もう一度、その時間に戻れればということを何度も思うのが人の人生だ。それが多い者、少ない者は人それぞれである。
定満は龍兵衛から惟信との真実を知り、景勝の幸せを願い、謙信と颯馬の幸せも願った。認めたくないが、年長者として若い人の幸せを願うのは当たり前の事である。
仮に東北全土を失ってとしても、もう少しで越後を取り巻く暗雲の雲の一部を取り除くことが出来る。この雲を取り除けば後は周りで頑張っている将兵がどうにかしてくれる。
定満は信じていた。上杉は最後には必ず勝つ。
それは単なる希望論ではない。心から信じている。
しかし、自身はその為の犠牲になるかもしれない。ならば今後の上杉の為に何をするべきなのか。
一人、定満は宿の部屋で書状を書いていた。
外は綺麗な夕日がもう少しで沈もうかとしている。今の風景を絵にでも描けば素晴らしい作品が出来上がるだろう。
だが、定満は外など気にせず、物凄い速さで筆を走らせていく。
半刻したぐらいにようやく全てを書き終えると肩を回しながら疲れたように長く息を吐く。
そこで今、何時なのかが分かり、外が少しずつ群青になっていることに驚きながらも時間に間に合ったと安堵する。
しばらく休息を取っていると外は完全に赤い色が無くなり、群青の空の中に月が出始めてきた。普段の定満なら団子を抱えて外に出るところだが、今夜は大事なことがあるので止める。
思いっ切り伸びてゆっくりと倒れようとした時、定満の耳はぴんとはねて何かを捕らえる。
誰かが廊下を歩く音がする。定満は部屋の明かりを消してゆったりと場所を移動した。
外から入室を請う声がする。敢えて何も言わない。外の人物は何度か声を掛けたが、やはり何も言わない。
外の人物はこの時間に定満に来るように言われていたのだ。
暗い部屋とはいえ失礼を承知で外の人物は中にそっと入ろうと襖を開けて部屋の中に足を踏み入れ、定満に気付かず、中に誰もいないことにはてと思った瞬間だった。
定満は影から姿を現し、相手に確認させることも出来ないような素早さで入ってきた人物の後ろに回り込むと首に鋭い手刀を喰らわせる。
相手は対応することも声も上げることも出来ずにうつ伏せに倒れて気絶した。
「ごめんね・・・・・・」
口だけの言葉を残して定満は部屋に書状を丁寧に倒れた人物の隣に置くと残して出て行った。
「颯馬、まだ起きているか?」
仕事を終えて自室へ戻った颯馬に外から龍兵衛の声が聞こえてきた。
いつの間にやら帰ってきた同僚に驚きながらもすぐに入室を許可する。労を労るように颯馬は快く出迎えようとしたが、彼を見ると労るどころか心配になってしまう。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
そこには以前の面影など無いほどにげっそりとした龍兵衛が立っていた。歩み寄る足取りはしっかりとしているが、見るからに弱っている。
「颯馬、謙信様の所に行け」
「・・・・・・はっ?」
座らず、颯馬の質問に答える事もなく、龍兵衛は部屋の外をさっと指差した。刻限はもうかなり遅くなっていて夜は完全に更けている。
このような時間にいくら謙信の部屋でも入るのは無礼だ。
「いや、でもこんな時間に・・・・・・」
「いいから! これが今は精一杯だ。颯馬、これは亡きお方の言葉だ。謙信様のお心の溝を埋めるのはお前しかいない」
龍兵衛は意味深な発言を残して部屋を出た。
先述のように夜はかなり深くなり、人はもう眠る時間である。それでも去り際に龍兵衛が鋭い形相で睨まれた為、何が何だか分からない様子のまま颯馬は謙信の部屋へと向かった。
「これでいい。これで謙信様は救われる・・・・・・後は、颯馬次第・・・・・・」
颯馬が出て行った部屋で静かに呟くと龍兵衛も自室に戻っていった。
