ねぇ…ママ?
うん?なぁに?リュー。
何で僕のパパはいつもお家に居ないの?僕らに会いにきてくれないの?
う〜ん。リューのパパはね?それはそれは今と〜〜っても大事でと〜〜っても大変なお仕事を毎日、まぁ〜いにちっしてるの。だから、とっても忙しくて私たちになかなか会いに来られないのよ。
そうなんだ。でもそれってそんなに大事なお仕事なの?僕のこと…ううん…。ママのことよりも?
…。
ママはさ…それでいい、…の?
え…?
いつも寂しそうに電話、見てるから。電話かかってこないから。
…。むむむ〜〜。…んふふっ。ふふっ、あっはは〜よく見てるなぁ〜〜賢いなぁ〜〜リューは。ママはうれしいぞ〜?
…。
そ、そんな目で見ないで…。ママ居た堪れないよぉ。…うん。ママもホントはリューと一緒だよ。おんなじ気持ちになった事はあるよ。でも、ね?聞いてリュー。
…うん。
ママはパパの事が大好きだから。そしてそんな大好きなパパが今大事に思っている事、大事に思っている場所、大事に思っている人達のために一生懸命頑張っていることを解ってるからママは我慢出来るんだ。で、きっとパパも我慢して居るんだと思う。きっとパパもリューに逢いたいしママにも逢いたいと思ってくれてる。
…。
それが解るから今は逢えないの。ごめんねリュー。
わかった。でも、ママ。一つ…聞いていい?
どうぞどうぞ♪
僕のパパってさ…そもそもどんなお仕事をしているの?
わお。…我が子の成長に伴い、直面する避けては通れない質問の一つですね〜。いい質問です♪うんうん♪
そうね〜う〜〜ん。なんて言えばいいのかな…。ん〜〜〜。ん…!そだ!パパはね。今のリューと一緒なの。
今の僕と…一緒?
そ!ほら。今リューが建てようとしている立派な積み木のお城があるでしょ?いよいよ完成間近のそれね?そこの今ちょうど天辺のところにリューはこの三角形の積み木を置こうとしてるよね?
…うん。
リューがここまで大事に大事に一個一個積み木を積んで出来た立派なこのお城も、いざこの最後の積み木を乗っけるのを失敗しちゃえばガラガラガラ〜〜って一気に崩れちゃうよね?だから慎重に、怖いけど、と〜ってもおっかないけどゆ〜っくり乗っけなきゃいけないよね?そんなお仕事を今はパパはしてるって言ったら分かり易いかな。
パパも…お城を作ってるの?じゃあ大工さんなの?
…んん〜〜っ、まぁちょ〜っと微妙に違うんだけど…。…。ううん…案外そんなトコなのかもね。ママもよく分かんないや。はははっ♪
ママはさ。本当はパパのお仕事何してるのかってハッキリ知らないんじゃないの?
がが〜〜ん!リューにそうはっきり言われるとママ悲しいなぁ…。シクシク…。
…涙出てない。嘘泣きだぁ。
か・わ・い・くない子ね〜〜。ふん。ママグレちゃうぞ?…でもね。パパのお仕事がとっても大事でたくさんの人の支えになって、たくさんの人の役に立ってるってことは解るんだ。こんなママにもそれだけは分かるんだ。…痛いぐらいに。
パパは…凄い人なの?
うん!!だってこんなに賢くて強くて、おまけに優しいママ自慢のリューのお父さんなんだもん。凄い人に決まってるよ!!
…。
だから〜パパと離れてても、会えなくてもママは我慢出来るの。だってそもそもママにはリューが居るし?寂しくないっ。
…。
ふふふ〜〜照れない照れない♪あ〜もう可愛いなぁ〜リューったら。いい子いい子❤️
…。
んふふ…ねぇリュー?
…うん?
ママも手伝うよ。一番てっぺんに置く最後の積み木さ…一緒に、乗っけよっか?
