上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第六十三話改 心の窓に灯火を

 安田能元は苛々を隠せないまま廊下をずんずんと歩いている。その怒りで染めた朱の顔の熱は越後の寒い冬さえも吹き飛ばせるだろう。

 目的の部屋で立ち止まると怒りを抑えて入室を願う。返事があると能元は「失礼する」と言って頭を下げずにずかずかと入った。

 一方その中にいた服を灰色で揃えた人物はまったく動じる気配が無い。

 

「どうかしましたか? 能元殿?」

 

 うるさそうに能元を扱う邪険な声。部屋の主たる龍兵衛は振り向きもしなかった。

 

 

 

 

 春日山の冬がある意味最高潮を越えて少しずつ暖かくなってくる時期だ。

 謙信は能元を呼び出した。近頃は賊の出現も無いのでどうしたのだろうと首を捻りながら謙信の言葉を待つと謙信は座るなり口を開いて思わず聞き返したくなることを発した。

 

「そなたをしばらく春日山に出仕させる。安田城の事は家臣に任せよ」

 

 背筋が震えた。先の戦の際の責任は確かに彼自身の背中に乗ったが、それ以降は能元自身何もした覚えがない。

 出仕と言えば聞こえは良いが、実質のところ彼が持っていた安田城の利益は謙信の下に入ることになる。さらにそれに不満を持った能元の家臣が反乱を起こせば能元は間違いなく首を斬られる。

 簡単に表せば人質のようなものだ。能元自身は謙信を裏切る気は毛頭無い。しかし、このような事をされては能元の面子が潰れる。

 今、上杉家では軍師の進言で中央に軍権を集める為に様々な城の主は春日山に集っている。もちろん能元もその例外ではなくいずれはこうなると分かっていた。

 しかし、彼からすれば時期が悪い。

 周りからは先の戦での失態の事で兄と比較されるような目が強くなった為にこれでは春日山に縛り付けられたと思われてもおかしくない。

 責任の全てを全て押し付けられたと思っている能元はこの命に一応は従ったものの決して納得した訳では無かった。

 謙信の前から辞するとまず最初に何故自分をこのようにしたのか。謙信の近くに控えていた二人の軍師が彼の頭をよぎった。

 あの二人が謙信にけしかけて自分をこのようにしたのだ。そう思うと能元の頭には血が上り、足は自然と速くなった。

 まず第一に疑ったのが怒る能元を平然と迎え入れた灰色の服を着た男。あの時いた二人の内、こういった事には間違いなく絡んでいるだろう軍師だ。

 

「河田殿……どういう事ですか?」

「どういう事、とは?」

 

 ようやくその言葉で龍兵衛は振り向いた。口元は笑っているが、眉一つ動かさずに鋭く相手の中を見抜いてしまうような目で能元を見る。しかし、それに怯む能元ではない。むしろその様子を見てさらに怒りが増した。

 

「何故に某がこのような恥をかくような事をしなければ……!」

「仰っている意味が分かりかねますね」

「何故、某を春日山に縛り付けるのかと聞いているんだ!」

 

 はぐらかそうとした龍兵衛に心の糸が切れ、喚く能元の目の前で龍兵衛は新しく着るようになった灰色の服を何事も無いように揃える。

 官兵衛がやってきてからは黒が二人になった事が嫌だという師匠の駄々に仕方なく新調したものであるのは二人の秘密だ。

 

「長年、上杉に仕えた栄誉ある毛利安田の当主である某に恥をかかせていいと思っているのか!?」

「謙信様は家よりも実を取ります」

「それでも少しぐらいは考えられてもいいだろう!?」

「仮にあなたにそうしておいて、その後に何か益があるのですか?」

「ある!」

「どのような?」

「某は先の戦では他の方の慎重すぎる策のせいで敵に遅れを……」

「待ってください」

 

 ああ言えばこう言うと言った状態になりかけたところで龍兵衛は能元の言った一言に噛み付いた。

 意気込んだところを止められて能元は顔全体を朱色にしたが、龍兵衛はその顔を覗き込むように見ている。そこから何かを読み取ったように頷くと疲れたように息を吐いて姿勢を一気に崩して手を身体の後ろに付いて重心を背中に預ける。

 

「自業自得じゃないのかな?」

「なっ……」

 

 敬語を外され、低い威圧感の利いた声と突き刺すような鋭い目で発せられた言葉に能元は思わず絶句した。

 

