上杉の章 新たな兵衛   作:北極星

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第八十二話 無い物ねだり

 八月にもなれば稲がすくすくと育ち、秋の収穫時期を徐々に迎える準備を始める。今年は幸いにも残暑も厳しくなく、ゆっくりと秋に向けて農家の人々は米を積める為の俵作りに励んでいる。

 明るい雰囲気が様々な場所で見られ、働く者達は目の前に越後から東北にかけて支配する上杉の軍師がいても恐れる様子はない。それはもちろんその軍師が人々に知られ親しまれているからである。

 彼自身も楽しそうに俵作りをしている。普段の何か企んでいる時から解放されて何も考えずにただ純粋に目の前の作業に励むことが出来る。

 

「やっぱり、農業は良いもんだ・・・・・・」

「ははは、河田様ともあろう御方が何を仰る。謙信様や河田様達のおかげで、儂ら農民は平穏無事に励んでいられるのですよ」

 

 独り言のつもりで呟いた筈が思ったよりも近くに老人がいたので驚いた。向こうも気配なくやって来た訳ではないので少し龍兵衛は気を抜きすぎていたと一人反省する。

 

「自分達は皆さんが気持ち良く作業が出来るように環境を整えているだけですよ。平穏無事にいられるのは畑を耕している皆さんのおかげです」

 

 それらをしっかりと心の中で抑えると表情で軽い笑いを作って誤魔化す。

 本当に越後の民は素晴らしい。謙信の影響を受けてか真面目で理不尽な迫害や差別をしたり、罪を犯した者の家族に村八分の制裁を行ったりしない。

 謙信の尽力もあるし、足繁く現場の状況を見ている上杉の家臣達がそういったことをさせないようにしてきた結果でもある。

 しかし、最終的には現場の人々がやってくれないと意味がない。越後の人々が真面目なおかげでこうした平穏無事な日々を送れることが出来ると龍兵衛はつくづく思っている。 

 楽しそうに笑いあって休憩している人々を見て羨ましいと龍兵衛が一人だけ孤立しているようにも感じてしまう程だ。

 以前なら皆と一緒にバカ騒ぎをしているだろうが、定かではない心が本当にそうして良いのかと問い掛けてくる。

 考えても考えても分からないのだからいっそ羽目を外してみるかと以前の祭りの行動でもある。

 その後に謙信や慶次からお前らしくないが、面白いから皆の前でやってという声もあったが、今はそれから逃走中の最中であることは割愛する。

 ただ彼は今はヒントが欲しいのだ。自分の本質が何であるのかということに対してのヒントを喉から手が出る程に欲している。

 だが、彼の自尊心が他人に助けを求めることへの拒否反応を与えている。自分勝手なことであると龍兵衛も笑ってしまいそうになるが、口がそのことを話すことを許さない。

 自覚を持っていながらに自分の行動が出来ないのだ。

 

「(馬鹿馬鹿しいにも程があるな・・・・・・)」

 

 自虐的に笑うのもありだが、周りに人がいる以上は何も出来ない。

 思考の海に浸かっていると先程の老人から声を掛けられると我に返って手伝いを再開した。

 

 

 

 夕暮れ時の春日山城は夕日という情景も加わって普請を完全に終えた為に以前よりも威容がある。

 春日山城下の民達は何も言わずにこの普請に快く力を貸してくれたおかげもあって予定よりも一ヶ月早く終わらせることが出来た。

 

「謙信様達には大きな恩を頂きました。今度は私達が返す番だと皆張り切っていたのですよ」

 

 謙信が自らその礼として住民達に謝礼金や食料を渡しに行くと代表者は半分を返して全員の総意であるとそう言った。

 

「あ・・・・・・」

「・・・・・・!」

 

 その情景を見ていた龍兵衛が視線を落とすと偶然にも景勝が近くにいてさらに目が合ってしまった。

 

「「・・・・・・」」

 

 気まずい沈黙が流れる。先の一件以降は公事の時以外ではお互いに会わないようにしていたが、こうして二人が何も無い時に会うのは久々のことである。

 

「・・・・・・どうも」

「・・・・・・うむ」

 

 悩み抜いた二人が出した結論は普通に挨拶をして通り過ぎるだけ。沈黙が長過ぎたが、幸いにも周りに人は誰もいなかった。

 

