4
黒竜の吐いた光と熱の奔流は全てを呑み込んだ。
色も形も、闇の一片すらない赤い世界。
己を呑み込んだ焔。肉を食み、骨を啜る、魂まで焦がす竜の業火。
煌々轟々と、燦然と照らされる火の世界。
その中でも、俺はただ一つの黒点として漂うだけだった。
己の両の掌を俯いてじっと眺める。
火は俺の境界を侵さず、輪郭を撫でるように舐めるように這うだけ。
火そのものになったのではないかと云う錯覚すら覚える。
熱くも冷たくもない無機質な赤色を眺め、思う。
この"
懐かしい匂いに惹かれるまま漂い、辿り着いたのは郷愁が満ちる風景。
―――凍った箱庭。燃える玉座。
―――嗤う少年。妹。剣。父母。
―――業火。黒竜。鮮血の記憶。
何故知っているのか。何故懐かしく思うのか。何故こうも心臓が苦しいのか。
世界は俺の事など構わず変化し変貌し、新しい風景を見せつける。
見える景色は灰色で、だけど極彩色で、その進行は無慈悲で不干渉だ。
それは劇場のようで、思い出のようで、夢みたいな世界。
それを傍観している俺の存在は何処にある。
何処に行けばいい。何処に帰ればいい。何処になら存在を赦される。
――――――俺は、何だ?
赤一色の世界は、弾劾するかの如く"
火に包まれているの酷く寒い。―――さむい。―――サムい。
『………………ィム』
―――ふと、遠くで声がキコエタ気がした。
掌から視線を上げると、己に纏わりつく焔は風にでも吹かれたかのように掻き消され、赤の世界は火片と砕け散った。
× × ×
舞い散る火の粉の向こうに見えた世界は、渇いていた。
砂埃が昇る大地。無人の城砦。沈黙した赤茶けた世界。
荒涼とした風が黒々とした枯れ木を仄かに揺らしている。
世界の果ては霧掛かったように白くぼやけ見通すことは出来ない。
俺の目の前には石門が構え、赤錆びた鉄格子が冷たく閉じている。
その鉄格子の向こう、紅い存在の後姿が見えた。
火の如く血の如く赤い、真紅の甲殻と鱗を纏った体躯。小夜に浮かぶ満月のような金の瞳に逞しい角。畳まれた両翼は空の王者の風格を秘め、伸びたしなやかな尾は、躰を包み込むよう内側へと巻かれている。
其処には、―――美しく鮮やかな赤竜がいた。
向こうも気付いたのか首を擡げ、見返り姿の紅と眼が合った。
目が離せない。目を見開き、俺の意識が、全神経が目の前の赤竜に注がれている。
鼓動が、脈動が鼓膜を震わせる。
赤竜は鋭い牙が並ぶ口を静かに開き、ゆったりと間を持ってから中性的な声を発した。
『――――――賢者は戦いより死を選ぶ。更なる賢者は生まれぬ事を選ぶという。我等はどうであろうな、カイム』
後頭部を殴打されたような鈍い衝撃に両膝が折れて跪く
呟きのような微かな声。
その言葉は鋭利な破片となって全身の血管を喰い破り、駆け巡った。
脳を締め付けるような頭痛に頭を抱えて
鼓動が煩い。脈動が煩い。
息が乱れ、―――苦しい。
知っていた知識と情報が、鮮明な記憶として再生される。
――――――風景が、人物が、現象が高速で再生される。
断裂。鮮血。灼火。絶望。孤独。運命。崩壊。羨望。悲嘆。歓喜。消滅。
慈愛。殲滅。剥奪。混沌。狂気。戦慄。快楽。荒廃。秩序。真実。彼方。
断罪。代償。殺戮。激動。胎動。非業。深淵。喪失。狂信。泡沫。最愛。
錯乱。支配。黙契。祝福。久遠。憎悪。狂乱。因果。憧憬。過酷。魅惑。
刹那。鎮魂。動乱。欲望。切望。慈悲。調和。福音。無償。惨殺。永久。
功罪。賛歌。恩恵。睦魂。残虐。反逆。発狂。甘美。惨劇。快楽。浄化。
約定。安息。最期。汚濁。炎上。洗浄。渇望。荘厳。背徳。侵害。献身。
静穏。無垢。贖罪。盟約。蹂躙。背信。享楽。庇護。業火。追憶。犠牲。
救済。 ――――――オ兄チャン。
再生された記憶は、目元が見えない少女の柔らかな口唇の紡ぎで途切れる。
拡散していた自我が収束する。
俯いていた顔を上げると、目の前の赤錆びた鉄格子は消えていた。
頭痛は収まった。倦怠感は無く、寧ろ世界は、俺の意識は鮮明としている。
――――――そうだ、此処は女神の城。
