真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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蛇足之9:治世の能臣。乱世の……

 

 

 

 

「趙忠様……益州刺史の代理の方より書簡が届いております」

 

 張譲に並ぶ権力を持つ十常侍趙忠は、洛陽の宮中にある自身の執務室にて仕事をしていたところ部下にそのような報告を受けた。益州とは漢王朝南西に位置する州であり、周囲を険しい山脈に囲われている盆地で天然の要塞とも言える場所だ。時代を遡れば漢の高祖である劉邦も、益州に属する漢中郡に西楚の覇王項羽によって流された地域という曰くもあった。だが最南西に位置するということもあってか中央に住む者達からしてみれば、益州は蛮族が住む僻地という認識が大多数を占めている状態であることは否定できなかった。

 

「益州から? わかった、見せてみろ」

 

 趙忠は一度手を止めると部下から書簡を受け取ると、開封して内容にざっと目を通す。長々と書かれてはいるが、要約すると蛮族が侵攻してきているため鎮圧するための兵を派遣して貰えないか、という内容であった。

 

「……益州刺史代理は劉璋であったか」

 

 前漢の魯恭王であった劉余の末裔に当たる劉焉の子。父である劉焉は非常に優秀な人物で、以前の益州刺史を勤めていた郤倹が評判が良くなかったため、監察官という役割を持つ州牧として益州に赴任することになったが、やがて郤倹が失脚すると、彼の変わりにそのまま刺史を兼任し益州を治めるようになった。だが、彼は突如として病に倒れる。空白となった刺史の座に、新しい人物をと考えていた矢先に黄巾の乱が起きてしまい、益州の件は有耶無耶な状態となっていた。そのため娘である劉璋が代理として刺史の役目を担っていたのであろう。

 

 そんな劉璋からの援軍要請。少しの間考えていた趙忠であったが、彼はその書簡を丸めなおすと傍にあった机へと置く。あまり緊急性を要しない類のものを纏めておく机だ。書簡が山積みとなっているそこを見れば趙忠の仕事の量は推して知るべし。事実趙忠は、劉璋の嘆願を然程重要視していなかった。だが、この判断を責めるのは些か酷であるといえる。

 

 まず中華の僻地である益州のさらに南方の地。漢民はそちらを未開の地とし、そこに住まう者を蛮族と呼ぶ。即ち南に住む蛮族―――南蛮人と。文明の発展した中華に比べて、蛮人扱いされる南方の民。高度な文化やろくな武器も無い彼ら南蛮の人間が侵攻してきたからといってどれほどの心配があろうか。中原における南蛮の扱いなどその程度のものであり、趙忠のみならずほぼ全ての官僚が彼と同様の判断を下すであろう。それに南方は幾らなんでも中原から離れすぎており、正しい情報が伝わってくることが少ない。まだ北方の騎馬民族の脅威の方が身近に感じられるくらいである。

 

 だが、中華の民は知らない。本当に理解していないのだ。南蛮の本当の脅威を知っているのは、彼らと隣接する地域の者達であるということを。

 

 既に益州のことを頭の隅に追いやった趙忠は暫し執務に励んでいたが、間もなく太陽が中天に差し掛かる時分となっていた。休憩を挟もうと彼は部屋から出ると宮廷を行く。途中廊下ですれ違った官僚からの拝礼を受けつつ、宮殿の入り口へと到着した時のことであった。

 

「なんだ、李信(小僧)。お前は先日涼州へと出かけたばかりであろう。もう戻ってきたのか?」

趙忠(おっさん)か。ああ、今さっき帰還したところだ」

 

 宮殿へと龐統を伴って向かってきていた李信へと声をかけるのは趙忠だ。それに気づいた李信も気軽に返事を返す。小僧とおっさんと呼び合う李信と趙忠。敵対していたこともあり以前の仲は最悪であったが、劉弁の下で組織が一本化された現在、二人の関係は実は悪くは無い。というか、むしろ良い部類に入る。

 

例の件(・・・)はどうだ?」

「……そのことなんだが、ちょっと計画の変更を提案しても良いか?」

「変更? ふむ……わかった。儂の部屋で聞こう」

 

 李信の言葉の重要性を嗅ぎ取ったのだろう。趙忠は即座に今来たばかりの道へと踵を返した。彼もまた極一部の者しか知らない、劉弁が主導する計画の一翼を担う者。事の重大さは理解出来ている。やがて趙忠の執務室へと戻ってきた趙忠と李信。そして李信の背後に付き従う龐統。李信の頭脳ともいえる龐統も計画のことは聞いているため、この場にいることを許されているのだ。

 

 そして趙忠の執務室にて、李信は涼州の漢陽で起きたことを全て話した。馬騰よりも計画の要となるに相応しい人物、董卓仲穎という存在に出会えたこと。彼女を李信の独断で計画に誘ったことなど、趙忠は口を挟まずに最後まで聞いていたが、話が終わった後に暫くの間考え込んでいたが―――。

 

「小僧……お前の目を疑う訳ではないが、董卓という人物は本当に我らの計画の主となるに相応しい者なのか?」

「ああ。馬騰よりも間違いなくな。俺がこれまで会ってきた中で彼女がもっとも適している」

「……そうか。だが、儂としても、お前の言葉のみで納得するわけにはいかん。一度董卓と会ってみたい」

「洛陽に呼び寄せるにしろ、おっさんが漢陽にいくにしろ、どっちでもいいけどあまり目立たないようにしろよ。今は少しの情報も外部に漏らしたくないしな」

 

