「・・・・・・ふむ、新発田重家の反乱もようやく終わったようだな」
新発田城からの報告の書状を読んだ謙信の言葉に全員が安堵の声や喜びを噛み締めるように拳を握り締める者。十人十色の反応だが、この勝利に心の中では歓声を高らかに上げたいという思いは全員が一つであった。
不動山城まで帰還した上杉本隊は今はゆっくりと春日山まで向かっている。春日山にはあと三日四日すれば戻れるだろう。
謙信の頭の中には今後の越後をついての事がぐるぐると回っていた。新発田城の落城は上杉家の安泰を示すものだが、残った物の被害も大きい。
さらにこの戦で払った犠牲は謙信の隊よりも長重達の方が大きいようだが、その原因が次に綴られていた。
『安田能元の突出が原因である。我々の止めも聞かずに無断で敵の城を攻めたり、無謀な戦を仕掛けようとした』
これを見た謙信の最初の反応は軽く笑っただけだった。それは若気の至りであってしばらくすればまだだったと彼自身も反省するだろうと思った。しかし、次の文章には謙信は目を見開いた。
『能元に私情を挟む戦はしてはいけないと言ったにもかかわらず、能元は戦い続け、いらぬ犠牲を払った。さらに兵からの苦情も絶えず、どうしても能元の下で戦いたくないという者まで出る始末である。当の本人はそれを気にする事なく、兵を捨て駒にするような事ばかりであった』
さすがにここまで書かれると謙信も聞き捨てならない。将達だけの問題ではなく、兵にまでその余波が響いているのは主君として黙ってはいられない。
重家と能元の因縁は理解している。気持ちも分からなくない。
しかし、戦を私情で動かしたとなれば話は別になってくる。この文に書かれているようにもし能元が歪んだ考えで上杉家に害をもたらすのなら何か鉄槌を下さいといけない。
「なっ・・・・・・」
「どうされました?」
更に読み進める内に思わず謙信が声を上げる。全員の視線が謙信に向いて、颯馬がすかさず反応すると謙信はその書状を家臣達に回す。
皆は最初に新発田城の陥落までの道筋を見て喜び、その後能元の失態とその後の行動に腹を立てた。
その二つの報告が吹っ飛ぶ程の内容がその次に書いてあった。
「中条藤資殿、新発田重家に討ち取られた由」
「なんと・・・・・・」
「藤資殿が・・・・・・」
口に出して読むと兼続や弥太郎達は藤資が死んだ事に絶句したりざわめいたりしているが、親憲と官兵衛は冷静に謙信から回された書状をよく読んでいく。
「ふむ、藤資殿は不治の病に侵されていた為に重家に隙を見せてしまったようですな」
「あの越後随一の猛将と名高い藤資殿が病とはねー。ちょっとあたしも驚いたわ」
藤資も人である以上は年を取るし、病にもかかる。年齢を考えると戦国時代では大層な長生きをした分類に彼は入るので死ぬべくして死んだと言って良い。
「仕方ない、か・・・・・・」
「そうだな・・・・・・」
謙信も事を冷静に考え、弥太郎も冷静さを取り戻して溜め息を吐く。
藤資の死がこの後にどう影響するか、筆頭家老として生きてきた彼の死は上杉家にとって想定外の事であったと言える。
景資という素晴らしい後継ぎがいる為、あまり変な揉め事が起こるとは思えないが、彼の偉業が大きすぎるので二代目が薄く見えてしまうのもまた事実である。
そちらはさほど気にすることでは無いが、一方で謙信には能元をどうするのかという事も考えなくてはならなかった。
本来ならば首をはねるような事も考えなくてはならない所業である。しかし、新発田家と毛利安田家の二つ家を無くすというのは上杉に利益は全くない。
仮に養子を立てておくとしてもそれはそれで結局は上杉家一族の力を強めるばかりであって家臣達から不満が出る可能性もある。