…いいよ。僕の足引っ張らないでね。ママ。
善処させていただきます♪
四十年後ー
207x年
香港支部。7月1日夕刻。
「…。ん〜〜…夢か…懐かしいネ。あの時の夢なんて二度と見ることなんテないと思っていたケド」
目覚めた男ーチャン・リューズは脂気のない髪をさらりと拭い、こめかみをくりくりと指先でいじりつつ意識を整える。そして徐に支部長権限を持つ人間に与えられる派手さは無いが上質な皮革素材で誂えられた黒塗りのチェアから立ち上がり、窓際ーフェンリル香港支部屋上の支部長室から眼下に広がる返還祭に浮かされた支部を見下ろす。
「マザー…ライトを消して」
『了解しました。リュー。消灯いたします』
彼のその言葉に反応した中央コンピューター「マザー」が集音マイクを通して下された主の意に従い、室内を消灯する。が、それがより現在返還祭に浮かれた香港支部の輪郭、いつもより一層煌びやかな街並みの光、そして夜空を彩る無数の花火が照明の代わりにチャンの顔を斑に照らし出す。
「ありがとう」
『いいえどういたしまして。リュー。また何でも申し付けくださいませ』
中央コンピューターに対して形式通りの言葉を交わしたのち支部長室は再び沈黙に包まれ、辺りに響き渡る花火の炸裂音だけが遠雷の如く控えめに室内に連続に響き渡っていた。
「……」
ここに居るチャンが自らが統治し、この時代においては世界で屈指の繁栄を遂げた支部ー煌びやかで豪奢なまさしく、彼自らの卓越した手腕を象徴するかのような圧倒的な光景だ。それを遥か眼下に見下ろす瞬間ーこれこそ統治者冥利に尽きるという瞬間…のはずである。
しかしー
今チャン・リューズが浮かべている表情はいつもの様ににやにや、ニコニコと掴みどころのない満足げな笑顔ではないー
ー…。
全くの無表情。その彼の表情を第三者が見たのであれば全くの「無感情である」と断ずるほどの「白紙」の表情だった。彼が従える幾人ものフェンリル役員、部下はおろか形式的には「家族」である数十人の妻、愛人、そして彼女らに産ませた血を分けた自分の子供らにすら見せたことのない表情を彼は今浮かべている。
「巨大なコロニーである一支部を統べる支部長」というこの時代において一種の頂点と言えるほどの肩書き、それに追随する財力、権力を兼ね備えた世界でも有数の成功者の一人であるにも関わらず、今この時、彼はまるでそこに「存在していない」、「生きてもいない」かのような佇まいをしていた。
いや、そういう意味で言うなら彼は。
…もはや「あの時」に死んでいたのかもしれない。
時は遡る。
「あの時」、「あの場所」へ。
荒ぶる神によって世界が食い荒らされている最中の世界の片隅で。
積み木崩し
…ゴホッ…ガホッ…あ、ハハハ…。ご、めん、ね?リュー。ママ…いっつも、い、っつもドジで…馬、鹿でさ。は、はは…。
…。
ーもういい。もういいよ。ママ。
ボクは幸せだった。ママの子供に生まれて。他にもう何もいらなかった。
新しいおもちゃも、美味しい食べ物も、大きなお家も、友達も何もいらない。ただママが傍にいる事がボクにとって最高の幸せだった。最後の最期のこの時まで一緒に居られるんだから、今もママが強く抱き留めてくれているんだから、ボクはもうこれ以上何も望まないし何も怖くないし悲しくもない。
…だからさ。
そんな悲しい顔しないでよ。
だってこの「ボク」がいるんだよ?ママの自慢で賢くて強いボクが。
なのにそんな「誰か助けて」って顔しないで。「私はいいから誰かこの子を助けて」って顔しないで。
「ボク以外の誰か」を求めないで。最後の最期のこの時にボク以外のことを考えないでよ。
わかってる。わかってるよ。ボクを見るママのその目、その先に写っている「もの」が。
わかっちゃうんだよ。ボクは。だってボクは賢いんだもん。強いんだもん。優しくて柔らかい最高のママの子供だもん。
