晩春を過ぎた五月上旬のこと。二つの動きが起きた。
一つは北条が上杉に同盟の使者を密使として送り込んで来た。憲政がかなりの反発を示した。
彼女自身、関東に未練がある訳ではないが、かつて重臣である太田道灌を北条が殺めたことは許せないらしい。
しかし、上杉の他の者達にとってはまたとない機会かもしれないという意見もあれば、慎重に考えるべきだという意見に分かれた。
双方に利点と欠点がある。
まず同盟を結べば東海道を北条が、その後ろを下って上杉が織田を二方面から攻めることが出来る。どちらかが勝つことでそこからむかう負けなしの織田軍全体に影響する。
さらに今の内に織田に勝っておけば今後は失った所領を奪還するのに時間を掛けることも出来る。
欠点は仮に負けた場合が怖い。もしも負けたら立て直す間もなく織田軍は追撃してくるだろう。そもそも上杉にはその余裕はまだ残っていない。
第一に上杉が関東に下るには武田の存在がある。武田は織田とは対立しているとはいえ上杉とはもっと対立している。
先の戦の背後に武田があるのではないかという意見も出る程に上杉の武田に対する不信感は強い。逆もまた真なりで武田も上杉に対する不信感は強い。
次いで同盟を断った場合の利点は上杉の削られた力を取り戻す時間が出来ることだ。先の戦で失ったものは優秀な将三人と何千という兵達。双方の欠落を埋めるのはかなり難しい。
故に、しばらく北条に織田を任せてじっくりと観察させてもらう第三者の立場に立つことで上杉の力を蓄えるべきだとかれらは意見した。
欠点は今後戦うであろう織田との戦いに不利になるかもしれない。これ以上の織田の戦力拡大を指をくわえて見ているのはいかがなものか。
美濃や東海道の豊かな国々とこの冬には九鬼嘉隆の先導で紀伊と南近江の六角という織田は畿内の豊かな国々を着々と併合している。
そもそも将軍家との仲もぎくしゃくし始めている織田を関東管領の上杉が見逃しているのは世間体でよろしくない。そして、将軍家からも織田に警戒するようにとの密書も来ている為に無碍には出来ない。
また背後で椎名がよからぬことをしてくる可能性も高いという危険性もある。
というのが全体の同盟賛成派と反対派のお互いの言い分である。
やはり戦となる可能性が高い為に景家や景資、慶次に長重、兼続辺りが賛成派。逆に親憲や弥太郎といった武将の中でも穏健な人物と颯馬や官兵衛、龍兵衛といった政治的な立場もとっている軍師が反対派を占めていた。そして、かれらは評定にて白熱した議論を繰り広げていた。
「もしこれで中央に遅れたらどうするんだ!?」
「俺は確実に行こうと言っているんだ! 兼続のやり方では危険が大きい」
「颯馬は慎重すぎる! 虎穴に入らずんば虎子は得ることは出来んぞ!」
「「ぎいいいぃぃぃ」」
他にも賛成派と反対派が文字通りあっちこっちで議論を白熱させる中で謙信と景勝は静かにそれを見ているだけ、他家の面々は目を動かして呆然とその様を見届けることしか出来ない。
特に新しく降った伊達家の面々は先に降ってこういった光景を何度も見て慣れていてじっと茶を飲んで待っている蘆名や夕飯に鮭が出ないかなと思っている最上に比べて目が点になっている。
成実においてはあっちこっちに目を動かしすぎてそろそろ目が回り始める頃になっている。
「な、なぁ、謙信殿、放っておいていいのか?」
政宗が勇気を出して謙信に近付きそっと聞くが当の本人はどこ吹く風。さして気にしないようにただただ眺めている。
「まぁ、いつものことだ。もうしばらくはこうさせておこう」
「(うんうん)」
隣の景勝も同意だというように少し笑いながら頷いている。しかも、その表情にはこの状況をどうするのかという危機感よりもむしろ楽しそうに眺めている二人の姿がある。
