「謙信様は武田の方が恐ろしいと考えているだけ。魚津城を見捨てた訳ではありませんよ」
「随分はっきりと言い切る・・・・・・ま、たしかにそうだな。この数の差でこの体たらくでは俺が天秤にかけてもそうする」
魚津城では謙信が一万二千の兵を分けて魚津城に四千の兵のみを派遣したことに関して無駄な話をしていた。
しかし、そう捉えられても仕方がないような軍の分け方であることは朝信も龍兵衛も承知している。
これに将の一人である蓼沼泰重が、謙信は非情な判断を下して自分達よりも信玄との戦を望んだのではないかという愚かな声が上げていたのだ。
彼も上杉の直臣である為に武田の怖さを十分に知っている筈である。しかし、魚津城の重要性は上杉家の誰もが知っていることである。そして、一向一揆勢の数はかなりのもの。
にもかかわらず、武田との戦を優先するのは何事かというようなことを言っていたのだ。
しかし、龍兵衛が一向一揆勢の兵の質を考えると実際は三万ではなく一万八千程度、魚津城は決して強固ではないが、朝信による城の普請と兵の鍛練によって兵は四千足らずだが、ここまで同等に戦っているのを見れば十分に分かる。
そこに四千の援軍が来るのだから決して悲観すべきことではない。
たしかに上杉家の中でも四千の援軍で大丈夫なのかと思っている者もいるかもしれないが、それは現場を見ていないからだ。周りが思うほど厳しい状況下ではない。
「むしろ武田との戦前に兵を割いてくれたのを喜ぶべきではありませんか?」
朝信も時折加わっての説教に泰重も考えを改めたのか素直に頭を下げて詫びを入れた。
ほっとしたのも束の間、資正がこのことが兵に漏れていないかと不安げに訪ねた。そのことは龍兵衛が既に調べ済みであり、あくまでも援軍の先鋒であると大きく言っておいたおかげでそのような噂をする者はいないらしい。
「だけども、人の口に戸は立てられないと言うし、そろそろ手を打った方が良いんじゃない?」
「慶綱、それは単調な考えというものだ。援軍が近い今の状況で打って出るような軍がどこにある? それでこそこちらの実情を知ってくれと言っているようなものだ」
明らかに先の戦で暴れることが出来なかったことに不満な慶綱がやる気をみせるが、すかさず朝信がそれを抑える。
慶綱は決して馬鹿ではないが、戦場を住処としているような人物の為に早いところ戦場に出ないととんでもないことをしそうになるので朝信が常にストッパー役として監視している。
「たしかに斎藤の言う通りじゃな。援軍が近付いているのに打って出るのは少しおかしい」
「何がおかしいんだよ?」
朝信の言わんとすることが理解出来た景資が二度三度頷き、それに未だによく分かっていない慶綱が噛み付く。他にもよく分かっていない将が先程の泰重を含めているようだ。
龍兵衛は自分が説明する必要が無いと判断して既に傍観の姿勢を整えている。
「籠城は援軍の見込みがあるからこそするもの。その援軍は今、こちらに近付いている。だというのにどうしてわざわざこちらが打って出る必要があるのだ?」
景資に代わって朝信が説明する。これでようやく合点いったのか慶綱達は納得したようだ。
一向一揆勢が上杉の援軍に纏めて襲い掛かるにしろ、兵を分けて上杉の援軍と魚津城攻めに当てるにしろ、援軍の到着前に魚津城を落とすにしろ、背後ががら空きになるか、兵を分ける愚策を選択して隙を与えてしまうのだ。
四千の援軍は本隊の先鋒と唄っているのに打って出るのは余裕がなく、援軍が後ろにはいないと言っているようなもの。
故に援軍が見えるまでは魚津城から打って出るのは良策とは言えない。
「富樫晴貞も馬鹿ではない。一時期の戦功が後々の大きな被害となっては意味がないからな」
「ええ、ですが、富樫もそろそろ感づいているでしょう。いつ総攻撃が来てもおかしくありません」
資正の心配は朝信達も憂いていたことだ。いくら籠城と先の急襲戦で数が減ったとはいえ一向一揆勢の兵数が質抜きで多いことに変わりはない。
だが、この魚津城は越中における上杉の防衛線。上杉が西に進む為には絶対に必要となり、守らなければならない絶対の要地である。
「ならば、ここをどう守り抜くかだな」
「まぁ、来たら来たで返り討ちにして終わりじゃ」
「はぁ~早く私も戦って功を立てたいよ」
景資は先程の戦の余韻を引いて慶綱は鬱憤を晴らしたくてしょうがないらしい。
だが、かれらが本当に望むのは一向一揆勢の撤退である。軒猿の情報網を潜り抜け、上杉が幕府に出した加賀への弾劾状のことを知っているように襲来したのは朝信も慌てた。
それでも魚津城を守っているのは朝信以下、魚津城の将兵が優秀であるということに他ならない。
