境界線上のクルーゼック   作:度会

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ある秋の日のこと-Ⅱ

「早くしてくださいよ。岡部さん」

 

先を歩く鈴羽は振り向いて俺を催促する。

 

振り向いた時に鈴羽のスカートふわりと揺れる。

 

2010年の頃はジャージにスパッツという格好だったが、流石にこの年のなってもそのままというわけにはいかない。と大分前から履くのを止めていた。

 

その代わりにこの時代はタイトなスカートを好んでいるように見ていて思った。

 

鈴羽曰く、ピッチリしている方が好きらしい。

 

しかし、流石に今日は柔らかめのスカートを履いている。

 

「鈴が、歩くのが早いんだよ」

 

俺は正直言って運動は得意な方ではない。

 

歩く速さも人並みだ。

 

対して、鈴羽は2010年に屈強なラウンダー達を倒しているのだ。

 

どう考えても体力に差が出るに決まっている。

 

俺が息を切らしているのを見て鈴羽は、意外に体力がありませんねぇ岡部さん。と言っ

た。

 

い、いや確かに30歳を過ぎてから体力の衰えを感じたが……。

 

「ま。海は逃げませんから。気楽に行きますか」

 

そう言うと鈴羽は、ようやく追いついた俺の手を取る。

 

だから、これからは一緒に歩きましょうか。と小さな声で呟いた。

 

「お、おぉ」

 

俺は鈴羽の手を握り返す。

 

柔らかい。

 

鈴羽の手は俺の手に吸いつくように密着する

 

俺の知らないところでハンドクリームでも塗っているのだろうか。

 

しっとりとしてそれでいてすべすべとしていた。

 

「鈴の手って……気持ちいいな」

 

俺がそう言って鈴羽の手を揉むと、鈴羽はくすぐったそうに、止めてくださいよと言った。

 

海と言ってもそこまで遠出するわけでもなく、お互い明日は仕事もあるためそこまで遠くない場所を選んだ。

 

電車を乗り継いでいくにつれ、都会の喧騒から離れていく。

 

今日は平日ということもあってか電車に乗っている人は少ない。

 

「静かになってきましたね……」

 

「そうだな」

 

今俺達が乗っている車両は多く見積もっても十人には満たないだろう。

 

「本当に久々に遠出しましたね。あんま遠くないかもですけど」

 

私たちがこっちにきてから初めてかもしれないですね。と鈴羽は言った。

 

「そうかもな」

 

こっちに来てからこの十年間は本当にあっという間だった。

 

勿論辛かったことも楽しかったこともあった。

 

とにかく孤独だった二人は生きるのに必死だったのだ。

 

結果として、今では片方は大学の助教に、もう片方は未来の記憶を活かした相談役をやっている。

 

それはただの結果にしかすぎない。

 

十年間自分たちをロクに省みる機会もなかったんだ。

 

だから、ここらへんで一息ついてもいいだろう。

 

「岡部さん」

 

俺は鈴羽の声がしたので、隣にいる鈴羽の方に首を向けると、目の前に鈴羽の顔があっ

た。

 

「岡部さん」

 

「お、おう。な…なんだ鈴?」

 

俺は余りの顔の近さに圧倒された。

 

「なんで、さっきから私が話かけているのに『そうだな』しか言ってくれないんですか」

 

もう。と言って鈴羽は頬を膨らませる。

 

その年不相応の顔を見て俺は思わず笑いが漏れた。

 

「な、何が面白いんですか?」

 

鈴羽は自分がなぜ笑われたか理解できないようで唇を尖らせた。

 

「いや、悪いな鈴」

 

そう言うと俺は鈴羽の頬を両手で押さえた。

 

「な、なんです……?」

 

突然の俺の行動に、困惑気味だった。

 

「なんとなくだ」

 

「そ、そうですか…」

 

むぅ…。とそう言われては返す言葉がないというように顔を少し朱に染めながら押し黙っ

た。

 

事実、俺の行動に意味は深い意味はなかった。

 

本当にただなんとなくそうしてみたかったのだ。

 

少し拗ねて頬を膨らます鈴羽の顔がたまらなく愛しかったから。

 

きっとこんなことを口に出して言える日は来ないだろう。

 

