外間香代こと由布惟信がこの世界に来たのは因縁によるものだったのか。それともただの神の悪戯だったのか。
今となっては分からない。だが、当初の彼女は自身の不運を呪い、神を呪った。
人の着ていた物を盗み出して物陰で着替えている時にその出会いはあった。あの時に出会った金髪の女性。彼女こそが惟信の大元の主君となり、最大の恩人になるとは夢にも思わなかった。
惟信は九州探題の職を幕府から授かった大友家の中では家というしがらみがあるのは十分に分かっていた。しかし、何年もの修行の末にそのしがらみを越えることが出来た。
宗麟や道雪、紹運といった大の付くほどの先達や宗茂という家格という垣根を越えた友。彼女達によって惟信は数少ない叩き上げの将として生きるようになった。
しかし、功を立てて行く毎に惟信の脳裏には彼女が初めて愛した男の顔が浮かび上がっていた。二度と会えぬと思っていたあの時まで、惟信はその募らせていた思いが背中にのしかかっていた。
故にあの時、河田長親となり、龍兵衛という架空の通称を持った彼に出会った時の心にあったしこりが飛び出すような解放感は今までにあったことではなかった。
会えた事にただ純粋に嬉しかった。一方で自分を見つめる目がかつてのものとは違っていることも分かっていた。
「よりを・・・・・・戻す事・・・・・・出来ないの?」
未練がましいと分かっていた。思い切った発言であったことは分かっていた。しかし、聞かずにはいられなかった。確かに首を横に振られた時には内心がっくりとした。
それでも因縁の友として、腐れ縁としていることは認めてくれた。
それだけでも分かっただけで惟信は嬉しかった。何故なら彼女の全てを知った上で受け入れてくれたのは龍兵衛ただ一人なのだから。
とある陣の隅で立っていた惟信は風に吹かれる長い茶髪がかった黒い髪をうるさそうに束ねながら春の暖かい日差しを降り注がせる太陽を大して眩しそうにせずに眺めている。雲の流れが風に流れて遊ぶように動いている。その雲がたまに太陽の日差しを邪魔しながら流れていくのを惟信は訳もなく見ていた。
「『時の流れは止まらずに流れたい方に流れていく。それは全て気分次第。楽しくもあれば美しくもある。それでも風のように無情でもあり、残酷でもある。止まることをまるで知らずに流れている。それでも人は全てを受け止めようとはしない』」
「ふふっ、それは愛しい人の詩ですか?」
「い、いたんですか?」
後ろから愛用の黒戸次を器用に扱い音も立てずに近付いて、クスクスと面白いものを見つけたように笑いながら近付いて来る道雪に顔を赤らめてしまう。それを見た道雪はそらきたと悪戯っぽい笑みを浮かべて畳み掛ける。
「まったく、紹運も宗茂もそうですが。本当に嘘が下手ですね」
「ち、違います。いきなり道雪様が来るから驚いただけです」
「何を言っているのです? 私はずっとここにいましたよ」
「え、嘘ですよね? 絶対嘘ですよね!?」
「ほほほほ」
「笑って誤魔化さないで下さい!」
上洛から帰ってきてからというもの惟信は龍兵衛との関係がバレてしまい何かとからかわれるようになっている。しかも帰ってきた初日の夕餉が赤飯だったりと宗麟主導の悪戯に振り回されている。
別れたと口を酸っぱくして言ってきたのに聞いてくれない宗麟に惟信はとうとう道雪の下に泣きついた。しかし、それがまたまずかったりする。
惟信は道雪が宗麟を説教してくれると思っていたのだが、残念ながら道雪は逆に「主君である私を差し置いてなんてことをしているのですか」と結局はますますからかわれる羽目になり、道雪の嬉しくないもう一つの顔を知って今に至る。
「まぁ、からかうのは後にして」
「それを止めて下さい!」