 中華全域を飛び回る李信ならば問題はないだろうが、趙忠程の大人物が涼州へと向かうことになればいらぬ憶測を呼ぶことになるだろう。

 

「わかっておる。しかし、時間がないこの時機に新たな可能性を見つけるとはお前の幸運には驚くしかないぞ」

「まぁ、今回は完璧に運が良かったな。馬騰に会う前に漢陽に寄って行かなければ見つからなかったしな」

 

 話が一段落した二人は互いに薄く笑みを浮かべて嘆息する。李信の口に出したとおり、紙一重。今回はまさに薄氷を踏むかのような可能性を拾うことができたのだ。これを幸運、天意と思わずになんとするか。そんな李信の視界の端に、山積みになった多量の書簡が映った。

 

「つーか……おっさん、あんたどんだけ仕事あるんだよ。それとも溜め込んでるのか?」

「……無駄に溜めている訳ではない。優先順位をつけて処理しているだけだ。儂ともなれば仕事の量はとてつもないしな」

「仕事の量的には……まぁ、そうだな」

 

 張譲と同格の趙忠ならば確かに処理し切れないほどの量が下からあがってくるであろう。逆に張譲のように終わらせてしまえる手腕を持っている方がおかしいのだ。

 

「うむ。先程も益州から(・・・・)嘆願書が届いてな。全く南の地域にも困ったものだ」

「……益州から? 一体どんな内容だったんだ?」

「蛮族どもが北上してきている。それを鎮圧するための兵を送って欲しいという―――」

「―――悪い、その書簡見せてくれ」

 

 趙忠を遮り、李信が突如として言い放った言葉に目を丸くする。まじまじと見返す趙忠であったが、真剣な表情の李信に言い返すことはせずに山積みとなっている書簡の一つを手にとると手渡した。李信はそれを広げると書かれている内容に目を通す。なるほど、確かに趙忠の言うとおり普段だったならば無視するか後に回しても構わないものだ。だが、今の李信には決してそれを無視できない理由があった。

 

「おっさん、いや……趙忠(・・)。益州には俺が行く」

「……待て、お前何を言っている?」

 

 正気か、と言った意味合いを込めて趙忠が難しい顔で問い返す。計画実行まで後一年もないこの時期に、要となる李信が遥か南にある益州へ向かわせるなど認められるものか。

 

「確かに書には五万(・・)の大軍と書かれているが眉唾なものだ。それに益州には東州兵という精兵がいる。これからのことを考えれば、潰しあってくれたほうが我らにとっては利となる」

「―――そんな生半可な考えで放置していれば、益州が中華の地図から消滅するぞ!!」

 

 声を張り上げた李信に、趙忠は言葉が詰まった。今、この男はなんと言ったか。益州が消滅する? そんな馬鹿な。あそこは天然の要塞だ。いくら大軍で攻め立てたとしてもそう簡単に落ちることなどあるものか。

 

「確かにそうだな。俺達が攻めようと思えば本当に厄介な場所にある。だが、南中の人間にとってはそれが普通だ。逆に奴らの本領を発揮できる地域なんだよ、益州は」

 

 以前黄巾の乱の際に荊州へと遠征したことがあるが、その折に民達の話を聞いた。中原で考えられているよりも遥かに危険で恐ろしい存在が遥か南の未開の地に住んでいる事をその時に聞き、それ以来情報をかき集めた。その情報を元に考えれば、数字で表現するのは些か難しいことになるが、単純な力量(・・・・・)を官軍の兵一とすれば、南蛮の兵士は五。特に鬱蒼とした森林地帯や山の中で縦横無尽に動き回る蛮人や猛獣を考えれば或いはそれ以上。つまり敵兵五万といえどそれを官軍に換算すれば―――実に二十五万を越える大軍の脅威と考えても不足はない。

 

「それに奴ら南中の民は本当に五万なのか? 俺が調べた限り……あそこには数十万の兵となる戦士が住んでいる」

 

 今益州へと攻め込んできている五万の軍勢はただの先遣隊でしかないのではないか。後続となる蛮人がさらに数万、十万と増えれば然程時間もかからず益州は地獄絵図と化すであろう。そして彼らの目的は隣接する荊州へと変更され今度はそちらが荒らされることになるはずだ。

 

「馬鹿な……それほどの、ものか。奴らは」

「ああ。今のうちに益州で止めたほうが良い。いや、止めなければいけない」

 

 さもなくば、益州荊州を奪われ漢民の命が十万どころか百万単位で失われる。ゴクリっと息を呑む趙忠だったが、彼も十常侍が筆頭。すぐさま自分を取り戻すと李信へと指示を飛ばす。

 

「わかった。計画は出来るだけ後に伸ばすように尽力を尽くす。お前も蛮族どもの鎮圧を迅速に行うように意識しろ。こちらのことは我らに任せよ。益州のことはお前に任せたぞ、李信将軍よ」

「結構な無茶をするかもしれんが、尻拭いはよろしく頼む」

 

 程ほどにしろ、という趙忠の言葉を背に李信は龐統を伴って執務室から退室。宮中の出口へと急ぐ李信だったが、駆け足気味についてくる龐統が李信へと疑念をぶつけた。

 

「李信、様。南蛮の兵士はそれほどのものですか?」

「実物を見てないから何とも言えんが、過小評価しているよりは余程いいだろ」

 

