龍兵衛と景資が見たのはただの狂乱者だった。長い束ねられた白髪が風によって乱れ、身をよじりながら天高く叫ぶような笑いが二人とその後ろにいる兵達の耳に入ってくる。
兵達は衝撃、驚愕の表情を隠せずにただ佇んでいる。
一方の二人はああやっとあいつの本性を間近で見ることが出来たか、とただその姿をじっと何もせずに見ている。
その時、龍兵衛は迂闊にも膝も伸びきった状態で晴貞を見ていた。それを卑劣な性格を丸出しの晴貞が見逃す筈がなかった。
一気に間合いを詰めようと膝に力を込めて龍兵衛に迫る。
不覚を取ったことに気付いたが、どうにかその切っ先をずらして致命傷を避けることが精一杯だった。
かすかに右肩を斬るとさらにとどめを刺そうと晴貞は迫るが、今度は景資が代わりに晴貞を受け止めた為に事なきを得た。
晴貞はすぐに景資から離れると自軍の兵をさらに追撃してくる景資の刀の盾にして防いだ。
「おのれ、卑怯な!!」
「消耗品、消耗品。くひひひ!」
数多の敵を眼前にしてさらに卑怯な手を使い、ますます高らかと笑うという舐めきったような態度に景資は怒りを覚え、龍兵衛を見たが、龍兵衛は先程の傷は何ともないように平然として、静かに首を振って晴貞を見る。
かつて彼も同じようなことをした時の相手の気持ちはどのようなものか味わっているのだ。
なるほど、随分と癪に障る。しかし、それを利用する時だからこそあの手を使った。今、目の前の晴貞のように。
今更ながら申し訳なさが込み上げる。しかし、眼前の晴貞がこのようなことをしているのを見ると芝居ではない彼を伊達の面々は許すことは無いだろう。
今の龍兵衛達のようにその場で首を斬り落としたいと思った筈だ。
晴貞のそれが終わると再び軽い笑みを浮かべて、晴貞に気をつけながら語り出した。
「先程、こう仰いましたね? 自分も富樫殿のような人間だと、たしかにそうです。認めます」
すんなりと言い切った龍兵衛を景資は驚愕の表情を浮かべ、晴貞はさらに笑みを深くした。晴貞が少しずつ間合いを近付けようとするとすっと龍兵衛は手を挙げてこれを抑える。
「ですが、貴殿と自分の悪はまるで違う。それは分かるでしょう?」
龍兵衛は目が笑っていない笑みを深めて、大袈裟に晴貞を指差しながら自分と晴貞を違う人間と断定して侮蔑するように鼻で笑った。
「分からんな。所詮悪は悪、まるで言い訳にしか聞こえんぞ」
晴貞も同様に蔑むような目つきがさらに痛いと感じる程に強くなっている。しかし、不思議と龍兵衛は怒りを覚えずに平然とすることが出来た。
相手は人間としてまるで駄目な奴だと分かった。もはや晴貞に何の感情も起こり得ない。
「ならば教えて差し上げましょう。貴殿は自分以外の人間をごみのように扱っている。そこに死んでいった者達への感謝などありはしない。そして、容赦なく人を殺して自分の欲しいもの、格好を気にしている自己顕示欲の為の悪。これは『悪い悪』とでも言いましょうか。反対に自分は上杉の為、大義の為、天下の安泰の為にやらねばならない悪。これは『正しい悪』です」
ここだけが戦場ではなく、ただ説法をする坊主がいる教室のようになっている。周りの戦場では上杉軍に包囲された一向一揆勢が逃げ場を失い、ただ主が生きよと命じない限りは上杉に立ち向かい死んでいくただの人間の狩り場となっていた。
「己の欲を満たさないで人間とは言えない。俺はそうしているだけだ」
晴貞からすれば今も昔も盛者必衰の世の中で今を生きているからこそ欲望を満たすことを責める輩の言うことなど所詮は聞く価値も無い耳障りな諫言にしか過ぎない。
構わず笑みを浮かべながら龍兵衛は続ける。今度は晴貞を近付けるような姿勢ではなくなっている為に続けることが出来た。
