「おめでとう、みずきくん」
電話口から予想外に低い、爽やかな声が聞こえてきた。風呂上がりで髪を拭いていた手が思わず止まる。
「あ、あの、えっと」
着信履歴から折り返したのにまさか思っていた人以外が出るとは思わなかった。掛け間違えたのかもと咄嗟に携帯から耳を離す。電話番号と名前を確認するが間違いはなかった。何度も電話したことがあるから登録ミスもしているはずがない。
言葉に詰まってしまう。驚いたなんてものではない。しかし声の主に心当たりはあった。だから自分でも緊張しているのがよく分かった。恐る恐る尋ねる。
「神童さん、ですか?」
「そうだよ。久し振りだね」
やっぱりそうか。眉間に皺が寄った。
「これ、お姉ちゃんの携帯ですよ」
「今は出られないんだ。ついさっきお風呂に行ってしまってね。君からだよって伝えたら代わりに出てくれと言われたんだ」
何ともばつが悪い。文句の一つでも言いたくなった。はっきり言ったことはないけれど、私が神童さんを苦手にしていることはお姉ちゃんも知っているはずなのに。
悶々とした気持ちを抱えつつ、ソファに散乱していた服や雑誌をどかした。できた小さなスペースに座り、タオルを首に掛ける。苦手な人とはいっても野球選手としては偉大な人だ。つい姿勢を正してしまう。でも何を話せばいいのか分からなかったので黙りこくってしまった。
「電話し直そうか?」
神童さんは申し訳なさそうに言った。気持ちを察してくれたのかもしれなかった。でも私はつい反射的に「あ、いえ、大丈夫です」と返してしまった。言った後で後悔した。好意に甘えれば良かった。そうか、とどこか安心したみたいに呟かれ、余計に切りにくくなる。また話題探しに悩まされる。
神童さんは知っているのだろうか。私がお姉ちゃんと一悶着あったことを、お姉ちゃんに抱いていた妬みがきっかけでいろいろな人を巻き込む事件が起きたことを。いや、神童さんも関係のない話ではないんだ、知らないはずがない。
事件自体は既に解決したけれど、あれから神童さんと話したことはない。こうして話すのですら何年振りになるのだろう。結婚式以来、いやもしかしたら高校の世界大会以来かもしれない。謝らなくちゃとはずっと思っていたけれど、きっかけが掴めないでいたし、時間が経つにつれて今更だと思わせる気恥かしさも芽生えてきていた。
「今日のゲーム、観ていたよ」しばらくして神童さんが切り出した。「優勝おめでとう」
言われてはっとした。最後に投じた渾身のクレッセントムーン、優勝決定の瞬間、仲間達と大はしゃぎしたビール掛け、いろいろな出来事が思い出される。まだ今日のことのはずなのに、もう遠い昔のことのような気がしてしまっていた。
「あ」どうしてもどもってしまう。素直に、流暢に言葉が出てこない。「ありがとうございます」
「完璧なピッチングだったね。最後もキッチリ三人で抑えていたし、危ない場面もなかった。もう立派なチームのクローザーだね」
「おかげ様で」
社交辞令しか言えないのか、と自分の情けなさが虚しくなる。
「聖名子もとても喜んでいたよ。直接行って試合を観たかったと、ずっと言っていた」
「まだそちらもシーズン中なんでしたっけ」
「あぁ。私も行ってくればいいと言ったんだけどね。こちらも優勝間近だから離れられないと言われてしまったよ」
そうでなくてもお姉ちゃんのことだからアメリカにいただろうな、と何となく予想がつく。やっぱり悔しいと思う気持ちが沸き出てしまった。
「愛されてますねぇ」
もやもやを払拭するように、普段矢部先輩や友沢に対してするような意地悪な口調をわざとしてみる。もちろん聞き取れるか分からないくらいに小さな声で。言った後で、聞こえていたらどうしようかと思ったが、何だい、と尋ねられただけだったので、何でもないです、とだけ返した。
いや、何でもなくはない。用事はある。早く謝らないと。苦手意識があったのも元を辿れば私が勝手に妬んでいたからだ。自分ではちゃんと分かっているつもりだ。せっかくチャンスが巡って来たのなら無駄にはできないし、したくもない。
しかし、ここまでお膳立てされても、まだタイミングが分からないでいた。
「私もね、みずきくんの活躍を観ていたら張り切ってきたよ。明日の試合、頑張らないといけないね」
悶々としている内にまた違う話題を振られてしまったが、ついほっとしてしまった。
「早ければ明日決まるんでしたっけ?」
「そうだね。他のチーム次第でもあるけれど、決められたらいいね。できたらみずきくんと一緒に優勝を決めたかったのだが、仕方ないし、贅沢も言っていられない」
「神童さんが先発するんですよね」
「その予定だよ」
分かりきっていることを尋ねていく。そうでもしないと会話が途切れてしまいそうだった。相槌を打つ回数も段々と増えていく。
「私も行けたらよかったんですけどね。こちらも日程が全部終わった訳ではないので。もしかしたら明日もまた投げるかもしれないですし」
「いやいや無理はしないで。日本からでも応援してくれたらとても嬉しいよ」