ならば朝信達にはこの魚津城を最後まで守る義務がある。だが、謙信の為に殉じることを今は許されない。何故ならここで死んだところで何も上杉に有利になることは無いのだから。
ただ優秀な将兵が死に、越中から西に向かう為の進軍路が無くなるだけ。この激戦の後に晴貞もさらに進軍しようとは思っていない筈だ。
仮に思っていたとしても天神山城・不動山城という二つの城が立ちはだかっている。この先に進もうとする方が馬鹿というやつだ。
そうならない為にも朝信達はこの魚津城で一向一揆勢を援軍と共に撃退しなければならない。難しいことだが、分かっている将達に悲壮感は無い。
「いつでも来るが良い。その時は全て返り討ちにしてやる」という感情が溢れ出ている。
先程まで無駄に「謙信様が我々を見捨てた」などとほざいていた連中までもが意気込んでいる。非難しょうが、なんだかんだで上杉への忠誠心は高いのだ。強い中央集権を目指して、国人衆の力を減らした甲斐もあったというもの。
一方で手懐けも欠かさずに行ったことで飴と鞭が上手く使い分けれた結果といえる。
後は一向一揆勢を待ってそれを退け続けるのみ。そう考えながら朝信は先程から胡座をかいた左膝の上に左肘を乗せて目を瞑っている者に声を掛けた。
「龍兵衛、これからはどうこの城を守るべきだ?」
「そうですね・・・・・・」
いきなり振られたにもかかわらず、ゆっくりと姿勢を正して落ち着きを払いながらまるでこれを待っていたかのように龍兵衛は腕を組んで考える素振りを少しだけすると「まずは・・・・・・」と左手の人差し指を立てた。
「援軍が来れない以上、敵の虚を突いて動揺を誘うのが一番です」
「ですが、先の戦でその手は使いました。さすがに向こうも警戒しているでしょう。それに斎藤殿も先程仰った通りにあまり下手に打って出るのは如何なものでしょう」
すかさずこの城の守将の一人である石口広宗が指摘を入れる。そこから反論に出るのかと思いきや龍兵衛は「ああ、そうでした」と事も無げにしれっと言った。
「やっぱり、ただ籠城をする以外に選択肢は無いのか・・・・・・」
慶綱が溜め息混じりにぼやいて天井を見る。この状況下では仕方ないが、上杉の強みは接近戦での兵の質と機動力である。どこかで何か仕掛けたいが、先程朝信達がそれをすることで起こる盲点を指摘したばかり。
「まぁまぁ、打って出るのは駄目ですが、勝利することは可能ですよ」
「どういうことじゃ?」
「戦場が城の外と決まっている訳ではありません・・・・・・」
龍兵衛の口元がゆっくりと、斜めに歪んだ。
全くの青天の霹靂であった。情報の力を京と加賀に入れていた為に少し背後が疎かになっていたことは認めざるを得ない失態である。
甲斐にも優秀な間者は多くいる。上杉軍が東北に出払って越後ががら空きになるであろうことを把握しての進軍だったのだろう。
今回は加賀に出陣する前に襲来の知らせが来たが、少しでも遅れていたらどうなっていたことか。
そう思うだけで背筋が凍る。
だが、謙信は内心複雑だった。
以前の川中島の戦いで勝利を収めて追撃せずに撤退したのは蘆名や武藤を警戒してのこともあったが、今川と北条が同盟を理由に甲斐・信濃に進出してくるのを恐れたからだ。
今となっては武田と今川はその栄光も過去のものとなり、その均衡も崩れて上杉と北条が同盟を結びながら睨み合っている筈だった。
まさかここにきて信玄が起死回生とも言える逆転劇を見せようと頃合いを見計らって川中島に進軍するとは謙信も軍師達も思っていなかった。
それがちょっとした油断であることに気付いた時には謙信は自分の身体を抑えることは出来なかった。
「懲りないのならまた返り討ちにするまで」と身体の向きは魚津城から川中島に変わっていた。だが、本当にそれで良いのかと内心はかなり悩んでいた。
魚津城に籠もる将兵は皆が謙信の大切な家臣であり、共に天下統一を夢見る者達を見捨てることになる。武田も背後に今川と北条の脅威がある為に誰かを派遣してしばらく堪えていればいずれ武田は兵を退くだろう。
しかし、分かっていても信玄と戦いたいという望みから今は川中島へと進んでいる。
つまり今の謙信は私情を優先させて家臣を見殺しにするかもしれない選択を取っているのだ。弥太郎達が四千の兵を引き連れているとはいえ三万と魚津城の兵を合わせて八千では勝ち戦になるとは思えない。
しかも、八千の兵が固まっているのではなく、二つに別れているのだから既に少数が多数に向かう時に必要なことを出来ていない。
一向一揆勢が二手に別れてお互いを迎え撃つことも考えられる。技量は抜きにしても向こうが倍以上の兵を抱えていることに変わりはない。