「・・・・・・本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。まったく、盛隆ももがみんもそうだったが、そんなに心配することでは無いというのに」
ぼそっと言ったつもりなのに聞き取られたことに驚きながらも謙信から出てきた発言に政宗は溜め息を吐きたくなった。
義守は謙信の口の動きに違和感を感じたようで訝しげに目を謙信に走らせて首を傾げている。
「(それは絶対に変なごたごたが起きると不安になったからだと思うぞ)」
政宗の心配をよそに、相変わらず謙信と景勝は涼しい顔をしている。それは別にこれで表立った対立が出る訳ではない。上杉の結束力は高いことを知っているからである。
そして、伊達家も着実に毒されていくであろうことも謙信は予想出来ていたのは彼女の内心だけの話。
なんやかんやで半刻が経ち、将達が言い争うのに疲れてきたところを見計らって謙信はようやく口を開き始めた。
ひとまず北条と手を組むことは得策でもある。しかし、すぐに戦おうとすれば間違いなく織田から圧迫を受けている武田は空いた越後に活路を求めてやってくる。
「つまるところ、同盟を組もうが組まないが、損益は変わらないということだ」
「謙信様は同盟は組んでも動かないと?」
颯馬の質問に謙信は如何にもと頷く。謙信とて中央に出たいのは山々だが、今はあくまでも確実な勢力拡大が第一である。
「颯馬はひとまず北条の使者には同盟に承知したと伝えよ。しかし、すぐの出陣は無理だとも伝えておくのだ」
さらに謙信は弥太郎達に兵の鍛練の強化を軍師達には安東と越中の状況を探らせるように命じた。
政宗達外様の者達が去り、上杉の者達だけになった途端、雰囲気が一気に和らいだ。
「謙信様、狙っていたよな?」
軍議が終わったすぐのこと。弥太郎の嫌味ったらしい発言から始まった。
「ん、何のことだ?」
「とぼけなくてもいいですよ。私達を疲れさせて確実に言いくるめようとしていたのは見え見えです」
兼続も弥太郎に負けないぐらいのじとっとした目を謙信に向ける。他の将達も同様にうんうんと頷く。しかし、謙信は肩をすくめてまったく気にもとめない。
「分かっていたのならそなた達で止めればよかっただろうに」
「止まないこと知ってて言ってるわね・・・・・・はぁ、まったくけんけんのそういうところ苦手だわぁ」
「だいたい、景勝様も黙っていないで止めて下さい」
慶次の不満を無視して今度は龍兵衛が矛先を景勝に向ける。景勝に謙信を止めるのは不可能であることは皆が承知済みのこと。それでも、龍兵衛は言わないと腹の虫が収まらなかった。
「抑えられるのは景勝様だけなんですから」
それでも懇願するように龍兵衛は景勝に頭を下げる。しかし、景勝は無理だと左右に首をぶるぶると振る。
何故か指摘されたのに全員から「ですよねー」という目を向けられてしまい景勝はしゅんとしてしまう。
「だったら聞くではない」と謙信も龍兵衛を叱るように言っているが、口元が歪んでいるあたり、駄目である。
結果としては上杉は北条との同盟を締結した。しかし、あくまでもすぐには出陣出来ないということはちゃんと添えておいた。
これで今しばらくは時間が稼げるというものだ。まだ中央ではなく確実に東北を取ることが先である。
ちなみにこれは余談である。
「(ぷいっ・・・・・・)」
「すみませんでしたぁ!」
理不尽にも龍兵衛に謙信を止めるように苦言を呈された景勝は皆から哀れそうな目で見られたことにご立腹であとでこれを察した龍兵衛が謝りに行ったが、景勝は完全に拗ねてしまい土下座をしてもなかなか許してくれなかったそうだ。
二ヶ月後、織田軍がいよいよ信越地方に本格的な侵攻を開始した。織田はひとまず武田領に進軍を始めた。
伸びきった戦線を断たれるのを恐れた当然の戦略といえる。今頃は武田の高遠城にでも侵攻を開始したあたりであろう。密偵からの報告では徳川・今川には東海道から下山城を攻略するように命じたらしい。