全ての終わりの始まりの地。
封印の女神。
世界を崩壊から繋ぎ止める杭の女。
不安定で不条理な世界を守る為、
彼女を守る為の城であり、閉じ込める為の籠。
玉座の間から六年。
俺は復讐の為に兵士となり、妹は運命の所為か女神となった。
赤目の兵士が攻め込み、天使の教会が彼女を奪い、
そして、俺のいた世界は崩壊した。世界がどうなったかは知る由もない。
終わりと始まり。
そう、始まりの日。
俺は
『………………我が名は、カイム』
自ら確かめるように、音の一つ一つを噛み締めるように言葉を紡ぐ。
折っていた足に力を入れて地を踏み締め、竜に歩み寄る。
竜は身動ぎもせず、ジッと此方を見詰めている。
『……如何やら、お主は上手くいったようであるな』
竜が優しい声色で語る。その顔はやはり黒竜同様に鱗に覆われたものだが、穏やかな表情に思えた。
しかし、上手くいったとは何のことだ。こいつは何を知っている。
『……ドラゴン。どういう事だ、それに此処は何処だ。死後の世界か』
『クク、可笑しな事を言う。しかし、何と言うたものか。そうさな、お主の中、とでも言うべきか』
『…………?』
この竜は時折難しいこと言う。竜の考えなど、人間の及ぶべきものでは無いのかも知れないが、話す以上はもっと解り易くしてくれればよいものを。
『まぁ、人間には理解出来ずともよいことだ。それよりも、随分と身勝手な事をしてくれたものだな、馬鹿者』
『―――何故、俺は生きている。いや、生きているのか?』
竜は意地悪そうに、責め立てるような口調で訊いてきた。
そうだ。何故、こいつが俺の前にいる。何故、思念の会話が成立している。
俺はこいつと"アレ"を追い、見知らぬ世界で"アレ"滅ぼした。そして、謎の攻撃を受けたのだ。その際、俺は一縷の可能性に賭けて契約を終了し―――、
『生きておるか死んでおるかなど己で見極めよ。ただ言うなれば、……我もまた、バカ者だったという事だ』
『―――そうか』
自嘲気味に語り鼻を鳴らす竜。その姿が可笑しくて少し頬が緩んだ。
その言葉が指す真意は解らない。だが、こいつはこいつで何かをしたのだろう。その結果がこの世界なら、それでいい。理解は出来ないが、納得は出来た。この不気味な世界を理解も信用も出来ないが、こいつがした結果ならこいつを信じることにしよう。
そんな事を思っていたら、竜は俺に向き直り、躰を横に倒す。顔が近くになり、金の瞳に俺の姿が映った。そこに居たのは、人の形をした黒点ではなく、蒼眼に黒髪、口角を僅かに上げた男がいた。
『―――さて、お主に訊いておきたい事がある。お主は愚かにも己の命を
近くなった竜の顔、その鼻先をさする。触れたそれはほんのりとした熱を持ち、温かった。
俺の願いか、何だったか。
復讐か?守ることか?その想いを向けるもの全て無くなった。なら、願いも無くなったか? ―――違う、そんなものじゃない。こいつが言う願いは契約だ。俺がこいつに立てた誓いだ。
俺は、自覚する。俺の願いを自覚した。なら、俺の返す答えは決まっている。
『ただ俺は、生きたいだけだ。どうだ、憎むか?』
不敵に顔を歪めて宣言した。
いつの日か交わした契約の前座。忘れもしないコトバ。
『クク……ッ。やはり減らず口はあって百害よな。………………命も魂も惜しくなったわ』
竜が口を僅かに開くも、その語尾は噛み殺すように閉じられ、最後の言葉はよく聞き取れなかった。
その時、遥か彼方から俺の名を呼ぶ者があった気がした。
振り返ると、其処は女神の城も荒涼とした大地もなく、暗闇を背景とした骨肉が積み上げられた死臭漂う丘だった。
獣の、魔物の、人間の死体が積み上げられ、65の凶器が突き刺さる冷たく赤黒い丘。
凶器。剣に斧、杖、槍―――その他雑多で禍々しいそれらの数は不思議とすぐに理解できた。いや、知っていたとでも言うべき感覚。
そして、丘の中には知った顔もあった。父に母。妹。友。戦友。司祭。俺――――――。
その頂上に俺は居て、声は丘の麓、血の海の暗がりから聞こえてくる。
――――――――――――カイムッ!カイムッ!!