 勿論無駄に過大評価もしているつもりはない。だが、李信は蛮族と呼ばれる者達の恐ろしさを肌身で知っている。かつての秦の時代に、ともに戦った山の民と呼ばれる戦士達の強靭さは秦の正規兵を遥かに上回っていた。同族ではないだろうが、もしも南蛮の兵士達があんな連中と同様の怪物であったならば―――李信が言った益州が消滅するという言葉は決して過言ではないはずだ。これから向かう益州での方策を龐統と打ち合わせながら歩くこと十数分。

 

「お帰り。って……随分慌ててるけどどうしたの?」

「理由は後で皆と一緒に説明する」

 

 宮殿の門の前にて待機していた高順が不思議そうに声をかけてきた。あの李信が高順でなくてもわかるほどに焦燥を隠し切れていないのだ。実に珍しいこともあるものだと首を捻る高順だったが、どうやら普段のように茶化して良い状況ではないということを悟った彼女は頷くと無言のまま李信の背を追う。ここ数年かつて無いほどの李信の姿に、ここまで彼を慌てさせた事件が起きたことはとんと記憶にない。或いは黄巾の乱以上の大規模な何かが起きたのかもしれないと気を引き締める高順であった。

 

「高順。悪いが、華雄達を呼んで来てくれ。龐統、お前は韓遂と司馬徽と―――陳宮を頼む」

「了解。すぐ行って来るよ」

「は、はい!! わかりました」

 

 三人はやがて間もなくして官僚育成機関へと到着すると、李信が二人へと指示を出す。二人の姿を見送った李信は、腕を組んで幹部の皆が集合するのを待ち始めた。官僚育成機関は巨大な屋敷であり、多くの人間が利用している場所であるため、李信の横を行き来する者達も多数いる。李信の姿に気づいたものが声をかけようとするものの、普段の彼とは異なる威圧する気配を発しているが故に、誰もが結局声一つかけることが出来ずにそのまま去っていった。

 

「どうした、李信。帰りは遅くなると言っていた気がするが」

「……お帰り、李信」

 

 李信の気持ちを汲んでか、集合をかけた幹部達は時を置かず李信のもとへとやってきた。副将である華雄。特殊騎兵団隊長の呂布。

 

「李信殿。お早いお帰りで」

「どうかされましたか、李信様」

「おおー、将軍様。今日もとっても格好いいですぜぇ」

 

 遊撃部隊隊長の趙雲。李信直属親衛隊隊長の徐晃。弓騎兵団のみで構成された龐弓隊の隊長である龐徳。

 

「主よ主よ主よぉぉぉぉおおお!!」

「無事の御帰還御喜び申し上げますのじゃ」

「おぉ……恋殿!! 陳宮はここにいるのですよー!!」

 

 韓遂と司馬徽、そして最年少ながら龐統に匹敵する智謀の陳宮。

 召集をかけに行った高順と龐統をあわせて、武将六名と軍師四名。十名の傑物が李信の前へ膝を付いた。

 

「急遽の召集すまなかった。だが、事は緊急を要する」

 

 李信の言葉に一言一句聞き漏らさぬように集中する幹部達。彼女達の視線を一身に受けた李信の佇まいは堂々としたものだ。そんな彼は、一言一人の軍師の名を呼んだ。即ち、龐統と。ハッと鋭い気勢とともに立ち上がった龐統は李信の横に経つとこれまでの経緯を皆に説明し始める。彼女達もまた趙忠と同様に本来であれば南蛮の者達を警戒する理由がわからなかったであろう。皆、中原や北の地の出身の者達ばかりだからだ。だが、彼女達に否や、疑いの気持ちは一切見当たらなかった。自分達の将である李信が警戒している。それだけで南の住人が脅威に値するのだと確信を抱くには十分な理由であったからだ。

 

「今回の遠征に重要なのは早さだと判断します。南蛮の者達に益州が落とされる前に合流する目的から、まずは騎馬隊で先行したいと思います。後続となる歩兵は、高順様と韓遂様にお願い致します」

「わかったよ。任せて」

「うむ、我に任せるがよい」

 

 龐統の指示に、高順と韓遂は頷いた。流石にこのような真剣な場で駄々をこねるほど韓遂と高順も子供ではない。

 

「敵兵の数と質を考えるに今回は私達李信軍だけでは対処は難しいかと思われます。益州の劉璋様の噂を聞くに、あまり勇猛果敢とは言えない御方のようですし、恐らくは洛陽だけでなく他の州へと援軍の要請を行っていると予想されます」

 

 龐統は言葉を濁したが、劉璋の評判は決して良くは無い。父である劉焉が優秀だっただけに厳しい目を向けられることは仕方ないにせよ、それを抜きにして出来が良いとは言い難い刺史代理である。疑い深く、思量に浅い。懐も狭いと碌でもない評価を下されているのが劉璋だ。そんな彼女が独力で南蛮の大軍勢に決戦を挑むとは考えにくい。そのためすぐには益州が落とされないとは思うが、劉璋が州の頂点に立っている限り益州は長くないであろう。

 

「先生……隣接している荊州に援軍を出して頂けるように要請をお願いしたいです」

「うむ。任せるが良い」

「はい。それと趙雲様には先生の護衛をお願い致します」

「わかった。軍師殿に従おう」

 

 司馬徽に向かってもらうには理由がある。彼女は元々荊州の山奥にある水鏡女学院という学校で教鞭をとっていた。学校を卒業した優秀な生徒たちが荊州の各地に勤めているし、司馬徽もまた荊州刺史である劉表とも繋がりがあるため李信軍のなかでもっとも相応しい人物であるといえた。