吹き荒れる寒い突然の強い風に颯馬は身を小さくしながら謙信の部屋へと向かう。
何があったのか先程、龍兵衛に聞かなかったのは不覚だったが、謙信に聞けば良い。
「謙信様、颯馬です」
部屋の前で声をかけるが、反応がない。
寝るにしても部屋の灯りはまだ点いているのと龍兵衛の強い口調からして絶対に起きているのだろう。
そっと中に入るが、いつものように夜遅くまで部屋の中央で仕事などをする謙信はいない。
颯馬が見た謙信は壁にもたれかかり、虚ろにただ座っていた。それを見た途端に颯馬は公の顔を捨てて私の顔となった。
「大丈夫か?」
「・・・・・・・・・・・・」
「おい!」
颯馬は強く肩を掴んで揺さぶる。
颯馬の姿を確認したのか驚きながら彼を見ると目の焦点が合い、姿を確認することで謙信はようやく平静さを取り戻した。
「どうした? 何かあったか?」
「それは俺の台詞だ。謙信こそどうしたんだ? そんなにぼーっとして」
「いや、大丈夫だ。何でもない」
「そんな虚ろな顔をして、説得力が無いぞ」
「そうか? はは、そんなに私は呆けていたか?」
「ああ、何があった?」
躊躇わずに謙信に問うと困ったように謙信は作られた苦笑いを浮かべる。
謙信の心には溝が出来ていると颯馬は悟った。こんな作り笑いをする謙信など見たことが無い。彼がゆっくりと視線を合わせるように顔を覗き込むと謙信は未だに虚無感を持ったままに彼の目を見る。
「定満が・・・・・・」
「定満殿が、どうしたんだ?」
「死んだ・・・・・・」
聞いた瞬間、颯馬は絶句した。見開いた目とは裏腹に視点は暗転して前が謙信でさえ分からなくなる。
嘘だと思いたい。しかし、謙信の後ろに乱雑に置かれていた定満の耳飾りはその事実を如実に物語っていると悟った。
「これがその時出来た痣です」
龍兵衛が首元を見せるとはっきりとはしていないが、少し紫色に腫れているのが分かる。
定満は龍兵衛を部屋に来させて自身が出て行ったことの発覚を遅らせる為に敢えて彼を呼び寄せた。
「軍師であるお前に反応しろというのは無理な話か」
「まぁ、そうですね」
当たっていることをはっきり言われて少し傷つきながらも龍兵衛はあの時を振り返るように眉間に指を当てて溜め息を吐く。
龍兵衛は胸元から書状を取り出した。謙信が何かと聞くと龍兵衛は聞こえないように唾を飲み込んで口を開く。
「定満殿の遺された書状です」
謙信宛となっているその書状の表を見て謙信はすぐさま無造作に開いて中身を確かめる。間違いなく定満の筆跡である。
じっくりと謙信は読んでいくと最後に溜めていた息を吐き出すのと同時に前のめりだった天を仰ぎつつ姿勢を少し後ろに傾けた。
「お前も読んでみろ」
龍兵衛が書状を読んでいる姿を謙信はじっと見ていた。
最初はかなりの速さで読み進めていたが、徐々にゆっくりとその文面に目を通し始め、何度か読み直すという事を繰り返しながら一字一字も読み漏らすまいという姿勢で読んでいく。
読み終える際にはぎりっと奥歯を噛み締める音と共に目に手を当てて何度か抑えながらぶつぶつと何かを言い。
「本当にあの人には適わないなぁ・・・・・・」
どこか空虚に上を向いて今度は謙信にも聞こえるように呟いた。
龍兵衛に分からないように首肯しながら謙信も定満が今まで上杉の為の功績を立てた事やあの母親のような笑顔で皆を自身に忠誠が向くように色々と影で支えてきていた事を頭で思い描いていた。
思えば思う程鮮明に出てくるその定満の顔にはいつも浮かべるあのふにゃりとした笑顔があった。
「誰も適わないよ。定満には・・・・・・」
「ええ」と頷く龍兵衛はいまだにどこかに別に心があるような返事を返す。
だが、それは謙信にも言えることであった。普段の龍兵衛ならば気付けただろうが、謙信も心ここにあらずといった状態だった。