「あなたがそんな詩を諳んじる事がありませんからね」
「うぐ・・・・・・」
無視されて軽く凹んだ後にらしくないことをした為に言い返せない状況になった。
はっきり言えば道雪からすれば惟信はちょろすぎる。義妹の紹運と同じくらいの反応を見せてくれるのでどちらかがいない時はどちらかをからかうのが最近の道雪の楽しみでもある。
なので、もちろん二人揃った時には二人同時にいい反応をしてくれるのでそれが最も楽しいのだが。
「紹運は左翼の指揮をしているので・・・・・・残念です」
「後で一緒にからかおうという腹ですね・・・・・・というか、道雪様。邪念を持たずに戦に行くようにと仰ったのは道雪様でしょう?」
「主として恋に燃える家臣の気持ちを落ち着かせるのも務めですよ」
「いやいやいやいや、燃えていませんし! それに全然落ち着かないですから!」
顔をさらに赤くして手を思いっ切り左右に振って抗議する惟信を見て道雪はさらにクスクスと笑っていた。
戦は難しい。道雪からすれば戦前に気を引き締めすぎてガッチガチになっている惟信の気を緩める為にやった事だが、少し薬が効き過ぎたようだ。
「隆信は勢福寺を本陣として城外に陣を敷いています。先鋒に龍造寺四天王筆頭の成松信勝を置いている以上、向こうもこちらが本気であることを知っていると見て良いでしょう」
紅の髪を束ねた長身の女性、吉弘紹運の報告の後に誰も続けて話そうとする者は誰もいない。宗麟自らの龍造寺討伐ということで軍議の間にもかなりの緊張感が漂っている。
家臣達はじっと主君を見てその判断を仰ぐ構えである。当の本人はそのような視線を気にもせずに大して暑くもないのに扇子で自分を仰いでいる。しかし、その姿を止める者は誰もいない。
何故ならこの様は宗麟が頭の中で自身の軍をいかにして勝利へと導くかを考えているからである。
分かる者は分かるが、今の宗麟の目は目の前にいる家臣達に向いておらず。これからの戦に向いている。しかし、その思考の中で出た結論をすぐさま全員に出すことはない。
思考を終えた宗麟は先ず家臣の最上位にいる人物に目を向けた。
「道雪、あなたはどう思う?」
「そうですね・・・・・・」
その言葉を待っていたかのように道雪は閉じていた目をゆっくりと開き、自らの考えを宗麟に申し上げる。
「龍造寺は主君の隆信以下かなりの剛の者が揃っています。さらに、軍師の鍋島直茂もかなりの切れ者。兵力はこちらが上とはいえ、油断は禁物です」
道雪は一旦ここで区切ると将達を見回す。首を捻り考える者やさらなる道雪の言葉を待つ者と十人十色の反応が道雪の目に入る。
「兵法には拙速こそが勝利への道とあります。しかし、ここは確実に地固めをしていくべきかと」
「先ずは勢福寺の外に構える陣を叩いて士気を下げ、そこから勢福寺を落とすわけね?」
道雪が肯定すると宗麟はまた考える。
「毛利が背後に来ることは?」
「それはないでしょう。草からの報告によると尼子との決戦に入ったようです」
「伊東が島津と手を組むというのは・・・・・・無いわね?」
当然の事だと道雪以外の諸将も頷く。伊東と島津は何度も日向の地を巡って戦ってきた。今更手を組もうなんて考えはお互いには無い。
「石宗、あなたはどう?」
今度は道雪の真向かいに座る男性の一人の将に全員の目が向けられる。着込みの上に僧衣を着用し、頭を丸めている為に誰もが僧であることは分かる。しかし、穏やかなその鋭い眼光から出される気は全てを見抜く力を持っていた。
角隈石宗。
軍師として大友家をここまで大きくした功労者の一人である。
「私が思いますに、龍造寺隆信という者が『肥前の熊』と言われる由縁は決断力に長けており、一度決めたことはすぐに行動に移すからです。されど隆信にはもう一つその理由があります」