 

「龐徳様。弓騎兵隊の練兵具合は?」

「うーん。結構微妙な状態かなぁ。まー、でも厳しめにビシバシやったからさ。騎馬民族とも結構良い勝負できるくらいの腕にはなってたりするぜぃ」

「分かりました。これが初の実戦ですが……宜しくお願いします」

「おぅおぅ。まかせろぃ!!」

 

 馬上で弓を扱うにはとてつもない技量と努力が必要となる。それなのに練兵を初めてまだたいした月日が経っていないのに、子供の頃より馬を扱う騎馬民族と渡り合えるという状態に持っていっている龐徳に空恐ろしさを感じる龐統であった。

 

「今回はこれまでと違ったかなり特殊な状況下での戦闘を余儀なくされるかもしれません。呂布様の直属の軍師として陳宮殿を推挙致します」

「……ねね? うん。わかった。よろしく」

「ぉぉぉぉぉぉぉおおおおお!? このねね!! 全力全盛を持って恋殿にお仕え致しますぞー!!」

 

 興奮のあまりはしゃぎ回る陳宮であったが、冷静な呂布との温度差が激しいものがあった。いや、よく見れば呂布の表情も少しだけ緩んでいるのを見ると、実は結構喜んでいるのではなかろうか。 

 

「入隊試験を終え、新兵が補充されてまだ三月程度。練兵が十分とはいえない状態ですが、時は一刻を争う状況です。他の方々もすぐに出立できるように準備をお願いします」

 

 応、と返事を残して幹部達は皆この場から飛び出していく。これが後に益州荊州及び李信軍による連合と南蛮の木鹿大王との凄惨な争いとなる、南蛮戦争の幕が開いた瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「失礼致します。お姉様……いえ、太守様にお目通りを願っている方がいらっしゃいました」

 

 兗州と呼ばれる州がある。司隷の丁度真横に位置する州であり、その州を構成する一つである東郡の太守に任命されているのが曹操孟徳その人だ。黄巾の乱の功績によって、済南の相に任命された彼女は赴任先の済南で、汚職を行っている役人を排し、様々な善良な方策を打ち出したことが評価され、つい先日遂にこの東郡の長とでもいうべき太守の座についたのだ。そんな曹操が普段篭っている執務室へ伺いを立ててきたのは金色に輝く長い髪の曹操に良く似た顔立ちの女性であった。曹操と異なる点をあげるとすれば、穏やかで人を包み込むような雰囲気。そして女性的で豊満な身体つきをしているということだろうか。

 

「ふぅん。柳琳……貴女がわざわざ報告にくるなんて珍しいわね」

 

 机に大量に置かれている書簡から顔を上げた曹操は、声をかけてきた女性―――柳琳に興味深そうに返答した。真名は柳琳。姓は曹。名は純。字は子和。曹操の従妹であり、太守となった曹操を支える優秀な文官の一人。そんな曹純が報告にくる人物。既知の者やそれなりの地位にある者ならば、それは最初に曹純が言っているはず。ならば完全に初見となる人物なのだろうが太守ともなれば、毎日そのような者は後を絶たない。必要か不必要かある程度は曹純が判断して処理しているのだが、こうして曹操へ確認にくるのは随分と久しぶりのことであった。

 

「はい。それがその……私では判断するのが難しいといいますか」

 

 言葉を濁す曹純に、珍しいと目を見張る曹操。彼女がここまで判断に困っている姿を見るのは初めてのことだ。

 

「司馬懿……仲達様という方を御存知でしょうか?」

「司馬仲達? ……知ってるかしら、桂花」

「いいえ、華琳様。寡聞にして存じません。司馬の姓と字に達の字が付いていることを考慮すれば司馬七達(・・・・)の一員ではないかと思いますが……」

「司馬仲達という人物は確かいなかったわね」

「はい。そのような方は記憶にありません」

 

 司馬懿仲達という名を聞いて、執務室の隅の机にて曹操の補佐をしていた荀彧文若に確認をするが、自分と同様の考えが返ってきたのに満足そうに頷く曹操。そしてそれは曹純もまた同じである。司馬を名乗り曹操へ興味を抱かせて面会へと結びつける手管ではないのかと思った曹操だが、その程度の考え曹純が見抜けぬはずが無い。ならば一体何が彼女を困惑させているのか。

 

「その……仲達様のお召し物が随分と豪華絢爛なもので出来ているようでして」

「へぇ……貴女が驚くほどに質が良いものなの?」

 

 天子様くらいの? と冗談交じりの曹操の問いに笑うことなく曹純は頷いた。

 

「私では判断できませんが……」

 

 或いはそれ以上の代物かと。

 従妹の爆弾発言にこれまでの浮ついた考えは捨て、曹操はその司馬懿仲達なる者を執務室へと通すように通達した。曹純が去った後、曹操は即座に自身の配下をこの部屋に集まるように荀彧へと命令する。程なくしてこの官庁にいる曹操麾下の者達が集まってきた。

 

 夏侯惇元譲。夏侯淵妙才。荀彧文若。曹操の従妹の一人である曹仁子孝。同じく従妹の曹洪子廉。そして―――戯志才改め、漸く曹操に仕えることが出来た郭嘉奉孝。曹操を中心として六人の武と文の才媛達が集合した。やがてほぼ時を同じくして執務室の扉が開けられる。曹純に案内されそこに現れた人物を見て―――この部屋にいた皆が一瞬息を呑んだ。