景家辺りならくだらない不安だと言い返すだろうが、現実問題そうはいかない。誰かが養子としてその家に入ればその家の家臣達の序列や当主との相性も変わってくる。
人となりが知れているならともかくいきなりこの人物をここの家の当主とするなど出来る訳がない。ただでさえ毛利安田家辺りの揚北衆は上杉に反目を続けてきたのだ。
「(しばらくは能元に頑張ってもらわないと困るな)」
続けて厄介なのは重家という越後第二の勢力を持っていた者の新発田城にこの後誰が入るかということである。
適任者は誰なのか、謙信は重臣の顔を思う浮かべながら考える。軍師達、特に定満は春日山にいてもらわないと困る。
武将を置くにしても揚北衆との仲を考えなければまた内乱が起きる可能性が高い。
「(これは春日山に戻ってから定満達も加えて話しを進めよう)」
ふぅと息を吐くと謙信は今後の予定に議題を移し始めた。
その翌日、東北からの詳細な報告に謙信達は目が点になり、兼続や義清は顎をはずした。
更に四日経ち、謙信は春日山で民からの盛大な歓声を受けた。
春日山を離れて四ヶ月、内乱などが起きたという事を感じさせない民の目に謙信はほっとした。
つまりはあの二人は政景を止めることに成功し、実及もよく春日山の留守を守っていたということだ。
三人には感謝しなければなるまい、と思いながら謙信はゆっくりと城下町を進んだ。
「謙信様、よくぞご無事で」
「うむ、そなたもよく留守を守ってくれたな」
城門で出迎えた実及に労いの言葉をかけると謙信は近況を報告させた。
特にこれといった大きな動きがあった訳ではなく、そもそも変な動きの兆しすらも無かったそうだ。新発田と東北からの報告全てをひっくるめると上杉は勝ったと言って良い。
ここに謙信が勝利宣言を上げると将兵は大きな鬨の声を上げた。
一つの壁を越えた上杉家はまだ理想に届いてはいないが、これからさらに時代を変えていく事になるのか。それともさらなる大波に飲み込まれる事になるのかはまだ分からない。
一つの区切りを付けた上杉軍の将兵は各々自分の屋敷に戻ってぐったり死んだように伸びている。
しかし、重臣達はそうはいかない。戦後の処理や周辺諸勢力の動向の確認や春日山にいなかった間の政務の処理とやることは山のようにある。
早々と休みたいのをぐっと堪えて謙信以下颯馬や兼続、春日山に戻ったことで正式に上杉家軍師となった官兵衛といった軍師達、弥太郎や親憲といった藤資亡き後に武将を引っ張っていかなければならない重臣中の重臣達が溝に貯まった水を一生懸命流すように仕事を片付けて行く。
しばらくして新発田方面の長重や景資らも帰還した。かれらも大分傷付き、春日山に帰ってきた途端にへたり込んでしまう兵もいる程だった。
義守達はもう少し落ち着いてから春日山に参上するとの伝言を満延が預かって春日山城に来た為、滞りなく東北も回復に進んでいると見て良い。
結果として秋田郡や阿仁鉱山を失う結果となったが、それはまた取り戻すことになった。
そして、新発田討伐から帰還した軍の中にはもちろん伊達軍の姿もあった。
「久しいな、政宗殿」
「ええ、そうですね、謙信殿」
かつての敵の領地であるにもかかわらず政宗は堂々と春日山に入り、その姿は新発田討伐から帰還した将達と共に謙信の前に出ても変わらずである。
「まさかこちらに降るとはな、独眼竜は人の下に付くとは思えないが」
「ならばここで謙信殿の首を斬ってもよろしいか?」「何!?」
能元が立ち上がって刀に手をやる。しかし、綱元が能元から政宗を庇うように移動しただけで謙信も政宗も何も言わない。
「貴様、やはり謀ったか?」
能元はじりじりと政宗に詰め寄るが、謙信が強い口調で「止めよ」と彼を制する。しかし、当人は聞く耳を持たない。
「謙信様、このような者に情けは無用。何故すぐに斬らせてくれませぬ?」