もしかしたらそう近くないかもしれないが。

 

「まぁ、全ては運命石の扉の選択か」

 

そう言うと俺は唇を歪める。

 

「30超えても好きですねその言葉」

 

もう何回聞いたか覚えてないですよ。と鈴羽は言った。

 

「いつも、大した意味はないって言いますけど、岡部さんにとってはきっと大切な言葉な

んですよね」

 

そう言って鈴羽は窓の向こうに視線を向けた。

 

「わぁ、見てくださいよ、岡部さん。海ですよ。海」

 

そう言って子供のようにはしゃいだ。

 

「私海見るのも初めてなんですよ。大きいですね」

 

鈴羽は、興奮気味に車窓の流れる景色に釘付けになった。

 

鈴羽の話によると2036年はSERNが構築したディストピアによって全ての人民が管理される

世界になっているらしい。

 

住む場所さえも自由に出来ないのだから、海を見たことがなくても当然かもしれなかった。

 

「海に来てよかったな」

 

俺がそう言うと満面の笑みで、はい。と答えた。

 

俺にはその笑顔がただ、ただ眩しかった。

 

電車を降りると、海からの潮風が俺達を迎える。

 

「なんか、海に来たって感じですね」

 

鈴羽は潮風に乱れそうになる髪を押えながら言った。

 

俺自身海に来るのは子供以来だったのでこの潮風は懐かしかった。

 

もう九月ということもあってか泳いでいる人はおろか、砂浜にいる人もいない。

 

閑散としている。という表現がまさにぴったりな状況だった。

 

俺は砂にあまり汚れない座れる場所を見つけて鈴羽と俺の荷物を置いた。

 

「冷たいですね岡部さん」

 

バシャバシャと海の中に裸足で鈴羽は入った。

 

靴は水に濡れないように片手で持っている。

 

「ほら、岡部さんも来てくださいよ」

 

そう言って鈴羽は俺を手招きする。

 

手招きされたので俺も大人しく海の中に入った。

 

冷たい。

 

それが第一印象だった。

 

こんな時期に海に来たことがなかったからか、余計に冷たく感じる。

 

それでも少しすると体が慣れてきたようで冷たさを感じなくなった。

 

鈴羽と同じようにバシャバシャと水を蹴ると、年甲斐もなく楽しかった。

 

「意外と楽しいものだな鈴」

 

ええ。鈴羽は笑顔で頷いた。

 

俺達は二人でしばらくそうしていたが、お互いの体が少し冷えてきたので砂浜に戻った。

 

「気持よかったですねぇ」

 

足についた砂を持ってきたタオルで拭きながら鈴羽は言った。

 

「あぁ、まさかこの年で楽しいと感じるとは思わなかった」

 

遊びに年齢なんて関係ないんですよ。と鈴羽が得意げに言う。

 

俺はそうかもなと相槌を打って時計を見る。

 

まだ、13時を過ぎたところだった。

 

「鈴これからどうする?」

 

「そうですねぇ……」

 

少し考える素振りを見せたのちに、もう少しここにいます。

 

鈴羽は、そう言った。

 

鈴羽の隣に黙って俺は座る。

 

二人の間に沈黙が流れる。

 

「ねぇ、岡部さん」

 

そう言うと、鈴羽は、砂浜に降りた。

 

そして波がかかるか、かからないかギリギリのところで何やら文字を書いていた。

 

『橋田鈴』

 

どうやら自分の名前を書いているらしかった。

 

「あ」

 

名前を書き終わると同時に強めの波が来て鈴羽が書いた文字を乱雑に消す。

 

その様子を鈴羽は、なんだか悲しい表情で見つめた。

 

「岡部さん」

 

一ついいですか。と鈴羽は海を向いたまま俺に聞いた。

 

俺の方からは表情はうかがえない。

 

「なんだ?」

 

「私は、物理学者です。観念的に物事を考えるのは得意じゃないかもしれません」

 

―――もし、私の……

 

――――阿万音鈴羽の記憶が、蘇ったら……

 

―――――私はどうなるんでしょうか……?

 

 

鈴羽が砂浜に書いた『橋田鈴』という文字は跡形もなく消えていた。


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