フェンリル香港支部―
かつての各国主要都市の中でも異例と言えるほどの発展を遂げた世界有数の巨大アーコロジー支部であり、その人口キャパ数は極東支部の十倍以上と言われている。
また周辺地域に出現するアラガミは近年不思議と数、種類共に減少傾向にあり、さらに世界的に緩やかな人口増加傾向に伴う各支部のキャパの圧迫、逆にアラガミの襲撃によって機能を成さなくなった支部、サテライト支部住民、また世界各地に非公式に存在する一説によれば数百万単位とも言われている難民の受け入れにも比較的寛容な支部と言われ、行き場を失った人々が世界各地より訪れ、「最後の砦」という人間もおり、アーコロジーの人口の増加数は近年右肩上がりである。
全世界支部規模で慢性的な問題となっている難民や、人口増加、新種のアラガミ襲撃に伴いあぶれてしまったフェンリル市民の受け皿となってくれている点もあり、その功績を称えられ各支部からの支援物資、義援金など大量のモノとカネが常に集まる傾向にある。その為他支部に比べて治安はやや悪化傾向、貴族、フェンリル役員連中の集まる上流、中流階層が住む中心街、貧民層の集まる外部居住区、そして最下層スラム街と貧富の差は前時代同様、いや前時代以上にあからさまな程くっきりしている支部である。が、人口の分母数が他支部に比べ桁違い、圧倒的に多いゆえに金回りは比較的良い。
前時代「百万ドルの夜景」と呼ばれた街をご多分に漏れず、巨大な黒い装甲壁で覆っては居るものの、煌びやかで近代的であるが同時オリエンタルな香港の街並みは現在も健在。
そこにカジノ、競馬などのギャンブル施設、外部居住区、最貧民スラムと貴族層の丁度真ん中に位置する中層スラム地区に巨大な繁華街、歓楽街を形成、非合法の闘技場やスポーツスタジアム、さらに前時代の中国での旧正月―国慶節など節目に行われていた祭典等も健在、またここに旧極東地域にて全世界的に発信され、そして認められた所謂「オタク文化」―サブカルチャーなども加わり、前時代同様かそれ以上にヒトの物欲、食欲、そして暴力欲や性欲までも満たす娯楽、エンターテイメント産業は世界でも類を見ないレベルで盛況な支部である。
混沌であり、退廃的でもあるがその分妙な魅力を備えた支部と言える。この奇妙な魅力に憧れ、憑りつかれ、他支部から足を運ぶ、もしくは移り住むフェンリルの貴族連中、役員クラスも多く、よりヒトとモノとカネが集まる傾向にある。
世界中の文化、芸術、経済、産業、そして娯楽。おおよそ人間的な活動すべてが集結した無法と法治がない交ぜになった混沌の支部。それが2070年代の現在、香港島を含む九龍半島周辺一帯を統治している―フェンリル香港支部だ。
そして―
それに憧れ、憑りつかれた人間がここにも居る。
欧州支部
ハイド本部にて―
「シツコイ」
どこへでも どこまでも ついていくわ私は
例え草の中 火の中 水の中
どこまでもついてくる私に貴方は顔を青くするけれど
私の顔は貴方に会うたびに赤く染まるの
ハツコイ イロコイ ニシキゴイ
「コイ」がつく言葉は数多いけれど
この「シツコイ」は貴方と私だけのもの
ついていく 付いていく 憑いていく
でもどうか私に貴方を「突」かせないでね
ああ もうせいせいするぐらいに愛してる
シプレ 3rdシングル カップリング曲「シツコイ」より
「ど~よ!!」
灰色のワークキャップを被った生意気そうな少年が腕を組み、鼻息を荒くして胸を張って得意そうにそう言った。
「いや、その・・『どう』って言われましても」
―なんだ…?この聞いている方はまったくせいせいしない歌は…?