「止めよと言ったのが聞こえぬか?」
謙信の強い覇気に能元はたじろぎ、しばらく黙った後に派手な舌打ちをしながらどっかりと座った。
「すまぬ、家臣が見苦しいものを見せて」
謙信はすっと頭を下げて詫びる。能元はそれを見てまた何か言おうとしたが、隣で長秀が睨みを効かせておいた為にそれ以上は何も言わなくなった。
「謙信殿、貴殿が謝る必要はありませぬ。この者が冗談も通じないとは思わなかった私の責任です」
そう言って政宗が今度は頭を下げる。謙信はそれを聞くと少し覇気を緩め、じっと政宗を見る。また政宗も顔を上げて謙信を見る。
「もし、私が何も言わなかったらどうしていたのだ?」
「謙信殿においてそのようなことは無いかと」
「何故に?」
「貴殿は冗談が通じる御方ですから」
謙信はそれを聞くと口に手を当てて少し前に上半身を屈ませてた。
何をしているのだろうと全員が見ていると急に肩を震わせて笑い始めた。なかなか抑えることが出来ないのだろう。
家臣達が戸惑いの色を隠せないままきょろきょろとしているのに気付いて口元を未だに歪ませながらも喋れるように戻した。
「いやいやすまぬ、まさかここまで私の腹が読まれているとは思わなかったのでな」
「これから臣下となる者、主君の心を読めずにどうします?」
「なるほど道理だ」
いまだに少し笑みをこぼしている謙信に政宗はニヤリと笑い返す。そして、謙信は表情をきりっと引き締め直して政宗の前に立った。
「伊達が我ら上杉家に降伏する件、認めるとしよう」
「感謝致します」
こうして二匹の竜は手を組み、天下統一への道という大河を上ることになった。
「それから政宗に聞きたい事がある。手土産があると聞いているが、何だ?」
「ああ、それでしたら・・・・・・綱元、持って来い」
護衛に付いていた鬼庭綱元が一旦退出するとその十五分後ぐらいに再び戻って来た。その隣には外で待機していた伊達成実が共にやって来た。
上杉の面々は度肝を抜かれた。それは伊達家にその人ありと言われた成実が小さいからではない。本人は失礼だが、既にその事は先の戦で知っている事だから。
原因は綱元と成実が持っているものである。綱元は首桶、そして、成実が持っているのは物ではなかった。
「人・・・・・・?」
景勝が小首を傾げながら誰にも聞こえない小さい声で縛り上げられたそれを見て呆然となる。
それは明らかに生きている人であり、忍であった。
「まずはこの首から、これは田村清顕の首です。どうぞお納めを」
田村清顕は田村氏の現当主で力は小さいが、伊達家にとって外征の度にどこかで邪魔をしてきたり、内乱の際も介入してきた、いわば、目の上のたんこぶのような存在であった。
伊達家は当主輝宗自ら綱元の父である左月と共に田村領を急襲して悠々と勝利を収めていた。
伊達のあまりの速さに謀略に長けた重臣田村月斎も対応が出来ずに敗れ去り、そのまま消息不明になった。
「その見返りとして田村の領地を寄こせか?」
「さすがに話が早いですね。しかし、全土とは言いません」
相変わらず不敵に笑う政宗に対して謙信は苦笑いで返す。
「傲慢だな・・・・・・まぁ、良かろう」
「話が早くて助かります」
あっさりと認める謙信に能元が顔を赤くしているが、誰も気にしない。
もはや他の者は謙信がこうなっては聞かないことをよく知っている為に言うだけ無駄だと思っているだけで、後でみっちりと兼続は説教をしようと心に誓っている。
「で、だ。その忍は誰だ?」
成実の隣でしっかりと縄で縛られているその人物を指差す。
「ああ、これはですね・・・・・・」
順を追って政宗が話す。
それは伊達家にあの本願寺からの使者が来た時。その使者として遣わされたのがこの忍だそうだ。その時輝宗は伊達家は上杉家と共に歩むと決めて丁重に使者を送り返そうとした。
