたのは職鎮だった。隙を突いて職定を監禁した。

 この時、当主である長職は上杉与党であった為、何かにつけて上杉を討とうと進言する職定の事は疎ましい目で見ていたので彼にとっては正に吉報だった。

 しかし、ここで問題が起きる。実の娘である長住が職定の意見に同調してしまった為に神保家は二つに割れる状態になった。

 不穏な状況を打開する為、長職は強引に上杉との共闘を宣言してしまう。

 これに激怒した長住と職定の家臣は職定を救出して畠山家を頼って逃げ出した。これによって戦力が落ちた神保家は富山城の内情をよく知る者達も向こうに引き抜かれた為に窮地に追い込まれた。

 上杉が来れない今、富山城で籠もっているしか道は無い。

 誰かに和睦の仲介になってもらうにしても当事者の謙信は駄目だ。

 武田家は一向一揆勢とは長年不干渉の姿勢を取っている。朝倉は一向一揆との対立が長く、入る余地が無い。

 長職はどうしても一代で復活を遂げたこの神保家を一向宗というたかが宗教の庇護化に入れるのが嫌だった。

 宗教に入るのなら武家の下に入った方がましである。

 娘のように生き残る為になりふり構わない姿勢にはなれなかった。長職は良くも悪くも昔がたきの性格である。今回は悪い方向に向かい、窮地になった。

 だが、今更頭を下げるなどという選択肢は無い。宗教の下に入るなら死んだ方がましだ。

 

 傀儡の畠山義慶ではこの流れを止めることは出来なかった。

 勢いのある加賀の一向一揆勢との同盟には仕方が無いとは思っていたが、それはあくまでも能登を平穏無事で戦の無い国のままでいる為、今回のように戦をすることは嫌だった。

 祖父と父は七人衆の一人である温井総貞を殺害したことによって内乱を呼び、一応は鎮圧したが、残った家臣の力を抑えることが出来ないまま追放されていった。

 故に、彼はもう自身の立場も踏まえてどうでもよかった。大人しくしていないと家臣達が何をするか分からない。間違い無くかれらに刃向かえば必ず自分は邪魔者扱いにされていつかは殺される。

 背中から他国の影では無く、前から自分の家臣達に刀が突き立てられている。

 しかし、不憫な彼にも一つの心の寄りどころがあった。妹の畠山義隆である。

 彼は血の繋がった親族の中で唯一の信頼を置ける者は祖父と父以外で妹しか能登にはいなかった。

 それを知っている者は妹と自分を婚姻させろと迫ってくる。彼はそれだけには反対した。

 どうでも良くなった彼にだって意地がある。家族を守ろうと思う心だけは残っていた。

 さすがにそれには家臣達も機嫌の悪い顔はしたが変な行動を起こそうと考える者は現れなかった。

 今まではそうであった。しかし、誰もが牙というものは隠している。

 今回は違った。温井総貞の息子である続宗が義隆を監禁して彼女と自分が可愛ければ出陣しろと迫って来た。戦いたくはなかったが、妹の命が掛かっている以上は腰を上げるしかなかった。

 

 続宗と違い、義慶は兵が寝泊まりするような小さな部屋に置かれ、軍議の時以外の外出は禁じられた。

 もどかしいが、義慶は軍議だと言われるまで下を俯いて何をするでもなく黙っている。

 呼び出されて軍議に行ってみると加賀の富樫晴貞が指揮を執っている。

 盟主同士として隣に義慶も座っているが、誰も彼のことなど見やしない。とりあえず義慶も話は聞いていた。

 そこには富山城を脱出した神保長住や寺島職定の姿もあった。積極的に軍議に参加しているのはその二人と温井続宗ぐらいで他の人々は口を開こうともせずに頷いているだけである。

 結局は富山城はいつでも落とせるとゆっくり包囲しながらじりじりと攻撃していくことになった。

 

「義慶殿・・・・・・」

 

 軍議が終わり殆どの将が準備に出て行く中、晴貞に呼び止められた義慶は浮かしかけた腰を止めた。そこには晴貞と義慶。そして、続宗が残っていた。

 先程の軍議でずっと黙っていたことを咎める気だろうか。傀儡とはいえ一応は盟主である。

 何か言わないのはおかしい。晴貞も傀儡だと義慶は思っていたが、あの堂々とした指揮の取り方はとてもそうとは思えない。間違い無く噂であったということだ。

 畠山家の家臣達はそれに疑問を持つことなく、議論を聞いていた。おそらく連絡を取り合っていたのだろう。義慶が知らないところで、彼が知らないように。

 何を言われるのかびくびくしていると晴貞は急に頭を下げた。

 

「この度はどうもありがとうございます」

「え・・・・・・? あ、いや、頭をお上げ下さい」

 