謙信は定満には初陣と時から何度も世話となっていた。謙信がただ真っ直ぐに正義を信じていた。定満はその矛盾に気がついた謙信が危機に陥った時、定満はゆっくりと謙信の頭を撫でながら励まし続けた。
「謙信様は、諦めないで、信じていいの。大丈夫、いつか分かり合える人がいっぱい、謙信様を支えてくれるの」
そう言われた時の謙信の心の氷結は溶けていき、定満が本当の母親のように見えたのは幻ではない気がした。それほど自身が喜びを持てたという事であろう。
今思えば間違いない。喜びが自身に力を与え、清濁の全てを受け入れる度量の大きさを持つことが出来るようになって、今のような上杉家を築き上げる事が出来たのだと確信している。
いわば定満の存在は謙信の心の支柱の多くを占めていた。颯馬達家臣とは違う。さらに大きい支柱であった。
「定満・・・・・・」
その一言にどれほどの思いが詰まっているのか、龍兵衛には分かる筈もなかった。
「その後、自分が気付いた時には定満殿は消えていました・・・・・・」
龍兵衛が気付いて起き上がり、ここまでの事を思い出してすぐにその部屋から飛び出した時にはすっかり辺りは暗くなり満月の照明が綺麗に地平を明るく照らしていた。
龍兵衛はまず宿の主に定満のことを聞くと一刻前に池に舟遊びをしにとある人と出て行ったそうだ。
それを聞いた龍兵衛は背中が凍る思いをした。そのまま上着も着ないで宿を飛び出し寒い越後の冬を身体で感じる事も忘れて龍兵衛はただ野尻池に走った。
城下、農村、林の中。疲れることも忘れてただ走って走って走り続けた。
野尻池に着いた時には龍兵衛は肩で息をしながら足が棒になるような感覚に襲われたが、鞭打って池に近付く。
だが、目の良い龍兵衛には野尻池に視線を向けるだけで十分だった。
池のちょうど真ん中にあったのはゆらゆらと揺れる満月。
そして、それに照らされた転覆している小舟がゆらゆらと動いていた。
「見た瞬間、がっくりと膝を着きました・・・・・・」
さらに続きを言っている龍兵衛はまだそれを見た時の衝撃から抜け出せる事が出来ないのだろう。拳を握り締めて止める事が出来た自分が出来なかった後悔に苛まれているように下を向いている。
「定満と会っていたのは政景だな?」
「間違いないでしょう」
「何故だ? 何故助けようとしなかった!?」
そこで膝を着く暇があったのなら池にすぐに向かえば良かっただろう。
謙信は詰め寄るが、龍兵衛は冷たく謙信に視線を向けた。
「自分もあの池に飛び込めと?」
「あっ・・・・・・」
今は冬だ。池の寒さは人を亡き者にするには十分である。いざ飛び込めば寒さで気が動転して溺れるかもしれない。
そのような所に生きているのか不明な者を探しに龍兵衛は入り込む程の勇気は持っていない。
「しかも、あの時は舟もあの一艘しかありませんでしたよ」
「すまん。少し取り乱していた」
最初からそうであるが、今の発言はかなり支離滅裂な発言であった。謙信は素直に非を認めて頭を下げる。
「しかし、定満が本当に死んだのか? 春日山が無事である以上は政景は死んだのだろうが、定満は・・・・・・」
希望論を述べて必死に現実から逃げようとする謙信を見て龍兵衛は謙信も大分この事に参っていると察した。先程からおかしいと思っていたが、異常である。
龍兵衛は心を鬼として答える代わりに先程から隣に置いてあった風呂敷を謙信に渡した。
この時龍兵衛は『政景』という単語を聞いて少し心の音が鳴ったのは彼自身の秘密である。
謙信は龍兵衛に促されるままにそれを素早く開けると動きが徐々に遅くなり、身体が震え出した。
「どこにあった?」
入っていたものは定満がいつも着けていた耳飾り。
水に浸されてあったのか少々ふさふさしていた毛が寝ている。
