東京都新宿区某所
夜の帳が落ちてしばらくした後、時刻は午後十時を過ぎたあたり。
ふだんの新宿はまだまだ眠らず、多くの人々が行き交い、それぞれの娯楽に興じている頃だろう。
だが、今宵この場には人気は皆無だ。
無人の大通り。街の光はなく、車の一台も通らない。
常識ではありえない超常現象。無人の歓楽街はあまりにも現実感がない。
だがそれも当然。この場は現実世界ではない。そこから位相がずれた異世界だ。
神々の戦争のバトルフィールドであった。
そして、大通りの真ん中で、一人の男が佇んでいた。
清潔に切りそろえられた銀髪に褐色の肌、金色の瞳。第三ボタンまで開けた白いワイシャツに、簡素な黒のスラックス。首には金のネックレス、左手に銀色に鈍く輝く腕時計。
現デュエルキングにして、北欧神話の主神、オーディンの契約者、
彼は憤怒を抱きながら、周囲を見回した。
今日はオフの日で、一人静かに酒でも飲もうと、行きつけのバーで静かなひと時を満喫していたのに、いざ帰ろうとした時になって、いきなり神々の戦争を挑まれたのだ。
相手は三人。全員プロデュエリストで、六道の記憶が確かならば全員Cランカー。
オーディンの魔術によって酔いを醒まし――もともと酒には強い方だ。足元もふらつかず、思考に霞もかかっていなかったが――、戦闘開始。
そこまではいい。神々の戦争で、しかも三対一。相手は完全に格下だが、ここまで特異なシチュエーションならば、多少は
相手はデュエル開始と同時に、己のターンを進めるよりも先に、バトルフィールド内で向上する身体能力をフルに使い、姿を隠してしまった。
デュエルディスクの反応を見る限り、ターンを進める意思はあるようで、彼らのフィールドの状況はモニターできる。
だが肝心の相手の位置が分からない。
狙いは分かっている。神々の戦争は宝珠が砕かれなければ脱落しない。ゆえに、自分たちの姿を隠し、六道側から宝珠を狙われないようにしたのだ。
実に浅はかで、姑息で、醜悪な思想だ。敵の前に姿を現す度胸もない者が、戦場に身を置くなど。
「だがどうするつもりだ? このままでは敵の宝珠は砕けんぞ」
「問題はない。何も、な」
そこで一つ息を吐く六道。ちらりと周囲を睥睨。
「三人いれば、勝てると思ったか?」
次の瞬間、オーディンは見た。六道の全身から、言い知れぬ
オーディンは目を見張った。六道の全身から、まるで怒涛のように漂いだす気はバトルフィールド全体を包み込んでいく。
この手のことができる人間はいないわけではない。威圧感、俗に言う「気を当てる」というやつだ。
だが相手が眼前にいるならば、それひとつで相手の行動を縛ることもできようが、その応用でバトルフィールド全体を包み、同時に、その“気”に返ってきた反応から、相手の位置を把握しようとしているのだ。
やがて、六道の視線が、無人のビルを向いた。
「そこか」
呟き、そして動いた。
六道と相対した三人のうち一人は、ビルの窓から静かに六道の様子を窺っていた。
大通りに佇んで動かないデュエルキングの姿に、男は内心でほくそ笑んだ。
いかにキングと言えども三対一で、しかもこうして姿を隠せばそう簡単にこちらに攻撃は当てられまい。
あてずっぽうで当てられるほどこの場は狭くはない。それに遮蔽物だって多いのだ。このまま数の有利を維持しつつ、相手を削っていけば、勝てる。
そう、勝てるのだ。あのデュエルキングに。
そんな未来予想図を思い浮かべて、男は口角を吊り上げた。
笑い声が漏れないよう注意しつつ、肩だけを震わせて、笑う。
その笑みが凍りついたのは、全身を悪寒が貫いたからだった。
「なんだ?」
背骨が氷柱に変わったような悪寒に全身が震えた。何が起こったのかわからない。そして彼は知らない。知りようがない。今この瞬間に、六道がバトルフィールド全体を気で包み込んだことに。
電子音。デュエルディスクからの音に、男がびくりと体を震わせた。
デュエルディスクの反応を見た。
「な――――」
息を呑んだ。いつの間にか、デュエルキングのフィールドがモンスターで埋まっていた。
P召喚を主軸に展開したのだと気付いた次の瞬間には、もう仲間の一人のライフが0になっていた。
神が叫んでいる。宝珠が砕かれたと。
状況に頭の理解が追い付かないうちに、もう一人、消えた。こちらも宝珠が砕かれた。
ここに居てはまずい。ようやく焦燥にかられた時にはもう遅かった。
轟音を上げ、床がぶち抜かれた。
「あ――――」