その声は少女のような幼さを感じさせながらも、明確な意志を伝えてくる。
応えろと。私はここにいるんだと。誰だ、俺の名を呼ぶ者は、其処にいるのか―――。
赤黒い暗がりに聞こえる声の方に目を凝らしていると背後から声が響く。
その声は振り返る事を赦さない、前を見続けろと強い口調で語りかける。
『鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならぬ』
その言葉を背で受ける。
その紡がれた言の葉の一つ一つが発せられるのに従うかのように、突き立てられていた凶器も一つまた一つと姿を消してゆく。
『往け。お主の進む道は、お主が己で決めてきたではないか。我に縛られるな。何者にも巻かれるな。我は孵らなかった雛だ、置いて往け』
その言の葉を最後に、足元の俺の死骸突き立てられていた凶器、使い込まれた両刃長剣が消える。
『――――――!』
置いて往けとはどういう事だ。何故一緒に行けないのだ。
振り返るな、口調に含まれる語られない意思に反して振り返ると、そこもまた骨肉の赤黒い丘になっていた。しかし、明らかな変化が其処にはあった。
俺と竜が居た場所が丘の頂上。すぐそばに居た竜の姿は無く、其処には一振りの赤黒い大剣が刺さっていた。
一息呑み、それに右手をかけて逆手で引き抜く。
竜を模したような真紅のそれ。己の身の丈ほどあるそれは、剣というにはあまりにも大きく、分厚く、重い。柄に竜の顔があり、翼と後肢の部分が鍔のように膨らみを持ち、伸びる尾が刀身として鋭く伸び、刀身の亀裂からは刀身よりも赤い緋い光が漏れている。
それは正に赤竜だった。
それを抱き締め、額を鍔の辺りに押し付け瞑目する。
『……馬鹿者め、我は失敗したのだ。暖めて如何なるものでも。―――じきに我の意識は消える』
姿の失った竜の声のみが暗がりから世界に響いて俺の耳に届く。
失敗―――、その言葉が指すものは分からない。そして、俺には理解出来ないことなのだろう。察せられるのは、一緒には行けないということ。そして、それが抗えない事実だという事をこいつが言っている。なら、きっとそうなのだろう。
竜の言う事考える事はいつだって難しい。だが―――、それでも―――、
『―――抗う、最期まで』
瞑目したまま静かに呟いた。
俺は生きる。生きて、生きて、生き抜いて、抗ってみせる。
死も、別離も、運命すらも俺の剣で払い
俺の宣誓を聞いたのか、竜は暗がりで鼻を鳴らす。何も見えない暗がりに、竜の穏やかそうな顔が浮かぶのを幻視した。
そうか、なら―――と、竜の声は小さく吐いて続けた。
『覚えておいてもらいことがある。―――アンヘル。それが我が名だ。人間に名乗るのは、最初で最後だ。――――――さらばだ、カイム』
それきり、竜の言葉は聞こえなくなった。
目を開けると世界は再び暗闇へと包まれ、俺も骨肉の丘も何もかも見えなくなってゆく。俺を呼び続ける者の声も遠くなっている。
そして、世界は消失喪失消滅した。
無
無
無明の世界は俺だけになっていた。
だけど、不思議とさむくはなかった。
両の手で大剣の柄を握り、真上へと振り
『我が名はカイム。―――
迷わない。見失わない。全ては
振り翳した大剣を暗闇へと振り下ろす。
闇は払われ、光が差し込み新しい世界が見えた。
――――――目が覚めたのは、やはり血溜まりの中だった。
どうも、作者です。ご閲覧ありがとうございます。
超難産。