 慌てる義慶を抑えるように晴貞は首を振ってにこやかに応える。

 先程の公の場では見せないような気持ちのいい笑顔だった。それを見た義慶は少しばかり心が落ち着いたように思えた。

 彼が傀儡とは思えないが、自分のような本当の傀儡の当主にそこまで礼儀正しく接してくれるとは思っていなかった。

 もしかしたら少しは自分の立場を思ってくれる人なのかもしれない。

 

「(まだ、私にも幸があったか・・・・・・)」

 

 儚いものでも手に入れた気がしたという思い。少しだけ麗らかな風が吹き流れた。

 

 

 

 

 

 坂戸城の城下に入り、宿屋で夕餉の時に一緒に食べている龍兵衛がかなり緊迫感の表情をしているのを見た定満は気張ってばかりでは駄目だと彼を酒に誘った。

 普段の疑り深い龍兵衛なら定満に以前堕とされた経験がある為、かなり慎重になるところだが、今はそのようなことを考えている暇も無いので素直に従う。

 夜の為に冷えるが、それ以上に龍兵衛は心が冷えている気がした。

 

「定満殿・・・・・・」

「うん、どうしたの?」

 

 未だに緊迫感が抜け切れていない龍兵衛を和ませようと定満は穏やかに声を出す。

 話しかけてきた龍兵衛の視点は定満ではなくどこかに行っている。普段はきちんと人の目を見て話す彼だが、虚ろな目は定満でさえも珍しいと思って思わず逆にどうしたのか聞きたくなる程だ。

 

「人ってなんでこうも理不尽なことに巻き込まれないといけないのでしょうか・・・・・・」

 

 それはいつもの龍兵衛ではなく、別人のように定満は感じた。

 口調もいつものはっきりしたものではなく、ぼんやりとして表情も引き締まりがない。誤魔化す際に浮かべる作り笑いも普段なら平時の笑いと同じで定満も見分けが付かないが、今日は分かりやすい引きつったような笑いを浮かべている。

 定満は龍兵衛の発した一つの言葉が頭で何度も繰り返す。

『理不尽なこと』とは何だろうか。龍兵衛とて乱世に生きている以上はそのようなことは何度も経験している筈だ。

 実際そのようなことが過去にあった。上杉で見た限りでは龍兵衛は眉一つ動かさずにそれを受け入れてきている。

 しかし、今回の龍兵衛は定満の知っている彼とは違っていた。以前の内乱の時も彼は冷酷なまでに謀反人と戦い、景勝を上杉家次期当主として誰もが認める存在にのし上げた。

 今回も同じようにしていれば良い筈なのに何故彼はそこまで動揺し、腑抜けたようになければならないのか分からない。

 龍兵衛は軍師であり、影の汚れ仕事も躊躇うことなくこなしてきた。その彼が何を躊躇っているのだろうか。今まで通りにそのまま今回の事も心を鬼にして終わらせれば良いのだ。

 色々と御託を並べ立てたが、定満は分かっていた。彼をこうさせている原因は景勝との関係。

 未だに景勝との仲がよろしくないという噂もあるが、実状を知っている。

 その一端を作った定満は景勝との関係が龍兵衛をここまでにさせているのは分かっていた。

 政景は景勝の実父。景勝はまだ知らないことだが、別に恋人の父親を殺すことがこの戦国乱世では有り得ないことではない。

 しかし、政景とは仲が良かった龍兵衛がいつものように無情になって彼を殺せるかは分からない。

 人と人の繋がりを大切にする定満は龍兵衛の心境はよく分かっているが、今回の龍兵衛の腑抜け具合には定満は疑問を覚えた。

 心を許した人にしか見せない彼の個人的な感情を見せていることに変わりないが、いつもとは様子がかけ離れている。

 何故そこまで思い詰めた顔をしているのか。先程から口から出て来ているのは溜め息ばかりで言葉も出て来る気配が無い。

 

「龍兵衛君、さっきから変なの」

「そうですか? そうかもしれませんね・・・・・・」

 

 言葉が行ったり来たりで支離滅裂としている。

 これ以上何を話しても意味がないと思った定満は龍兵衛に酒を切り上げて今日はもう寝ることを勧めた。

 礼をして立ち上がった龍兵衛は浮浪者のようにふらふらと足取りがおぼつかないまま襖の角に足の小指をぶつけたが、全く気にせずに部屋を戻って行った。

 

「やっぱり、変なの・・・・・・」

 

 今回の仕事で彼はもしかしたらずっとあのような状態になるかもしれない。自分一人がやっているつもりでいこうと定満は胸に誓った。

 

 

 

 

 

 実直で心は暑く熱血漢という言葉がよく似合うというのが政景の人格だった。上杉家の中では知っている人は誰でも知っている。

 定満も当然範疇に入る。故に、政景の噂はかなり疑問に思った。

 どうしてあの政景がこのようなことをしたのか。謀反を起こそうとしていると断定するのは早いかもしれないが、そもそも噂が立つこと自体がおかしい。

 彼は実直ではあるが、強かに自分の地位を確立出来る男でもある。故に、景勝を謙信の養子に出して今後は謙信の配下として忠誠を誓うことを示し、それなりの地位を確保することに成功した。