 

 部屋に差し込む太陽の光を反射するキラキラと輝く衣服。遠目でもわかるのは自分たちがこれまで見たことが無い素材で作られた服であるということ。冗談半分で言った天子様というのも決して間違えてはいない代物だ。そしてそれを十全に着こなしているのは女性というよりまだ幼いという言葉が似合う年頃の少女が膝をつき拝手の礼をとった。黒髪黒目、背丈は曹操と同程度だろうか。黒絹のようにきめ細かい長髪が神秘的に見える。美人よりも可愛いという表現がぴったりの彼女は、曹操含む六人の視線を集めながらも気圧されることなく堂々としている。どこか余裕すら垣間見せる姿は実に立派なものであった。

 

「お初にお目にかかります。私は司馬懿。字は仲達と申します。この度は謁見の機会を頂き感謝の言葉もありません」

「……東郡太守を勤めている曹孟徳よ」

 

 司馬懿を見定めようとする曹操は、奇妙な感覚に襲われた。まるでここに在ってここに無い。ふわふわとした掴みどころの無い煙のような気配。地に足がついていない気体を思わせる存在感。司馬懿の全身から滲み出るのはそんな不気味な印象であった。

 

「私に何の用なのかしら?」

「曹孟徳様にありましてはどうやら率直な答えの方が好まれる御様子。ならば率直に申し上げます」

 

 司馬懿の黒眼と曹操の蒼眼が絡み合う。曹操を見ているようで見ていない。曹操を通して他の人間を見ているような違和感。

 

天の御使い(・・・・・)であるこの司馬仲達。曹孟徳様にお仕えするべく罷り越しました」

 

 衝撃。この執務室にいた全ての人間の背筋に電流が奔った。天の御使いなる存在は、世間に広まっているため知っていたがそれを自ら名乗る人物に初めて会ったからだ。そもそも天を名乗ることは許されることではない。自称にしろ他称にしろ、天を名乗って許されるのは漢王朝の頂点に座する皇帝のみ。間違いなく斬首の刑に服される大罪だ。

 

「漢王朝に仕える私の前で随分と大言壮語を吐くのね」

「貴女様ならばお分かりになるのではないでしょうか。漢王朝はもう長くはないと」

 

 滅びの時は近い。はっきりと言い切った司馬懿に、ピクリっと眉を一瞬動かすものの表情自体に変化は無い。見事な仮面を被っている曹操だったが、先を続けよと彼女の瞳が無言で語っていた。

 

「以前私は中華の民が天と呼ぶ世界に住んでいました。何が原因かわかりませんが、気づいた時にはこの中華の地にて目を覚ましていたのです。何故なのか、どうしてなのか……理由を考えていましたが、貴女様に出会って私は確信を抱きました」

 

 天の御使いであるこの司馬懿仲達。貴女様に仕える為にこの地へと導かれたのだと。

 

「私には知識があります。これより先、遥かに続く中華の歴史を知っています。無論貴女様がどのような道を辿るのか」 

 

 未来の知識を知っている。その事実に曹操以外の者達は動揺を隠し切れなかった。もしもそれが事実ならば、一体どれだけの利点となるか。

 

「近い将来董卓という者が相国に就き、中華は荒れに荒れます。内乱に次ぐ内乱の果て、漢王朝は滅びを迎えることでしょう。そして、その次代の新たな国―――()の王となるのは貴女様です。曹孟徳様」

 

 司馬懿が魏と口に出した瞬間、一瞬とはいえ曹操の表情に驚愕という色が現れた。それはかつて自身が考えた理想の国家である名。曹操以外は誰一人として知らないはずのそれ。この時曹操は司馬懿がただの自称天の御使いという訳ではないことを悟った。

 

「貴女様には無限に広がる可能性があります。麓へ広がる山すそのように、それは複雑に絡み合った正しい道筋を探すのも難しい道程。ですが、私ならば……この司馬仲達ならば!! 貴女様が違わぬように案内をすることが出来ます!! 最短で、最良の、そして最高の可能性を貴女様に―――」

「―――もういいわ」

 

 へ? と興奮する司馬懿が間の抜けた声を上げる。  

 

「私に天の知識は必要ない。だからもういい、と言ったのよ」

 

 未来の知識など心底どうでもいいといった様子の曹操に、司馬懿はここに来て初めて人間味を現した。頬を引き攣らせて、曹操の答えにその理由を聞き出すべく問いただす。

 

「何故ですか……私の、天の知識さえあれば貴女様は無限の可能性の答えを知ることが出来るのです!!」

「……くだらないわ。貴女の言葉を借りるならば私には無限の可能性がある。それの答えを知る? 言っていて気づかないのかしら。それはつまり、私の持つ可能性を一つに狭めてしまっているということよ」

 

 なるほど。もしも司馬懿の天の知識が本物であれば、曹操は歴史通りの道を歩むことが可能なのだろう。だが、それのなんとつまらない事か。司馬懿の言うとおり失敗もなく示された道を行く。それは生き人形となんら変わることのない人生だ。

 

「天の知識? 中華の歴史? そんなもの関係ないわ。この曹孟徳が自らの意志で歩く道こそが唯一無二」

 

 失敗はあるだろう。後悔もするはずだ。多くの苦難に見舞われ、絶望的な状況にも陥るのかも知れない。だが、それら全てが曹操孟徳が選び歩む道。泥に塗れようが、それは光り輝く道程だ。曹操孟徳が進む先は自分自身で決める。断じて天の意思などで左右はされない。

