MAX150キロのストレートを投げ、レベル6のスライダーとレベル5のカーブを操れる、投手として完璧なはずの僕でも勉強をしなければいけないのだから理不尽な世の中だと思う。
時間の無駄だ。早いところ抜け出してやる。教科書を読むふりをして周りを伺う。キャプテンはノートに何か書いてはいるがうつらうつらしていた。矢部吾は顔を机に乗せてうなだれている。守神はコーヒーを入れて来ると言ったきりどこかへ行ってしまった。今がチャンスだ。
音を立てないよう慎重に、だが急ぎ目に教材を片付ける。鞄に詰め終えて椅子を引くと床を引っ掻く嫌な音がして焦ったが気付かれなかったようだ。そのまま抜き足差し足で出口に向かう。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと開ける。何だ楽勝だ、僕にかかればこのくらい大したことはない。
「神高? どこ行くんだ?」
しかしドアの向こうでは大きな壁が立ち塞がっていた。予想外過ぎて大声を上げそうになってしまった。尻餅もつきかける。
「ぶ、武か? どうしたんだ?」
「勉強会をしていると聞いてな。差し入れに来たんだが」手に提げていたビニール袋を見せられる。「もう帰るのか?」
「い、いやいやまさか。ちょっとトイレに行こうと思ってただけだ」
作り笑いを浮かべながら武の左に回り込む。冷や汗が額を伝う感触があった。
「鞄持ってか?」
まさか鎌刈が後ろにいるとは思わなかった。ふへぇっ、と間抜けな声を上げてしまう。
「こ、ここれは、そう。僕の鞄じゃないよ。僕のじゃないんだ」
作り笑いを作るのが厳しくなる。こっそりと後ろへ下がり、右に回り込む。
「あなたのでないのならそれはそれで問題ではないですか?」
まだ誰かいた。古長だった。ついに尻餅をついてしまった。一体何人後ろにいるんだ。
「いやその、これは違くて、勉強が嫌になったとか抜け出してやろうかとかそんなことは全然考えてなくて」
目を回してしまった。自分でも何を言っているのか分からない。早くどうにかして誤魔化さないと後ろの二人が騒ぎに気付いてしまう。しかし呂律も怪しくなっている。
「あー! 神高! どこ行くの!」
すっかり忘れていた。自分よりもずっと年下の女の子の怒り声に体を震わせてしまった。振り返ると奥の部屋からコーヒーを持って出てきた守神と目が合ってしまった。睨みつけられたせいか、情けないことに金縛りにあってしまったみたいだった。
「う、動けない……」
武に引きずられ、椅子に戻された。ご丁寧に鞄の教材まで広げられる。改めて目を通してみてもさっぱり分からない。眩暈がするだけだ。その上、全然できてないじゃない、と守神に怒られる始末。散々だった。
「あ、武じゃん。いらっしゃい」守神に小突かれ、意識を取り戻したキャプテンが眠たそうに欠伸した。
「疲れてるな」
「いやぁ、野球の疲れなら苦じゃないんだけどね」
「頑張るしかないな。みんなやってきているんだ。ほら、差し入れだ」
「ありがとうー」
ノートの上に差し入れのお菓子や飲み物が広がる。
「神高もこれ食べてやる気出せ」
「何だ神高、やる気ないのか?」
「やる気? ないね」ようやく動くようになった腕を回す。空気など読まない。ハッキリと言い放ってやった。「今すぐにでも帰りたい」
「はは、オレもだ」
「オイラもでやんす」
「アンタ達真面目にやらないんだったら勉強見てあげないわよ」
ごめんなさい、としょげた声が両隣からした。僕はフンと鼻で笑いだけするとお菓子を口に含み、教科書に視線を落とした。甘いチョコレートの香りが口の中に広がる。
まったく面倒なことだ。野球をするためだけにとんだ遠回りをしているような気がする。学業の成績が悪かったからわざわざこうして勉強会を開いているが、本当にためになっているのかも分からない。他の高校に行っていたら間違いなく扱いは違っていただろう。僕はもっとちやほやされてもいいはずだ。近頃の僕はエースで四番の実力を持つ人間の扱いを受けていないような、そもそも実力を認められていないような、そんな予感すらする。だから不満ばかりが募る。
「な、神高。早く野球したいな」
「まったくだ」
返事をしてから、キャプテンに掛けられた言葉の内容が頭に入って来た。つい上の空になってしまっていたようだ。
「だよなー」
間延びした彼の声はどことなく呑気だ。カリスマ性を全く感じられない。何故キャプテンが僕ではなくて彼なのか、そのことも未だに不満だった。野球の実力でも勉強面でも僕が勝っているはずだ。
「そうだ。お前次の試験はいつ終わる?」
彼の言い出すことは予測がつかない。僕の気持ちを余所に馴れ馴れしく話してくる。嫌いな奴ではないが僕のことを何も分かっていないんだと思い始めるとどうしても気に食わない。
「僕は確か来週の火曜日だね」
「オレは水曜日だ。そしたらさ、もう一回勝負しようぜ」
「もう一回だと?」
「この前のリベンジマッチやりたいだろ? やろうぜ」
「なるほど、いいアイディアだな」意外にも、僕が答えるよりも先に武が喰らい付いた。「チーム全員が戻ったら紅白戦をするのもありかもしれないな」
「いいじゃねぇか。モチベーションがインプルーブしてきたぜ」
