その日は晴れやかに終わる筈だった。
しかし、官兵衛との会話が彼の心に曇りをもたらせた。官兵衛と別れた後、龍兵衛はそのまま景勝の下に向かい、朝のことについて聞いてみた。
「龍兵衛、一番知っている」
部屋に入ってきてから表情が不機嫌なのは相変わらずで龍兵衛を睨んでそれっきりである。
「小手森の事、ではないのですね?」
こくりと頷く景勝の目は「まだ何かあるだろ!?」と語っている。だが、龍兵衛に心当たりはまるでない。それを見て呆れたように溜め息を吐くと景勝はきっと龍兵衛を睨んだ。
「まだ、惟信さん、好き・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・」
当たり、とは口が裂けても言えない。
だが、彼の心に眠っていた純粋な心を景勝が引き出してくれたおかげでこうなったのは事実である。
責任の一端があるとは面と向かって言えないが、ありがたいとも思っていた。
悲観的な自分の感性を少しずつ矯正出来ている。
しかし、まさか彼自身も矯正していく中で彼女への想いが再燃してくるとは思ってもみなかった。
汗がどこからとなく出てくる。下唇を噛み締め、眉間に皺が寄る。
長い沈黙が流れ、何と言って良いのか分からない時間が無情にも過ぎていく。
「龍兵衛、景勝、違くなる?」
「いえ、そんなことは・・・・・・」
以前と同じことを聞かれても龍兵衛は以前と同じようにはっきりとした口調で否定出来ない。
「景勝、龍兵衛、助けたせい?」
その問いには龍兵衛は絶対に否だと首を横に振る。
純粋な心が語るのは壁を越えた自分が本当に愛おしく思っているのはどちらなのだという悪魔の嘲笑うような声による囁き。
更に目の前にいる景勝には喜びを与えることが可能なのかもしれない。しかし、その選択に後悔が無いかと聞かれると口が開かない。
自身が一体、何を愛し、大切に思っているのか龍兵衛自身の中で答えが見つからない。
頭の中で巡り巡る思考。しかし、濁流のように頭はぐるぐる強く回るだけで良い案は全く出てこない。
「(俺の本質さえ分かっていれば・・・・・・)」
分からないから悩む。分からないままにあやふやなことを答えてもいずれは後悔するかもしれない。また、景勝がいる手前でどうすればこの場を凌げるのか分からない。
長い沈黙が続き、互いに口を開かずにかなりの時間が経った。夜はますます更け、虫達が旋律の取れていない合唱を行っている。
「景勝、待つ」
「えっ・・・・・・?」
唐突に景勝が溜め息と共に沈黙を破った。龍兵衛は考えている際に自ずと下がっていた顔を上げ、目を見開いた。
「景勝、龍兵衛、どうするか分からない。でも、待てる。景勝、惟信さん、選ぶの、龍兵衛」
「どれほど掛かるとも分からないのに景勝様は耐えられるのですか? 乱世ではいつどこで何が起きるのか分からないのですよ」
自身が責められるべき立場の筈が、龍兵衛は思わず詰め寄ってしまう。しかし、景勝は大丈夫だとこくりと深く頷いた。
何という純粋な目と寛大な心。
龍兵衛は呻き声を喉で必死に押し下げ、声に出ないように必死になった。
確固たる信念を持つ者だからこそ出来る境地に景勝は既に入っていたということに遅蒔きながら気付かされた。
嬉しいという感情が込み上げるままに本来なら迷いなく抱き締めたい。しかし、龍兵衛は景勝と違い、己を知らない。そのような者が域が超えている者を愛する資格など無い。
「(景勝様と一夜を共にする前に知っていれば・・・・・・)」
悔しさから泣きそうになる。気付くのが遅かったと嘆きたい気持ちもあるが、もう後戻りは出来ない。
「実は、先の戦で謙信様にお叱りを受けました」
『『己』を知れ、そうしなければ軍師としての力も活かすことは出来ない』と・・・・・・」