 

「司馬仲達。重ねて言うわ……私には天の知識は必要ない」

 

 改めて言い切った曹操に二の句が告げない司馬懿仲達。それとは真逆で、主の姿に見惚れる六人の配下達。どこまでも凛々しく華麗な曹操に鼻血を噴出している者すらいた。勿論、郭嘉奉孝のことである。

 

 馬鹿な、と内心で泡を食っているのは司馬懿仲達。実のところ彼女はこの世界の人間ではなかった。正確に言うならば、現代日本にて生を受け暮らしていた少女。中国の歴史に詳しいそれなりの名家育ちの彼女は、ある日突然この地で目を覚ました。最初は混乱の極みに達していたが、状況を整理するうちに三国志の知識をほぼ網羅している自分ならば、各国の要人に取り入ることができるのではないか、と考えるようになった。黄巾の乱が終結した混乱期の今ならばまだやがて台頭してくる英雄達も小さな勢力に過ぎない。取り入るのは簡単だと判断した彼女の目論見は―――容易く砕け散った。

 

 いや、まだだと冷静さを取り戻そうと司馬懿は首を振る。この程度で終わってしまうのならば、本来ならば存在しない司馬懿仲達の名を名乗った意味が無い。心に秘める野望を成し遂げるためにも、なんとかして曹操の配下となって我が道を進まなければならない。

 

「ところで貴女は算術はできるの? 文字は?」

「え、はい……一通りは出来ますが」

 

 そんな覚悟を決めた司馬懿より一手早く、曹操が問い掛けてくる。算術の可不可、文字が読めるのか書けるのか。不思議とこの世界で目を覚ました時より文字が読めるようになっていた司馬懿は素直に曹操の問いに頷いた。 

「そう。天の御使いとしての貴女には用は無いけど、一文官としてなら登用してあげるわ」

 

 曹操の誘いに、一瞬言葉が詰まる司馬懿仲達。彼女の本来の目的としては軍師として曹操の傍に仕えて信頼を得ること。だが、どうやらそれは現状難しいとしか判断出来ない。今は天の知識を欲していないかもしれないが、これより先、特に袁紹といった強敵と相見える時には天の知識が必要とされるかもしれない。いや、官渡の戦いは絶望的な戦となる。ならば絶対に必要とされるはず。そこまでの我慢かと考えた司馬懿は深々と頭を下げた。

 

「有難きお言葉。この司馬仲達……全盛を持って曹操様にお仕え致します」

 

 今は雌伏の時。内心の口惜しさを表には出さない司馬懿もまた現代生まれにしてはたいしたものであった。いや現代日本に生まれていたからこそ、内心の感情を表面に出さないようにすることが出来たのかもしれない。

 

「柳……ん、曹純(・・)。仲達を空いている部屋に案内をお願い」

「はい。わかりました、太守様」

 

 曹純に先導のもと、司馬懿仲達も部屋から出ようと足を向けたその時。

 

「ああ、仲達。天の知識は必要ないと言った手前申し訳ないけど、一つだけ教えてくれるかしら?」

「―――はい、なんなりと」

 

 速すぎる前言撤回に曹操は自分でも苦笑を隠しきれない様子で。

 

「天の知識。中華の未来で、飛将軍李信……李永政様はどのような評価をされているの?」

 

 それは何と言うことも無い興味本位の質問であった。尊敬している将軍。既に揺ぎ無い名声と評価を受けている自分が目標と定めた男が、未来でどう言い伝えられているのか。それが気になって仕方ない。わくわくと期待に胸を膨らませ、子供のように目を輝かせて司馬懿の答えを待つ曹操。

 

 司馬懿仲達は良く考えるべきだった。胸を高鳴らせている曹操の姿を注視して、最善とは言えないまでもそれなりの答えを用意すべきであった。だが、それを求めるには司馬懿はこの世界に慣れていなかった。歴史を知っているという優越感と万能感。曹操が言った無限の可能性を一つに狭めているという言葉は何も曹操孟徳に限った話ではなく、司馬懿仲達にも当てはまっていることに気づいていなかった。

 

 この世界で目を覚まして以来、司馬懿がかき集めた情報は主に四つ。袁紹本初、曹操孟徳、劉備玄徳、孫策伯符、孫権仲謀についてだ。歴史に忠実に考えるならば袁紹の戦力は凄まじいものがある。一時期は中原を支配しかけたが、曹操に敗れさえしなければそのまま中華全てを飲み込んでいたとしてもおかしくはない。司馬懿が袁紹を天の知識で制御すれば間違いなく天下を制することが可能。問題があるとすれば、袁紹が曹操を破った後についての歴史が全くの未知数となること。そして調べた限り袁紹という人物は歴史よりも遥かに評判が良くないということだ。

 