それでもこの選択に踏み切ったのは一向一揆勢よりも信玄の方が怖いという思いがあった。腐っても鯛と言うが、信玄の謙信に対する対抗心は腐ってすらない。生き生きとした新鮮な鯛のままである。
だからこそ、こうして隙が出来た途端に攻め込もうとしているのだ。ならばそれに応えてみせるのも謙信の流儀であり、信玄に対する礼儀でもあった。
数だけを見るなら、どう考えても一向一揆勢の方に謙信率いる八千が向かうべきである。謙信が向かうことによって一向一揆勢に対する攻勢に転ずる勢いが出来る。
謙信は元々曹洞宗の信者になった後に真言宗の信者となり、浄土真宗とは相容れない姿勢を取っていた。その謙信が一向一揆勢に対するということは上杉に敵対することを決意した本願寺と対抗することを上杉の領国に示し、力を強め過ぎた浄土真宗を織田に次いで上杉も対抗すると表明することになる。
こうすれば幕府への軽い脅迫にもなる。直接の敵対行為ではないし、攻めてきたのは向こう側なのでそこまで幕府に言われることは無いだろう。
今、魚津城で戦っている一向一揆勢の半数は民兵、残りの半数も能登と越中の寄せ集めの兵が殆どであるという情報も入っている。
武田軍と一向一揆勢、天秤にかけてどちらが強力かと問われれば、謙信は間違いなく数に関係なく武田と答えるだろう。
それが今まで武田と四度戦い、数があまり変わらないながらも苦戦を強いられた経験と上洛の帰路というところを襲い、数が多かったにもかかわらず、謙信や景勝を取り逃がした一向一揆勢を見てきた謙信の判断だった。
しかし、多勢に無勢という言葉もある以上、この選択は本当に正しかったのかと何度も自問自答してしまう。
決断をした時は兼続や颯馬だけでなく、弥太郎達武将からも反対があった。それでもどこかに間違いないという確信があったが故に決断したにもかかわらず、今はもう不安になっているのだ。
家臣を見捨てるということにならないか。そのような不安が頭をよぎる。
魚津城にいる将は全員が上杉の功臣達で実力も申し分ない。兵も朝信と景資に鍛えられているので簡単に落ちるということは無いと思うが、どうもふらふらと考えがあっちこっちに行っている。
「あまり考え過ぎるとお身体に障りますよ」
その内心を読み切ったように声を掛けてきた颯馬に謙信はかなり驚いた。謙信も気配には敏感に対応出来るが、思考に神経が行き過ぎて周りに気付かなかったらしい。
将兵達は布陣の準備にあちこちと動き回っている。謙信も周りを見ているように見えていたが、実際は思考そこにあらずといった状態だった。
「今回のことはもう誰も何も言いません。しかし、謙信様がそれでは我らはともかく兵士達が不安になります」
「ならば良いが、お前も兼続も反対していたからな」
「不安になることは無いでしょう? 皆、謙信様を信じてのことです」
謙信の気を使うように軽く笑みを零す颯馬。所詮は励ましにしか過ぎない。しかし、少しでも気を楽にしてあげようという颯馬の思いはありがたい。もしかしたら皆も同じようなことを考えていたのかもしれない。
重臣の面々にしか分からない謙信の内心を悟り、その代表として颯馬が言ってくれたのだろう。気遣いに感謝して謙信は一番気になっていることを口にした。
「魚津城は保つと思うか?」
「報告によれば敵は速攻の勝利を望んでいます。その間は良いですが、持久戦に持ち込まれると・・・・・・」
警戒していたとはいえさすがに魚津城の物資も無限にある訳ではないし、武田がでしゃばった真似をしてきた以上、幕府からの加賀についての沙汰を待っている暇は上杉に無い。
元々、謙信は一向一揆勢に対しての沙汰を待つつもりも無かったが、この状況下では待っていた方が得策だが、待っている間に魚津城が落ちるという最悪の事態になりかねない。
弥太郎達の援軍も派遣した訳だし、知略に富んだ朝信や龍兵衛ならどうにか凌いでくれるだろうと思っているが、富樫晴貞も援軍が近付いていることは知っているだろう。どう出るかは不明だが、心許ないのに変わりはない。
援軍をさらに派遣したいところだが、信玄に背中を見せるなど以ての外。謙信の自尊心もそうだが、みすみす越後へ侵略する隙を与えててしまう。
そうなれば武田と一向一揆勢の挟撃をもろに受けるという最悪の状況に陥る。
こちらは時が経てば必ず戦は終わる。魚津城は分からないが、これ以上手を差し伸べることは出来ない。
ならば、謙信達に出来ることはただ一つ。
「信じるのです。信じて待つしかありません」
颯馬の言葉に謙信は力強く頷いた。
もはや、打てる手は打った。後は天命に事を委ねるのみ。