「自分もその時まで謙信様と同じような思いを持っていました。何故定満殿は死ななければならないのか、理由が無い。その為に辺りを探しました。しかし、これを見た瞬間、自分は心に何本もの矢が刺さった気がしました。それを落ち着かせる為にしばらく山奥の寺で心を落ち着かせていたのです。故に帰ってくるのがこの日になってしまいました」
「御託はいい。答えろ! これはどこにあった!?」
定満の大切なものを見た謙信は理性など、どこのかなたに吹き飛ばして龍兵衛に詰め寄った。
「池の中央、転覆していた舟の隣に、浮かんでいました・・・・・・」
「そんな・・・・・・」
謙信が語り終えると颯馬は先程までの謙信のように虚ろな表情になり、言葉の出ない口を開けている。
謙信は先程龍兵衛から渡された書状を颯馬に見せる。
文面にはまず謙信への詫び、今後の上杉家がどう動けば良いか。その為の善策と若い軍師達への後事を託す激励の言葉。
そして、龍兵衛を責めないでくれという言葉の次、最後に書かれていたことに謙信は苦笑いを浮かべた。
「『藤資に後は任せる』か・・・・・・」
謙信が藤資の死を聞いた時、重家が最期の重家の言葉を聞いていた。それは景資に託され、謙信へと伝わった。武人らしくその内容は不器用だが、芯が通っていた。
そして、その最後の言葉が奇しくも同じであった。
「藤資殿は『定満に後は任せる』だったな・・・・・・」
奇しくもその二人は時期を同じくして亡くなった。
謙信の誇る上杉二大の支柱が倒れた時、それを知った者は絶句をするのが精一杯である。
「藤資が死んだ。定満も死んだ・・・・・・人間なのだから死ぬのは分かっている。しかし、どうして!? 何故天は一気に二人を召したのだ!?」
「謙信・・・・・・」
「二人共、自分の事は後回しにして、どうして私の為に生きようとしたのだ!? どちらも避けられる死だったというのに・・・・・・」
颯馬に意味が無いと分かっていても詰め寄るしかなかった。定満が死んだ以上、謙信が腹を割って全てを話せるのはもはや颯馬しかいないのだから。
「謙信・・・・・・誰もが謙信の為に生きているんだ。とりわけあのお二人は謙信に最も長く仕えてきただろう。これが本望だった筈だ。だけど・・・・・・」
そっと颯馬は慰めるように謙信を抱き締める。しかし、自身の目にも水が溜まっていた。
何人もの味方の死を見てきたが、初めて颯馬は一人の仲間が消えることはこれほどまでに悔しくて悲しいことなのだと知った。
「まさか二人共にお互いに後を託していくなんてなぁ」
颯馬は呆れたような口調で悔しさを誤魔化すしかない。
藤資は戦場で、定満は影の仕事で、お互いにいるべき場所で亡くなった。それは二人が最も望んだ死に様であったのだろう。
「定満は永遠にあの池の中で眠る。藤資と違い、遺体も見つける事は出来ないだろう」
颯馬の腕の中で謙信はただ失った者が大き過ぎる悔しさを愛しい人の温もりで癒そうとさらに腕に引き込まれようとする。
颯馬は何かに気付き、はっと顔を上げた。
「定満殿は政景殿を殺した自分が景勝様の前に立つのが苦しかったのかもしれない」
「どういうことだ?」
「景勝様に実の父親を殺した自分がいるなんて思いたくなかったんだろう」
颯馬の推測には確かな説得力がある。謙信はその言葉に顔を怒りでは無く、興奮によって紅潮させた。
「・・・・・・は馬鹿だ・・・・・・」
「えっ・・・・・・?」
「だとしたら定満は馬鹿だ! 景勝はそんなやわな娘ではない!」
「・・・・・・」
「藤資が老害だと分かっていたが・・・・・・定満はそれ以上の老害。いや、大馬鹿者だ!」
「・・・・・・」
「死ぬ必要はなかった! 定満も藤資も・・・・・・!」
喚く謙信を颯馬は落ち着かせるようにさらに強く抱き締め、優しく声をかける。
