日も暮れた高層ビルの立ち並ぶ繁華街、そこでは様々な人の生活を浮かび上がらせる。ここでは騒音と機械音の響き渡る、騒がしくも幸福な大人の時間。私は、そんな優しく美しい世界に住んでいる。輝くイルミネーションと華やかな景観は見る者の全てに幸福感を満たし、常に綺麗に保たれる全人口数万にものぼるこの街は、住んでいる市民全員の安定した幸福の維持を果たす。寸分の狂いもなく走る自動車たちは完全機械操作であり、事故発生率も格段に減少した。強いて事故を起こすものと言えば、走り屋気取りでマニュアル操作の旧世代思考を持ち合わせた、気の違えた狂人くらいだ。そしてそんな素晴らしい車は、電力を主としているため環境汚染などとは無縁のものでもある。
まさに現代のユートピア、それが私の住む街、世界でたった一つの幸福社会。そんな幸福を噛みしめながら、私は隣にいる数少ない友人と会話をしている。
「なぁ、お前次の面会日いつよ」
「えっと、二日後」
「マジかよ、俺なんて一週間後だぜ……耐えらんねぇよ」
「まぁそういうなよ、今日は俺たちでできる幸福を見つけようぜ」
「お、いいねぇ」
世界は、幸福に包まれている。右を見ても左を見ても、上も下も。この世界に不幸は存在しない、あるのは幸福だけ。それも全部、『N様』が与えてくださる。それが世界の常であり、今後も揺らぎないものだろう。
私と彼はいつも通り、近場にあるいきつけの居酒屋に向かう事にした。と言っても既にその目的地は目と鼻の先にあった。特に看板も宣伝もなされていない、ある種隠れ家的なお店である。外装も、ここでは珍しい旧世代の趣を残している木製の家である。
古風な暖簾をくぐると同時に、これまた古風な引き戸を開ける。居酒屋の中は現代では珍しく、外観と同じく旧世代の風情を残しており、私たちのような年の取った人には好評だそうだ。現代の居酒屋としては少し変わった外装と内装をしているこのお店だが、突き詰めるかのようにテーブル席とカウンター席という形式すらも変わらず、まるで本当に旧世代の居酒屋にいるかのようである。
現在、テーブル席は私たちの様な複数客、カウンター席は、カウンターに今は誰もいないが、一人での見に来ている客がパラパラと見られた。そして、今では珍しい天井付近に設置されているブラウン管テレビからは、今ではすっかり視聴者の減ったニュース番組。もちろん一定の需要はあるもので、今日も今日とて細々と続けられているらしい。そして私たちは空いている席があまりない事に気が付き、予約しておくべきだったかと考えているところで奥の厨房に続く暖簾のかかった廊下から、一つの人影がこちらに向かってきていた。
「いらっしゃいませーって、お二人さんじゃない。ささ、席は空いてるからどぞー」
「あぁ、こんな混雑してるのに悪いね」
「いえいえ、これも皆さまお客様のためですよっ」
奥からパタパタとスリッパの音を鳴らしながら出てきたのは、この店の女将……というと怒られるので看板娘の女の子だ。若くして『幸福維持権』を与えられており、ここの店にやってくるのは、そんな彼女に癒されたいという目的が多数であろう。まぁ、私たちとて似たようなものだが。
「いやぁ、こんな綺麗な子に毎回お出迎えしてもらえるなんて……これだけで一日が幸福な気分で終われるなぁ」
「やだ~おだてたって、笑顔しかでないぞ?」
「ははは、あんまり立ち話してると仕事に支障がでますよ?」
「あ、そうだった! 一番テーブル二名入りまーす! じゃ、また後で伺いますね!」
そういうと彼女は最大限の笑顔をこちらに振りまくと、またいそいそと奥に戻っていき、他の客の注文や給仕などを始めだした。
「さ、俺らも座ろうぜ」
「おう」