「自分がやった事にまるで罪が無いような物言いだね。栄誉なんて最初から無いよ能元殿、馬鹿じゃないのかな?」

「何だと!? 貴様、俺を侮辱する気か!!」

「兵の犠牲や後先の事を考えない人の事を馬鹿と言わないで何と言う?」

 

 諭すように問い掛けるように聞く龍兵衛に能元は口を紡ぐ。事実を言われては何も返す言葉が見つからない。

 しかし、肯定することを言えば自分が馬鹿だと認める。自尊心の高い能元にそれは出来なかった。

 怒りによって身体を震わす能元からそれを見抜いたように龍兵衛は溜め息を吐いてきた。

 

「自分の悪いところを認めないで他人の悪いところを吊し上げるのは控えた方がいいね。特に、兵達に当たるのはどうかと思うよ」

「何?」

「だって、兵達から能元殿は全く自分達の事を思っていない。以前も失態を詫びに来たけどその口調は全く反省している気配がないと聞いたよ。それにその後も兵に随分な振る舞いをしたみたいだね。それじゃあ上に立つ人としては失格だよ。何せ兵達も人なのに人として扱わないんだもの」

 

 顔を上げた能元に龍兵衛は軽い笑みを浮かべながら一気に言った。だが、明らかに声には怒りの感情が含まれている。

 高き地位にずっといた能元と様々な苦境の中で己を高めていた龍兵衛の違いは人と人の間にある立場の違いの壁を破る事が出来るか出来ないかであり、龍兵衛自身もそれは自覚している。

 また、上杉家の周りには膝を付いて兵と共に話をする将が多くいる。しかし、自尊心の高い能元はそのような事はせずに来た。

 上から馬に乗って俺に付いて来いというような形を取っている。確かにそれ相応の実力があり、勲功があるのならそれも良いだろう。

 若い能元にそれがあるかと聞かれると答えは言うまでもない。

 無理な事をしてまで自分の実力を見せようとして失敗し、その後も将としてやってはならない失態を犯して醜い言い訳を続けていた。

 藤資の死に関係もあるにもかかわらず、今も変わらず上杉の勝利に時間を掛けていらぬ犠牲を払った罪の意識が無い。

 

「あなたはまだ若い。それに、教育が必要と判断したのは先達の皆様方だ。謙信様も反対しなかったぞ」

「貴様が上から物を言える立場なのか? 定満殿と政景殿の死を止められなかった。どうせ二人が死ねば自分の地位が上がるからと思って見殺しにしたんだろう? 俺には分かる。貴様は以前謀反を起こしたからなぁ、どうなんだ?」

 

 嘲るような口調で答えろと言わんばかりに気持ち悪い笑みを浮かべる能元に一瞬だけ龍兵衛は殺意を覚えた。

 かつてのことを何も知らない輩にこうまで言われたのは初めてで、ここまで腹が立つとは思わなかった。しかし、それだけで龍兵衛は怒りを収めてそれを吐き出すように溜め息はつく。

 

「以前は以前、今は今。確かに自分もそのようなことをした。自分の事を棚に上げて、いらぬ讒言で他人を貶めようとする・・・・・・」

 

 相変わらず勝ち誇った目をしている能元に龍兵衛は喉を鳴らして笑った後、すぐに表情が抜け落ちて無表情になると目を見開いて声を上げた。

 

「救いようの無い馬鹿だな!!」

 

 その言葉に能元は理性を失い、自分の中にある怒りの全てを龍兵衛にぶつけた。

 

「何だと!? 貴様こそ、その罪を認めていないではないか!?」

「自分は既に罪を認めて謹慎をしていた。謙信様もそれで自分を許された。これを否定すれば謙信様のお考えを否定することになるぞ?」 

 

 謙信を盾に出した龍兵衛に能元も言葉が詰まる。それに乗じて龍兵衛は畳み掛ける。

 

「自分は能元殿と違って自分を認める事が出来る。能元殿は皆と違って自分を認められない。だから、この出仕なんだ。誰が何と言おうと決まった事。あなたの家臣からの承諾も得ている。敬愛する兄を越えたいのなら、少しは苦しみを知れ」

 