「なに?」
「隆信はかつての経験から疑心暗鬼に掛かりやすい性格で腹心以外の者には冷たく接しております。そして、疑った者は迷いなく・・・・・・首を斬る」
そう言いながら石宗はすっと自身の首を斬るように指を動かす。
「離間の計ですか?」
「お察しのとおり」
道雪は二度三度頷き、少し眉を潜めた。どこか不満げなところがあるように見える。
「反対ね」
そう言ったのは道雪ではなく、宗麟だった。その言葉を皮切りにあちこちから反対の声が上がる。
「石宗が言いたいことも分かるけど、その考えは同調出来ない。万が一にも失敗すれば今後に響くわ」
幕府から九州探題の職を拝命している大友家がそのようなことをするという噂が流れるのは幕府の名も汚すことになる。
「申し訳ありません。私も実際にそのような策を宗麟様が使おうなどとは考えておりませんでした。ですが、相手は数が下回っているのを知っていて城外に布陣しております。そのいざという時の最後の切り札としてこの策があることをお忘れなく」
「そうならないようにしないとね。紹運、宗茂あなた達は先鋒を頼むわね」
「「御意」」
紹運ともう一人、まだ道雪や紹運と見比べれば、未熟なところがあるが、その武勇は引けを取らない。黒い髪を義母である道雪のように長く伸ばした女性。
立花宗茂
道雪と紹運の下で将としての心得を学んだ大友家の将来を担う人物として期待されている。
ちなみに惟信とは当初から互いに気の合うところがある為に『私』の場では互いに敬語を外して笑いあう仲でもある。
そして、この龍造寺討伐は二人揃って戦う初めての戦でもあった。
一方龍造寺軍では当主の隆信と軍師の直茂が二人で陣幕に座っていた。
「直茂、本当にいいの?」
「隆信様らしくないですね。せっかくの機会だというのに」
隆信は不安げな様子である。このような隆信は長らく共にいる直茂もあまり見たことが無いのである意味新鮮なものを見た気がする。
「いくら何でもこの数の差は私でも考えるって」
五千の内から勢福寺城に一千を残して四千の兵が城原川に駐屯している。大友軍先鋒は一万五千、包囲されればひとたまりもない。しかし、直茂の目に曇りはなかった。
「うぬぼれかもしれませんが、この私が必ず止めてみせますよ」
普段は謙虚な直茂のこの大胆な発言に一旦硬直した隆信だが、我に返ると彼女の肩をぐわしと掴み、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「さっすが、直茂! じゃあ私達はその策に乗じて暴れられる訳ね」
「ほどほどにお願いしますよ」
一応の諫言はしておくが、自身の策に期待を寄せてくる主君に直茂も悪い感情は持たなかった。
勢福寺城
かつては守護大名である少武氏の居城だったが、肥前統一を目指す龍造寺隆信がこれを攻めた。このとき少武氏当主少弐冬尚は西島城の横岳氏の所にいて、勢福寺城は重臣の江上武種が守っていたが落城した。しかし、武種は間もなく冬尚を擁して勢福寺城を回復する。だが、再び隆信に攻められ、蓮池城主の小田政光が討死するなど激戦となったが、一旦和議が結ばれた。しかし、翌年龍造寺隆信は和議を破棄して勢福寺城を攻め、少弐冬尚を自刃に追い込み少弐氏は滅亡した。
少弐氏が滅亡した後は隆信に降った江上武種が城主となり今に至る。勢福寺城は大友家との戦線を維持する為には必ず守らなければならない城で落とされれば隆信の居城である佐賀城は目の前になってしまう。
逆に言えば、大友家はここを落とすことで肥前の反龍造寺派を取り込むことが出来る。そうなれば、音に聞こえた隆信も窮地に立たせられる。