私は彼の催促を受け、案内された席に座る。二人分の小さな席と小さな丸机だが、私たちにはこの小ささが丁度良い。それをわかって、わざわざ彼女はここを開けていてくれていたのだろう、全く持って『幸福維持権』を持つ人は凄いものだ。
「さ、看板娘さんがくるまでテレビでも眺めてますか」
「そういえば、今日は幸福維持局の立ち入りがあるらしいな」
「ん、確か街外れのところだったか? なんで立ち入りがあるんだ」
「なんでも、条例に反する活動と違法物資の所持じゃなかったかな」
「流石、天下の幸福管理局期待のエースは違いますな~」
「そんなんじゃないさ、ただ俺は皆に幸せにしていてほしいだけだよ」
「それが中々難しいのさ、おっと噂をすれば……」
天井付近に備え付けられたテレビを、彼は食い入るように見始めた。どうやら、例のニュースのようだ。
『本日、管理局の立ち入りが行われたB地区郊外ですが、不穏因子らの抵抗により立ち入りが難航しており、現在も管理局によりB地区に人員が投入されている模様です』
「あれま、ここ最近のニュースにしてはやけに珍しいな」
「まぁ、管理局や維持局、『N様』が出てきてから向こう数十年無かったらしい案件だからな……現場のしわ寄せがこっちまでくるから、やめてもらいたいものだよ」
「ま、デスクワークの辛い所はそこだな。でもまぁ、管理局とか維持局は『N様』に週一で会えるんだから幸福じゃないか。俺ら普通市民なんて一ヶ月だぜ?」
「仕方ないさ、『N様』は御一人でこの世界の幸福を管理しておられるんだし、管理局や維持局もそのために努力してるんだ。一ヶ月でさえ、結構無茶したほうなんだぞ」
「わかってるさ、それはお前が一番知っててよく聞かされてるからな。そんなやつの親友で、俺は幸せさ」
「本当だったらお前も管理局に推薦してやりたいんだが、どうも維持局にも管理局にも席が余ってないらしい。もし仮に、俺がくたばったらその席をお前に譲るように言っといてやるよ」
「んー、俺は今の職場気にいってるしなぁ。皆が笑顔で楽しい所なんだぜ」
「ははは、それはどこもそうだろ」
「それもそうだったな!」
たわいのない世間話、幸福な毎日。あぁ、なんて幸せなのだろう。満足いく生活、満足いく親友、満足いく人生。これも全て『N様』のおかげ、『N様』のお導きのおかげ。こんな幸福が毎日続く。なんと、なんと恵まれている事だろうか……。
「すみませーんお待たせしました! とりあえずビールでよかったですよね!」
そんな当たり前な幸福を噛みしめていると、看板娘の彼女が気の利いたサービスをしにこちらにやってきていた。その手にはおぼんとビールの入ったグラスが二つ。言う前からこちらの望んでいるものを持ってくる彼女は、全く持って素晴らしい人である。
「お、気が利くねぇ。じゃああとはいつも通りつまめるものいくつか頼むよ」
「じゃあ、私も同じで」
「かしこまりーっ!」
「さ、飲もうぜ」
「ん、乾杯だ」
軽快な何かが弾ける音と何かが床に倒れる音と共に、爽快なグラスを叩く音が二つ響き渡った。その聞きなれてしまったこの場に似つかわしくない音に、私も彼も苦笑いしながらヤジを飛ばし始める。
「おいおい……人が気持ちよく飲もうとしたってのに何してるんだー!」
「ははは、看板娘さん。仕事熱心なのはいいけど、仕事がまた増えますよ?」
「わ、私としたことが……すみません皆さん、一杯私のおごりで提供させてもらうんでここは一つ穏便に……」
この店に集まっている奴らから、どっと歓声が沸く。これもある意味、見慣れた光景だ。幸福維持権を持つ彼女にしては珍しい……いや、よく彼女はやらかしているのだが。もしかしたらサクラでも雇っていて、店に客を呼ぶためのパフォーマンスだったりでもするのだろうか。それだとしたら、雇われている側はどう雇われているのか気になるものだ。そんな体を張ってまですることなのだろうか?