「・・・・・・大丈夫だ」
「なっ・・・・・・」
颯馬とて悲しい。しかし、謙信はそれ以上に悲しい思いをしている。自身が泣いて共に頷き合ったところでそれはただの気休めにしか過ぎない。
悲しみの淵にいる彼女はきちんと心から慰めなければいけない。
「定満殿も藤資殿も確かに死んだ。だけどお二人は天で必ず謙信を見ている」
「・・・・・・」
「それに、俺は絶対に謙信を一人にしない」
「・・・・・・本当に、本当、だな?」
「ああ、だから、今は素直に泣いたらどうだ?今は泣いておくんだ。そうしないと後で後悔するぞ」
「だが・・・・・・」
「今は人として謙信はいてくれ、頼む。な?」
「う、うわぁああ~・・・・・・」
男性、優しい言葉を投げかけた。一人の女性、ただただ素直に泣き出した。それを見る男性、自身はこらえてその女性を抱き締めた。女性、すがりつくように男性の胸を涙で濡らした。男性、一つの決意を新たに亡き者に誓う。
「(定満殿、藤資殿、俺は謙信の心の支えを必ず埋めて見せます)」
「別れという悲しみは突然の強い風と共にやってくる、その風は俺をただ責めるだけ・・・・・・」
龍兵衛は風に身を小さくして縁側に座っていた。この風は主君と筆頭家老の一人を別れに追い込んだ罰なのだろう。
疲れは無い。何日もの間、寺で定満の死による衝撃を癒やす為にずっと籠もっていたのだから。
笛を取り出し、悲しい音色でゆっくりと定満とのしばしの別れを惜しむ。
「オリオン舞い立ち、スバルはさざめく。か・・・・・・」
演奏が終わると誰にも聞かれないように小さな声で空に向かって呟く。夜も遅い為、誰もいない。
冬の星空は素晴らしいと歌ったとある詩人の歌だが、その言葉通りの美しい星空が広がっている。
死んだ人は星となると言われているが、それは本当かは分からない。
また生きている人が前世に未練を残した考えだろうとかつての龍兵衛は思っていたが、乱世に来てからそれもあながち間違いではないと思うようになった。
目の前で死んで行く人々を見ていると嫌でもそう感じる。
「そして、この冬の空に新たな星が二つ・・・・・・いや、三つ増えた」
政景の死も龍兵衛は真摯に受け止めなくてはいけない。
彼の愛しい人を直接殺したのは定満だが、そのお膳立てをしたのも止められなかったのも自身であるのだから。間接的には殺したも同然である。
最初に政景に関する報告を受けた時、彼はそれが嘘であると信じていた。世迷い言にすぎず、離間の計かもしれないと希望を持っていた。
しかし、現実という無情な世界は政景を、龍兵衛の愛しい人の父親を待たしても重罪人に仕立て上げた。
「嬉しくない星に産まれたものだ」
自虐的に笑ってみせるが、運の無い人生を変える事は不可能である。時の流れは止まらない。もはや動かねばならなかったのだから。
「景勝様は以前の香代と同じように自分を責めるだろうなぁ」
否、それだけでない。仲間も自分を責めるだろう。分かっていたとしても誰かに責任があるのだから。
振り返れば平成の世に生を授かり約十八年、この乱世に生きて約八年、一人の人間として異端者として生きてきたその道が見える。
「いや、まだだ。まだ振り返る時ではない。前を見なきゃ定満殿に叱られる」
一人決心が付いたように頷くと風が少しだけ収まった。
その後は、眠る気にもならず龍兵衛は星空を眺めながら朝まで縁側で過ごした。
龍兵衛はそのまま朝餉もとらずに軍議の間に入った。
まだ時間は早い。兼続さえもいない。龍兵衛はただ下を向いて時が流れるのを受け身で待っていた。
「なんだ龍兵衛、帰っていたのか?」
予想通り兼続が一番早く入ってきた。
「ああ、昨日の夜にな」
その後もぞろぞろと入ってくる将と同じような会話を繰り返して謙信の到来を待った。