ありのままに伝えると景勝は驚きながら龍兵衛に笑って頑張るように言ってくれた。
気遣いが寂しい心に水に置いた墨のように染み渡り、暖かい風が吹き込んでくる。笑みを浮かべてくれただけでもありがたいと龍兵衛は泣くのを堪える為、自身も笑う。
だが、解放された自分の心は惟信のことを思っても暖かい風を吹き込んでそれを受け入れてしまう。一方で心に悔しさが込み上げて怒りにもなってきそうなのが龍兵衛の現状である。
「あの、越後と九州、大分遠過ぎますけど本当に良いんですか?」
「大丈夫、待てる」
冗談を言うような砕けた口調で龍兵衛は内心の悲しみを抑えると景勝も胸を張って背中を押してくれる。
早く決めねばならない。その時が来るまでに完全なる自己を確立しなければならない。
贅沢なことを言っているとも言われそうだが、彼にとっては苦悩としか考えられなかった。
景勝はそんな龍兵衛を咎めずにただ優しく見守っていた。
「(間違いない。景勝様は大きくなられる)」
純粋に嬉しい。たとえ非情の選択を強いられる日が来るとしても景勝は受け入れてくれるだろう。
「必ず、自分は一日でも早く『己』を見出します。必ず、決断します」
「ん・・・・・・」
一瞬、悲しそうな表情を浮かべた景勝だが、気遣うこともせずに一礼して立ち上がろうとする。
だが、景勝は何か忘れていたように手を叩くと龍兵衛にもう一度座るように言って表情を穏やかなものから一変、きっと龍兵衛を睨む。
「龍兵衛、弥太郎、慶次、何かした?」
がつんと音がすると龍兵衛がのた打ち回る。
「っつう・・・・・・」
座る前に言われて動揺した龍兵衛は部屋にあった机の角に膝をぶつけてしまった。景勝は気遣いもせずにじっと龍兵衛を見る。
「答える」
嘘を付くことは駄目だと小さな身体からは想像出来ない威圧感が龍兵衛をしっかりと押し包む。
逃げ出したら景勝は性格的に弥太郎か慶次の下に行くだろう。それこそ龍兵衛が一番避けたいことだ。やむを得ないと彼は素直に言うことにする。
「景勝様とこういった関係になる前のことですからね・・・・・・」
そう前置きしてちょっと若気の至りで色々あったのだと正直に白状した。
このようなことをまさか愛する一人の女性に言う日が来るとは夢にも思わなかったが、話さないと駄目な状況に追い詰められているので仕方ない。
最初こそ色々と想像して真っ赤に顔を染めていた景勝も次第に元に戻り、冷静に龍兵衛が正直に話していると認め、彼の話を聞いて安堵の息を吐いた。
ちなみに龍兵衛は何故そうなったのかということは一切言わずにただそうなったとしか言わなかった。
「(言ったら嫌われる)」
その思いを保ち続けた。あれは口が裂けても言えない墓場まで持っていく秘密である。
それでも不安そうな景勝に龍兵衛はどうしたのか聞くと衝撃が強さを押し隠すのに必死になってしまう台詞が返ってきた。
「景勝、薄っぺら。惟信さんみたく、ぽよんぽよんしてない」
「・・・・・・それが、どう関係するのですか?」
「弥太郎、慶次も大きい」
「いや・・・・・・自分、胸にそこまで執着してないですって(前にも言ったような気がするんですが)」
あまりにも正直に言うのはどうなのだろうかと思った龍兵衛だが、向こうもはっきり言っているので少しは気が楽になった。
不安と嫉妬を感じさせたのは間違いない。先日、慶次も女性が嫉妬深いことを言っていた。景勝に思わぬところからとはいえ隠しておきたいことがばれてしまったことは不覚としか言えない。
それについてはちゃんと詫びを入れ、気になったので聞いてみると、それは黒川城での出来事だった。
あの弥太郎と慶次の二次会は所謂一つの猥談話の披露会だったらしく、として颯馬はもちろんのこと、龍兵衛も入っていたそうだ。
