黒鵜は右手に握っていた石を投げた。それは標的である化け猫の頭上を通り過ぎて、明後日の方角にある茂みへと落下する。
すると、なぜか化け猫は目の色を変えて石が落ちた場所へ駆けだして行った。
化け猫が離れたことを確認すると、黒鵜は足の怪我を物ともしないように器用に素早く火垂の傍に移動した。
「どうして・・・?」
「細かい話は後にして。今、魔力を送りますから」
倒れる火垂の背に黒鵜の手が触れる。その掌から決して多くはないが、なんとか動ける程度の魔力が火垂の体内へと流れ込んできた。
力の戻った火垂が困惑した顔のまま起き上がる。
「たった、これだけの魔力ですか」
「これでも精一杯絞り出したんですけど、やっぱり魔術発動は無理そうですね」
「それは元々期待してません。ところで、あの怪物はなぜ我々の前から去ったのですか?」
他にも言いたい事や聞きたい事があった火垂だが、まずはその疑問を解決したかった。
火垂が怪訝な目付きで尋ねると、黒鵜が自らの左手を開いて見せる。
そこには黄緑の汁のような湿りを帯びた布が巻かれていた。掌は傷なのか皮膚が大きく破れ、血が布の下から滲み出している。
「さっき投げた石に血を染み込ませた布切れを巻き付けました。あんな怪物でも野生の動物なら血の匂いに釣られるんじゃないかと。思った通りに奴の注意を引くことができてよかったです」
「この手は、自分で傷つけたのですか?」
「はい。ナイフで切ると刃に血の匂いが残るので、さっき投げた石の尖った部分で叩いて傷を作りました。あっ、でも後で消臭作用のある植物を見つけて、その葉の搾り汁を使って僕の手の血の匂い消しもできました。これなら普通にナイフで切ってもよかったですよね」
そんな風に説明しても、火垂は戸惑いの顔を崩すことはなかった。なんというか、あの時助けが来たことが信じられないといった感じの表情だ。
「どうしてーーーー」
「どうして指示通り森を出なかったのか、って言いたいんでしょうけど。悪いけど僕は君とそんな約束した覚えはありませんし、仮に約束しても従うつもりはありません。一人逃げ帰っても後でマグナスさんに殺されそうですし、誰かを犠牲にして生き残っても満足できると思えない。第一、僕は守れない約束はしませんから」
そう言った瞬間、黒鵜の頬に痛烈な平手打ちが響いた。火垂がいきなり右手で叩いてきたのだ。
叩かれた箇所が赤く腫れ上がる。これは怒らせたかなぁ、と黒鵜は自らの発言に非があることを理解していた。聞いてる側からすれば『お前の言うことなんて聞かねえよ!!』と喧嘩を売っているのと同義であったからだ。
どう謝ったものかと思案しながら振り返る黒鵜。そこにあったのは、意外そうな顔で手を振り抜いた火垂の姿だった。
「------え?」
なぜか疑問の声を漏らしたのは火垂の方だった。
彼女は何度も叩かれた黒鵜の頬と自らの手を見比べている。その様は、まるで腕が勝手に動いたことを驚いているかのように黒鵜には映った。
事実、火垂は黒鵜を叩いた己自身が信じられなかった。それは体が黒鵜の先程の台詞、〝守れない約束はしない”という言葉に無意識に反応したかのようだった。
また、黒鵜を叩いた瞬間に火垂の胸中に広がった謎の喪失感。誰かに裏切られたような、しかしそれがいつのことだったのか全く思い出せないもどかしさ。それは、かつて火垂が感じたことのない未知の感覚だった。
「わ、私はなにを・・・」
火垂の瞳から一筋の滴が流れ落ちる。
たった一粒の涙。でも、それはさっきまで主を恋い焦がれていた人形が流していたのと同じものなのか。
少なくとも、黒鵜には今の火垂が『泣き虫な普通の女の子』にしか見えなかった。それぐらい、この時の彼女は人間味ある悲痛な表情を浮かべていた。
こんな切羽詰る状況でなければ、次は是非輝くような笑顔を見せてほしいと思ったほどだ。
「君が怒るのも当然です。ですが、過ぎたことを悔いても現状の打開にはなりません。不本意でしょうけど、ここから先は僕の指示通りに動いてもらえませんか?」
少しでも誠意が通じるようにと頭を深く下げる黒鵜。
火垂はしばらく動揺していたが、黒鵜の強い謝罪の意を受けて気を取り直した。一先ず、さっきの張り手は何かしらの動作不良とでも思って強引に自分を納得させる。
そうでもしなければ、火垂は正常な意識を保てなくなる気がしたのだ。
「・・・心底、呆れた男です。私の命令を無視した挙句、あのような無謀極まる行動を起こすとは。運良くアレが石の方へ走ったから良かったものの、下手をすれば共倒れになるとこですよ!?」
ギロリと睨み助けた恩人へ毒舌を吐く火垂。ようやく調子が戻ってきたことに安心感さえ覚えた黒鵜は、肩の力を抜くように苦笑いを浮かべ頭を掻いていた。
「確かに危険な賭けでした。でも、身体が大きくなっても野生動物なら本能には忠実なんじゃないかと思って。猫は動くものが好きだから、そこで血の付いた石なら食欲もそそられて飛びつく確率は高いと計算しました」
「どんな計算ですか。まあ、その命知らずな無鉄砲男に助けられたのも事実。一応、礼は言わないでおきます」
「お礼言わないんだ・・・」
ちょっぴりショックな黒鵜の額を軽く小突く火垂。
「今はまだ、ということです。危機が去ったわけではありませんし」
火垂の言う通りだ。あの怪物はすぐにでも引き返してくるだろう。今度また遭遇すれば、二人に抗う術はない。
だが、そこは黒鵜も馬鹿ではない。ちゃんと対応策を用意していた。
「そうですね。では、急いでここから移動しましょう」
「どこへ逃げるつもりですか?」
「逃げる気なんてさらさらありません。さっきも言ったじゃないですか、僕たち二人で退治すると」
黒鵜は笑う。それは、まさに
「火垂さんが時間を稼いでくれたおかげで仕込みは終わりました。あの化け猫に、とびっきりの