男が呆然とした声を上げる。一階から一直線に天井を――床を――ぶち抜いて、現れたのはDDD死偉王ヘル・アーマゲドン。
そしてそれに捕まったデュエルキングの姿。その背後に浮かび上がる
「ひ……」
悲鳴が上がった。もう遅かった。逃げられない。
「予想以上に、つまらない戦いだったな」
デュエルキングの声。退屈さを隠そうともしない、失望の声音。
男は心底後悔した。たった三人で、こんな化け物に挑むべきではなかった。
バトルフィールドが消滅していく。
デュエルはあっけなく終わり、三柱の神が消滅。参加者がまた減った。
だが六道の胸に達成感はない。あるのはただただ広がる失望感。
今夜の戦いもまた、心躍るものではなかった。
頂点に立って、挑戦者を待って。それが楽しければそれでいい。
だが今回みたいな雑魚はごめんだった。
戦うならば、心を燃やしたい。熱くなりたい。燻ぶらせたまま、滾ることなく冷え切るのは嫌だ。
六道天は戦いを望む。心躍る戦いを。強い奴と、戦いたい。切実にそう思った。
◆◆◆◆◆◆
イギリス、ロンドン。とある、世界的に有名な探偵と非常に因縁深い
四十を少し過ぎたあたり。撫でつけられた灰色の髪に落ち着きのあるディープブルーの瞳、黒いシルクハットとフロックコート、きっちりと着込まれたベストと、絵に描いたようなジェントルスタイル。
まさに紳士を体現したかのような人物。
足取りは軽く、ステッキこそ手にしていなかったものの、もしも手にしていればぐるんぐるん軽快に回していたことだろう。
彼はかつて、ロンドン塔の中庭でデュエルをしていた
名を、フレドリック・ウェザースプーンといった。
「さてさて、世界は回り、ピースは集まった。されど悪徳は蔓延り、正義の炎は細くか弱い。この流れ、はたしてどうしたものか」
足が止まる。目的地に着いたのだ。
ウェザスプーン探偵事務所と看板を掲げられたのは、一見するとアパートのように見える。これもまた、かの名探偵にあやかったのだ。ここは事務所であり、実際の活動拠点はロンドン市内の別の場所にある。
階段を上っていく。その間も言葉は止まらない。
「集う悪逆に対して、対抗する力はまだ弱い。我が友クリノが鍛え上げることができた正義はまだ一つ。いや――――もう一つ、現在鍛えている最中か。
ほかはどうだろうか? 盾もつ正義の女神、戦を好む雷神、国造りの大神。彼らの契約者の実力は? やはり、一度確かめてみたい。私が行くのもいいが、他の誰かが行くのもいい。
やはり日本に行くべきか。敵の動きは予想以上に速い。此方も迅速に事を運ばねば……」
苦渋に満ちた表情を浮かべるフレデリック。そして、苦痛を吐き出すように、呻くように、言った。
「クロノス。奴は強力すぎる。そして、危険すぎる……」
気づけば階段を上り切り、事務所扉の前に。
事務所の扉を開けると、そこに男が一人。
否、それは正確には人間ではなかった。
外見は二十代後半。短めの銀髪に赤い瞳。銀の鋲が入った黒の革製ジャケット、黒のレザーパンツのパンクルック。そんなあり様でもなおわかる、鍛え抜かれた体躯。そして二メートル近い長身ゆえに、縦にも横にも広い。幾年月も変わらぬままそこにある壁の風情。
今、その男は自分にあてがわれた革製の椅子の上に沈み込むように身を預け、右目のみを瞑っている。開かれたままの左目はどこを見るでもなく、焦点があっていない。
その様は片目を開けているが、瞑想しているかのよう。ここではない、どこか遠くを見ているような、俯瞰した視点を感じさせる。
そしてその肩に、奇妙なものがあった。
一見すると昆虫のように見えたがそうではない。
確かに昆虫のような羽と節足を持っているが、本体部分は無数に寄り集まった眼球に見える。
眼球に羽根と足をはやした異形の何か。決して人界に存在するはずのない生物だ。
「ヘイムダル。千里眼の様子はどうだね?」
目の前に異形を気にも留めず、フレデリックは男に声を駆けた。
ヘイムダルと言ったか、この男。
その名は、神の名だ。
北欧神話に名を連ねる、門番と見張りの神。
そして、和輝が契約を交わした神、ロキの宿敵にしてライバル。
「問題ない」
右目を瞑ったまま、ヘイムダルが答える。巌が動くような、重々しい声音。
「おれの千里眼は万象一切、どこにいようとも目標を見出す。ゆえに情報収集には最適と、そう言ったのはお前だ、フレデリック」
「そうだ、その通りだ。しかしこれは神々の戦争。神々の中には、君の千里眼さえも欺くものがいる。そうではないかな?」