その間龍兵衛は決して表情を変える事はなく、師匠が正式に軍師となったことや伊達の降伏も眉一つ動かさずに受け入れた。
その姿を颯馬は哀れんで見ている。辛い事を目の当たりにした後も気丈に振る舞い、軍師として生きようとする彼に同情した。その一方であのような事があった後でも普段通りに過ごせるとは大した胆力だと感心していると外から足音が聞こえて来た。
「皆揃ったな」
謙信と景勝が入ってきた。景勝は龍兵衛が戻ってきた事に驚きを見せると共に飛び跳ねたい気持ちになりながらも平静を装って謙信の隣に座った。
「謙信様、宇佐美殿がまだ来ておりませんが」
兼続は定満と龍兵衛が共に行動していた事を知っている為に龍兵衛が戻って来た以上は定満もいると思い、まだ見えぬ先達を探す。
「え、ああ、定満か、定満は・・・・・・」
「亡くなった」
苦しい笑顔を見せて謙信がそれとなくはぐらかそうとしたが、龍兵衛がはっきりと事実を述べた。
「龍兵衛・・・・・・」
「遅かれ早かれ定満殿と政景殿の事は必ず明るみになるでしょう。ならば今言っておくべきです」
そう言うと龍兵衛は定満と政景が死んだ事について詳細を話した。しかし、軍師として龍兵衛は生きている。表立っては定満と自分は周りの城に内通者がいないか確認する為に越後の城を回っていたとして、定満はその途上で政景が謙信の援軍に向かう前に祝いとして自身の城に招いて舟遊びに誘い、酔った勢いで極寒の池に飛び込み溺死した。というふうに結論をねじ曲げた。
「・・・・・・まさかあの定満殿が」
「なんともやりきれないですなぁ、政景殿もまたらしくない事をしたものです」
弥太郎も親憲も呆気ない二人の最期に唇を噛む。
景家は拳を何度も悔しそうに叩き付け、長重や慶次も絶句している。
「・・・・・・」
龍兵衛は景勝をちらりと見る。景勝は何も言わないが、心境は複雑だろう。
「ともかく、藤資も定満も死んだ事は事実として受け止めなくてはならない。各自、二人の喪に服した後は直ちにその穴を埋めるべく今後はさらに励んでくれ」
「「「御意」」」
「それから龍兵衛、そなたは定満と政景の死を止められる立場であったのに一瞬目を離した事によってこのような事態を招いた罪は重い」
「返す言葉もありません」
「だが、二人が死んだ今、そなたはよりいっそう上杉家の為に励んでもらわないと困る。故にしばらくの謹慎を命じる」
「温情に感謝いたします」
そして、謙信は散会を宣言すると諸将が足取り重く出て行った。それを見ると謙信だけではなく、定満は皆の心の支柱だったという事がよく分かる。
そして、残ったのは謙信以下軍師と弥太郎・慶次・親憲そして吉江景資の定満の死に疑問を持った者である。そして、謙信は心を鬼にして景勝も残らせた。
「龍兵衛、定満について本当の事を言え」
「御意・・・・・・」
昨日の謙信に言った事をそのまま機械のように一言一句違わずに全て言った龍兵衛に集まった視線は同情のみ。非難の目はなかった。
あの状況下で止められる者は確かに龍兵衛だけであったが、その上をいったのが定満である。
「御苦労様でした。龍兵衛殿」
親憲が労いの言葉をかけるとその後も龍兵衛に慰めや労いの言葉を皆がかける。
「だいじょーぶ、龍ちんが何も気負う事はないって」
「ああ、私も龍兵衛の立場であったら、同じようになっていたかもしれない」
「小島殿は武芸の心得がありますから、宇佐美殿はもっと別の手段を使ったかもしれませんね」
「軍師として龍兵衛はやったんだから仕方ないって、良くやったと思うよ師匠として」
慶次・弥太郎・兼続・官兵衛が順に言うと共に龍兵衛も少しだけ顔色が良くなってきた。景資も黙って肩を二つ叩いて「ご苦労じゃった」と言ってくれた。龍兵衛が皆に謝辞の礼を言うと謙信も口を開く。