「景勝聞いた。龍兵衛、颯馬、弥太郎。慶次に・・・・・・あと、ええと、まず薬、後、縄・・・・・・」
「それ以上言わなくていいです!! (あの馬鹿二人、何話してんだ!?)」
また、顔を真っ赤にして気絶されては後が面倒くさくなる。
主に兼続あたりにばれた時に。二人は本当に戦以外では頼りにしたくない。というかしてはいけない。
それはおいておくとして、景勝はそれで龍兵衛が姦通していると疑いを持った。だが、先程の会話で疑いはすっかり晴れて、心に不安は無くなった。
その景勝に龍兵衛はすっと一歩引いて頭を下げる。心から詫びを入れ、自分の確立を目指す為に前を向く。
「京での誓い、しばらくは保留とさせて頂きます。武士に二言はないと言いますが・・・・・・誠に申し訳御座いません」
「謝らない。景勝、待てる。心配ない」
ただ平身低頭するしかない。
たとえ相手から許すと言われてもそれは景勝の寛大な心があってこそであって、彼自身はそれに付け込むという言い逃れは出来ない不忠をするのだから。
だが、そうしなければ今後探していく『己』を見付ける為に邪魔になると龍兵衛は考えた。
景勝との関係を一旦絶って自分が自然体の立ち位置を作ってからこそ自分が分かると龍兵衛は結論付け、いずれは言わなければと思っていた。このような思いがけない機会がやってくるとは思わなかったが、言わないと何時までもほっといていたかもしれない。
あまり嬉しくない丁度良さだが、やってきた以上は止むを得ない。
やれやれと内心溜め息をこぼして表情を改める。
景勝の目を真っ直ぐ見て決して逸らさないように焦点を合わせる。
「景勝様」
景勝も龍兵衛の目をしっかりと見つめる。感情はお互いに無い。必要ないことをこれから言うのだから当然である。
「しばらく、お一人で考えるお時間を頂きます」
景勝は分かったと言うように一つ頷くと少しだけ笑った。
龍兵衛が部屋を辞するまでの時間はそう長くはなかったが、彼には笑顔が優しく見えた。
部屋から龍兵衛が消えて足音も無くなった途端だった。ぺたんと景勝は座ったままで動かない。
謙信のような母としての母性愛でもなく、慶次のような友としての友情でもない。彼が景勝を包んだのは愛情である。
無論、三つだけではなく他にも様々な感情が景勝の心を支え、新たに兼ね備えた信念となっている。それは揺るぎないものになると景勝は確信した。
しかし、幾数もある感情の中でたった一つのものが無くなった今この時に何故だかぽっかりと穴が開いたような虚無感が景勝の全身に走った。
力を入れて立ち上がろうとしても身体がそれを良しとしない。代わりに景勝を襲ったのはどうしようもない孤独感と悲哀だった。
「ウキー・・・・・・」
一部始終を見ていた猿が励ますように声を掛ける。
その頭を撫でる景勝の手は優しく、いつもと変わりない。しかし、猿はいつもと違う景勝を見た。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「や、景勝、待ちたくない・・・・・・龍兵衛・・・・・・離れたくない」
孤独感による空しさが本音を出した。涙を浮かべる景勝の目には想いを持った女性らしい正直さがあった。
見て聞いて、迷うことはない。猿はするりと景勝の手から逃れると部屋から出て行った。
「ウキッ!」
上杉で知らない者はいない鳴き声が聞こえる。龍兵衛が振り返ると思った通り、足下にそれはいた。
「どうした、猿?」
「キキッ、ウキキッ!」
「景勝様の所に戻れと?」
「ウキッ」
龍兵衛は当然のようにいやいやと首を振って拒否する。だが、猿は「行け行け」と裾を引っ張って聞かない。