隆信は大友家と呼応した有馬、大村を抑える為に四天王の百武賢兼と江里口信常を双方の討伐に当て、自らは大友との決戦をするべく勢福寺城城外の城原川に布陣した。
その報告を受けた大友軍は総勢四万の大軍を城原川に向かわせ、高橋紹運・立花宗茂の先鋒隊に一万五千の兵を当てた。対する龍造寺軍は僅か五千。
「ここは数もこちらが上ですからやはり一気に叩いてしまうのが良いのでは?」
当然のように宗茂は強行策を主張する。だが、紹運の首は縦には振られない。この龍造寺討伐は隆信の早い領地拡大を危惧した周辺の国人衆と宗麟が同調した上でかなり早め早めで出陣が決められた。
簡単に言えば準備と情報が不足しているのである。さらに紹運は高橋家を継いでから日数がさほど経っていない為、旧臣達との足並みもまだ微妙なところを辿っている状態なので急いて事を仕損じては今後に大きく響きかねない。
「どこもかしこも今後を考えていかないといけないとは、まったく面倒な事ばかりだ・・・・・・」
大きすぎる独り言に宗茂も苦笑いを浮かべるしかない。
「焦ることは無いが、黙って正攻法では敵の思う壺だ。宗茂は五千の兵を連れて雲上城を取れ。その後すぐに勢福寺南東砦を攻めるのだ。その間に私は龍造寺軍の本隊に攻めかかる」
龍造寺家軍師の鍋島直茂は石宗曰わく私よりも戦には長けているそうだ。ここは数に任せるよりもあえて虚を突く方が良い。紹運の説明に宗茂は頷くとすぐに動き始めた。
しかし三日後の朝、紹運に驚くべき報告が入ってきた。
『勢福寺に龍造寺軍の姿無し。佐賀城に退却した模様』
「どういうことだ?」
「宗茂様は雲上に到着次第直ちに城を攻めましたが、すでにもぬけの殻で、そこから勢福寺南東砦に向かうとそこも人一人いない様、おかしいと思った宗茂様は勢福寺城に草を放ったのです」
「それでこの報告か・・・・・・」
あえて本城に兵を集めて戦力を集中させようというつもりなのか。しかし、援軍が無い籠城に意味は無い。第一に武勇で名が通っている隆信が自身の動きを制御する籠城を選択することがおかしい。
だとすればこのような事をさせる可能性を持っているのはただ一人、鍋島直茂しかいない。石宗が言っていた事に間違いはない。
そう判断した紹運はすぐに宗茂を撤退させて本隊に伝令を出した。
宗麟は報告が届いてすぐに石宗を呼んだ。
「なるほど・・・・・・こう来ましたか・・・・・・」
「何か分かる?」
「おそらく直茂は我々を佐賀城に引き付けて慣れた地にて決戦をすることを選んだのです。勢福寺に兵を送るよりは佐賀の方が兵も多く集まります」
僅かに首を上下に揺らしながら石宗は納得したように頷きながら説明する。その言葉に宗麟と道雪も納得したようだ。
「微々たる兵も時にはそれが勝敗を分けることもありますからね」
「左様、そうなると我々は早急に兵を佐賀城に向かわせ、ひとまずは佐賀城を包囲しましょう」
道雪は自らの陣幕に律儀にも控えていた惟信に仔細を説明する。
「・・・・・・ということなので、惟信? どうしました?」
「いえ、何でもありません。ちょっと気になる事がありまして」
その真剣な表情に道雪も何かを感じ、いつものようにからかったりはせずにしっかりと耳を澄ませる。
「佐賀を包囲する際に宗麟様はどこに布陣するおつもりなのでしょうか?」
「たしか、佐賀城北にある今山だと思いましたが、それが何か?」
「い、いえ、本当に少し気になっただけです」
そう言って惟信は話を強引に切り上げると道雪の陣幕を辞した。
惟信は別に戦国時代に教養が深い訳ではなかった。しかし、彼女が最もよく知る人がこの時代のことをよく知っていた為にうんざりさせられる程聞かされたので嫌でも知るというものである。
そして、それが役に立つ時が来たのだと感じた。