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日本から遠く離れた地。
バチカン、サン・ピエトロ大聖堂。
信仰を志さない者にとっても有名な観光名所として知られている其処は、教徒達にとってはあまりに神聖な聖域だ。
並列したキリストとヨハネ、その背後に控えるペトロ以外の11人の使徒の像は、何者にも例外なくその姿を表している。
観光客や階位の引く教徒達が行ける場所は限られており、この場を訪れたある青年は其処に赴くつもりはなかった。
英霊と戦った名誉の負傷とでも呼ぶべきか。二度と満足には動かないとされた右脚を引き摺るようにして、青年は何者をも立入禁止とする区域に入り込む。
聖年の扉。本来25年に一度しか開かれないとされるその扉を迷うことなく開き、彼は躊躇することなく脚を進めた。
扉の先は暗闇に包まれている。
まるで異界のような空間なのだが、それもその筈。
青年が今居るこの場所は断じて本来の聖年の扉の向こう側にある聖域ではない。そんな場所に足を踏み入れられるほど自分は得を積んでいないと、青年自身痴がましいと理解しているのだ。
ではこの暗闇は何なのか。
この暗闇こそ、世界最大の宗教組織〈聖堂教会〉が有する最高戦力の1角。埋葬機関序列5位の地位を築き上げながら、その身体は宗教的に汚れ切っている人物。
死徒二十七祖にも名を連ね〈王冠〉の位を拝謁する怪物――メレム・ソロモンが使役する悪魔の内部である。
暗闇と静寂の中、青年が脚を引き摺る音のみが響き渡る。
白黒のコントラストで描かれた床はまるで使用人が毎日ワックスがけをしていると言ってもおかしくない程滑りが良く、歩くことには差支えがない。
数秒歩いている内に急に光が灯されたと思うと、いつの間にか空間の中央に木の椅子が出現していた。
その対面に位置する眼鏡の女のことも、青年は同僚として知っている。
「……脚、辛そうですね」
佇む女は無表情ではあったが、その言葉には隠せない憐憫の色がある。
それが非情の代行者と呼ばれる埋葬機関の中で、一番の人格者たる彼女の心を何よりも判りやすく現している。
青年はそんな相手の心配をかぶりを振って否定する。
「これは私が未熟故についた傷。恥じることはあっても、辛く感じることはありません」
女もそうであったが、青年の立ち居振る舞いは凡そ二十歳に前後の青年がするようなものではなかった。
といっても、この二人は何方も神に仕える身。それも聖堂教会の最高位異端審問機関に在席しているのだ。精神と年齢の関係が乖離していても、何らおかしくはない。
「教会の任以外での勝手な行動。死徒討伐の失敗。これらは失態を教会は無視することはできませんよ、番外」
最初の言葉が挨拶の代わりだったのだろう。それっきり眼鏡の女は青年に対して淡々と事務的に言葉を紡ぐ。
番外、というのはこの青年の埋葬機関での№だ。
彼は正式な埋葬機関のメンバーではない。
その可能性があるとして、一時的にその名を借りることを赦された代行者の1人に過ぎない。それでもその信仰と竜骨で製造された大剣で異端を容赦なく狩る実力は紛れもなく本物であった。
しかし、それは過去のこと。
彼は黙認する筈だった極東の聖杯戦争――聖杯統合戦に私利で参加し、そして何よりも先に果たさねばならなかった死徒討伐の任を度外視して帰国したのだ。
本物の埋葬機関ならいざ知らず、あくまで番外である彼に聖堂教会はそれなりの決定を下すことであろう。
女がそう判断した何よりもの原因は、やはり青年の今の状態にあった。
以前から青年と交流のあった眼鏡の女は彼の実力、信仰心共に評価していたが、帰路についた彼は後者は変わらずとも前者の方が圧倒的に変わっていた。
全身にくまなく広がった生々しい傷痕。よく見れば右手の指も数本無くなっており、あれでは満足に武器を揮えまい。
「………」
眼鏡の女は思わず言葉を失う。
彼女には治癒能力がある。『過去に死徒に取り憑かれた経験』が残り粕となって生まれた、信仰とは真逆の力だ。
しかし、その治癒能力は絶大で不死に限りなく近い身体である為、例え今の青年のような傷を負っても即座に回復することが可能だろう。