 その他の劉備や孫策についても司馬懿が手を貸した際に正史から外れる分、自分の拠り所である三国志の知識が役に立たなくなる。それを考えれば、やはり曹操孟徳の下で天下に覇を唱えるのがもっとも問題が無く安全な道筋。上手くいけば後の世には司馬の名を騙る自分が魏の国を乗っ取り王として君臨することも出来るかもしれない。そういった理由で司馬懿仲達は曹操の麾下となった訳だが―――彼女は現代人にしては優秀だった。優秀すぎたが故に、漢王朝については意識して排除していた。既にもはや余命幾許も無い薄氷の上に存在している国。もはや董卓によって止めを刺されるだけの哀れな亡国となることが決定されている漢。故に漢王朝のことなど全く問題視しておらず、ろくな情報を集めていなかった。もしもここが現代日本であれば簡単に情報を収集することができたが、ここは仮にも三国志の時代に相当する世界。まともな情報一つ集めるのにも大層な時間がかかってしまう。そのため重要度が低い漢王朝を念頭におかなかったのは仕方が無いといえば仕方が無いことだ。この頃で有名どころで言えば皇甫嵩、朱儁、盧植くらいであろうか。李信永政なる人物の名は一度として聞いたことがない。だからこそ、司馬懿は素直に口にした。李信という人物の評価を。それが曹操孟徳という少女の分水嶺となることを知らずに。

 

「未来の歴史において李信なる人物(・・・・・・)は一字として(・・・・・・)登場し(・・・)ません(・・・)

 

 天の御使いたる自分を簡単に袖にしながら、他のただの人間のことを気にする曹操への意趣返しの意味も含めた返答であった。それに事実は事実。李信という名の人間は、確かに三国志には登場していない。この世界には真名や男性だった人物が女性という歴史的な齟齬はあるが、調べた結果おおまかな流れは同じだ。ならば李信という存在は正史にも登場することがない、平凡で人並み程度の十把一絡げの人物なのであろう。少しはやり込めたか、と多少気をよくした司馬懿が退室の例をして今度こそ執務室を出ようとしたその時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――は?」

 

 

 

 部屋が、街が、東郡が、兗州が、中華が―――凍った。部屋中の空気が零下に凍え、粘つく質量をもって司馬懿の身体を押さえつけてくる。言い知れぬ悪寒が彼女の全身を包み、あらゆる毛が逆立ち鳥肌が立つ。万象を凍えさせる絶対零度というに相応しい凍える空間がこの場に生み出され、やがて来るのは大震だ。

 

 かつん。

 

 耳が痛くなる劈く軋み音。揺れる足元。覚束ない心。恐怖。それ以外に何がある。それ以外に何を抱けと言うのか、この曹操孟徳(化け物)に。ピシピシと徐々に、崩壊の音が響き渡る。建物全体が震え、屋外からの光をもたらしていた窓が盛大に砕け弾けた。

 

 かつん。

 

 それだけでは終わらない。空間を支ええている官庁の柱に、壁に、小さな罅割れが出来始め、巨大な建物の自重を支えきれずこのままでは崩落を始めるのは目に見えていた。

 

 かつん。

 

 これまで多くの優秀な人間にあってきた。一代で財を為した傑物とも顔を合わせたことがある。だが違う。こいつは、この少女は明らかに存在としての次元が違う。凡人が、才人が、何度何十度生まれ変わったとしても絶対に決して、永遠に届くことの無い至高の頂に座している。

 

 かつん。

 

 何時の間にか傍に歩み寄ってきていた曹操が司馬懿を睥睨する。自分の方が背が高いというのに何故見下ろされているのか。その理由は単純で、何時の間にか重圧に耐え切れずに膝から崩れ落ちていただけだ。じっと無感情な蒼い瞳で見つめてくるのは人の姿をしただけの何か。ああ、私は終わるのか。短くかすれる声で司馬懿は呟いた。死ぬ。死だ。私はここで。曹操孟徳の逆鱗に触れた司馬懿仲達は生を諦めた。諦めざるを得なかった。心臓を直接握られたと誤認する圧迫感と恐怖感。生を望む司馬懿の希望を圧し折り、砕き、消失させる絶対的な上位者による重圧。生存本能すらも諦めさせる完全な捕食者の視線。ピタリっと鎌の刃が首に添えられる。いや、違う。現実にそうなっている訳ではなく、曹操が発する圧だけで自分に刃が向けられたと勘違いするにまで至った究極の幻視。もしも刃が引かれれば想像の中でしかないが首がおちる。それは精神の死だ。心が死ねば司馬懿仲達はここで死ぬ。きっと二度と目覚めることの無い暗闇へと堕ちるであろう。それがわかっていながら、理解していながら、口が言葉を発さない。咽が凍えている。身体が指先一本動かすことを拒否していた。いや、こんな状態が続くのならば、こんな圧に晒されるくらいならば―――殺してくれ(・・・・・)。死にたい。頼む、お願いだ―――私を死なせてくれ。死しか彼女の救いとなるものはない。純粋なまでの重圧は、ただここに在るだけで人に生を許さない。現に曹操の姿に夏侯惇達ですら言葉もない。止めなくてはならないというのに、彼女達もまた司馬懿と同様だ。身体が微塵も動かないのだ。彼方と此方は決して埋めようが無い絶対的な差があった。

 

 

 

 

「駄目ですよー、曹操様。天の御使いさんが死んでしまいますよー」

 

 

 

 そんな空間にのほほんとした声が割ってはいる。執務室の扉の外から顔を出したのは、頭に奇妙な人形を乗せた少女―――程昱仲徳。平然と悠然と、曹操の支配する空間に侵入してくると、人を押し潰す気配をまるでそよ風のように受け流しながら膝をついている司馬懿の襟を掴む。

 

「この方はまだ利用価値が沢山あると思いますし、その辺で脅すのは止めておいてください」

 

 曹操は必要ないと断言したが、軍師としては司馬懿の言う天の知識、歴史に興味を惹かれないはずが無い。確かに可能性を狭めることになるのかもしれないが、それを取捨選択するのは自分だ。手に取れる選択肢が多いに越したことは無い。言葉通り、本物(・・)であるならば利用価値は幾らでもあるのだ。程昱は、よいしょよいしょと司馬懿を引き摺っていき呆然としている曹純へと引き渡す。