「ささっ、皆さん。いきわたりましたねー?」
と、珍しく考え事をしている間に、どうやら本当にいつも通り酒の入ったグラスが席に置かれていた。彼女もちゃっかりカウンター席の向こうに位置どっており、準備万端な様子だ。ここは、彼女とこの騒動に一役買った誰かさんに感謝しつつグラスを取らせてもらおう。
「では、皆さん! 乾杯!」
『かんぱーい!』
「おい! 馬鹿ん番娘! お前まで飲んでねぇで仕事しろー!」
店の奥から一際大きな怒声、この親父さんの声があっていつも通りテンプレというものだ。思わず皆も苦笑い。だが、皆楽しんでいる。皆で共通の時間を喜びを持って楽しめるのが、どれだけ幸福な事か。
「わわわっ、すみません大将!」
「おーい、こっちはつまみ頼むよー!」
「グラス空になったからもう一杯!」
「も、も~皆さん悪乗りしないでー!」
どうやら楽しい時間は、まだまだ続きそうだ。私は床に寝そべっている一人の男性を眺めながら、幸福を噛みしめるようにグラスを呷った。
「飲み過ぎ……いや、弱くなったのか」
私は一人、心地よいを少し通り過ぎた酔いの中、帰宅するべく繁華街の喧騒を少し離れた路地裏を歩いていた。彼とは店を出た段階で別れていた。あの居酒屋が、私と彼を一日の幸福の終わり目なのだ。
「か、帰ったらすぐ寝るとしよう。明日も早いからな……」
私は覚束ない足取りと、鮮明さの失われた視界の中、薄暗い路地裏を歩いていく。路地裏といってもちっとも荒れている様子はなく、ただ建物と建物の間に細い道だからというだけの普通の道だ。……当たり前のことだったな。
と、物音一つしない静かな……いや、静かだった路地裏に何かを倒すような少々豪快な音が響き渡った。
「……ん?」
なんだ? 私のように飲んだくれでもいるのか? だとしたら、起こしてやらないと維持局に連れていかれてしまうな。流石に私と同じ幸福を味わっている人に、そのような仕打ちはしてほしくない。人類は皆、幸福であるべきなのだから。
私は音のした方である仄暗い路地の曲がり角に、義務感に近いものから少しシャッキリとした体を向かわせる。
「おーい、大丈夫かー? こんなところで倒れてると維持局のお世話になるぞー」
「…………うぅ」
私が奥の方に心配げな声掛けをすると、かすかだがうめき声のようなものが聞こえた。どうやら、本当に飲んだくれの幸福な奴がいるようだった。
「ったく、管理局の仕事じゃないってのにな」
ふふっと、笑みを浮かべながら私は声のしたもう少し奥の方の路地の曲がり角に進んでいく。そして、何やら悪臭のようなものが香っていることに気が付き、そうとう飲んだくれていることを完全に察してしまった。
「おい、なにして――」
曲がり角を曲がると、そこには壁にもたれかかった人がいた。いや、それはきっと人であるはずだ。ならなぜ。
「あ、あぁ……」
おびただしい程血を流し、腕も足も……片方ずつないのだ。
「うあぁぁぁぁ!!」
「う、うぅ……だ、れだ……あぶねぇ、意識飛んでたな……」
「い、生きてるのか……!」
私はあまりの衝撃に臀部を打ち付け、激しく呼吸をしながら人の五分の二を失った、きっと人であろう人らしきものと会話の様なものをする。
い、一体何がどうなってるんだ。なぜこんなところに死にかけの人間が……維持局も管理局も一体なにして……
『本日、管理局の立ち入りが行われたB地区郊外ですが、不穏因子らの抵抗により立ち入りが難航しており、現在も管理局によりB地区に人員が投入されている模様です』
そういえば……もしかしてコイツはB地区の不穏因子……だとしたら早く維持局に連絡しなくては。私は震える手を落ち着けながら、操作もままならず携帯電話を操作しようとするも虚しく地面に落としてしまう。