「(歪み、定まらない心、か・・・・・・)」

 

 

 

 

 

 城には今日は用がない為に屋敷に戻って部屋で身の整理をした後にごろごろしながら入ってきた情報の整理をしていると龍兵衛の下に謙信からすぐに城に来るようにと通達が来た。

 急報というのだから彼ものんびりすることなく素早く身を整えると城へ向かう。

 到着して謙信の部屋へと入ると既に颯馬と兼続、官兵衛が来ていた。

 全員が神妙な顔付きをしているのを見ると城にいて大まかなことは聞いているらしいことを確認しながら龍兵衛は促されるままに座ると謙信が口を開いた。

 

「織田が北条との同盟を結んでいることを公にした」

 

 軍師の四人はそのことに大きな反応は見せずに溜め息を吐いて上を向いたり、下を向いて顎に手を当てている。

 全員がこれはほんの始まりに過ぎないということは分かっている。そして、この先に何かが裏にあることに対して考えている。

 北条とは秘密裏に同盟を結んでいるが、正直いずれどちらかが破棄するのは分かっていた。だが、正式な同盟ではない以上、北条が表立って上杉に破棄を宣告することはない。

 しかし、秘密裏にならどうか。考えてみると織田が北条との同盟を公にしたのは突然であり、北条が知らなかったと仮定する。

 どこと同盟を組もうが北条の勝手ではあるが、織田と上杉は対立し合っている。そもそも武田と同盟を結んでいる北条が織田と同盟を結んでいたことがバレれば武田は弱体化した身を頼る場所が無くなる。

 要は武田を戦わずに負けさせるということだ。

 しかし、その裏があるということに軍師達は頭を悩ませている。

 信長も北条と上杉が潰し合っているのに対して今は背後が危うい時に簡単に背中を空けることは出来ない。

 

「そういうことか」

 

 分かれば簡単だと官兵衛が髪をがしがし掻いて説明し始める。

 

「今、私達が親交を深めているのは里見でさ、反織田信長の主力は朝倉じゃん」

 

 官兵衛の言葉で全員がああ、と頷く。

 北条の背後には里見・佐竹がいる。北条がそれをどれほど掴んでいるのかは知らないが、察することは織田も北条も出来るだろう。

 北条が上杉を攻めれば里見は上杉に目がいっていることに乗じて北条を攻め込むだろうし、逆に里見が攻められれば上杉が動く。

 関東管領としての職務を全うする為に動きたい上杉と領土の死守という里見の利害の一致で今、二家は仲を深めている。

 だが、実際はそう簡単に行かない。上杉が今は疲弊して兵はあまり動かせないでいるからだ。

 同盟を公にすることで北条は密かに盟約がある上杉にも目を向ける必要はなく、心置きなく里見や佐竹に相対することが出来る。謙信は性格上、決して上杉側から同盟の破棄を行うことはないと踏んだ上で。

 北条が里見を潰せば上杉は関東を巡っての戦に乗り出す際の理由が無くなる。

 一方の織田はこれで西に重点を置くことが出来る。延暦寺とは将軍家の仲介で和睦を結んだ為にすぐには攻めることは出来ない。そうなると次の相手は浅井・朝倉と本願寺である。

 その中で最大の勢力は朝倉で、背後には富樫晴貞が控えている。本願寺の支配下という立場に変わりない晴貞が真言宗信者の謙信を目の敵にするのは何ら不思議なことではないが、上杉は織田に単体で対抗できる力を持っている。

 その上杉に将軍家が頼らない筈がない。とはいえすぐに動けない上杉と本願寺との間に嫌な空気が漂っているのをそのままにしておけば、織田にとっては都合が良い。

 朝倉と共に南下して織田に攻め込まれる心配もなくなり、姉川で敗戦した浅井・朝倉に追い討ちを掛けることが出来る。

 将軍家が上杉と本願寺との間を取り持つ可能性もあるが、それまでに決着を付ける自信が信長にはあるのだろう。

 実際に上杉は本願寺との間を修復する気はないのだから、信長の思惑は織田側からするといい意味で外れている。

 背中に上杉がいる為に富樫は南下出来ずに織田は朝倉と心置きなく戦えるというものだ。

 回復力の高い織田は早ければ一年経たずに軍を浅井・朝倉に差し向けるだろう。

 

「しかし、どうして織田は我らと北条が同盟を結んでいると知ったのだろうか?」

 