青年はこの時代では超高級品と化したCD。そのジャケットに添付された何とも言えない歌詞を見つつ、目を白黒させた。この得意げな少年に何か言わなければならないのだろうが…うまく言葉が出てこない。
「その…過激な歌詞だね?リグ」
「それだけかぁ!?エノハさん!?もっと、何かこう…ソウルに響くもんがあったろうが
!?このシプレの新曲に!」
「…」
元々この少年―リグには幼少期の過酷な「あの」出来事のせいか妙に女性に対するコンプレックス、憧れのようなものが強い。義理の母親であるレア・クラウディウス、彼女の義理の妹であり、付き人のナルフ、ハイド同僚の「レイス」、そして難民の少女―空木 イロハなど表向きは彼女らには個人差はあれど基本つっけんどんで、素直ではない態度をとるが、実際は彼女らに心底懐き、甘えている。
そんな彼の性格が影響したのか…しかし、それでもまさかこの「方向」に彼が転身するとはエノハは思いもよらなかった。今からでも彼にすぐに極東に残してきた仲間―藤木 コウタを紹介したい。そして…何よりも今の自分を助けてほしかった。
「…」
助け舟を求めるようにエノハは周囲を見回すが彼の周りにもはや誰も居ない。レア、そして彼女の付き人であるナルは出張中。休憩時間中は相変わらずどこにいるか分かりにくい「レイス」はもとより、最近神機整備室にこもりきりのノエル、そして普段リグをからかうことを趣味にしている赤毛の少女―アナンすらいない。
…いや、正確に言うと彼女だけは律義にエノハに書置きを残していた。
「私がからかいたいのはいつもツンツン、素直じゃない『ムッツリグ』の方です。やや違う方向に『オープン・ザ・リグ』になってしまったリグは最早私の専門外です。後はエノハさんよろしくお願いします。悪しからず。チュッ(レアの口紅を借りたらしいキスマーク)
アナン」
「…」
―…見捨てやがったな。
「エノハさん!?聞いてんのかよ。見ろ!この神々しいシプレのチャイナドレス姿を!香港支部限定の特製ジャケットだけに書き下ろされたファン垂涎の品だぞ?神棚に飾って祈るレベルだろうが!?」
「あ。え~~?」
ひたすら困惑、戸惑い続けるエノハの下にようやく助け船が現れた。
「あ…エノハさん?ちょっとお話が…神機整備室にまで来られますか?」
朝食後、ずっと神機整備室にこもりきりだったくせ毛の少年―ハイド担当の神機整備士のノエルがリグの剣幕に気圧されているエノハの姿に「取り込み中ですか?時間…改めましょうか?」と言いたげにぼさぼさの頭を掻きながら控えめに入ってくる。
「なんだよノエル…いいとこなのによ」
リグはあからさまに不機嫌そうな顔をしてノエルをにらむが―
「の、ノエル!?ど、どうした?今行く、すぐ行く!!どんと行く!!」
「いや!そんな気遣いいらんから!!」と言いたげに一気にノエルに走り寄り、エノハは神機整備室に逃げるように直行する。
そんな彼を見送ったのち、「やべぇ。チャイナドレス姿のシプレ美し過ぎるぜ…このスリット部分が…」とリグが独りごちる。
神機整備室にて―
うんうんとうなりを上げ、重苦しく稼働する機器の音が響く薄暗い部屋でエノハとノエルの二人は「彼」を眺めていた。
「俺の神機が…『スモルト』が暫く使えない?」
「はい」
ノエルが緑がかった培養液に浸され、「彼」―休眠状態のエノハの神機スモルトのデータを手元の端末に入力しながらエノハの質問に頷く。
「元々『レベル4』というまだまだブラックボックスの多い新機構を採用しているだけに他の神機に比べて再生、回復が遅いんです。神機自体の性格もリミットが外れると暴走傾向になる暴れ馬…負担が大きいんでしょう」
ノエルは端末を入力し終わるとエノハの方向を振り返り、やや心配そうに細い目を歪ませた。
「ロシア支部で…使いましたね?『レベル4』」
「…ばれたか」