 何か言ってやろうと思ったが、これ以上抗っても言い返せないと悟り、顔を真っ赤にした能元は何も言わずに出て行く。

 龍兵衛の物言いには我慢が出来ない。しかし、それで逃げ出している以上は当たりを言われた事を認めているようなものだが、彼は決して認めない。

 廊下を歩いていると他の家臣からの視線が自分に向けられている。知った人はやはり自分はまだ若いと思い、自分が何を言おうとも龍兵衛のように追い返すに違いない。

 

「(見ていろ。必ず見返してやる)」

 

 今は我慢だ。そう思いながら能元は自室に向かった。

 一方、思いっ切り開け放しで能元が出て行った龍兵衛の部屋には入れ替わるように兼続がやってきた。

 

「随分な物言いだったな」

「なんだ、聞いてたのか?」

 

 公の顔から私の顔に変えて兼続に茶を出そうとするが、結構と止められる。先程の謙信が能元に命を下した時、龍兵衛と共にいたのは兼続だった。

 

「お前が盗み聞きとは、らしくないな」

「なっ!? 人聞きの悪い事を言うな! 聞こえたから仕方ないだろう!」

「それが盗み聞きだってぇの。その時にここにいなけりゃ良かったのに」

「何、私が悪いみたいに言うんだ!」

「悪いでしょ?」

「何!?」

 

 内心にやにやと笑っているのを表情に出ないよう必死に押し隠して真顔で受け答える。

 

「冗談だよ、兼続も少しは覚えろ」

「ぐっ・・・・・・言い返せない」

 

 苦虫をつぶしたような顔に今度は顔と口に出して笑う。しかし、兼続が顔を真っ赤にしかけているのを見て即座に引っ込めて手を上げる。

 

「はいはい、抑えて。それにしても、お前があんな事を言うとはな」

「何か変か?」

「うん」

「認めるのか!?」

「そりゃあ・・・・・・」

 

 龍兵衛は言葉を繋ぎながらもその時のことを思い出す。まさか兼続が言い出すとは思わなかったので龍兵衛は謙信達の顔を頭に浮かべて笑いを抑えるのに必死だった。

 

 

 

「安田殿は春日山に置いておいた方がいいのでは?」

 

 そう言い出したのは兼続である。龍兵衛と進めていた仕事の報告に謙信の下を訪れた時の事。唐突にその事を言い出した。

 

「安田殿は先の戦以降、不満を募らせています。しかし、それ以上に安田殿の家臣は安田殿に不満を持っています」

 

 その為に能元を春日山に残しておいてしばらくは若い能元に将たる者の真を様々な将がいる春日山で学ばせるという事だ。

 

「・・・・・・という表向きの理由で、本来は安田殿を春日山に縛り付ける事で安田殿の動向を窺うのが本来の目的です」

 

 先の戦以降の言動から能元が謀反を企んでいるのでは、という疑いが出てくるのは当然の事である。謙信は気にしてはいないのだが、他の家臣から見ると由々しき事態である。

 その不安を取り除く事で要らぬ対立も防ごうとする考えだ。しかし、毛嫌いにしている颯馬や龍兵衛が身近にいる時が増えるのはどうか。

 

「自分も颯馬もそれほど気にしていません」

 

 確信がある龍兵衛に迷いはない。そして、謙信は能元を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「その時の謙信様は目と口で丸を作っていたよ」

「私は気がつかなかったぞ」

「謙信様に力説するのに意識が行ってたからな」

 

 暗に他方面には目が行ってなかったというような物言いに気付いた兼続が食ってかかるのを抑えると龍兵衛はからかうのは止めて真面目な表情に戻す。

 

「謀反が無いと言い切れる謙信様のような人を見る目が全員にあれば話は変わるんだが・・・・・・」

「どだい無理な話だな」

 

 きっぱりと兼続は言い切って納得したように頷く。兼続も別に謙信を疑っている訳ではないが、軍師として最低限の処置というものはしておくべきだと考えたのだ。

 

「話を戻すがやはり言い過ぎではないか?」

「あれぐらい言わないと発奮しないだろう。毛利の坊ちゃまは」

 

 龍兵衛の言い方は悪いが、兼続は否定しない。実際に能元をそういうふうに見ている人がほとんどである。

 

「これからなら逆にああ言っておいた方が結構いい方向に行ってくれたりするもんだ」

「私はそのような立場になった事が無いから何とも言えんが・・・・・・」

「それはお互い様だよ」

「おい、どういうことだ?」

 

 兼続は少し怒ったように言ってくるが、龍兵衛は兼続を大人しく宥めておく。

 その内心、彼には確信があった。あのような気難しい性格には発破をかけるのが良い。

 