ボクを強く抱きしめながらそんな悲しい声をあげないで。泣かないで。ボクと一緒に死ねるんだから幸せだって言って。
今はただ「ボク以外の誰か」を求めないで。
「…助、けて。私達のリューを守っ、て…貴方」
…。
そんなこと―
言わないで。
ー数分後。
「…んん…」
頑なに閉じられた母の両腕の中で少年は息を吹き返した。母親の体によって包まれたことにより彼女の着衣が周囲に散布された毒ガス兵器の毒性をある程度濾過、フィルター替わりとなった上、おまけに風向きが変わって比較的早くこの母子の居た地点は人間が生命維持が可能になるレベルにまで大気成分を元に戻していた。
少年はまさしく奇跡的に九死に一生を得たのだ。
だがそれが何だというのだ。奇跡がなんだと言うのだ。
現状吸引した毒ガスによって満足に呼吸もままならず、肺は悲鳴をあげ幼少の子供にとってあまりにも辛い鈍痛を与える。まともに声も上げられない状態だ。
しかし、一方でその痛みこそ生きている証とも言えた。痛みは己の生存を証明する何よりの吉報でもある。少年は自分の生存をはっきりと自覚した。
だが繰り返す。それがなんだと言うのだ。それの何が吉報なものか。
もう何も聞こえない。感じないのだから。
意識の覚醒に追随して機能し始めた彼の五感のうち、二つが完全に「否定」している。その事実が自己の生存という何よりの吉報を鼻で笑い飛ばすほどの不吉ー凶報を示唆していた。
耳に届くはずの愛しい母の鼓動の音が。
皮膚から伝わる体温が。
…無い。
いつも傍にあり、少年にとって何よりも大切だった居場所、その音が、温もりが喪われている。こんなに傍にいるはずなのにまるで寒い。体を包む悪寒が消えない。まるで生まれ育った暖かい見知った故郷がほんの一瞬きの後に極北の知らない真っ白な虚無の氷の世界に変わり果ててしまったかのような感覚だ。
それが意味することを少年は頭で必死に否定する。頑なに。受け入れない。
…受け入れたくない。でも今生きている五感のうち、「聴覚」、「触覚」が尚も告げてくるのだ。
受け入れろ、と。
これは紛れもない事実だ、と。
そう言いたげに。
「嫌だ」と少年はまだ否定する。その冷たくなった体を小さな身体で必死で抱き止める。たとえ小さな自分の体でも体温を与えれえばその体は再び熱を帯びるはずだと信じて。
五感の内、「嗅覚」は確かに未だ証明している。味方でいてくれる。「この場所は間違いなくお前の居場所だ」と。いつもと変わらない優しく、柔らかな香りは尚喪われてはいない。
「味覚」は…あとでいい。美味しい料理をまた作ってもらえればいい話だ。…正直あんまり母は料理が上手でなかった。よく失敗もした。それでも今の自分には母の作った料理は何であろうと最高のご馳走になるはずだ。
「視覚」も…我慢だ。あの少し頼りない、でも天使のような微笑みで自分に笑いかける姿を楽しみにして今はただ閉じていよう。でもなんだ?この両の目からあふれでるしょっぱい水は。邪魔な事この上ない。
「聴覚」は…少し厄介だ。五感の中でも最も防ぐ、ふさぐ、謂わば機能を停止させることが困難な部位の一つだ。耳を塞いでも距離が近ければ聞こえてしまうし、いろんな情報が一人でに入ってきてしまう。その証拠に母が珍しく自分を怒る時や小言を言う時、その声はどんなに頑張って耳を塞いでも、わずかにでも聞き届いていたからだ。「聞こえる」という事は何とも不便なことだと幼心ながら少年はいつも感じていたものだ。
でも今は聞こえない。何も聞こえない。
母が自分を包み込む際に聞こえた鼓動ー
それが今はただただ「聞こえないこと」がものすごく怖い。少年は「聞こえなくなれ」、「聞こえない事が聞こえなくなれ」ーそう心の中で繰り返す。しかしー
ごそ
ごそ…
聞こえてきたあまりに不意のそんな「異音」に少年は硬く瞑ることによって行使を放棄していた「視覚」ー目を反射的に僅かに開けた。そして直後、その光景に直ぐに愕然と目を見開くことになった。
ーえ。え?え…?
…誰?