そして、その時事件が起きた。
忍は懐から隠し小刀を取り出すと輝宗目掛けて襲いかかったのだ。しかし、輝宗も武を修めている者。簡単にはやられる事はない。
結局その時部屋の外で控えていた左月と綱元が騒ぎを聞いて中に入り押さえつけられそうになっていた輝宗を救い出して騒ぎは収まった。
その場で斬ろうと鬼庭親子は思ったが、輝宗はこれを捕らえる事にした。
上杉家に二心が無いということを示す為だ。
「なるほど、よくわかった。ちょうど我らも本願寺の真意を探りたいと思っていたからな」
ちょうど良すぎる事が起き過ぎて疑問に残るが、ここまでされて信じるなというのが無理でこの忍は牢獄にそのまま連行させた。
「これに最上と景資達の救援か。なかなかの手土産だな」
「そうでしょう? 今後はさらに手土産が入ってくると思っていて頂きたい」
「期待しよう。ま、今度道場で一つ手合わせでもしながら語り合うか?」
それ以降はすっかり二人の世界となってしまった。
周りは誰も入る事を許されない。人が人外である竜の世界に入るのはやはり許されないのだろう。
そして、謙信にはもう一つ仕事があった。
政宗達を部屋に案内させると謙信の纏う雰囲気が喜から怒へと一気に変わった。その矛先は言うまでもなく能元である。
しかし、当の本人は主君に睨まれようと反省の色を見せずに憮然としている。
「何故、藤資や長秀の言を無視した?」
「正しい行いをしようとしたまでです」
「だが、負けた」
「長秀殿が救援しないせいです」
「長秀」
「策で水原城を孤立させる為に八幡砦を攻略する間は動かないようにしていました」
「と、言っているが?」
「某は聞いておりませぬ」
「言って賛同したか? また腰抜けとか言ってはねつけただろう?」
確かに能元は聞いておいても絶対に首を縦に振らなかっただろう。そもそも能元の頭の中は兄である顕元の敵で一杯だったのだから聞くという事はなかった可能性が高い。
彼もかつてはそれを暴露してしまっている以上は言い逃れは出来ない。
「それだからお前は兵からも信頼を失うんだ」
「えっ・・・・・・?」
心から驚いたように素っ頓狂な声を上げる能元を見て、謙信はまさかと思いながら鎌を掛けてみる。
「まさか兵はお前に簡単に付いて来ると思っていたのか?」
何も言わずに目を逸らす能元を見て当たりであったと分かった。
毛利安田家の当主たる者が兵にまで信頼を持たれていないのは問題だと思っていたが、それ以前に兵の感情など無視した采配を執っていた事にはっきり言って謙信は呆れた。
それ以上は何も回りくどい事は言わずに単刀直入に切り出す。
「能元、直属の兵は?」
「まだ外に待機させてあります」
「その者達に謝って来い」
「な・・・・・・何故に某が兵などに謝らなければなりませぬ?」
「兵『など』だと・・・・・・」
能元は先程向けられた謙信の怒りの覇気は刀のように鋭く、胴体を切り裂くような雰囲気が出ていた。
「愚か者が、これは命令だ。行ってこい」
「さ、されど・・・・・・」
「くどい、何度も言わせるな。それから兵はお前のおもちゃではない。人だ」
「それを忘れるな」と言うと謙信はもう終わりだと長秀に改めた報告をするように命じた。
その後、能元はさっさと兵に心の籠もっていない謝りを入れて逃げるように屋敷に戻った。
さらに数日後、伊達家当主輝宗が春日山に参上し、謙信との会見に望んだ。
「我が娘、政宗から降伏の旨を聞いたと思われるが如何か?」
「確かに、上杉家からはその降伏に偽りなしと見受け、降伏を認める」
厳かな雰囲気のまま会見は輝宗が来る前から決められていた内容を政宗が輝宗に伝えていたためにほぼ滞りなく進んだ。