「お、い……まて! はぁっ……ま、ず俺の話を……ごほっ、聞け」
「ひ、ひっ」
ソイツは息も絶え絶えで満身創痍なのにもかかわらず、私に話を聞けと言ってきた。こちらを鋭く睨んだその瞳は、何か強い意志をたたえているようで私には抗えない。維持局に連絡を取るのは簡単だ、そのはずなのに不思議と彼にはそうさせない凄みのようなものがあった。私は震える手で携帯電話を拾いつつ、震えが止まるまでこの異常者の言葉に耳を傾けることにする。
「な、なにが目的なんだ。一体ここで何してるんだ……」
「……俺はB地区の郊外に住んでた、アウトサイダーだ」
アウトサイダー。幸福管理社会の輪から外れた、愚かな連中。少なくも、私はそれだけのことしか聞かされていない。だとしても、この様子……いくら輪から外れているとはいえ、幸福なのは人類の義務のはずではないのか?
「維持局の奴ら……俺たちが違法物資だのなんだの難癖つけて……くそが……」
「な、難癖だと……それじゃあまるで維持局がアウトサイダーに危害を加えてるみたいじゃないか。維持局は全人類の幸福を――」
私がある種常識と化したその言葉を発すると、今まで衰弱していたと思わしき彼は、馬鹿にするようにして鼻を鳴らした。
「はははっ……そんな世迷言を言うなんてな……全く、ゴホッ……内部の奴らは腐りきったお花畑でいつまで寝そべってやがるんだか……」
羨ましいこったと彼は言ったかと思うと、懐からだした何やら緑色の液体の入った注射器を本来あるべきもの無くなった部分へと躊躇いなく注射器を差し込んだ。液体が彼の体に吸い込まれるごとに彼は苦悶の表情を浮かべるが、その液がすべてなくなる頃には彼の傷がグロテスクな音を立ててふさがり始めていた。
「ん……あぁ、温室育ちのお坊ちゃまは知らないかもしれないが、これは止血と傷の修復、痛み止めまでできる代物さ。ちっとばかりの中毒性と目を見張る値段が玉に瑕だが、俺らみたいな奴らには必需品ってわけだ」
「な、なんだそれは。そんな違法物資、もってていいのか?」
「だからアウトサイダーなんだよ。つっても、作ったのも俺たちだがな。上の依頼で」
「う、上のだと? お前たちにそんな大層な物がいるのか?」
私は未だ知らない……書類整理上の紙面でしか見たことのなかったこの街以外の様子に、すっかり足を地面につけて聞き入っていた。彼も、例の緑色の薬が効いてきたのか、少し饒舌になりながらも話を続けてくれていた。
「ま、上っていうのはお前らの上でもあるな。Nの野郎……俺らにこんなもん作らせたかと思ったら、今度ははした金すらケチって殺戮か……嫌になるぜ」
「どういうことなんだ、まるで意味がわからない。『N様』が一体関わっているんだ、あのお方がそのような悪事に手を染めているだなんて」
「はぁ……これだから温室育ちは……。いいか、これから言う事はすべて事実だ。嘘なんてこの異常なまでに清潔にされた地面のゴミと同じくらいあり得ない」
彼は五体不満足であるはずなのに、既に弱りきっているはずなのに……その瞳は酷く憎悪に満ちつつ正義感のようなものまで垣間見える。アウトサイダーは私たちに災いをもたらす……それが私たちの常識だ。それなのに、なぜ……目の前の彼が嘘を吐いているようにも、私たちに危害を加えるような存在でないと思ってしまうのだろう。この街では、世界では『N様』が私たちを導いてくださって、与えてくださって、それが幸福であるはずなのに。私は、『N様』のことに、全てを与えて全てをなしてきた全知全能ともよべる彼の人に疑問を覚え始めていた。これはどうしよもなく私の価値観を揺らがし、嫌でも多くの事を考えさせる。何か、私の知らない何かがこの世界にはある……そういうことなのだろうか。