「何事も我慢がいる。己の欲望を完全に満たす悪はいずれ滅び、消滅する。しかし・・・・・・」
笑みの下に隠していた怒りをさらけ出し、左手の人差し指と中指を揃えてぴっと晴貞を指差し、告げた。
「公の為に行う『正しい悪』が倒れることは無い。それが貴様と俺の違いだ。不滅の『悪い悪』などない」
最後通牒が終わったのを見計らって景資が飛び出した。しかし、晴貞は景資の剣撃を巧みに避ける。
驚いた景資がさらに力を込めて晴貞に詰め寄ると今度は晴貞がこれには適わないと判断したのか大きく後ろに下がった。
「皆、済まないが私の為に死んでくれ!」
本性を皮の中に隠した晴貞がそう高らかに叫ぶと同時に一向一揆勢は晴貞を囲んで護衛しつつ、景資達に向かっていく。
「ちぃっ! 富樫晴貞を逃がすな。包囲の輪を縮めよ!」
景資の号令に今度は素早く上杉軍が一向一揆勢を囲む。ここには上杉軍が五百、一向一揆勢はその倍以上が負傷者も含めているが、優勢がどちらかは明らかだ。勝負は決したと上杉の将、誰もが思ったが、晴貞の叫びが上杉軍を呆然とさせた。
「皆、目の前の敵に突っ込め! そして、死ね! 捨て駒になるのだ!」
龍兵衛も軍師である以上、やむを得ない犠牲というものを何度か出してきた経験がある。しかし、堂々と味方の兵を捨て駒扱いにしたことは今までもこの先も一生無いだろう。
目の前の狂乱者は平然と味方の兵を捨て駒扱いにした。
そこまでして逃げたいのなら敵としてそれを逃がさないようにしなければならない。
「やれ・・・・・・」
意識もしないで勝手に声が出てきた。低く呟くように、それで周りにはっきりと聞こえる龍兵衛が発した怒りの命令を待っていたかのように上杉の将兵が晴貞に襲い掛かる。
しかし、晴貞は屍さえも自分の盾にして上杉の追撃をかいくぐって行く。景資が何度も後一歩まで追い詰めたが、全て彼女に屍を投げつけることで隙を作っては逃げるを繰り返して景資の攻撃を防いだ。
そして、晴貞は自分の馬にまで辿り着くことに成功した。
「待つのじゃ! 逃がすでない! 追え、追うのじゃ!」
景資もすぐに後を追おうとするが城内での戦であった為に近くに馬を用意していなかった。
景資がかつて見抜けなかった彼の本性とここで北陸にはびこる負を断てなかった悔やみが奥歯がぎりっと音を立てたが、どうしようもない。
「今は諦めましょう。城内にいる敵を叩くことに集中して下さい」
いつの間にか背後で自分の刀を血で染めた龍兵衛が立っている。その落ち着いた声で景資も少しばかり落ち着くことが出来た。
そんな龍兵衛を冷静になった目でよく見ると思わず笑ってしまう。
「何か?」
「いや、いつもなら後ろに引っ込んでいるお主が刀を持つとは、たいそう怒りを抱いているようじゃのう」
「はは。まぁ、その話は戦の終わった後の酒の席で」
そう言うが早いか、景資はすぐに眼前に迫る敵を斬り捨て晴貞を逃した怒りを容赦なく逃げ遅れた兵達にぶつけ始めた。
別の場所では朝信や慶綱が暴れ回っているし、退路は資正率いる一千の兵が絶っている。
一向一揆勢の家臣達は晴貞の命令が絶対なのでこの混乱状態では全く機能出来ていない。
もう出番が無くなったと判断した龍兵衛はたまに斬りかかってくる敵を倒しながら殆ど動かずに戦況を見ていた。
「物にはすべからく時期がある。使う時を間違えたのは富樫晴貞であって、原因を分かろうとしない。それが分かっただけでも十分だ」
晴貞の目の前には信じ難い光景が広がっていた。燃え盛るは一向一揆勢の本陣、中では逃げ遅れた兵達の呻き声が響き渡っている。
しかし、そのようなものは晴貞にとってただの耳障りな雑音に過ぎなかった。それ以上に大きな衝撃が彼の視界の中にあったのである。