「伊達家には将来有望な人材が四人いる。その者らに他の家で見聞を広めさせたいのだが」
「私の方では構いませぬ。それで誰を?」
「我が娘の政宗、ここにいる鬼庭左月の娘鬼庭綱元、外で控えている伊達成実、そして・・・・・・」
一泊置いて輝宗は一番大事だというような感じでぐっと身を乗り出す。
「この春日山にいる筈の片倉景綱」
「・・・・・・心配ありません。外出を許してはいませんが、城内は監視付きで行動は許しています」
察したように謙信は笑みを浮かべる。それを聞くと後ろに控えている二人も安堵の息を吐く。
謙信が輝宗に聞くと四人は幼なじみで同じ師匠から教えを受けた間柄だという。
道理で輝宗よりも後ろの二人の方がぐっと身を乗り出してちりちりと刺さるような視線を送っていたなと思っていた謙信は納得したように二度三度頷くとさらに話を進める。
そして、大体会見が終わったところで政宗がそわそわと発言をしたそうにしているのを謙信が気付き、
「政宗、何か言いたそうだな」
突然輝宗との会話中にいきなり振られたものだから政宗も驚いてしまった。
それでも政宗は気丈に振る舞いながら口を開く。
「謙信殿、こ、景綱は何処に?」
「ああ、景綱ならば・・・・・・」
ちらりと謙信が列席していた颯馬に目をやると颯馬はすぐに頭を下げて政宗を景綱のいる部屋に案内する為に立ち上がった。
「いや、変な事を言ってしまった。とりあえず会見を続けて下さい。私はその後で・・・・・・」
「何を言うか、政宗が景綱に会いたくてそわそわとしていたのは最初からだろう?」
「えっ!? い、いや、そんな事は・・・・・・」
少し顔を赤らめて恥ずかしそうにする政宗を見て颯馬が不謹慎にも少し可愛いと思った事は口が裂けてでも言えない。
「ふふっ、政宗、謙信殿が良いと言っているのだ。行ってこい」
「そうだ、行ってきて良いぞ。外にいるであろう成実殿とそちらの鬼庭殿もな」
綱元は政宗よりも冷静に振る舞っていたのでまさか自分の内心が感づかれるとは思ってはいなかったので少しばかり驚いている表情を見せた。
「ああ、嫌なら無理とは言わん。しかし、それでは景綱はかわいそうだ・・・・・・」
ちょっと残念そうにする謙信を見て政宗はむっとして立ち上がって不機嫌そうに言った。
「分かりました。謙信様の言うとおりにします」
続いて綱元も二人は立ち上がると颯馬の後に付いて部屋を出て行った。
「謙信殿、便乗した俺も悪いが、あまり娘達をからかわないで頂きたい」
「いやぁ、ああいった動きを見るとつい・・・・・・」
輝宗の渋い顔に対して謙信の悪戯っぽい笑み。
溜め息を吐きながらも輝宗は謙信の案外茶目っ気があるところに安堵しつつその後はお互いに当主としてのこれまでの歩みを語り合った。
その頃景綱の部屋に颯馬の案内でやってきた三人の内一人が喜びを爆発させ、その後ろで二人が上辺の冷静さを保ったまま再会を喜び合ったのは別の話である。
「・・・・・・というわけでな、まったく兼続は真面目過ぎるというかなんというか・・・・・・」
「ふぅむ、謙信殿も大変だのう。俺も若い頃は大分左月には色々とぐちぐち言われて耳が嫌になるぐらい同じような説教を喰らってな」
「やはり自身が当主であるのは分かるのだが、戦場を駆けたいという思いはどうしても抑えられないものでな」
「いやぁ分かる、よく分かるぞ。俺なんか今は丸くなったが、若い頃の戦はいつも左月が隣にいて前線で出たくても出れなくてな・・・・・・」
「輝宗殿は一人だろう?うちにはそれが四人もいるから大変なんだ。でも、そこを上手く目を盗んで出れた時はたまらなく良いんだなこれがまた」
「説教が後にあると分かっていてもな」
「「あははははは」」
これは当主の会話である。
「しかし、定満と龍兵衛はまだ帰って来ないのか?」