先日の極東ロシアでの「彼女」との遭遇、また例の固有種―敵性アラガミの討伐をエノハは報告していない。彼女を「あの地」で眠らせてやるために。だがリグ以外のハイドの全員がどうやら何となく気付いているようであった。
「…何があったか知りませんし、深くも聞きません。エノハさんの事だから『レイス』達を気遣ったんでしょうけど…あんまり無理しないでくださいね。いろんな意味で」
「…痛み入るよ。ノエル」
「だから今回はエノハさんはお休みで。『レイス』、アナン、そしてリグや僕たちに任せてください」
ノエルはにこりと笑って手元の端末を閉じ、ふわわ、と大きな欠伸をする。しかし―その力の抜けるような彼の大欠伸を眺めるエノハの顔が対照的に曇る。
「『今回』…ということはノエル…俺たちの次の任務地が決まったのか」
「…ええ。神機達の輸送手配の件で先日一足早く連絡が僕に入りました。かなりの長旅になる上に少々特殊な場所柄でして…現地に入る前に一足早く整備士は入念なチェックが必要ですから。…ふふっ。持ち主と一緒でとかく気候変動にうるさい神機もありますしね?」
苦笑いしながら恐らくアナンと彼女の神機の事であろう愚痴をこぼすノエル。しかし―
「それに今回…そのフェンリルの支局に協力を頼むことが『非常に難しい』とのことなんで」
再び表情を引き締め、ノエルはそう呟く。
「任務地はフェンリル管轄外ってトコか。…サテライト支部関連か?」
「いえ…れっきとしたフェンリル管轄の支部です。それも大御所です。しかし今回に限ってフェンリルの協力は恐らく期待できない、とのことです。ママによると」
彼らの属する部隊―ハイドは公式には存在していないアラガミ討伐部隊とはいえ、世界各地域を訪れた際にはハイドを統括するレア・クラウディウスにとって信頼のおけるフェンリル役員達からの協力が少なからずあった。(まぁ極秘かつ個人的な支援要請や討伐依頼もしてくるのだから当然だが)
「どこの支部だ…そこは?」
「…フェンリル香港支部です。っていうかママとナルさんの話によると…正式な手順を踏んだら『僕らの入国手続きすら難儀するかもしれない』らしいです」
ノエルは顔を曇らせてこう続けた。
「どうやら香港支部上層部自体が…その今回のハイドの討伐目標の『アラガミ』を排除すること自体に難色を示しているらしいですね。詳細を聞いてみない事にはそれ以上何とも言えませんが―」
…一体どんな裏が―?
ノエルとエノハの共通のその疑問が解消されるのに大した時間はかからなかった。その日のうちにレアからのハイド全員の招集がかかり、事の経緯を彼女から聞いた彼らは思わず閉口することになる。
そのアラガミの狡猾さを。
そして
「本当に怖いのはやはり人間である」、という使い古された言葉を再認識して。
「…ノエル。さっき気遣ってもらえたところ早々悪いけど…やっぱり出来る限り俺が早く戦線復帰できるように最善を尽くしてくれ」
「…解りました。現地でも引き続きサルベージを継続します。少々設備が整わなくてもやって見せますよ」
「頼もしい」
「エノハさん!!ノエルとの与太話は終わったか!?なら見ろ!この香港限定のシプレのサードシングルに添付された特製ホログラフィセットを!!なんとここのボタンを押すと…見ろ!チャイナドレス姿のシプレが3D化して実体化だ!!一緒に歌って踊れるバーチャルアイドル!!ああ!この時代に生まれてよかったぁ!!」
「…」
「…」
「あ?」
「まさかリグ…君に癒されるとは思ってもみなかったよ。成長したな…」
その夜―
「…」
「…」
リグは浮かび上がったホログラフィのシプレに禁断の口づけをかまそうとしていた姿をアナンに目撃される。しかし、当のアナンはその姿を見ていつもの様に「見ちゃった!見ちゃった!弱みを掴んだ~~!」と、嬉々として喜ぶかと思いきや。
「…」
―ちょっ、ゴメン。…マジ無理。ホント無理。
無言でリグの部屋のドアをゆっくりと閉めた。