冥界。四季に富んだあまりにも静かでどうしたって生身の人間がいるべきではない世界。
そこに。白玉楼と名が知られる日本屋敷がある。冥界の幽霊どもを管理する家系、西行寺の者が住んでいる。
目のうちに入りきらないほどの枯山水の庭。数えるのが馬鹿らしくなるほどの桜の木。ちょうど季節は春。ゆるりゆられと桜の花びらが舞う。冥界にも重力はある。現世の地上と変わらない程の。
ふわりふわれと落ちる桜の花びら。どこかくすんでそれでいて美しいそれを小さな白い手のひらが包む。庭の縁側に緑色をしたスカートとベストを着た白髪の少女が座り、静かに胸を上下させる。
艶やかな銀を思わせる短い白髪は黒のリボンで彩られ。琥珀色をした双眸はぼうっと手近な桜の木を見つめている。
そこに彼女の意識はあるのだろうか――少女がちょんと座る姿を見れば誰もがそう思うだろう。半透明の白い幽霊をどこか寂しそうに軽く抱きながら、少女はなにも見ていなかったのだ。
「なぁにい妖夢ぅ、面白いものでも見つかったの?」
横から声をかけられた白髪の少女はしかと琥珀色の双眸に桜の木を見た。声のした方を向けば豪勢なつくりをした青色の着物を身につけた女がいる。桜色の長い髪をした、どこか浮世離れした印象のある女だ。
「あ、すみません幽々子様。特になにがあったわけではなく――」
「ふうん。妖夢ったらそうやってボーッとしてるのが好きなのね。私もしてみようかしら?」
ふふっと軽く微笑む青の着物の女。西行寺幽々子。白玉楼の主にして庭師の少女、魂魄妖夢を従わせている亡霊である。
そっと妖夢の隣に座った幽々子はゆったりとした動きで広大な庭の桜の木を眺める。んわあぁと手を組んで体を伸ばしたりしながら。そんな様子を妖夢は半透明の幽霊をきゅっと抱きながら横目に見た。
枯山水の庭では先程から変わりなく冥界を漂う風に花びらが舞い、枝が揺れ、静かにそう在り続けている。地上でも同じ景色を再現することは出来そうだが、冥界独特の雰囲気がなければこれほどまでに静かな美を魅せることは出来ないだろう。庭を作るのが仕事の一つである妖夢は心の片隅にそんなことを思う。
「妖夢はなにを見ていたの?」
「――本当にぼうっとしていたんです。なにか見ていたとか、考えていたとか、そういうことじゃなくて」
「そうなの。……ところで、あなたの半霊は抱き心地がいいのかしら?」
「え?」
「だってずっと離していないじゃない? それだけ気持ちのいいものなのかしらって思ったのよ」
言われてから。妖夢は心のうちではっとした。そうだ、私は「自分自身」をずっと抱いている――なぜ? いつの間に?