「……エジプトの神々のことか」
ヘイムダルは苦々しげにそう言った。
今、ヘイムダルの肩に止まっているのは、いわば彼の千里眼を具象化した端末の一つだ。
彼はこのような偵察ユニットを無数に召喚し、世界各地に放ち、映像情報と音声情報をユニットを通してリアルタイムで把握、解析、分類している。
いわばこの千里眼ユニットは超高性能、超小型のドローンのようなものだ。
まさしく
ヘイムダルはフレデリックと契約して以降、こうして神々の戦争の全体を俯瞰して状況把握に努めている。
「エジプトの神々、正確にはメトロポリス九柱神は、おれが千里眼を使い始めた時から消息不明だ。バトルフィールド内にこもっているとしたら、その入り口を見つけない限り中を探索できない」
「手詰まりか……。アンラマンユについてはどうかね?」
「封印地点から動いてはいない。だが
「世界に放たれる悪の種子。その一滴は、やはり大いなる危機の前触れとなるか。邪神、悪神の悪意、怨恨が増幅されている一因だね」
苦い物を飲み込むように、フレデリックはそこでいったん言葉を切った。自分でティーポットから紅茶を注ぎ、一口。
「やはり今一番警戒すべきは、クロノスか……。だが、力が足りない。私たちには、圧倒的に戦力が足りない」
「レイシス・ラーズウォードは今だ動けず、
「彼は彼で我が強い。こちらの要請に頷くときはよほどのことが起こった時だけだろうよ。ラインツェルン君は近々日本に向かう。やはり私も向かうよ。我らが見出した正義の種を、潰させるわけにはいかない」
「貴様が見出した正義、か。その中には当然、ロキもいるのだろう? 正確にはその契約者だが」
「――――やはり、因縁が足を引っ張るかね?」
ロキとヘイムダルの確執――実際はそんな生ぬるいものではない――を、ヘイムダル本人から聞いているフレデリックは、ヘイムダルが内心、ロキの契約者、即ち和輝に協力を要請することに対して反対ではないかと、そう思っていた。
だが、ヘイムダルは首を横に振った。
「おれとて神だ。目前の脅威に対して私情、私怨を優先させるほど狭量ではない。必要と在れば、世界に牙剥く邪悪を討つためであれば、おれはロキと手を組むことだって
「そうか。それは頼もしいな。では、私は依頼主にメールを送ろう。君の報告を添えてね」
そう言って、フレデリックは奥へ去っていった。本人が言うように、これからメールを作成し、送信するのだろう。
一柱残されたヘイムダルは、椅子に腰かけたまま、閉じていた右目を開いた。
「詳細不明のメトロポリス九柱神、散漫ながらも活動している邪神、悪神など、人間を恨む神々、この世全ての悪、アンラマンユ。そして、クロノス。多くの問題が、神々の戦争には蔓延っているな」
ヘイムダルの呟きは、彼以外誰の耳にも届かなかった。
◆◆◆◆◆◆
デュエルモンスターズの歴史は、十五年と意外に短い。
だがその十五年――正確にはもうすぐ十六年だ――の間に、このゲームは世界中に広がった。
あまねく国に、あまねく年代の人間に。瞬く間に。
そこには勿論、神々の戦争に使うために行われた、神々による介入があっただろう。
だがやはり、このゲームが人々の心を掴んだのは、ある人物の存在が大きい。
ルートヴィヒ・クラインヴェレ。
彼こそがデュエルモンスターズの生みの親。ドイツに本社を築く、クラインヴェレ社CEOにしてチーフデザイナー。
――――このゲームは私が開発したものではない。ある日、私の枕元に神々が下りてきた。私は彼らの言うとおりに、このゲームを作りあげただけだ。
これは、彼、ルートヴィヒがメディアに向けた公式声明。彼は神々の宣告通りにこのゲームを作り上げたと。
神々の戦争の参加者は知っている。彼の言葉は、嘘偽りなく、真実だと。
ドイツ某所、クラインヴェレ社本社、社長室。
その日、クラインヴェレ本社の社長室は証明が落ちており、窓にはカーテンが敷かれていて、ひどく暗かった。
光源は一つ、パソコンのモニターの光のみ。
暗闇の部屋の中、その男はモニター前に陣取って、じっと、自身に送られてきたメールを見ていた。
公的な記録によれば、彼は今年五十七になる。還暦近いその身体はまだまだ衰えを見せず、三つ揃いのスーツの上からでもわかる筋肉は鎧のごとく壮健。白いものが混じっているものの、灰色の髪はやはりまだ若々しく、髪と同じ色をした鋭い双眸は力を失っていない。
さながら今なお森中を駆け、獲物を駆る瞬間を待ち望む灰色狼の風情。
