確かに生物学上では男は生きていた。存在していた。しかしあくまでも生物学上。人間社会の上では存在していない。
確かに男は望まれて生まれてきた。そこに齟齬はない。ただしただの働き手として。その点は家畜と変わりはない。
「先に生まれてきた」という理由だけで愚鈍な兄は両親、祖父母に溺愛された。彼らにとって兄は「社会的に存在する」以上、この先の未来の自分達を支え、養い、そして自分たちの血脈、子孫を残すための唯一無二の生命線。
一方―
「後に生まれてきた」という理由だけで男には最低限の教育も、体調を崩した時や怪我をした時に受けられる医療加護も無かった。両者、祖父母にとって公には存在すらしてはいけないから外の世界との交流も最低限。
―お前がお腹に居る段階で「男」じゃ無いと解っていたらお前はそもそも存在すらしていなかったかもしれないんだ。それだけでも感謝しろ。
男が事あるごとに両親に言われた言葉だ。純粋な力仕事の働き手として身体的に劣る女児が生まれることはこの両親にとって不都合だった。どうやら後から聞いた話では兄が生まれる前にも本来「姉」として存在したはずの子供も居たようだ。それも複数いたらしい。そんな生まれることすら許されなかった存在達に比べれば自分はまだマシ、生きていること自体に感謝。そんな風にいつしか男は―
…思えるわけがなかった。
男は家族を、この国を、法を、そして世界を呪った。そしていつしかこう思うようになった。
―こんな生きづらい、糞の掃き溜めみたいな世界などいっそ壊れてしまえばいい。
と。
そしてそんな男の思い通りに確かに世界は壊れた。
アラガミ出現―
幼少の頃から散々に甘やかし、望むものを全て与えた結果、まるまると肥え太った愚鈍な兄に頼りなく先導され、手を引かれた老いた両親、祖父母は男にとって痛快なぐらい醜い悲鳴と奇声を発しながら兄と一緒にアラガミに貪り喰われた。
その声を背にしながらも全く振り返る事無く男は駆けた。背後で響く便宜上小さい頃から呼ばれていた自分の名前を喧しく下品な声で連呼する彼らに全く何の感慨も湧かなかった。
―そんなお前らに付けられた手垢のついた名前など俺はもう要らない。むしろ俺は存在してなどいないのだから名前など不要。
…いや―
ようやく俺は今日生まれたんだ。名前はこれから付ければいい。俺が俺自身の為に。
これは荒ぶる神によって世界が壊れたこの日、初めて人としての「生」が開け、そして拓いた男の物語。
現在―香港支部
「…」
かける言葉など有るわけがない。「サクラ」はただ無言のまま淡々と自分の生い立ちを語った現在「林」と名乗る男の話を聞いていた。
「知識も教養も、そして存在すらもしていなかった人間を厳粛に判別、選別を行えるほど全世界的に余裕が無かったのも幸いでね、キャパの許す限り難民を受け入れていたこの香港支部に幸いにも私は潜り込むことが出来た」
男には元々「知識欲」があった。社会的に「存在」する人間である以上、発生する教育の義務を生来与えられるのが当たり前だった兄は学習という行為を毛嫌いしていた。逆に人としてそんな当たり前の権利すら与えられていなかった男にとって学習という行為そのものが純粋に魅力的であった。何故あの兄はこれを自ら放棄するのか不思議に思ったまま男は両親に隠れ、兄が逃げた後、ポツンと置き去りにされた学習教材、学習端末等を拝借。密かに様々な知識を蓄積する。純粋な興味と同時、これには目的があった。
いつかこの家族の下から逃げ出し、外の世界に出られた時にこの学習、そして経験を活かそうとしていたのだ。
そして「あの日」、とうとう念願は叶う。男は外の世界へ飛び出すことができた。
しかし、男にとって情報の錯綜する外の世界は予想以上の未知との遭遇だらけであった。巷にあふれる教科書には収まりきらない桁違いの情報量、また情報の真偽、または質の良し悪しを自分なりに整理、精査する技術が圧倒的に足りなかった。
まさしく「井の中の蛙、大海を知らず」。今でも男はこの時をよく生き延びられたなと思っている。彼の人生、これは生涯最高の幸運と言ってもいい。
いや、彼の生来の情報収集欲、知識欲があまりにも細い天空からの蜘蛛の糸を手繰り寄せたと言えるのかもしれない。
生まれてこのかた何も持っていない、そして文字通りの完全な手ぶら状態で外の世界に飛び出た男にとって出来ることはまず何よりも「奪う」ことであった。
「…香港支部に辿り着くまではアラガミを避けてアジア大陸各地を転々としていた…。どこの誰のものかもしれない朽ち果てた死体から携帯端末を盗む日々だ。戸籍の存在しない私が携帯電話を持つなど不可能であったからな」
「…」