「あなたの半霊って前に触ったことがあるけど、ちょうどいい温かさなのよね。ねえ、あなたを抱いてもいいかしら?」
「え、えぇ!? ちょっとそれは、いやいや、だいぶ困りますっ!」
「なーに勘違いしてるのよ、半霊よ半霊。あなたの半霊をギュッとさせなさいって言ってるの。いいでしょう?」
「そりゃいいですけれど……」
変わったことを言うもんだ、とは言わなかった。妖夢は自分自身である半霊を差し出し、幽々子に抱きしめさせる。桜の花びらが微風にあおられ縁側に寄って落ちるなか、自分の主人が自分を抱きしめるのを見るのはなんとも表現しがたい微妙な気分になった。
「いいわねえ。抱き心地とか最高じゃない」
「あ、ありがとう、ございます……」
「こんなに抱きここちの良いものがあるんだもの、いつも抱いてても不思議じゃないわね」
「はい。って、え? 『いつも抱いてても』?」
「そうよ。妖夢ったら一人でいるときはいつも半霊を抱いているじゃない。もしかして自覚がなかった?」
自分でも気づかなかったものをこの方は見てくれていたんだ――そう思うと恥ずかしさよりも嬉しさの方が顔をのぞかせた。
物心ついた頃から幽々子に仕え白玉楼の庭を整え。そうして長いこと仕えてきた妖夢の初めての発見だった。自分自身を抱く癖があるというのも初めての発見だ。
「ところで妖夢」
「はい」
「……お友達がほしいと思ったことはないかしら」
「どうしてそんなことを?」
「思い違いだったら笑ってくれていいけど、なんだか最近のあなたが変わったような気がしてね」
「変わった?」
「いつもきっちりしっかりって感じで気持ちを張っていたように思うのだけど、さっきみたいにぼうっとすることも増えたんだなって」
「ええっ!? ……すみません、だらしがないのは戒めるべきでした。申し訳ありません!」
どうやら「お前は最近たるみすぎてる。気合を入れなおして仕事をしろ」と解釈したらしい。そんな妖夢に幽々子はかわいらしさを覚えた。そうだ。この子は私の自慢の――
「ううん。あなたはこれまでよくやってくれてるじゃない」
「へ?」
「それにどんどんかわいくなってきた。なんだか表情が豊かになったような気がするわ。時々遊びに来る人間たちのおかげかしらね?」
いつかの春。幽々子が幻想郷の春を無理やり集めた結果、延びた冬やいつまでたっても訪れない春――なんて異常な現象が起きたのだった。その原因を突き止めた人間が三人いて、異変解決のために冥界を訪れたのである。
確かに。今でも博麗の巫女や人間の魔法使いなんて忘れた頃にやってきては、あれだこれだと飲んで騒いで帰っていく。迷惑だ、というのが妖夢の率直な意見だが、それだけで割り切れるような単純な感情ではなかった。
「妖夢。あなたが半霊を抱え始めたのはね、あの人間たちがやってきてからなのよ。……あの子たちのこと、気に入っているんでしょう?」
「えっ……」
「あなたは人のぬくもりを知らないで育っていたもの。あなたのおじいさんだって幼いころにどこかに行ってしまった。私もあなたとは親しくしようとはしなかった。……だから、あの子たちのことが気になるって、気に入るって、分かるわ」
「……なんでもお見通しなのですね」
「当然。あなたが幼い頃からずっと一緒にいるのよ? ……でもね、ちょっとだけ、申し訳ないなって思うところもあるのよ」
両腕を開いて幽々子が半霊を解放する。半霊を自分のもとに引き寄せた妖夢は、瞬間、幽々子に手を握られているのを認めた。
「…あなたの中に『さみしい』と感じる心が芽生えたのは分かってる。だから無意識にでもぬくもりを求めてたんでしょう? 自分の半霊を抱えて気を紛らわせて……」
「そう、かもしれません」
「本当に真面目なあなたのことだから、こんなこと言うと困るかもしれないけど……寂しい時は私を頼っていいのよ。話し相手にだってなってあげる。寂しくて仕方がない時は抱きしめて温めてあげるわ」
どこか呆けた表情で妖夢は幽々子を見上げる。
これまで仕えてきて。これまで共に暮らしていて。そんなことを言い出すことなんてないと思っていた。それなのに慈愛に満ちた様子で自分を気遣ってくれている――そのことに妖夢は涙を流し、言葉を返す代わりに静かに幽々子に抱きついた。
白玉楼庭師、亡霊を抱く。
そんなのきっとありえないと思ってた。妖夢は心の中で苦笑いして、人里に買い物に行く用事があることを幽々子に告げる。
「そうだったの。それじゃあいってらっしゃい。あまり遅くならないようにね?」
「はい。……ありがとうございます」
「いいのよ。友達のようには無理かもしれないけど、あなたは一人じゃないわ。ねえ、『この世』でいい出会いがあるといいわね」
「そうですね! ……行ってきます!」