彼の視界の中で暴れ回るのはここにいる筈がない上杉軍の要中で要である勇将二人。
火から逃れてきた一向一揆勢を容赦なく斬り、民兵さえも屍へと変えている。
本陣の守りは神保長住に任せていたが、その消息も全くこれでは分からない。
「もう少しあいつを味わいたかったが、残念だ」
己の欲望を少しでも満たしてくれたことには少しばかり感謝しておくことにしよう。周りには逃げている途中で合流した兵がいる。
殆どが傷付いているが、晴貞にとってそんなことはどうでもよかった。
「半数はあいつらの背後を突け、後は私に付いて来い」
この負傷した使い物にならない兵達ではちょっと上杉軍を驚かすだけで終わりだろう。しかし、時間を稼いで自分が逃げれればそれで良いのだ。
ここまで来たらおそらく本願寺からの詰問は免れないだろう。
それも別に構わない。泣くように本願寺からの使者に頭を下げて情で訴え、金で訴えれば叱責は受けても破門にすることはない。
第一に今、破門にすれば織田に対する備えの一翼の全てを自らの手でもぐことにしかならない。
上杉との仲があまり良くないという点で一致しているが、いつまでも人に扱われることを良しとする晴貞ではない。
つまり、これは案外良い機会であったともいえる。実質上の加賀・能登・越中のほぼ全土を手中に収めている晴貞は本願寺からの支援など無くてもやっていけるのだ。
「ま、織田を倒すまではそのまんまでいてやるか・・・・・・」
飛騨の山々を越えてわざわざ北陸に来るとは考えられないが、包囲網の一角として朝倉と協力しなければいずれ加賀に触手が伸びてくる。
その時に上杉と織田の挟撃を受けてはさすがに手の打ちようがない。
その不安を解消する為のことも含んだ今回の越後への遠征であったが、またしても敗れた。
どうも自分は謙信に対して相性が悪いらしい。ならばその相性の悪さを無くす為には全兵力を越後に向けられるようにする必要がある。
それにまだ自分には越中の松倉や富山に兵が残っている。富山にはこちらに向かう予定の援軍もいることだし、さらに能登でさらに徴兵すれば敗残兵も含めて一万は集まるだろう。
「くくく、諦めるのは性に合わん。もう一度攻め込んでやるとしようか」
敗れても自分が生きている限り誰にもこの野望を絶やすことは不可能。そして、自分は決して戦で死なずに天寿を全うする。その間に天下を取る実力が自分はある。
間違いないからこそ自分には生まれ持った人を使う才能がある。まだ十二分に使う為の命はまだ潰えていない。
「待っていろよ、上杉謙信。貴様には最高の苦しみと屈辱を与えてやる・・・・・・」
今度は誰にも気付かれないように薄く「ひひっ」という気味の悪い声で喉を鳴らすように笑った。そのまま晴貞は馬首を富山城へと向けた。
「やはり、弥太郎だったか」
魚津城に入った兵達を掃討して逃げる将兵を追撃していると大分明るい炎が見えてきた。朝信は城の守りと城内の残党狩りを龍兵衛と石口広宗に任せて一気に敵本陣に迫った。
弥太郎率いる援軍が到着したのははっきり言って計算外であった。龍兵衛も景資も晴貞に向けられた報告を聞いた時、少し疑問を抱いていたが、龍兵衛はその動きでなんとなく察することが出来た。
そして、朝信にすぐに追撃を進言した。朝信も軍師が好機と言う時を逃すような凡人ではなく、すぐに魚津城に最低限の守りを残して一気に駆けた。
しかし、その追撃もそこまでであった。
一向一揆勢の本陣に放った火はあっという間に燃え広がり、陣の中に入ることさえも不可能な程になっている。
朝信は武人であるが、文化的な一面もある。この炎を例えるならば彼は間違いなくこう例える。
上杉の富樫晴貞に対する怒りである。
炎はごうごうと燃えてこれでもかこれでもかと一向一揆勢の本陣から逃げ遅れた将兵達を殺している。