「尚更、三人には早く戻ってきてもらわなければなりませんね」
「じゃあオレは神高と別のチームにしてほしいな」
「今度はちゃんとレギュラー陣を分けないとでやんすね」
「面白そうね。アタシも観に行っていい?」
「もちろんだよ!」
すっかり研究室は僕そっちのけで賑わってしまった。会話に入ろうとしても誰かに先に喋られてしまう。僕個人に話しかける人もいない。指で机を叩いても、咳払いをしても誰も反応してくれない。面白くない。
やっぱり僕は入る高校を間違えたのだろうかと思ってしまう。しかし入部して何度もの大会を経て、残すところ夏の大会だけとなった今思い浮かんでも今更だ。退屈だったので違う学校に行っていたら、転校していたらどうなっていただろうか、などという妄想に耽った。誰もが僕を認め、畏怖し、崇める。孤高にして絶対的な存在。悪くない。口元が緩んだ。
「もちろん神高が先発するよな」そんな中で唐突にキャプテンが僕の名を呼ぶと笑顔で振り向いてきた。「だってウチのエースだもんな」
妄想していたせいか、自分が話しかけられているのだと気付くのが少し遅れた。会話のテンポが遅くなっていたからおかしいなと現実に引き戻され、見回して、初めて気が付いた。いつの間にか注目を浴びている。
「それって僕のことか?」
「当たり前だろ。お前野球の実力は凄いじゃないか。今だから言えるけどこの前の勝負の時だって緊張して手汗がやばかったんだ。その点、信頼はしてるんだぜ」
「信頼、してるのか?」
「何でしてないんだよ。でなきゃもう一回勝負したいなんて思わないよ」
誰も遮らず、誰も否定しないで、僕の反応を見ていた。思っていたのと違う。誰かしらが反発すると思っていたのにその気配が全くない。静寂が息苦しい。なのに、体の奥からじわじわと込み上げてきたものがとてももどかしく心地良かった。妄想なんかよりもずっと清々しい気分になった。つい笑いが込み上げそうになる。同時に、気恥かしさでそれを抑えたくなってくる。
「で、先発しないのか?」誰かが尋ねた。
「あ」喋りながら、口角が上がるのを抑えながら、何と言おうか考えていた。「当たり前じゃないか。僕以外の誰が務まるっていうんだい」
「炎上待ったなしでやんす」
「それが困るんだよなぁ。小物臭さえ何とかなればいいんだけど」
「誰が小物だ!」
途端に皆が笑いだした。バカにされている気がしてならない。だけど、悪い気もしなかった。
さっきまで考えていたこと全て前言撤回だった。妄想する必要なんてこれっぽっちもなかったみたいだ。もしかしたら僕は既に、信頼してくれる最高の仲間に恵まれていたのかもしれない。それってこんなにも嬉しいことなんだな。知らなかったのが僕だけだったのかと思うと滑稽だが、誰にもバレていないのなら良しとしよう。
今まで気付きもしなかった胸の中のからっぽが埋まったような気がした。
目覚ましが鳴るより一時間も早く目が覚めた。外はまだ暗い。ぼやけた視界が少しずつ露わになる。見慣れない景色だった。見ている内に、甲子園近くの宿舎だと思い出す。寝直す程の時間はない。立ち上がり、顔を洗い、着替えを済ませて髪を結ぶ。
中身の濃い、長い夢を見ていた気がする。いろいろな人が出てきては僕は親しく話していた。知り合いではなかったと思う。どこで見た顔かも思い出せない。だが夢の中の自分は不思議と楽しそうにしていた気がする。もう一度見てみたいと、思わなくもない。敷布団を片付けるのに少し躊躇した。
駄目だ、まだ寝惚けている、しっかりしろ。両手で頬を叩いた。邪念が多すぎる。これから大事な試合を控えているのに、余計なことに気を取られていては負けるはずのない相手でも負けてしまうかもしれない。本来なら注意すべき相手などいない。灰凶、聖タチバナ、帝王、パワフル、どこが来たって僕の敵ではないはずだ。どこも僕とはレベルが違いすぎるのだから。優勝はこのアンドロメダが頂く。そして母さんに認めてもらう。栄冠を掴んだ瞬間を、母さんに褒められた時を想像する。すると、夢に出てきた人物達の顔を思い出せなくなった。これでいい。
まだ皆は寝静まっていた。静かに玄関へ行き、靴を履く。外へ出ても静寂は変わらなかった。外灯がぽつりぽつりと夜道を照らしていた。寝る前の景色とほとんど変わらない。身体を伸ばし、準備体操を終えると闇の中へと駆け出した。ここしばらくのランニングコースを思い浮かべる。
しばらく走っても誰ともすれ違わなかった。寂しくなどはない、起きたのが早過ぎたのは僕なのだから誰もいなくても仕方ない。けれど、一人か二人くらいいてもいいじゃないかと、思わなくもない。
おかしい、まだ邪念が残っている。普段思いもしないことをまた考えている自分に驚き、そして怒った。もう一回頬を叩き、口に出して自分に言い聞かせる。僕は独りでも大丈夫だ。他人の力など必要ない。試合だって、僕一人の力で勝ち抜ける。実際これまでそうしてきた。チームメイトは最低限のことだけしてくれればいい。過度な期待などしていない。友情だの信頼だのは弱い輩のすることだ。
腕時計に目を落とす。夜明けの時間はとっくに過ぎていた。空は、一向に明るくならない。
仲間なんて僕には必要ない、はずだよな?