「いいか、Nってのはそもそも――」
彼の熱烈な何かを訴える言葉は、この場には不釣り合いな程の軽快な何かの弾ける音にかきけされた。彼のさっきまでの狂気じみた意思をたたえた瞳は、ぐるりと一回転し遥か頭上を見定めた。彼の五体満足とは呼べないはずのに、今にも動きそうな程の強靭な肉体は糸の切れた操り人形のようにふらりと揺らめき、一際大きく痙攣したかと思うと自分の血で作り出された池に勢いよく叩きつけられた。
死んだ。誰がどう見たって、初めてこの光景を目の当たりにしたって単純明快に。目の前に突如現れたファンタジーが具現化したような、私の知らぬ未知の人物は呆気なく死を迎えた。それも、唐突に。
「あぁ、大丈夫でした~? もう、アウトサイダーが一人逃げ出したってコイツのことだったんですねぇ。全く、いつも苦労するのは現場なんですから」
ぷんぷんという擬音が似合うような何故か直近で聞いたことのある女性の発する声音で怒りを露わにしながら、私の見慣れている人物は私の後ろから突如として現れた。片手には特殊な形状をしたいわゆる拳銃と呼ばれるもの。旧世代のものではなく、幸福維持権を持たされている者のみが携帯できる、実弾ではなく一種のレーザーのようなものを打ち出す拳銃だ。それは資料の情報でしか見たことも、本来のその性能を知ることもなかったが、人を穏便に殺すには十分な性能であるらしいことがまさに今、私の目の前で証明された。私はまさか、まさか……と人を殺すだけの性能があるとは……せいぜい気絶が限度だとも思っていたのに。今までの日常を振り返りながらゾッとせざるをえなかった。
日常からの急激な非日常への転落の最中でも、私の頭は冷静かつ正確に現在の状況を不思議と把握していた。人間は自分の理解を越えた現象が起きた時、それを理解するために全霊を尽くすというが、まさに今の状態がそうなのだろうとぼんやりとした頭で私は考える。
そんな放心状態に近い私の様子を気味が悪い程に優し気に見下ろしていたのは、さっきまで私が酒に溺れていた居酒屋の、さっきまで皆に笑顔を振りまいていた看板娘であった。
「あ、アンタ……こ、殺した……のか?」
「えぇ、だってアウトサイダーですよ? 存在そのものが幸福じゃないですよ? ありえなくないですか?」
「アウトサイダーだって人間じゃないか……それに片腕片足もない、そんな酷い事しなくたって――」
「なにいってんですか、『N様』がアウトサイダーは悪だって言ってるんですよ? その意味わかりますよね? 生きてちゃ駄目なんですよ、わかります?」
「だから彼だって人間で、生きて幸福である権利が――」
押し問答に近いその会話は、私も彼女も決して引かないものだった。私とて『N様』のやり方に疑問は覚えたものの、この世界での当たり前を主張しているだけなのだ。それなのに何故、彼女は見るからに怒りを露わにし始めていて……まるで私が間違った事を言っているみたいじゃないか。
すると彼女は私との会話に嫌気がさしたのか、大きくため息をついたかと思うと澄みきった空に視線をやった。そして驚くほど澄みきった冷徹な瞳をこちらに向けた。
「うるせぇんだよ」
「……え」
「さっきからピーピー言いやがって。こっちが女だからって舐めてんのか? いい加減にその減らねぇ口閉じねぇとお前もそのゴミクズと同じようにすんぞ。生きて帰りたきゃ黙れ」
「な、な……いったい何を……」