余裕のある話し方だなと、ふと思った。穏やかで落ち着いている。少なくとも、明日に重大な役割を控えている人の話し方ではないような気がした。
「何だか余裕そうですね」
「そう見えるかい?」
「電話なので見えないですけどね」屁理屈でも茶化すポイントは逃せない。「神童さんならあっさり優勝決めちゃいそうです」
「とんでもない。簡単にいくものじゃないよ」
「でも緊張してなさそうです」
「もちろん緊張しているさ。なるべく緊張しないよう言い聞かせているだけだよ。せっかく大舞台に立てるんだから存分に楽しみたいしね」
だけど他人の気を遣える余裕はあるんだな、凄いな、とつい感心してしまう。
話を聞いているだけでこの人は何でもできるのだと錯覚してしまいそうだった。この声に、存在感に、魅了された人がどれだけいただろうか。冗談のつもりで言ったことでもやってのけてしまいそうな気さえする。楽しみたいと、まるで楽しめるかのように言ったのも、まさかと思ったが恐らく本心からなのだろう。自分に自信があるからそこまで言えるのかもしれない。私なんかが言ったら、身体は小さいのに口だけは大きい、とスポーツ新聞の一面にでかでかと載せられてしまうだろう。
「その」ふと、軽い気持ちで浮かんだ疑問をぶつけてみた。「レギュラーリーグの優勝ってまた違いますか?」
今まで考えたこともない疑問だった。あまりに咄嗟に浮かんだため、本当に聞きたいことだったのか、どんな答えを望んでいるのか、私にも分からなかった。突拍子もないと思ったのか、神童さんに何度か聞き直されてしまう始末だった。
「まだ優勝した訳ではないから分からないな」
「そうでしたね」思わず苦笑してしまった。「じゃあ日本にいた時のリーグ優勝前は緊張しましたか? 完全試合を達成する直前とか、アメリカで初めて先発する前の晩とかはどうでした?」
「え、ど、どうだったかな」
神童さんの焦った声が聞けてどこか優越感を感じてしまう。
「はっきりとは覚えていないけれども、同じくらい緊張して、同じくらい楽しみだったと思うよ。その時その時にいつも必死で夢中だったからね」
「楽しみ、でしたか」
「みずきくんはどうだったんだい? 初めての優勝でいろいろ思うところもあっただろう」
「私はその、自分の役割をちゃんと果たさなきゃって思ってたので、楽しむ余裕がなかったのが正直なところ、かもしれないです」
「なるほど」
「野球は好きですよ、大好きです。誰にも負けない自信もあります。優勝の瞬間だって凄く興奮しましたし、嬉しかったですし。頑張ってきてよかったな、報われてよかったな、って何度も思いました」
「素晴らしい」
「でも昨日の夜は出番が回ってほしくない、とずっと思ってました。正直、体調も良くなかったですし」
「なって当然だと思うよ」
「神童さんは違うんでしょう?」
「まさか。試合前に吐き気を催したことなんていくらでもあるさ」
「えっ。本当ですか?」
「私だって普通の人間だよ。だからみずきくんの気持ちはよく分かる」
つい笑ってしまいそうになった。おかしな光景なんだろうなとは思ったが、あまりにも弱った神童さんがイメージにそぐわなくて想像できなかった。見てみたくなる。
「ただ今更あれこれ悩んだって仕方がない、と思っているだけだよ。やれることはやったと割り切ってね」
「割り切れないですよ」
「割り切るのさ」
笑みが苦笑いに変わる。口にするのは簡単でも心の奥底からちゃんと思える人はそういないはずだ。アンケートを取った訳でもないけれど私は確信していた。少なくとも私にはできそうにない。事実、できなかった。
話を聞けば聞くほど、羨ましいな、と思うばかりだった。私が勝っているところなんて何一つないのかもしれない。いや、ないだろう。これでは嫉妬しても仕方ないよなぁ。つい数ヶ月前の自分に同情してしまった。
「みずきくんもレギュラーリーグに興味が?」
今度は神童さんの方から尋ねてきた。いきなりだなとも思ったが、話の流れからすれば当然かもしれない。
「それは、まぁ、野球人ですから」
我ながら咄嗟に考えたにしてはなかなかの答えを出せたと思った。
「なら来てみればいいじゃないか」
しかし感心する時間はなかった。思わず、ふへぇ、と自分でも聞いたことのないくらい間抜けな声を出してしまった。
「私がレギュラーリーグにですか?」
「興味があるんだろう?」
「言いましたけど」
でもそこまで本気で言った訳ではないし、まさか誘われるとは思いもしなかった。随分軽く言うなぁ、とさすがに呆れた。簡単に行けるようなところではないことは神童さんが一番よく知っているはずなのに。冗談でも言っているのかもしれない。なるほど、これがアメリカンジョークか。
「すぐにとは言わずともね。経験を重ねていけば、みずきくんなら必ず到達できると思っているよ。みずきくんと同じ舞台で野球ができたらと思うとわくわくするね。同じチームなら間違いなく最強、敵同士でも最高のゲームができそうだ。その気なら私はいつまでも待ってるよ」
いや、これはジョークでも何でもないのか?