「俺達は自分達の命だけでなく、他の命も預かっている。その重い重責を上杉の中で分かっていないのはあれだけだ」

「それを分からせない限り、兵達の不満を安田殿は知らず知らずの内に背負う事になる。だが、教えるのではなく、自らが分からない限りは到底無理という事か」

 

 二人は言葉を繋ぎ首肯し合う。全ては上杉の為、そして、能元の為でもあるのだ。

 能元の話はそれで終わり、今度は先程の謙信との話となった。仕事については二人が分担して行う事にして後は世間話となった。

 

「それにしても、私が言ったらどうしてあんな空気になったんだ?」

「お前はどちらかというと戦略、戦術の軍師だろ。こういったのは俺や颯馬の領分だから謙信様もまさかと思ったんだろう」

「私はそんなに向いていないか?」

「ああ・・・・・・」

 

 何故か龍兵衛は口元を吊り上げて、兼続に指をびしっと指す。

 

「性格だ!」

「何!?」

 

 わざと大きい声で言うと案の定、兼続は腰を上げて食いついてきた。

 

「私の性格のどこが向いていないと言うんだ!」

「その感情的なところさ!」

 

 はっきりと心に食らわせられたことを言われて琴線に触れた兼続は腰を落として戦闘体勢に入る。

 それに釣られて龍兵衛も立ち上がってつり目を細めて集中して兼続の動きを見る。

 内心、ちょっとした悪戯心となかなかの後悔と大きな面白いと思う心があるのは今更言えない。

  

「それほど私を怒らせたいのか?」

「最近慶次が何もしないから暴れられねぇんだよ」

「ほう、奇遇だな・・・・・・私もだ・・・・・・その台詞を吐いた事、後悔させてやる!」

「ふん! 返り討ちにしてやるよ!」

 

 素手で殴り合う二人の試合はお互いに軍師ではあるが、互いに武にも通じている為になかなかの熱戦となった。

 兼続の顔面に龍兵衛の拳が入ったと思いきや兼続はそれをひらりとかわして裏拳で龍兵衛のみぞおちに一撃を食らわせようとする。しかし、龍兵衛は兼続の手を殴りかかった方とは逆の手で兼続の勢いを抑える。

 しばらくそのようなことを続けている内にうるさいと思ってやってきた弥太郎に止められるまで続き、二人は続けてやって来た謙信にこっぴどく叱られた。

 四半刻程叱られて龍兵衛と兼続は互いに互いを睨みつつも弥太郎の監視下で大人しく退散して行った。

 

「まったく。兼続といい、龍兵衛といい、お前といい、何でそこまで喧嘩が絶えないんだか」

「俺も含むな。それに別に毎日言い争っている訳じゃないだろう」

 

 疲れた顔をして出て行った二人を見送った後、やってきた颯馬に口が軽くなって謙信は愚痴を言ってしまう。

 

「それにしても、私達は随分と大きくなったものだ」

 

 本国越後に会津、南羽州と南奥州の一部。国力は京や畿内などに比べたら微々たるものだが、領域は広い。それ故に反発する者の抵抗も大きくなっている。良い例が越中と同時期に起きた先の戦だ。

 

「今更感慨に耽る事じゃないだろう? 今回はまだ序の口なのかもしれない」

「あれがか? それじゃあ何度命を落とす事になる?」

 

 謙信は笑っているが、心は全く笑っていない。それほど先の戦は謙信でさえも恐怖を感じていたのだ。そこで払った犠牲は多大なものでしばらくは派兵など出来るような状態ではない。今、上杉に出来るのは静をもって動を制すること。

 だが、行えるのはいざという時に派兵を出来る力と状態を持っているからこそである。今はその状態ではなく、いつ攻められても対応できるかは分からない。

 その一方で、やられっぱなしというのも面白いものではない。

 

「しばらくは耐えだな」

「ですが、軍師から見ると秋田と阿仁鉱山はなるべく早く奪還するべきです」

「それは『全員』の意見か?」

 

 颯馬は即座に肯定する。『全員』とは軍師達の意見が一致した時の一つの暗語のようなものである。全員が政策の為の金を求めている。その為に阿仁鉱山は絶対に欲しい。

 

「何か良策は?」

「まだですが、全員が頭を搾っているところです」

 