今、行ったばかりだというのに何故また行かなければならないと思うが、猿がいやにしつこいので龍兵衛も仕方ないと溜め息を吐いて仕方なしに付いて行く。
行くと戻るとで随分と気分が変わっている。行きづらいのは致し方ないことだ。
景勝に決意したことを言うのに景勝に会えるということで随分と浮かれていた行きと違ってあのようなことを言ったにもかかわらず平気そうに笑顔で見送って激励をくれた景勝が戻る時には彼の心を苦しめ、進む足取りが重くなる。
だが、引き返そうとしても猿が肩から小さい手でぴしっと叩いてくるので行かざるをえない。
ふらふらと蛇行しそうな足に神経を使ってどうにか平静を装って景勝の部屋の前に戻る。
だが、中から聞こえる泣き声が彼の口だけでなく身体全体を動けなくさせた。
「ひぐっ・・・・・・ぐっす・・・・・・」
声を上げて泣いている訳ではない。猿が部屋から出た時に空いた隙間が景勝のすすり泣く声を微かに耳へと届かせた。
「・・・・・・・・・・・・」
「ウキッ」
中に入れと猿が小さく鳴くが、龍兵衛はもう入ったところで何も意味は成さないと察した。
かつて愛は人の感情以上に複雑怪奇なものであると気付いたが、それは誰が相手であろうとも同じことであるとも彼は気付かされていた。
だからこそ、ここで景勝を励ますことは出来ない。一度迷いを抱き、その思いを告げた後、すぐに前言を撤回して中に入れば龍兵衛はますます謙信から指摘されたことを忘れるだろう。
頭を振って行かないと示すと猿が抗議の目を向けるが、指を立てて静かにするよう言うと龍兵衛は部屋に戻った。
歩いている間も部屋で座って考えていても心を鬼にしても龍兵衛の耳から入った景勝の泣き声がずっと脳内でつんざいている。
「さすがにこのまま見捨てるのはあれだな・・・・・・」
部屋に戻ると龍兵衛は持っている手拭いを一枚。それともう一枚、必要な紙を取り出した。
「(何故だか、心がますます軽くなった気がする)」
代わりに心臓の音が激しく鼓動するようになっていた。
景勝は止めなく流れる涙によって霞んだ目の中では彼が与えてくれた幸せが見えていた。
確かに彼は脆く感じる時もあった。それでも強くあろうと自分を追い込んでいた。
それは景勝が一番よく分かっていた。自負があった。だが、実際には龍兵衛は『己』を知らない為に苦悩していたのだ。
分からないから必死に逃げる為に自分を追い込んでいくしか選択肢がなかった。
気付いた。だからこそ景勝は彼を助けたい。しかし、龍兵衛は良しとしないと目で景勝を否定した。
身を貫かれた思いでうなだれる。
かつて龍兵衛が部屋の隅でぐったりともたれていた時も同じだったのかもしれない。
なるほど、確かに一人になるというのは辛い。疲れたというよりはやる気が無くなるような感じである。
気付かされたのは彼女自身も同じだった。
「・・・・・・!」
ふと景勝の目の前に手拭いがぱさりと落ちてきた。
新品同様、丁寧に畳まれたままで、それに続いて猿が戻ってきた。
持っていた真新しい紙片を恭しく差し出すと猿も中身を見ようと景勝の肩に乗る。
『己を知らなかった自分を恨んで下さい。龍兵衛』
「うー・・・・・・」
つくづく馬鹿だと景勝は龍兵衛に対して怒りを、自身には不甲斐なさを感じた。恨んでいるのは気付かなかった自分自身。彼を恨む気などさらさら無い。
だというのに龍兵衛は手紙を使ってさらなる孤独感を持たせようとしている。
この手紙がしばらくの近くて遠い別れを伝えていることを誰もが分かる内容を律儀にも龍兵衛は景勝に送った。
賢い景勝はその返答をするのが良いと考え、思考を巡らせる。
収まりかかっていた涙がまたぽろぽろと床に涙のしみを作った。
「(すごく重い・・・・・・)」
胸を掴むと音は微かにしか聞こえて来なかった。