ごそ
ごそ
見知らぬ浮浪者のような小汚い男があろうことか血の気が失せた白く細い母の指先を弄っていた。一体何をしているのか?
そんなの決まっている。見ただけでわかる。彼女の頑なに開こうとしない掌を不躾にもこじ開けてその手に握られた「物体」を取り出そうとしているのだ。
その「物体」を少年は母が自分の目を盗み、覗きこむ光景をいつも見ていたものだった。
ーぬ〜うぬぬ〜〜うにゅにゅ〜〜!!
そんな奇声を発しつつ悩み、頭を抱え、思案し、コロコロと表情を変え、時にイライラ、時にモヤモヤ、時にニヤニヤ気持ち悪い母の姿を見てきた。
時に椅子に座りながら、時に立ちすくみながら、時にベッドに横たわりながら、ぐしぐしと頭を掻きながら、不機嫌そうな猫が尻尾をパタパタ叩くみたいに足をバタつかせたりしながら、ひとりごちながら。
ー…連絡こないかな。あの人の声、聞きたいな〜〜。でも…迷惑かな。いやいや!そんなことないでショ!私って一応!!本命!!!…の、はず、だし…?ええい!!ふんぎれ!!こっちからかけちゃおう!!…。ううううう、でも…「忙しいからかけてくんな」とか言われたら私多分当分立ち直れないぞ〜〜?うぇ〜〜ん…。
その時のカッコ悪くてイタい母の姿は毎度毎度少年にとって嫉妬と不機嫌を生む種だったが、いつしかそんなツッコミどころ満載の母の姿を見るのも好きになった。バリエーション豊かな母の奇行もまた少年にとって微笑ましかった。
いつかアレをどこか隠しでもして母をびっくりさせてやろう、困らせてやろうと最初は思っていたその「物体」ースマートフォン。
それを今見知らぬ男が必死に母の手から奪い取ろうとしているのだ。みすぼらしい汚い手で。
ー触るな……!!!
小さな少年の頭がかつてない程の怒りに沸騰する。そして次に心のなかで何度もこう繰り返す。やめろ、やめろと。
ーそれはママの大事なものだ。ずっと、ずっと待ってたんだ。確かに僕はそれが疎ましかったし妬ましかった。でも本当に、本当に大切なものなんだ。
厳密にいうとその「物」自体に大した意味はない。ただの道具に過ぎない。しかし、それを介して届くもの、伝える、伝わることこそ大いに、本当に意味がある。
だから母から奪ってほしくない。おいそれと触れてほしくさえないのだ。見知らぬ男どころか息子である自分にすら安易に触れて良いものでは無かったそれを。
ー…やめてよ。
お願いだからそれ持っていかないで。待っているんだって。ママは待ってるんだ。ずっとずっと待ってるんだ。
悔しいけど。腹が立つけど
僕じゃない。僕じゃできないもの、できないことをできる、与えられるママにとってたった一人のー
パパを待ってるんだ。
パパの声を、言葉を、助けに来てくれるのを待ってるんだ。
大好きなんだ。
きっとママは僕よりパパのことがずっと。…ずぅ〜っと!!
そんな悲痛な、声にならない訴えをただただ少年は見知らぬ男に向かって心の底で叫び続けた。だが…
ごそ…。
その願い虚しく、母の手元から引き剥がしたスマホを手にした小汚い男はチラリと母を一瞥したのち、わずかに一礼するような動作をしたのち踵を返し、それを持ち去っていく。
ー待って…待ってよ!!行かないで!!
ひどい。
…なんで?
なんで来てくれないの?
こんな時に。ママがこんな時に。ママもボクもこんな目に遭っているのに。
なぜ来てくれないの!?
パパ。
パパは…
…僕とママを捨てたの?