 時は人の中を回り、止まる事は無い。他の勢力に目が行く事が出来なかったその間の穴を埋めなければならない為、過去の一つの恐怖にすがりついているわけにはいかない。

 忘れるべきものを頭から叩き出して謙信は次なる政策を練り始めた。

 

 

 

 

 人の一生の中で家族と一緒にいられる時間はあっという間であり、気がつくのは年老いてからである。しかし、辛い別れを体験すれば若い頃からその思いを抱く者もいる。

 家族との別れ。その先にあるのは復讐の感情を押し潰され、心が衰退した者。それを乗り越えて全てを受け入れて複雑な感情の中に人を想う者と様々な形で気付かされる。

 前者は今は我慢を覚え、自尊心を崩さずに起きる出来事全てを試練と受け入れて耐えている。様々な性格の人々と会い、合わない人であっても話すのに耐えている。

 一方の後者は今、他人の部屋でゆったりとしていた。

 

「すぅ・・・・・・」

「人が仕事している時に我が物顔で上がり込んできたと思ったら、すぐに寝てまぁ、自分の部屋で寝ろってぇの・・・・・・」

 

 しかめっ面の顔と毒のある愚痴とは裏腹に内心は仕事に忙殺されている身体がかなり癒されているので叩き起こす事は出来ない。

 時は夕刻、今の時期は春の雪解けと同時に始める政策の為の準備で忙しい。その多忙さに軍師だけでなく、朝信や親憲などの政務にも通じる将にも多忙という波が岩に当たって飛び散っている。

 

「さっさと終わらせんと・・・・・・」

 

 集中し直すが、机の書と格闘して早数刻経っているのとその前まで兼続と戦っていた為に疲労感が出て来た。

 結局二つ三つの書に目を通して色々と手直しをしたところで筆が止まった。

 

「今日はもういいか・・・・・・」

 

 基本的に朝方の為に人よりは早く仕事に打ち込み始めるので他の軍師と仕事に差異が出るなんて事はない。

 それに気付かず太平楽な寝息を立てている恋人を見ると自分も眠くなってくる。しかし、それを見られたら要らんことになりそうなので気合いで眠気を吹き飛ばした。

 その代わりに寝ている恋人の頭を撫でさせてもらっているのに文句はあるまい。

 

「(不思議なものだ・・・・・・)」

 

 男は父の命を狙っていた。彼は直接は関わらなかったが、罪悪感に苛まれていた。

 かつて男は同じような事を行った。その成功した喜びの代償として自らの心とかつて愛した女性の心に穴を空けた。

 しかし、男は他の女性によって気付かされた。何であの日からかつて愛した女性は心を鬱ぐようになったのか。

 全ての感情の中にある複雑怪奇なもの。その感情はこの世の中全ての常識からは逸脱し、良い意味でも悪い意味でも人を裏切る。

 気がつかなかったその男は悩み、気付いた時には今の恋人に感謝をかつての恋人に詫びを心の中で入れた。

 それはそれで良かった。だが、新たな問題が男に出来た。

 

「(偽りではない筈なのに・・・・・・)」

 

 解きほぐした心の糸から出て来たのはかつての恋人へのむずかゆい感情。そして、今の恋人へのどこか申し訳ない気持ち。

 解きほぐした事によって蘇った蘇らなくて良かった心が身体中をよぎる。

 何故今になって過去の想いが蘇るのか。切るべきものは切った。しかし、意味も分からずに徐々に戻ってくる。

 

「俺にもまだ人の心があったという事か・・・・・・」

 

 それはそれで嬉しいが、気付いて良いものと悪いものがある。今までは何だったのかという人間が原点に戻るような思考になっても困る。

 今は純粋になって目の前で寝ている女性と愛し合っているのがその男、龍兵衛の人としての喜びである。

 

「純粋か・・・・・・こんなふうにしていられたのは・・・・・・あれ?」

 

 おかしいと思いつつも頭の中を必死に探すが、思い出せない。記憶力には絶対の自信がある自分が忘れられない記憶を呼び戻す事が出来ない。

 分からない。幼少期の純粋無垢な時の思い出と心を思い出せない。

 

「(何故・・・・・・)」

 

 その後、龍兵衛は景勝を起こして強引に帰らせる間も眠りに就くまでの間も思い出そうとしたが、何も浮かんでこなかった。

 

「(何故だ・・・・・・)」

 

 翌朝は別のことが原因で目覚めが悪くなりそうだ。

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