「『ここが安全だ』逆に『ここは危険だ』という真偽不明な情報をその都度手に入れては走り、逃げ回る日々…時には『この該当地域は政府によっていずれ核熱処理される予定。付近の住民は自己責任で回避せよ』…などあってな…ふふっ!あっわてふためいて逃げたものだ。退屈しなかったよ!」
林は楽しそうにそう語ったが到底聞いている「サクラ」にとって同調して笑えるような内容ではなかった。
核熱処理―詰まるところ核兵器による無差別規模のアラガミ掃討作戦である。国土と国民が焦土と化そうとも背に腹は代えられない状況にまで世界は追い込まれていた。
「世界規模の混乱の最中で国際世論や国際非難など最早形骸化した無法状態であったからな。…この国も御多分に漏れず色々試した。通常兵器、核兵器は勿論のこと、劣化ウラン弾、そしてVXガスなどの国際法規上使用が禁止されていた毒ガス兵器、はたまた細菌、ウィルス兵器まで用いた。…だがそれの悉くを無効化したアラガミに状況は全く好転することなく、逆にそれらの兵器の使用は自分達の首を絞めるだけに他ならなかった」
「…」
「君も知っての通り『アラガミによって全世界の人口の約九割が消失した』と現在では語られている。が…一説によればその三分の一、もしくは半分近くは人間の内輪揉めや特殊兵器使用、またはそれに伴う二次被害によって生じた犠牲である可能性が高いと言われている。直接の被害を免れた者たちも後々残る残存放射能やアラガミとの接触によって変質したウィルス、細菌感染に罹ったり、焦土と化した大地に作物が芽吹かなくなった結果、起きた大規模な飢饉の発生などによって栄養状態、衛生状態も悪化…人は弱い順に次々と命を落としていった」
その有様のほんの一端が「これだ」と言わんばかりに林は自分の体を両手を広げて「サクラ」に見せた。その病的な顔色、用を成さない短くなった両足、そして「レイス」が「正直生きてるのが不思議なくらい」と語っていた複数の病魔に侵された体である。
「どう控えめに言っても地獄だった…」
林はそう呟きながら再び香港支部の街並みに目を向ける。まるで今見ている様にかつての地獄の如き炎に晒された世界を見据えるように。そして一転、今まで「サクラ」、いや黒泉の構成員にすら見せたことのない苦悶の表情を浮かべて林は目を伏せてこう呟いた。
「違う…」
「え…?」
「違う。私が…。…『俺』が望んだことはそう言う意味じゃ、こんな意味じゃない…」
「老、師…?」
「違う…」
「サクラ」の戸惑いの声も耳に入らず、林は尚も呪詛の様にそう呟き続けた。
確かに彼はかつて世界が壊れることを望んだ。
実際それが訪れた時、内心歓喜に満ちたものだ。全てを呪い生きていた彼の世界を根底からひっくり返して崩壊させてくれたのだから。
その時を「自分の新たな誕生の時である」と認識したぐらいに。
だが―
それがただの世間知らずの、これまた「井の中の蛙」の何とも見識の浅い短慮で一時的な感情であったことを男は地獄の如き世界を歩き回って思い知る。
死体から携帯、タブレット情報端末などを漁っては取り出し、情報を収集しつつ生と死の綱渡りを続ける生活。端末の充電が切れるたびに何の躊躇いもなく放り捨てて次々と他の端末に取り換えた。そんな日々の中で時折、その朽ちかけの端末から数々の反応があった。
SNS、メール、災害伝言板、そして電話着信。
男は最初は目もくれなかった。気にも留めなかった。ただただ自分が生き残るための情報、知識だけをそれから収集し、電源が尽きれば捨てて次の端末を探す。幸い死人、死体に事欠かない時代だ。果たして何十人、何百人の死体から情報端末を男は奪っては捨てるを繰り返した。
しかしある日、次第に男は情報を手に入れるだけでなく、今持っている携帯端末のかつての持ち主の感情や思いを知りたくなった。
何せその一つ一つはほぼ四六時中その持ち主の人間と共にあったもの。当然それ相応に個々の人間の個性を反映する。
うるさいぐらいひっきりなしに知人や友人、両親や親戚からメールや着信の類が来る端末もある。かと思えば逆に何の音沙汰もなく黙り続ける端末もある。後者の方が当然電源の持ちがいいので男にとっては都合が良かった。が、果たしていつからだろうか。…何故かそんな端末に触れ続けると妙に心がざわついたのは。
他人の端末を次々と渡り歩くことによって生まれた感情は男にとって何時しか「孤独感」に形を変えていく。色んな事を考えてしまうようになった。
この持ち主は元々自分と同じ孤独な人間だったのか。
それとも知人、友人、家族達も既にこの世界規模の混乱のさ中全員が死に絶えてしまい、連絡を取る相手、必要が無くなってしまったものなのか。
若しくはもう自分以外の人間は死に絶え、この世界に自分だけ取り残されてしまったのではないか―?