自らの小さな手をみすぼらしい男の背中にわずかに伸ばしたその光景がその時、少年の目に映った最後の光景であった。失意と絶望の中、再び少年の意識は閉ざされた。
数時間後ー
母の手から奪われた携帯端末によって行われた通話でスマホを奪った男の現在地を特定されたことをきっかけに少年は男と共に保護される。そこから意識を回復した男にさらに遅れて10日後、再び少年は息を吹き返した。
母は死に、少年は生き残ったのだ。
…否。
確かに少年は生きてはいたが。
最早心は死んでいた。
彼を保護した実の父親であり、同時香港の影の顔役でもあった男は自分が本当に心から愛した女とその女が産んだ子供に「関らせたくない」、「自分と同じ血塗られた裏家業の道は歩んでほしくない」と言う思いから距離を置いていた。代わりに母子が生きていくには困らない程度の金を定期的には送り続けた。が、それに一切手をつける事なく突っ返してくる強気で、しかし可愛い女に対しての愛情は日に日に増していた。
間違いなく男は女を愛していた。
そしてそんな女が自分のために産んでくれた可愛い我が子にいつか会える日を夢見て、糧にして過酷な裏稼業の日々を過ごしていた。
しかしー
男の背負っていたものは重かった。重過ぎた。この巨大な香港という何十万もの人とコミュニティを内包する巨大な船。それを突然の荒ぶる神の跋扈という未曾有の危機から脱する船出を優先した。
結果、世界中の誰よりも愛する女を守れず死なせてしまった。そしてようやく邂逅を果たせた息子もそのショックで心が壊れてしまっていた。
他人には察するに余りある想像を絶する残酷な結末の自責の念に男は駆られた。その上、自分の稼業においてこの心に大きな傷を負った息子がこれまで以上に危険に晒される最悪の可能性を懸念し、男は自分が父親として名乗り出ることなく息子をとある有力貴族の元に養子に出す。
そこが表向きは対立関係でありながらも、裏では「盟友」と呼ぶに相応しい協力関係にあった有力貴族の一つー張(チャン)家であった。
男が香港の「裏」の世界の有力者であるならば、張家はまさしく「表」の世界の有力者。心身ともに傷を負った息子を真っ当に育て、心のケアも怠らない信用に足る人間、一族であろうとの判断のもと彼をその家に託す。
世界中の人間が未曾有の危機に晒されている世の中、そこで「完全に安泰」とは行かなくとも、この世界をある程度平等に、俯瞰で見る程度の余裕と知識を授かることの出来る環境は与えてやりたい。
ー理不尽と暴力に塗れた自分の道を歩む必要はない。
それが愛する妻の命を、そして息子の心を守りきれなかった自分が出来るただ一つの贖罪…と言うのもおごがましいがただ一つ出来うることだと男は決断し、息子を手放した。父親と名乗りでることも、直接顔を合わせることすらもしなかった。
そして「張家」に息子を正式に預ける前日ー男は最後に息子の顔をと己の分刻みの予定の合間を縫い、一時的に息子を預けている保護施設を訪れた。
ー…。
と言ってもマジックミラーを隔てた壁一枚越し。施設職員に心のカウンセリングを受けながら積み木遊びをする表情を失った我が子の横顔を見るだけだ。それを暫時目に焼き付け、そして振り切る様にして無言のまま視線を逸らし、背を向けて男は自らの世界に戻っていった。時間にしてほんの数分の事である。
ここでこの父子の道は完全に分たれたー
はずだった。
「……」
壁一枚越しではあるもののおそらく今までの人生でこの父子が最も接近した瞬間であろう。対面ではなく一方的なものではあったが。
しかしー
少年に確信はない。根拠もない。だが…彼は気付いていた。
壁一枚越しのマジックミラーを通して父が自分を見ていたことを。そして背を向けたことも感じ取っていた。
謂わば父が自分を「捨てた」瞬間を感じ取っていた。
ガラガラガラ…
今の少年の身長を僅かに超えるまで、高く高く積み上げられた積み木の城が頂上、最後の積み木を置く寸前に音を立てて崩れ落ちる。崩れたそれに何の興味を抱く事なく、少年は自分に背を向けた父の背中を見送るようにその方向をじっと見つめていた。