苦しみの声が聞こえてくるが、朝信はその中で何かが聞こえた。
「富樫様、お助け下さい・・・・・・」
聞こえるか聞こえないか微妙なところだったが、自分だけ聞こえて他の兵達には聞こえていなかったようだ。
少し朝信はほっとした。兵達にその声が聞こえなかったこともあるが、これで上杉が一向一揆勢の中にいる民兵を斬ることに躊躇いを持つことは無くなる。
何故なら、その言葉を言ったのは民兵の逃げ遅れだったからだ。
「朝信、変わりないようだな」
「うむ、よく来てくれた」
ここでようやく朝信と弥太郎は合流した。長らく謙信に仕えてきた間柄、家格が違うとはいえお互いの武勇を尊敬し合っている二人は共に敬語は使わない。
「状況は?」
「俺達の方はもちろん犠牲があったが、俺が予想していたよりも少ない。今は魚津城内に誘い込んで、中に閉じ込めている。景資殿や龍兵衛が奴らを徹底的に叩いているよ」
ここに魚津城を巡る防衛戦の勝敗は完全に決したと言って良い。
負けなければ良かったと思っていた戦だったが、勝ってしまった。朝信の感想はそんなものであった。
援軍の将兵が来なければたしかにそうなって終わっていたのが関の山であっただろうが、龍兵衛が簡単に一向一揆勢の状況を掴んでくれた。
朝信も実際にこの魚津城に籠城することばかりに心が固まっていた為にその中でいかに魚津城を守り抜くかということで思考が型にはまっていた。
軍師という立場から型にはまることなくやっていく戦術でこうして勝利出来たのだ。本人は武勇によっての勝利だと言っていたが、朝信は戦功の第一に彼を推す。
「ところで弥太郎、この火は誰が点けるように言ったのだ?」
「ああ、兼続だが・・・・・・何かあるのか?」
「いや、何でも・・・・・・」
何か言いたげなのは分かるが、これ以上のことは朝信も言おうとしていないのを見て弥太郎は指揮を執る為に去っていった。
朝信の頭ではぐるぐると思考が巡り回っている。あの火の中には民兵が大勢いる。
兼続はどちらかといえば軍師ながら感情的な面が目立つ。それが軍の勝敗に関わるようなことはしないとはいえ、いくら戦でも民を傷付けたり、巻き込んだりするようなことはしない。
だが、この火の勢いは間違いなく用意されていた策である。自然を友として守るものだとしている龍兵衛と違い兼続は火攻めを用いることを必要であれば躊躇わず使う。
つまり、今回の戦は躊躇わず火攻めを用いる時だと判断したのだ。
民を傷付けたりすることはしない筈の兼続が強力な火を予め使うことにした。しかし、兼続は民兵が敵の軍勢に入っていることを知っていたにしても民兵達の様子を間近で見ていない。
晴貞の為に火の中水の中に躊躇わず入るような傀儡の状態になっていることを知らない。
「・・・・・・俺には民を傷付けたりすることは出来んな。なるほど、軍師に必要なものを二人共持っていたということか。あいつらがいれば上杉も安泰だな・・・・・・」
武闘派の多い上杉の中で数少ない民政家としても名高い朝信はどのような状態になったとしても弱い人間を火だるまにすることは出来ない。
このような戦でも絶対に自分の良心が許さないだろう。それまで万人をなるべく平等に慈しんできたように。
「今回は、仕方ない。二人がいて助かった・・・・・・」
いずれにせよ今回は例外中の例外というものだ。何とも後味が悪いような気もするが、民でも心がなくなった者に情けをかける程、朝信も甘くはない。だが、いざこうする時となれば躊躇っただろう。
未だに燃え盛る一向一揆勢の本陣にこれ以上目を向けると自分もどうかなってしまう気がした朝信は弥太郎と共に最後の仕上げに取りかかる為に馬に跨がった。
一向一揆勢の呻き声は聞こえない。