 上杉と北条の同盟は上杉の上層部しか知らない機密情報である。しかし、織田の動きはまるでそのことを知っているかのようで、そうなると情報が漏れたとしか考えられない。

 

「まさか・・・・・・内通者?」

「いや、それはないだろう。草からの情報はない」

 

 官兵衛がはっとしたように顔を上げるが、謙信は冷静にゆっくりと頭を振る。

 軒猿が他勢力の情報を得るのなら、歩き巫女達は上杉に降った勢力の監視を専らとしている。

 総称して草と呼んでいるが、彼女達からの情報は謙信の下には届いていない。

 納得したように軍師達が二度三度頷くのを見て、謙信は今度は本願寺に話題を移し、かれらに対しての関係をどのようにしていくかを話し合い始めた。

 武家の封建関係の外でこのような権力を握っていたことから延暦寺や堺の町衆などと同様に信長からの圧迫を受けた為に反織田を明確にしている。

 一方で、浄土真宗信者ではない謙信は本願寺とは仲が良い訳ではない。

 畿内の情報は龍兵衛の懇意にしている京の商人からやってくる。今、彼はその商人に積極的に支援を行い将軍家やその周辺勢力の動きを徹底的に調べてもらっている。

 

「富樫晴貞はともかく、本願寺自体は今、上杉と対立して良いことなどないと分かっているだろう。どうなのだ?」

「そのあたりはまだ不明です。織田に反抗するように煽る檄文を門徒らに送ったことは分かっていますが、大きな動きはまだありませんね」

「将軍家に送った件の書状については?」

「詳細はまだ・・・・・・ですが、本願寺自体が悪くはないと分かってしまうと義昭様がどう決断するか分かりません」

 

 以降は全員が沈黙の中で思考を巡らせる。謙信は全員がどのような考えをそれぞれが用いるのかをじっくりと観察する。

 不謹慎だが、謙信はこの沈黙が好きであった。

 ここの皆が考えているのは上杉の為になることで、必ず有益になることである。誰の口が最初に開かれるのかは分からないが、正直それは誰でも良い。

 うずうずする気持ちを抑えているとまず兼続が口を開いた。

 本願寺との関係がどうなるのかはもう将軍家に委託した。ならば、それにおいて今後考えられる状況を想定して今のうちに準備を進めるのが良策だ。

 万が一、織田が負ければ将軍家は軍略的に余裕が出来る為に本願寺に加賀の件について糾弾するだろう。逆に将軍家が負ければ否応無しに堺や紀伊の雑賀と繋がりの深い本願寺をますます頼ることになる。

 将軍家にはくれぐれも内密にして欲しいと重ね重ね書状で懇願しておいたので本願寺にすぐバレるということはないだろう。

 とはいえ、人の口に戸は立てられない、どこから情報が漏れるのか分からない状況では万全の状態を置いておいた方が良い。

 越中との最前線である魚津城とその背後で補給路の役割を持っている不動山城にいる兵と兵糧を増やして富樫の襲来を待つべきだ。

 そう締めるが、これに颯馬は難色を示した。今、そのようなことをすれば富樫に怪しまれて逆に危険である。京の間者の報告を待ってその後に予め葛西・大崎討伐の名目で集めた兵を二つの城に入れた方が良いと言い出した。

 そこでいつものように二人はいがみ合いを始めるが、他の者はそれを放っておいて二人の意見はもっともだが、今の上杉は決して余裕がある訳ではない為に本当にすぐに実行して良いものだろうかという検討に入った。

 

「今、動かせる兵は?」

「ざっと五千です。しかし、春日山城に置いておく兵や信濃と上野の国境にいざという時に援軍として送る兵を考えると・・・・・・二千、でしょうか」

 

 魚津城にいる兵は約一千強、斎藤朝信が常時越中の動向を監視しているが、越中・能登・加賀を合わせた兵を考えると圧倒的に不利で、兵を送っても同じである。

 とはいえ、刺激を与えれば晴貞が動く口実を与えてしまうことにもなりかねない。

 幸いにも晴貞は今、動くような素振りは見せていない為、本願寺に上杉が送った弾劾状の話は行っていないと見れる。

 

「今は何もせずにただ静観するしかないか。後手後手に回る可能性もあるがな」

「北条や反織田勢力とのこともありますので、しばらくはそうならざるを得ないかと」

 