「そなたは少し休め、精神的にはまだ参っているだろう。この謹慎をいい機会と思っておけ」
「そして、その仕事を押し付けられた兼続達から謹慎が解けた後に今度は自分に仕事が押し付けられる訳ですか?」
「ちっ、分かっていたのか」
「当たり前だ。以前もそんな事があったからな」
「ならば少し謹慎を長くしてその分の英気を養うか?」
「やめてください。その分仕事がまた増えますから」
笑い合う皆に龍兵衛は少しだけ心が安らいだ。
景勝は龍兵衛があの場でちらちらと自分の様子を窺っていたのは分かっていた。何故なら何度も目があったからである。そして、龍兵衛の眼が何を語っているのかも悟った。
夕刻になって龍兵衛の部屋を訪れると先程と違って龍兵衛は腑抜けきった顔をして壁にもたれかかっていた。そして、景勝の姿を確認すると力無く姿勢を改めて土下座をして「申し訳ありませんでした」と謝った。
その頭を景勝はぽかりと叩く。
「龍兵衛、悪くない! 悪いのお父さん!」
それでも姿勢を直さずに龍兵衛は景勝に顔を見せない。
「自分は罪深き罪人です。政景殿を景勝様の父を・・・・・・」
「言わなくていい! でも、景勝、龍兵衛、上杉の為にやったの分かってる。それにやったの、定満」
「それでもお膳立てを立てたのは自分です」
「景勝、上杉家の人、上田の人、違う!」
「自分は上杉家に必要な人を見殺しにしました」
「定満、龍兵衛、動けなくした!」
「ですが、愛しい人の父君を・・・・・・」
「変わらない! 分かれ! 馬鹿!!」
龍兵衛の自身を遠ざけるような物言いに景勝は憤慨しながらも筋の通った言葉をつなげる。しかし、目の前の愛しい人は下を向いたまま自分を傷付ける。再度先頭に戻った龍兵衛に渾身の叫びで景勝は龍兵衛の心にある後悔をえぐり出そうとした。
「分からない? 景勝、龍兵衛、好き。龍兵衛も景勝好きって言ってくれた」
「それでも、肉親との絆とは切っても切れないものである筈。自分は・・・・・・」
ようやく龍兵衛は景勝の言いたいことを悟り、顔をはっと上げた。景勝は決してやわな人ではない。その事は龍兵衛も十分に分かっている。
人間の感情は複雑怪奇なもの。真人間が人に心を許せばその者には第三者には理解できない感情を抱く。その間には肉親も入るような事すら出来ない。
龍兵衛はかつての世界でその事を一番に理解していた筈であった。
彼は名家出身故に父や母に香代との交際は一貫して伏せていた。両親は彼にそれなりの金と力を持った家の娘との交際を勧めていたのだ。
今の景勝と自身も立場が逆転しただけで同じ。
景勝は次期上杉家当主。龍兵衛はなんだかんだで一介の軍師、しかもかつては他家で謀反を働いた事になっている。
確かに景勝も実の父の最期に衝撃を受けただろう。それでも景勝にはまだ龍兵衛という存在が心を支えていた。むしろ父や母よりもその柱は巨大であるに違いない。かつての自身がそうだったように。
そこで自身の誤りと考えに反すると龍兵衛はようやく気付いた。
「はぁ、人と人の愛に入る者はいない。か」
「(こくり)」
今一度下を向いて溜め息一つ。そして、ゆっくりと龍兵衛は顔を上げた。景勝はその顔がやせ細って、目の下のくまがギラギラと鋭い龍兵衛の目をさらに強くしていることに改めて驚いた。
「今度、謹慎が解けたら野尻池に行きたいのですが、一緒に来ませんか?」
「いいけど、何する?」
「墓参りですよ」
景勝は父の死んだことよりも笑顔で頷いた。その顔を見ていると龍兵衛はもうこれ以上は景勝に変な衝撃を与える事は止めようと決意した。見えない恐怖に怯えて生きるのは軍師としてだけでよい。
人としてはもう先を見て生きるとしよう。景勝を心配させない。悲しませない。
今なら誓えるだろう。
たとえ己が不義の子でも。