「武田は騎馬隊が主力。おそらく平野部での戦を望むでしょうね」
「でも、甲斐にそんなところ少ないでしょ? あたしだったら山の上から攻めるね」
報告を聞いて廊下で他人事のように話している師弟は武田が勝つ確率は低いということを知っている。
「おそらく織田は相手が騎馬隊ということで虚を突いた戦法を取るでしょう」
「もし、それが封じられても火縄で馬を制御不能にさせる。か」
「間違いなくそうでしょう・・・・・・自分の知るところですからね」
薄く笑う龍兵衛に官兵衛も納得したように頷く。そして、官兵衛は間違いなく武田は敗れると確信したように溜め息を吐いた。
「まぁ、半兵衛ちゃんもいることだし、織田が負けることはないか」
「とりあえず勝とうが負けようがあのゴミには消えてもらいたいですけどね」
「それは皆が思っていること」
それは二人に一致する憎悪の念。張り倒してやりたいという衝動に駆られる。頭にその姿が見えるだけで怒りが込み上げて叫びたくなる。
しかし、そこはぐっと我慢する。斎藤での一件を知られるのは自身達の首に影響しかねない問題なのだから。
だが、今は織田と武田の戦よりも主家のことを考えなくてはならない。
「(もし仮に武田があっけなく敗れた場合、上杉は失った領地を取り戻す猶予が無くなる。武田がそうなるとは考え難い。だが、秋田の阿仁を奪還するには少し越中に仁義を切っておかないとな・・・・・・)孝さん、後で少々お時間をよろしいですかね?」
「越中のことならいつでもどうぞ。颯馬と兼続も呼んでおいてね」
「まじかよ・・・・・・」
考えていたことを完全に見抜かれたことに素になってしまった龍兵衛を見て官兵衛はけらけらと笑う。怒った龍兵衛が官兵衛の頭を殴って逃げて行く。突然のことで一瞬、頭が真っ白になった官兵衛だが、すぐに覚醒すると出来たたんこぶを押さえながらも追い掛ける。
一見愉快そうだが、二人の心境はまったくの真逆なものであり、暗い感情を押し殺しているに過ぎない。
せめてもの救いは天気が良く晴れていることのみ。
「なるほど・・・・・・分かりました」
早雲はゆっくり頷くとその報告と書状から目を離す。そして、怒りをかみ殺したような溜め息を吐くとその書状を燃やした。
「時間がいる? この私も舐められたものですね。見え見えですよ謙信殿。我ら北条に全て任せることは」
だが、気持ちも分からなくはない。上洛帰りに起きた上杉と北陸の反上杉の同盟軍との戦は諸勢力にも行き渡っている。
もし早雲が謙信の立場であれば時間がもう少しいるというのは分かっている。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない筈なのだ。織田という脅威が畿内からやって来ているというのにどうしてこうも危機感が無いのか。
だが、危機感が無ければ越後統一の際にその波に飲み込まれていた筈。足掛かりがあまりなかったところはかつての長尾と北条は一致している。
故にそのような状況からここまで上杉を大きくした謙信の手腕を早雲は高く評価はしていた。
早雲にしろ謙信にしろ願うのは民の平穏。しかし、その為には国を欲しなければならない。様々な強かな策も施してきた。
だが、この時代ではその苦労も一日で木っ端微塵に砕け散るもの。故にこの状況はどうにかしないといけない。知らない阿呆は生き残れない。
早雲は口元を直線から少し片側をつり上げると目を閉じながら天井に顔を上へ傾ける。
「ですが、ここにきてこの応答は何かあるようですね・・・・・・まぁ・・・・・・全て思う通りにはさせませんけど・・・・・・」
早雲の眼光は怒りを以て鋭く光る。そのままゆっくりと立ち上がって控えていた小姓に重臣達を集合させるように命じた。