「確かに遅過ぎるな」
久々に謙信は颯馬と春日山城からの月を見ながら酒を飲む。部屋からの月は窓から太陽の日差し程強くない為に風流なものである。
勝利したが、気になるのは信頼のおける者の事。全員が地獄から無事に帰ってこれる事を祈った戦だったが、藤資が死んでしまいその願いは空しくも叶わない事になってしまった。祈ることしか出来ないが、まだ戻って来ていない二人も無事でいて欲しいという思いがある。
「まさか政景殿に捕らえてしまったんじゃ?」
「いや、定満も龍兵衛もそんなへまはしない。颯馬も分かっているだろう?」
違いないと首肯しながら颯馬は酒を口に注ぐ。
裏のことなら二人は軍師達の中で一番適していることは颯馬も分かっている。
「焦る事はない。大丈夫だ」
「藤資も顕元も死んだ。これ以上の犠牲はもう出したくない。不安があるのも事実だ」
「だが、俺達が出来るのは信じて待つだけだ・・・・・・」
謙信は返事をせずに酒を呷る。後は静かな部屋はただ酒をつぐ音だけが聞こえていた。
三日後の夜。謙信が今日中の仕事を終えてもう寝ようかなどと考えている時だった。
「謙信様、河田殿が帰還されました」
「早く通せ」
謙信が颯馬と共に仕事に勤しんでいた日暮れも近い夕方。待ちに待っていた報告が来た。気になるのは報告に来た家臣は「河田殿」と言って定満の名前を出していない事。
「謙信様、河田長親、只今戻りました」
「入れ」
入って来たのは龍兵衛である。しかし、その目はくぼみ、体格の良かった身体はすっかり痩せきっていた。二人は驚愕の表情を隠せず颯馬は思わず聞いてしまう。
「大丈夫なのか?」
「ああ、俺は大丈夫だ」
安心しろと言われても大丈夫には見えない姿である。だが、こうして来た以上は謙信は事の詳細の報告を聞かないといけない。
「件の事は成功しました。しかし、その前にお人払いを」
「ん、颯馬でも駄目なのか?」
別に颯馬なら構わない筈なのだが、力強く龍兵衛が頷いた為に謙信は颯馬を退出させるしかなかった。
出て行った後でも不安なのか龍兵衛は辺りをきょろきょろと見回して誰もいない事を確認する。
普段の大きなことにもあまり表情を変えない彼とは違うその動きから余程の事があったと謙信は想像がついた。そして、一番気になっていた事を先に聞く。
「定満は、どうした?」
「詰めの作業を行っている為に自分が先に戻るように言われました」
「そうかそうか、定満も無事なのか」
藤資や顕元以外が死ぬという不安が払拭されて謙信はほっとしたように笑みをこぼす。しかし、龍兵衛の表情は晴れず。どこか儚いように感じられた。
やはりどこかおかしいのではないかと謙信が聞くと龍兵衛は「自分は大丈夫です」と続けた。
『自分は大丈夫だ』と龍兵衛は言った。まさかという思いよりも先に謙信は目を見開いて身体が動いた。
「龍兵衛、本当の事を言え! 定満はどうした!?」
気付けば謙信はがばっと立ち上がって龍兵衛に詰め寄っていた。普段の冷静さからは想像出来ない程取り乱して焦りと恐怖が表情に滲み出ている。
初めてみる謙信の様子に驚きつつも龍兵衛は顔を下に向けたままがっくりと両手を畳に着けて口で何かを言おうとして言えないように下唇を噛んでいる。
謙信がもう一度さらに強く「言え!」と龍兵衛に詰め寄ると龍兵衛は観念したようにそのままの姿勢で「申し訳ありません」と堪えるように頭を下げ続ける。
「詫びはよい。仔細を話せ」
「・・・・・・」
「話せというのが分からぬか!?」
「・・・・・・分かりました」
思い出される光景に嫌という感情を持ちながらも話さなければならないことに身体を震わせながら龍兵衛は顔を上げて謙信に仔細を話し始める為に口を開く。
外の風は一気に強くなっていた。