境界線上のクルーゼック   作:度会

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2010年の片鱗

俺と鈴羽の間だけ時間が止まったようだった。

 

多分時計の針は五分も動いていないが、俺にはそれが無限のように感じられた。

 

時間はいつも一定じゃない。

 

どこかの脳科学者が言っていたことを思い出す。

 

「それで――」

 

「まぁ、待て」

 

鈴羽が同じ言葉を三度紡ぐ前に俺は鈴羽を制する。

 

「なんです?」

 

鈴羽は別に不機嫌な様子でもなく怒っているわけでもない。

 

ただ、焦っているように見えたのだ。

 

「私の中にですね……最近あたしがいるんです」

 

鈴羽はこちらを向くのを止めて月を見た。

 

「別に病気とかそういうわけじゃなくて、岡部さんの言う2010年の頃の記憶かもしれません」

 

「……」

 

「まぁ、そのあたしも今の私も岡部さんのことが大好きみたいですから余り気にはしてないんですけどね」

 

「鈴……」

 

「なんです?」

 

もうこっちに来てから10年以上経つ。

 

別に話してしまっても何かが変わるわけではないはずだ。

 

それにいくら未来が変わろうが、どうでもよかった。

 

元々未来は未定なのだから。

 

「鈴……。鈴羽は、鈴だ」

 

俺がそう言うと、鈴羽はやっぱりですか。とため息を吐いた。

 

「まぁ今まで隠していたのも辛かったでしょうから黙っていたことは不問にします」

 

心中は察します。と鈴羽はこちらに視線を移した。

 

「……」

 

それで、岡部倫太郎?

 

確かに鈴羽はそう言った。

 

確かにそう言った。

 

「す…鈴……羽?」

 

「あたしは阿万音鈴羽。けれど私が思い出したのはこのことだけです」

 

それでですね。鈴羽は続けた。

 

「教えて下さい。なんで岡部さんは2010年を捨てて私について来てくれたんですか」

 

まぁ、今となっては栓無きことなんですけどね。

 

俺の返答を待たずに、鈴羽はジャングルジムから飛び降りる。

 

「全く…若くないのに無茶するな」

 

「失礼な。まだ、岡部さん位なら倒せますよ」

 

そう言って拳を二、三回前に突き出した。

 

「それでだな。鈴……。俺がお前と共に来たのは……」

 

「いいんです」

 

私も岡部さんの気持ち分かってますから。

 

鈴羽は笑った。

 

「分かってますよ。岡部さんが……その、私のことを…だ、大好きってことくらい」

 

言ってて自分で恥ずかしくなったのか、鈴羽は顔を赤くして、目線を逸らした。

 

恥ずかしくなるなら自分から言わなきゃいいのに……

 

そう思ったが言わなかった。

 

「お、岡部さん!私はお腹が空きました!」

 

気恥ずかしさを紛らわす為か、鈴羽は、努めて明るい声を出した。

 

「そうか、家でアイスを冷やしてあったと思うから帰ってから食べるか」

 

はい。そう頷くと鈴羽は俺の手を取って……

 

キスをした。

 

「んん!?」

 

人目を気にしたのか、一瞬だった。

 

しかし確かにキスだった。手を掴んだ不安定な体勢だったのでしっかりと唇を押しつけてきた。

 

「い、未だに慣れないんですよね……」

 

ささっ早く帰りましょ。

 

鈴羽はそう言うと、俺の先を歩きだした。

 

「お、おい鈴」

 

俺は、反射的に鈴羽の肩を掴んだ。

 

「はい……ん」

 

やはり、10年以上経った今でもやはり慣れないものだな。

 

俺は気恥ずかしさからか唇を軽く拭うと今度は逆に鈴羽の手を引いて先を歩いていく。

 

「え、あ、ちょっと岡部さんってば…」

 

夜風がやけに気持ちよく感じた。

 

 

俺達が家に帰るとドアの間に手紙が挟んであった。

 

「ん?なんでしょうかねこれ」

 

鈴羽が紙を取ると、そこには、岡部倫太郎へ。と書いてあった。

 

「岡部さん手紙ですよ」

 

ほら、鈴羽に渡された手紙を俺は受け取る。

 

この時代で俺の事を知っている人間と言えば、大学の同期か、秋葉位のものか。

 

案の定手紙は秋葉からだった。

 

秋葉の文字は硬質で読みやすかった。

 

要約するとこうである。

 

明日、彼女とデートをしてくるという内容だ。

 

正直拍子抜けした。

 

手紙をわざわざ渡してくるくらいだから緊急の用事なのかと思った。

 

いや、本人にとっては緊急の用事なのだろう。

 

秋葉は確かに何でも卒なくこなす。

 

それはここ10年一緒にいて分かった。

 

しかし、仕事に熱心だった為か女っ気がなかった。

 

勿論、仕事上の付き合いは得意らしいのだが私事の方は余り得意じゃないらしい。

 

加えて、見合いも用意されるらしいのだが、どこぞの令嬢とか資産家の娘ばかりでなにか面白みに欠けるらしかった。

 

しかし最近、

 

「いい娘をがいたんだよ」と上機嫌に俺に話してきた。

 

「岡部さん。秋葉さんに彼女さんが出来たんですか?」

 

後ろから手紙を覗いていた鈴羽が楽しそうに俺に聞いてくる。

 

俺は分からないとだけ答えた。

 

「そうだ。明日デートしましょうか岡部さん」

 

「は?」

 

鈴羽の提案に俺は呆気にとられた。

 

「鈴羽、お前大学の方は?」

 

確か明日は平日だったはずだ。

 

俺は秋葉がいないから休むことは容易に出来るが、鈴羽の方はそうもいかないはずだ。

 

「実はですねぇ……」

 

そう言うと、鈴羽はぺロリと手帳を開いてスケジュールを確認した。

 

「明日は休みなんですよ」

 

まるで今書いたようにスケジュール帳には赤く『休み』と書いてあった。

 

まぁ、鈴羽も大人だ。

 

自分のことは自分で管理しているのだろう。

 

「なら……久々にどこか行くか」

 

思えば最近鈴羽の仕事が多忙のために久しくどこにも行っていなかったと思い出す。

 

はい。とにこやかに鈴羽は頷いた。

 

 

その晩秋葉に電話をした。

 

俺は向こうで受話器を取る音が聞こえる。

 

「秋葉か?あの手紙は……」

 

「あぁ、岡部か。明日は会社来るなってことだ」

 

じゃあな。そう言うと秋葉は電話を切った。

 

ツーツーと電子音が耳に響く。

 

心なしかいつもより声が弾んでいた気がした。

 

全く30歳を超えているのに彼女とデートではしゃぐなと言いたい。

 

「まぁ、俺が言えた義理じゃないか」

 

そう呟くと、軽い足取りで布団の中に潜った。


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