 龍兵衛が渋い顔でそう言うと謙信と官兵衛は溜め息を吐いた。

 

「龍兵衛、万が一最悪の状況になった際はお前が魚津城に向かえ、連れて行きたい将の編成は追って考えておいてくれ」

「御意」

「武田の情報は何かあるか?」

「は、はっ! い、今のところは特にありません。軍の再編に忙しいようです」

 

 今まで颯馬といがみ合っていた兼続が慌てて謙信に申し訳ありませんと頭を下げながら言葉を発する。

 上手く立ち回れなかった申し訳なさからか兼続が顔を恥ずかしそうに少し赤らめて何かぶつぶつと言っている様を謙信はしばらくクスクス笑いながら見ていたが、凛とした表情に変わり、全員に言い渡した。

 

「京と北陸、この二つの地域の情報収集を徹底させる。何かあれば今後は逐一報告するように」

『はっ!』

「兼続、悪いが弥太郎を今すぐここへ」

「承知しました」

 

 全員が去り、誰も居なくなると謙信は一人目を瞑り、外の音を聞いて考えに耽る。

 夏の風に木々が揺れ、夕暮れ時の中で蝉が鳴いている。穏やかな外の情景を心で感じ、頭で想像する。

 実に良いと思いながら、さらに想像を深めていく。

 今の上杉は決して楽な時ではない。否、楽な時が乱世である筈がない。だが、そういう時だからこそ心にゆとりがあるべきだ。

 先程の颯馬と兼続が良い例だなと思い返しながら謙信は他にも先日の龍兵衛のはっちゃけぶりや弥太郎や慶次が悪戯の後を考えずにまたやっている様を一人で思い出しながら笑っていると、弥太郎が入ってきた。

 

「どうしたのだ? 一人で笑って」

「いやなに、単なる思い出し笑いだ」

 

 入ってくるなり不思議な光景を見たと訝しげに見る弥太郎に手をひらひらと振って気にするなと言うと謙信はすぐに真面目な表情に変わった。

 

「例の事、どうだ?」

 

 弥太郎は謙信の問いに首を横に振り、駄目だと表した。

 

「どうやら思ったよりもかなり深い闇で、その分かなりの大物が裏で舵を取っているようでな・・・・・・おそらく言えば己が身に危険が伴いかねないらしい。私では手に負えないな」

 

 済まないと頭を下げる弥太郎に謙信は気にするなと言うと眉間に寄っていた皺をさらに深くした。

 軍師達は情報収集と内政の調整で忙しい。官兵衛が時折手伝ってくれているそうだが弥太郎に任せた仕事はなかなか上手くいかない。

 

「定満さえ居てくれればな・・・・・・」

 

 ふんわりと、おっとりしていた雰囲気に目がいきがちだが、あの恐ろしいまでに計算高く、相手の心に入り込む話術は謙信さえも逃げることは出来なかった。

 

「よせ、それは禁句だろう」

 

 弥太郎が戒めて初めて謙信は心の声が口に出ていると分かった。

 上杉家中では定満のことは一切言わないという暗黙の了解が出来ている。それは責任を感じている龍兵衛への気遣いと定満を失った損失の大きさを物語り、家の雰囲気を壊しかねないという危惧から生まれた。

 

「済まない。まだ未練があってな」

「気持ちは分からなくないが、少しは前を見たらどうだ? 定満殿が居なくなった重みは皆が感じていることだ」

「分かっている。分かっているんだが・・・・・・」

 

 ちらりと後ろを見やる謙信に釣られて弥太郎もその方向を見る。箪笥があるだけだが、あの中には定満の遺した唯一の遺品が入っている。

 最も長く謙信に仕えてきた一人として定満が謙信の心の支えであったことはよく分かっている。

 それは弥太郎も心に空しさを抱いたからこそ分かるのだ。

 定満程ではないが、長く謙信に仕えた者として、定満の支えがどれほど上杉家中に大きく広がっていたか理解していて、代わりになろうと日々彼女も精進している。しかし、なかなか定満の背中は見えない。

 

「取り敢えず、何か分かったことがあればすぐに知らせる」

「頼む」

 

 そう言うと弥太郎は出て行った。

 謙信はまた外の様子を眺めた。

 すっかり夜になり、何も音がしない。

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