彼こそが“帝王”、ルートヴィヒ・クラインヴェレその人だった。
「…………」
ルートヴィヒは自身へと届けられたメールを食い入るように見つめていた。
じっと、じぃぃっと。メールの文面一言一句を、目に、脳に、魂に、刻みこもうとするかのように。
やがて、その重厚な見た目に違わぬ、重々しい声を上げて頷く。
「……そうか、神々の思惑が入り乱れているな。邪神、悪神の動きも気になるが……、やはり問題はギリシャ。だが――――」
そこで、ルートヴィヒは何かに苦しむかのように顔をしかめた。
「ぐ……、む……」
苦悶の声が、噛みしめた唇の間から漏れる。体を震わせ、胸に手を当てた姿は病気のようだが違う。
しばらく内側からの衝動に耐える。
頭の中に声が響く。自分を誘う悪の声。自分を、堕落させる、衝動。それらを必死に抑える。
契約を交わした神は、己を内部から崩壊させようとしている。堕落させようとしている。
今も感じる。一秒ごとに、自分がぐずぐずに溶けていく危機感。自分がどんどん削られて、なくなっていく恐怖。
それらをかみ殺す。
「貴様の、貴様の好きにはさせんぞ……。テスカトリポカ……」
ルートヴィヒの呻くような抵抗の台詞を、神はせせら笑った。
◆◆◆◆◆◆
ギリシャ某所
人のいない空間。即ちバトルフィールド内で、その轟音は起こった。
轟音、次いで閃光、そして衝撃波が飛び、周囲の建物が薙ぎ倒された。
粉塵が舞い上がり、収まる。その時にはもう、とある勝負の決着がついていた。
「が……。おの、れ……」
消えゆく神。その足元には気を失った契約者の姿。
神々の戦争の決着だ。常との違いは、その数か。
神と契約者。合わせて九組が、今この場で消滅したのだ。
今、最後の一柱が消えようとしている。
「おのれクロノス! それは、そいつらはなんだ!」
弾劾とも取れる声を上げる、消えゆく神。かけられる声は、二重になって聞こえた。
『無様だな、ポセイドン。だがそれがいい。貴様らオリンポスの神々の、屈辱に塗れ、地に這いつくばるその姿を、オレはずっとずっと見たかったぞ』
嘲笑の声を上げるは巨大な神、クロノス。そして、その背後に付き従う影。クロノスを含めれば、その数実に十二。
クロノスに向かい、消滅寸前の神、ポセイドンはなお立ち向かおうと一歩踏み出す。
だが無理だった。足が消滅していた。ゆえに、その場に転んでしまった。無様に、哀れささえ思わせる様に。
『アレスは裏切り、アテナは戦力外。おまけにリーダーのゼウスとは合流できず仕舞い。その有様で、オレに見つかったのが貴様らの不運だったな。もういい、消えろ。すぐに貴様の兄、ゼウスも送ってやろう』
嘲笑のクロノス。ポセイドンは気絶した契約者に最後に目をやって、屈辱に身を震わせながら消滅した。
バトルフィールドが消えていく。後に残ったのは、敗北し、宝珠を砕かれて消滅した、アテナ、ゼウスを除いたオリンポス十二神の九柱の契約者たち。
「いやはや。終わったね、クロノス」
姿を消した
撫でつけられた藍色の髪、ブルーの双眸、グレイのスーツ、日本人離れした彫の深い顔つき。長い年月をかけて研磨され、ついに命を持ったような石像の風情。
十二の企業が合併した複合企業、ゾディアックの社長。
「さて、これで君の復讐は終了かな?」
『馬鹿を言うな。まだアテナとゼウスが残っている。なればこそ、今度こそ捻り潰すだけだ』
「確かに。ゼウスはともかく、アテナは私が出資しているプロデュエリストが契約者。
『ゼウスの居場所を探ることも忘れるな。いつでも潰せるアテナよりも、奴のほうが先だ』
己の復讐心を隠そうともしないパートナーに、射手矢は苦笑する。背後に控える十一人を目にして、微笑し、
「捕えたハデスはどうするね? まだ契約者を見つけていない以上、神の力は使えないんだろう? 殺すのはたやすいはずだが?」
『いいや、取り込む。力を丸々我が物にする以上、時間はかかろうが、一度は喰らった神性よ。またモノにしてくれる』
クロノスの言葉に射手矢は「それはそれは」と苦笑する。と、射手矢のデュエルディスクに反応があった。
「おや、喜びたまえよクロノス。神々の戦争、進展があったぞ」
白紙のカードを手にした射手矢。それをデュエルディスクにセットする。
『神々の戦争参加者の皆さんにお知らせします。
残り参加者が五十柱となりました。
残り参加者の皆様、これからもより良い闘争を』
「残り半分。我らで潰そうじゃあないか」
射手矢はそう言って、笑った。