 あのような書状など受け取ってもすぐに捨てるなり燃やすなりした筈である。では何故残していたのか。

 書状の内容に何か心に響くものがあったからに違いない。そうでなければ政景のような人物がわざわざ謀反を煽るような書状を残す筈がない。

 気になるのは好奇心は子供のままである定満も人の内実を詮索するのが大好きな龍兵衛も同じである。

 だが、龍兵衛は興味などの問題以前に完全に政景のことで狼狽している。坂戸城に近付くにつれてそれは段々と顕著なものになっていた。

 移動している時もぼーっとしていて定満が話し掛けても一泊おいてからはっと気付いたように話す事が続いている。

 今日は定満が目を離している間にどこかに消えたと思ったら龍兵衛は屈んで何かを棒で突ついていた。

 定満が覗いてみるとただ地面にある何の変哲もない小石を面白そうに笑みを浮かべながら突ついていた。

 龍兵衛は定満が声を掛けて我に帰ったが、そんなことをしているところを見てはさすがに定満も指を咥えて見ている訳にはいかない。

 その日に取った宿で定満は夕餉の後、もう一度酒に誘い、それとなく聞き出した。

 

「龍兵衛君は政景さんのこと、どう思う?」

「どう、とは?」

「うーんとね、政景さんの人柄、とか?」

「いい人だとは思いますよ。何度か酒に誘ってくれましたし・・・・・・ただ・・・・・・」

「うん?」

 

 ここで定満のうさ耳がピンと立った。

 その先を促すようにじっと定満は待つ。普段の龍兵衛ならここで話を逸らすところだが、今日は酒と彼の心で疼く何かと定満の存在が龍兵衛の口を軽くさせた。

 

「政景殿が・・・・・・どうしても・・・・・・」

「どうしても?」

 

 徐々に歯切れが悪くなる龍兵衛の口を動かそうと定満は促すように語り掛けると彼のうなだれていた顔が上がる。

 

「どうしても・・・・・・あれの父に見えてしまって・・・・・・」

「あれって、誰?」

 

 定満は立ち上がり、さらに心に隠していることを聞き出す為に龍兵衛の肩を揉んで力を抜くように優しく言葉を掛ける。

 その中にある子供を楽園に誘うような悪魔の感情をひた隠したままにして。

 

「あれとは・・・・・・惟信・・・・・・・由布惟信・・・・・・です」

 

 龍兵衛は目の焦点がくらくらと回ったまま虚ろに言葉を発した。

 美しい薔薇ような定満の声に龍兵衛は楽園の美しさに負けて定満が隠していた悪魔の棘に自ら刺されに行ったのだ。

 

「言ったね・・・・・・龍兵衛君」

「え・・・・・・あ・・・・・・あああ」

 

 ぽんっと定満が肩を離すと龍兵衛は正気に戻り、目の焦点が定まる。そして、誘惑の薔薇に刺されたことに気付いた。

 何ということはない。正直に言っただけだ。しかし、定満はその正直なところから更に龍兵衛の懐に入ろうとしている。それだけで彼は怖くなった。

 手を離しても悪魔の棘は手の中に残っている。そして、定満という悪魔は眼前の龍兵衛という刺された子供に毒を入れていく。

 

「私に話してくれる?」

「い、いえ・・・・・・言えな・・・・・・」

「言えない。なんて思っている? 私を前にして」

 

 とうとう定満はにっこりと笑いながらもはっきりと言い切った。彼女は龍兵衛に悪魔の本性をさらけ出した。

 

「あ、ああ・・・・・・な、なんて事を・・・・・・俺は・・・・・・」

 

 定満という好奇心の裏に隠している腹黒さに気付いた時には遅かった。

 一瞬の忘却が原因で龍兵衛の身体に毒が確実に身体中を駆け巡り、全身を満たしていく。

 どこにも逃げ場は無く、助かる道は無い。どこかに逃げ出したくとも逃げられない。完全に追い詰められた中で龍兵衛は逃げ場を探し求める。

 人間とは精神的に窮地に陥るとそこで掛けられる優しい天使の手のような言葉にはついつい手を差し出したくなってしまう。

 それは人が弱いからである。今、龍兵衛を救う者は目の前にいる。

 皮肉にも彼をこのような状態に陥れた張本人の定満だ。

 彼女は強引には行かずに龍兵衛の頭を丁寧に撫でながら母親のように今までよりも優しくて、穏やかで、包み込むような声で彼を諭す。

 

「龍兵衛君、素直に言えば楽になるの。なりたい?」

「は、はい・・・・・・なりたいです・・・・・・」

 

 とうとう子供は悪魔の手に堕ちた。定満はにっこりと笑いながら手を龍兵衛の頭に乗せ、うさ耳をぴんと立てる。

 懺悔は長く、深く、暗かった。

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