「ちょっと待って下さい」まだ続けて言おうとしているところを急いで止めに掛かる。「いきなりレギュラーリーグに来ないかなんて言われても困りますよ。考えたこともないんですから」
「分かるよ。私もずっと日本で野球をやるつもりだったからね。誘われるまで自分には全く縁のない世界だと思っていた。だからみずきくんも、今日がきっかけにでもなってくれれば充分嬉しいよ」
「いや、その、だからですね」
厄介だ。私の気持ちを分かったつもりでいるのだろう、余計に言いたい事が伝わらない。しかしどうも神童さんが相手だと強気に出れない。ペースを握られっ放しだった。何と言えばいいのだろう。
「あぁ、聖名子がお風呂から出たみたいだ。代わるよ」
だが悩んでいる間に神童さんは言いたい事を一方的に言い残すと気配をなくしてしまった。慌てて名前を呼んだが既に遅く、返事は返ってこなかった。携帯を耳から離してしまったらしい。電話口も塞いでいるのだろう、物音もしなくなった。
参ったな、と呟く。思っていたよりも強引な人なのかもしれない。初めて会ったのはもう随分前だけれども、神童さんについては知らないことの方が多いみたいだ。
しばらく待ったがなかなか電話は替わらない。ぼんやりと考える時間ができた。
「レギュラーリーグかぁ」
そんな道もあるんだな、と茫然と頭をよぎる。もし仮にアメリカに渡ったとしたら私の人生はどうなるのだろう。レギュラーリーグに長くいられるだろうか、そもそもレギュラーリーグに上がれるだろうか。英語は得意だけれどもコミュニケーションはうまく取れるだろうか。食生活も心配だ。まさか向こうでも親会社が次々と倒産なんてことはさすがにないと思うけど。
いや、つまらないな。マイナスなことばかり思い浮かべてしまう。頭を左右に振って一旦リセットした。どうせならもっと夢のある、最高のパターンを想像しよう。理想は高く、もっと細かく、もっと大胆に。
まずは来季から先発転向して二桁勝利、翌年には開幕投手になるでしょ。もちろんリーグ優勝もまたして、日本一にもなる。いずれは完全試合も達成。それからアメリカへ渡ってすぐまた完全試合達成、モンスターガールと騒がれる。でもこれだと神童さんと完全試合の数が同じになっちゃうか。じゃあもう一回達成しよう。そしたら神童さんを引きずり下ろして向こうでも開幕投手を任されるエースになるでしょ。で、引退する前に日本に戻って、あおいさんと聖と女性リーグを立ち上げて、盛り上げて。実はスカウトにも興味があるんだよね。これでも私、人の才能を見抜く目はある方だと思うんだ。
「もしもし、みずき?」
笑えてくる。まるで現実を何も知らない子供の夢だ。最近の子供は物知りだからまだましな夢を見るだろう。少なくともプロ二年目のルーキーが本気で考えることではない。インタビューで絶対言う訳にはいかない。
「優勝おめでとう」
もちろん実現するなど到底思えない。想像するだけならタダとはいえ、自分の能天気さが恥ずかしくなってくる。本気になどできる訳がない。
「あれ? 聞こえてる? みずき?」
でも、あの神童さんも、もしかしたら同じことを思っていたのかもしれない。
「よし、いっちょ頑張ってみるか!」
今度はお姉ちゃんが、ふへぇ、と今まで聞いたことのない間抜けな声を上げた。あまり感じたことはないがどうやら私達は似た者姉妹だったらしい。ようやくお姉ちゃんが電話に出ていたことに気付く。
「ど、どうしたの?」
「んーん、何でもない。内緒」
こればかりはお姉ちゃん相手でも恥ずかしくて言えない。さぞ向上心の高い妹だと驚いたことだろう。凄く気にしているようだったが笑って誤魔化した。
と、ここで肝心なことを忘れていたことを思い出した。神童さんに謝り損ねてしまっていた。代わってもらって早々だけれど、また電話を代わってもらわないと。
だがすぐに思い止まった。神童さんに出てもらったところでまた言い出せなさそうな気がしたからだ。もう子供じゃないのだからいい加減謝るべきことは謝らないといけないが、できることならとっくに謝っている。かと言って無闇に先延ばしにするのも良くない。さて、どうしたものか。
うん、じゃあこうしよう。近い未来、神童さんをエースから引きずり下ろしたら言うことにしよう。ごめんなさい、と。楽しみだ。