 

「曹純様。その方を部屋に案内お願いしますねー」

「え? あっ……は、はい!!」

 

 まだ本調子とはいえない曹純だったが、程昱の指示を受け慌てた様子で司馬懿を連れてこの場から立ち去って行った。自分を全く恐れる様子を見せない程昱と対峙すること一分―――曹操は仕方なしといったように嘆息する。何せ目の前で普段と変わらない姿を見せる程昱は暖簾に腕押し、柳に風。全てを受け流してしまっているのだから、真面目に対応するほうが馬鹿らしい。

 

「……少し脅しすぎてしまったかしら」

「はい。やりすぎですねー。普通の人間だったら一生悪夢に魘されちゃいますよ」

「そうね。大人げなかったわ」

「気持ちはわかりますけどねー。天の知識が本当ならば、李信様の未来はあまりよくないようですねー」

「……彼女が本物ならね(・・・・・)

 

 司馬懿仲達が李信に関して虚偽を述べた様子は見られない。ならばあの飛将軍の名前は歴史に一字も残っていないのだ。そんなことが有り得るのか。現在でさえも比類なき功績を残したあの将軍の名が残らないことなどあるのだろうか。いや、あるまい。

 ならば考えられる原因は何か。先程司馬懿が言ったように漢王朝は滅びを迎えるということ。不敬ではあるがこれは実のところ然程困難な予想ではない。漢王朝が滅びるのを前提として考えれば、李信は一体どうするであろう。彼のことだ、間違いなく漢のために戦い続けることは簡単に推測できる。誰かに鞍替えする姿など思いつかない。それでも仮に李信が漢とともに滅んだとしても、彼の名が残らないというのは腑に落ちない。

 

 前王朝を打倒した際に、強敵となった人物は必要以上に持ち上げられることが多い。これだけの強敵を打ち倒して新たな王朝を作ったのだと。それは高祖劉邦と西楚の覇王項羽の関係を見ればわかるはずだ。もっとも、項羽に関しては全部が全部本当でとんでもない怪物であったのかもしれないが。いや、歴史半分で考えても十分すぎる化け物だ。李信もまた同様のはずだ。あれだけの存在を打倒して新王朝設立をしたのならば、おおいに喧伝するはず。特に自分が魏を建国したのならばなおさらだ。李信を手に入れるにしろ、入れられなかったにしろ―――李信永政の存在は絶対に後世へと残したはずだ。

 

 ならば何故李信の存在は抹消されたのか。

 歴史に彼の名を残すことを良し、としない人物がいたに違いない。それは一体誰なのか。漢王朝の者か。それとも自分の配下の者達か。許せない。そんな愚か者を絶対に許せるものか。

 

「司馬仲達の話が本当か否か。程昱……見極める核心はどこだと思う?」

「そうですねー。曹操様もお分かりかと思いますが、やはり……董卓なる方が相国の座につくというところでしょうか」

 

 曹操も程昱も董卓仲穎の名は聞いたことがある。が、あるだけだ。所詮は涼州の片田舎の県令を勤める役人。中央にたいした繋がりも無い彼女が相国という地位につくことは絶対にありえないと断言できる。相国とは漢王朝における最高職といっても過言ではない。その座に皇帝の親類でも外戚でも宦官でもない一役人が選ばれる筈が無い。漢王朝が滅びるというのは予想できるにせよ、董卓仲穎が相国につく―――それはまさに未来予知。つまりは司馬懿仲達が歴史を知っていることの証明に他ならない。

 

「もしも董卓なる者が相国となったならば私は―――」

 

 李信が不当に歴史より抹消されることを、未来を知ってしまった。ならば、やることは一つだ。進むべき道が決定した。今ここで断言しよう。絶対にそのような未来を認めることが出来ないと。ならば、ああ……ならば。幼い頃の誓いのままに、李信永政―――貴方と肩を並べる為に、貴方を従える為に私が、この曹孟徳が王となろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う……げほっ……ぅぁぁ……」

 

 曹純に案内された部屋で一人、司馬懿仲達はひたすらに吐いていた。内容物を全て吐瀉し、果てには胃液しかでてこない状態になっても蹲ってひたすらに嘔気と戦っている。

 

「なん、なんなのよぉ……あの連中」

 

 思い返せばまたえずく。無理も無い。現代社会では絶対に会うことは無い、文字通り戦乱の世を生き抜く存在と真正面から向かい合えば正気を保つほうが難しい。彼女には自信があった。歴史に名を残す曹操すらも操り手駒として自分の思うがままに歴史を作り上げる根拠の無い自信が。それが木っ端に打ち砕かれたのだ。あんな逸脱した怪物を操作できるはずがない。制御不能でありながら、冷静冷酷で、まるで全てを見通すような化け物。そこで司馬懿は思い出した。歴史に残されていたある言葉。

 

 治世の能臣。乱世の―――。

 

「……違う。そんな生易しい(・・・・)ものじゃない。」

 

 あれは、あの少女は、あの怪物は、あの化け物は―――。

 

「治世の能臣―――乱世の覇王(・・)

 

 あれはそういった類の存在だ。

 この日この時この場所で、天の知識を識る司馬懿仲達は自分の心が粉々に砕け散る音を聴いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




漢王朝四面楚歌状態。
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