あまりにも冷徹かつ残忍な瞳と言葉の圧力は、私を地面にひれ伏させるには十分すぎた。男だとか女だとかじゃなく、ただ場数をこなし慣れきって麻痺したかのようなその行動に私は動けない。今になって気が付くのは彼女からは、人間味を感じない。感じられるのは日常生活ではまずつかない吐き気を催すほどの、血の匂い。
「幸福維持権、ってわかる? これを持ってる奴は、一方的に幸福維持活動を行える。つまり、幸福を乱しているお前が、私に殺されても文句一つ言えない」
「だから、もっかい聞くぞ」
彼女は地面にへたり込んだままの私の目の前に、おびただしい程の血を吸い込んできた死の象徴をつきつけた。彼を即死させた、その凶器を。
「黙れ、いいな」
「は、はい――」
私が口を開いた瞬間、地面につけていたはずの手がペキッっという間抜けな音を上げた。私は一体何が起こったのか、その原因を見るまでは何故か実感がわかなかった。
「あ、あああぁぁぁぁ!?」
「だから、うるせぇよ阿呆」
「ぎっ――」
またしても、間抜けた音と通常ありえない程の激しい信号を脳に送る私の左手。彼女の足が、私の左手の指をあらぬ方向に踏みつけて、曲げていた。そして直感、声を上げればまたやられると。
「ぐぅぅぅ……」
「あれ、黙る気になりました? じゃあ、私を不快にした罰として~?」
「~~~~!!」
またしても、激痛。脳だけでなく全身に襲いくる不快感を越えた激情の奔流。日常に浸りすぎた私には、到底考えたことのない痛み。だが声を上げれば……彼女の声を無視すれば文字通り殺される。ただ今は、こらえるしかできない。
「おぉ~すごいですねー! それでこそ男ですよ! じゃあ、早速本題といきましょうか」
「………」
私は声を出さず、無言で彼女の声に首を振る。一体、私はどうなってしまうのだ。
「簡単な話です、ただ貴方は黙って何もかも忘れて、日常に戻ればいいんです。今まで通りの幸福な日常に、何も考えずに済むぬるま湯みたいな現実に」
「イエスなら首を縦に一回だけ、ふってください。嫌ならまぁ、死ねばいいんじゃないですか?」
そんなこと言われたら首を縦にふるしかないではないか、死ぬなんてもってのほかだ。.それにしても、ただ日常に戻るだけでいいだなんて……何か罠でもあるのではないか? 私はきっと、とてもまずい状況に立たされているのではないだろうか。
「あはは、心配しないでくださいよ。私、有言実行派なんですよ、わかってるはずですよね? 今の状況からして、選択肢は一つだって」
私はただただ怖いと思った、この日常を住処としないイカレきったこの女が……そんな女が存在するこの世界が。ほんの少し前までありふれた日常にいたはずなのになぜ……私はただ、幸福でいたいだけなのに。だがそんな泣き言は誰も聞いてくれはしない、ただいまは彼女の言葉に従うしかない。どんなに疑問を感じようが、どんなに理不尽だろうが……死んでしまってはどうしよもない。だから私は……
「お、えらいえらい。またお店に来てくれたらサービスしますよ! 皆さまの幸福を維持するのが、私の役目なんですから!」
屈託のない心からの笑みを浮かべる彼女は、本当に心の底から嬉しそうであった。だが、その狂気じみた笑顔の裏に隠された形容しがたい混沌とした思惑は、以前からのイメージとの乖離具合からも、私に恐怖を刻み込むには十分すぎたのだ。だから私は……眼前の強烈な悪意に、屈するしかできなかった。ただ絶対に、幸福にはなれなかった彼のためにも、私の知らない所で歪んでいる世界の真実を……この目で確かめると心に誓いながら。
あら、お話の途中なんですが少しお呼び出しがかかってしまいました。くひひ、人の上にたつというのも悪くないものですね……あぁ、こちらの話です。すみませんが続きはまた次の機会にでも……えぇ、いつだって私は貴方の傍に。