だからこそ彼女は憂うのだ。
その力の一部でも目の前の青年に与えることができたのであれば、1人の信仰心ある若者を救うことができるというのに。
『優しい』彼女はそんなことにさえ自分の無力さを感じてしまう。
そんな相手の心情を理解していた青年は、余計な心配だと率直に言うのも悪い気がして話を進めることで気を逸らさせることにした。
「では、私の処分は聖堂教会からの追放でしょうか?」
感情に任せず、あくまで聖職者たれと行動する青年に改めて目を見張りつつ、女はかぶりを振る。
「いいえ。殉教すらも命とあらば果たすであろう貴方を教会は追放しません。しかし、埋葬機関の任からは解かれることでしょう」
それは青年にとって予想通りの結果だった。
いくらその莫大すぎる戦闘力から宗教観から逸脱した自由行動が赦された埋葬機関とはいえ、青年は正式なメンバーではない。
追放されなかっただけでも、有り難いと思わなければいけないのかもしれない。
「正しき御判断かと。以後、更に精進致します」
信徒として正しすぎる対応に、眼鏡の女はやはり少しだけ頭を痛めた。
彼女は聖堂教会の最高戦力の1角に位置する身でありながら、根っからの宗教者というわけではない。
たまたま特異な身体を持っていた為、教会の実験体にされ、そしてスカウトされたというだけの話で。彼女が埋葬機関に属するのは生きる為、そして既に果たした目的を達成する為に仕方の無かったことなのだ。
事実、自分は真っ当な生き方などできないのだろうと彼女は自負している。
しかし目の前の青年はどうだろうか。
彼はこの間まで日本という国で学生をやっていたという。
彼女も同じような経験があったからか。ふと、眼鏡の女は任務には無い世間話を口にする。
「それで、久しぶりの日本はどうだったんですか?」
それは聖堂教会の同僚の会話というより、学生の先輩後輩が会話するような他愛の無い会話のようにも見える。
現に、眼鏡の女の表情は先程までの厳しい面持ちは止めて、眉を下げた穏和なものに変わっていた。
しかし青年の方は彼女より真面目なのか、あくまで神罰の地上代行者の1人としての覚悟を忘れずに粛々と問を返す。
「先程報告した通り、聖杯戦争に参加していた為」
「………はぁ」
業務報告だけ果たそうとした青年の声は、眼鏡の女の溜息に止められる。
流石の青年もその溜息の意味には察しが付く。『そういうことを聞いているのではない』と、女の呆れたような苦笑が告げていた。
青年は少しだけ迷いながらも、瞼を瞑り、数日前の出来事を思い出す。すると自然と饒舌に言葉は溢れてきた。
「それなりに悪くありませんでした。異教徒であれど、中々の使い手と刃を交わらせましたし……何より、久しぶりに友人と会えた」
厳粛たる神の下僕である青年が、この時初めて自分の意思で笑みを浮かべた。
それに誰よりも驚いたのは、この場に唯一人彼と面と向かっていた眼鏡の女だ。
「……へー。そ、そうですか。そう……貴方に友人」
感慨深そうに漏らす言葉には、驚きと僅かな安堵が混ぜられている。
余計な気遣いだと分かっていても、眼鏡の女にとっては埋葬機関で初めて出来た『後輩』なのだ。
個性豊かなメンバーが揃っておりまともに統率など取れていない埋葬機関のメンバーでも、眼鏡の女はとある事情から『後輩』とあっては多少気にかけてしまう性にある。
「どんな人なんですか?その人」
「シエル殿。それは任務とは何の関係が」
「いいから」
はぐらかそうとする青年を追い詰めると、ただ一言。青年は独り言のように小さな声で言葉を紡いだ。
「……特別な才能は持っていない癖に、努力だけで大願を果たした……私の最も尊敬する男です」
友人のことを誇らしげに語りながら、その面持ちはまるで葬儀に陳列する親族のように暗い。
眼鏡の女は預かり知らないことではあるが、彼の語る友人は既に現世には存在しない。
今も何処ぞで生きていてくれと青年は天上の主に祈るばかり。聖職者として、友人として。
もう一度『熊』と親しげに呼んでくれるその日を夢見て。
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本日の18時頃。