それから二十数年後ー
父子は再会した。
場所は朽ち果てたスラムの一画。後に他の地区の人間には「幽霊(ユリン)」と揶揄される当時から「姥捨て」に近い扱いをされていた区画。そこにはもはや後は死を待つ他無い連中ーもはやこの世界に見捨てられたと言って過言では無い人間が一括りに集められた集合施設があり、そこに男は先日自ら身を寄せた。
世話人も満足に居ない上、ろくに修繕もされず朽ち果て、おまけに入居者が死んでからも気づかれないまましばらく放置されることも多い結果、死臭すら漂う不衛生極まりないその場にかつてこの香港を牛耳っていた男がいるなど誰が想像しようか。
晩年、気が触れたように繰り返した蛮行の数々があったとは言え、男は間違いなくこの香港支部を支えた功労者であり、マフィア内では未だ恩人として彼を慕う人間は多い。失脚し、全てを失った彼であるが、せめて晩年くらいは穏やかに過ごさせてやりたいと方々手を尽くし、姿を消した彼を探していたかつての部下達の目を掻い潜り、男はここを自分に相応しい終の住処として選んだ。
そこに他の誰よりも先に男の目の前に現れたのは現在、正真正銘この香港支部を表から牛耳り、新たな支部長として就任していたかつての少年ー
「…初めましテ。爸々(パーパ)」
男の実の息子であるリュー…いやチャン・リューズであった。死の床にふせる男の前で深々と彼は頭を下げたのち、こう呟いた。
「影からボクへの数々のサポートありがとうございましタ。お陰様で晴れてこの支部の頂上に立つことが出来ましタ♪御礼申し上げますヨ」
全てが淀み、濁ったような掃き溜めの施設の狭い一室で横たわり、ただ死を待っているみすぼらしい老人に対してあまりに似つかわしくない無邪気な笑顔を浮かべる。その顔をチラリと横目で見据え、男は内心「妻によく似ている」と思い、本当に久しぶりに表情を僅かに緩ませる。
例えその息子の笑顔があくまで表面のみを象ったものだとも分かっていても。
その時、男は悟る。結局自分は愛する妻だけでなく、息子を救う事もできていなかったのを。
この「事実」を誰よりもこの息子ーチャンは男に伝えたかったのだ。男の命の灯火が尽きる前に誰よりも先に彼を見つけ、直視させてやりたかったのだ。
ーお陰様で。ボクはこんなに立派になりましたよ。何せー
貴方が捨てた。
ボクのことよりも。
ママのことよりも貴方が愛し、優先したこの場所、この香港をー
「捨てられる」ぐらいには、…ネ。
と。
チャン・リューズの。
彼の本当の目的は。
父が自分の妻、息子を捨ててでも優先し、生涯の全てをかけて愛し、守ろうとしたこの香港支部を己自身の手で父以上にさらに発展させ、繁栄、栄華を極めさせ、とことん積み上げた上でー
崩すこと。
この鬱陶しく光り輝く海上の楼閣を、己の手腕を以て極限まで発展させた上で…「断捨離」する事。
表向きの賞賛も、栄華も、繁栄も、…彼自身が頻繁に行なっている「繁殖」にも興味はない。彼にとっては暇潰しのようなもの。
彼にとって最大の関心ごとは天辺の場所から積み上げたものの崩壊、積み木崩しの最期の瞬間を見届けることだ。
チャンは最後に男を車椅子に乗せ、収容施設の屋上に連れ出す。何もかもが最悪の環境、掃き溜めの割にこの収容施設は妙に立地だけは良かったため、屋上からは見事な香港支部全景を見渡せる。
だからこそ男はこの収容施設を終の住処として選んだのだ。それを息子のチャンは知っていた様子だった。
ーやはり。血は争えませんネェ?…爸々。私も好きなんですヨ。この支部の全景を見下ろすのがたまらなく。
…ま。
貴方がその時浮かべる感情と私の浮かべる感情は似て非なるものだったと思いますが、ネ。
そう思いません?爸々…?
カラカラと車椅子の車輪が空回りする音が響く。
この掃き溜めの最低辺の場所、そのさらに地べたの上。
そこには車輪に轢かれ、潰れた蛙の様なかつてこの地を支配していた男の死体があった。直前の異音を聞きつけ、駆けつけたこの施設の世話人の女の下卑た悲鳴が辺りに響き渡る。
その光景を無感動にチャンは見下ろしていた。
ー…。