日に日に物言わなくなる数々の携帯端末を前に男はそう考えるようになった。
そんな日々が続いたとある日の事―
いつもの様に死体漁り。今日は自分の子供を抱きかかえながら死んでいた母親らしき女性が握っていた携帯端末を男は手に取る。死後硬直かもしくは死の直前のよほどの恐怖、もしくは無念さのせいか妙に固く閉じられた掌から引っぺがし、画面を確認してみる。すると最早残りの電池は僅かで直ぐに「用済み」になることが解った。が、男は不思議とさっさと手放す気になれず、しばらく眺めていた。開いた待受け画像が死んでいた母親とその子供の仲睦まじい光景を映しとったものであったからだ。
本来の「家族」とはこういうモノであるということを男は知りつつあった。
―……!!
そんな時、突然男の端末の画面が「電話着信画面」に切り替わる。
いつもなら絶対に取ることはない。しかし男は其の日―初めて誰とも知れない携帯の通話ボタンを押した。通話相手はあの子供と共に死んでいた女性の…夫からであった。
ようやく連絡がついたことに相当安堵したのか、逆に興奮したのか次々とこちら側の近況、状況を聞いてくる電話下の相手に少々男は気圧される。
恐らく―
残り少ない電池残量を必死で気にしながら電源を維持しつつ、あの女性はこの連絡を待っていたのだろう。この通話相手―夫からの電話を。
…「毒ガスによって自分たちが今いるこの地域がいずれ汚染される」という情報を手にし、いち早くこの場を離れることよりも。
女性は夫との連絡を取ることを優先し、最低限電池の消費を抑えていた―つまりこの端末による近況、周辺状況、情報の聞き漏らし、見逃しが発生しかねないということだ。
その結果、彼女は運悪く避難が遅れ、子供と共にここで死ぬほかなかった―男の中で容易にそんな仮説が成り立った。
電話下に出た夫がまくしたてる声を前にして暫し無言になる他なかった。なにせ「結果が結果」であるし、気が引けた。このまま電源を落としてしまおうかとも思った。
しかし意を決した。初めて男は盗んだ携帯端末で会話し、その夫に妻らしき女性とその子供が既に死んでいたことを伝えた。下手をすれば「盗んだのではないか、もしくは彼女達を殺したのはお前ではないか」などと罵倒されてもおかしくない状況ではあった。が、切れかけの電源で最後に電話の向こうで女性の夫が男に呟いた言葉はあまりに意外なものだった。
それは涙交じりの
「…謝謝」
という言葉であった。
その言葉を聞いた途端、役目を果たした様に女性の携帯端末の電源は切れ、男が電源を何度押してももう二度とつくことはなかった。朽ちた端末を握りしめながら男は言い知れない感情に包まれ、汚れた両の拳を地面に叩きつけ、叫ぶほかなかった。
世界に向けて。そして他ならぬ自分に向けて。
―確かに。
俺は世界を呪ったっ…!!「壊れてしまえ」と望んだ!願った!!でも違う!!
これは違う!!こんなっ……意味じゃない!!!!!
もうどうでも良くなった。言い知れない罪の意識に苛まれた男はその場から動かなくなった。「このままもうここで朽ちてもいい」と思った。
人知れず車輪に潰され、道の上でひしゃげた蛙の様に男は這いつくばって目を閉じる。
しかし―
次に彼が目覚めた場所はまた「井戸の中」であった。
男は生き残っていた。
女性の夫との通話によって男が持っていた携帯端末の位置―詰まるところ「男の位置情報」を割り出していた女性の夫は妻の携帯端末を持って倒れていた名も知らぬ男を保護し、この「井戸の中」へ運んでいた。
後に「フェンリル香港支部」と名を変え、数々の歴史の気紛れによって何とも数奇な運命を辿ったこの因縁の地―
…香港へと。
男を救ったこの女性の夫こそ香港の裏社会、黒社会を牛耳る―現在の黒泉(ヘイセン)の前身となるマフィア組織の長。アラガミによる世界的混乱の最中、香港の「必要悪」として手腕を発揮し、後のフェンリル香港支部発足の為に尽力した裏社会の顔役である。
彼はアラガミ出現の混乱の最中、脇目も振らず自らの仕事に奔走して全うし、フェンリル香港支部の礎となる功績を間違いなく残した。まさしく「影」の英雄である。
しかし―
結果、自分の血生臭い仕事に巻き込ませたくないがゆえに離れて暮らしていた妻と子供を救えず、失った。
引き換えに。
奇妙な縁にて出会った「存在しない」男をこの香港に招き入れ、自分の後釜として育て上げることとなる。
そしてその名も無き、存在すらもなかった男にかつてこの地を、そしてこの国を守ろうとした英雄の名を与えた。
その名も―
「林 則徐」。