ドイツ某所。クラインヴェレ社本社、応接室。
「久しいな」
親愛の気持ちを込めてその言葉を放ったのは、初老だが、それを感じさせない、力強い印象の男だった。
三つ揃いのスーツ姿、白いものが混じっていても老いた印象を与えない灰色の髪、鋭い光を放つ、髪と同じ色をした瞳。今なお森中を駆け、獲物を刈る瞬間を待ち望む灰色狼の風情。
彼を知るものは世界に多くいるだろう。デュエルモンスターズが世界を席巻している現代ならば。
ルートヴィヒ・クラインヴェレ。デュエルモンスターズの生みの親にして、クラインヴェレ社CEO。それが彼であった。
「ああ、本当に久しぶりだ。メールでの連絡ではなく、こうして直に君に会うのはね。友よ」
応える声にも親愛の情がありありと伺えた。
応える男もまた壮年だが、ルートヴィヒに比べれば二十近く若い。
四十を少し過ぎたあたり。撫でつけられた灰色の髪に落ち着きのあるディープブルーの瞳に、フロックコートときっちりと着込まれたベストと、絵に描いたようなジェントルスタイル。
彼の名はフレデリック・ウェザースプーン。神々の戦争の参加者にして、今は大いなる災厄、蠢動する邪悪に対抗するため暗躍している身だ。
「そちらの
出迎えた友人が一人ではなかったことに気づき、ルートヴィヒは片眉を上げた。
年若い少女だ。フレデリックよりもさらに二十以上年下。
十六、七ほどの少女。
背中の半ばまで伸ばしたややピンク色に近い紫の髪に、可愛いと言うよりも綺麗な、凛とした顔立ち。青い瞳は宝石のように透き通っており、それに魅せられるものもいるかもしれない。
透き通るように白い肌を覆っているのは白地の長袖のブラウスに膝のあたりまでの長さの青いスカート。首から銀の十字架を下げ、ほとんど飾り気のない意匠の服装でありながら、十字架と、両耳につけたダイヤのピアスだけが唯一の装飾品だった。
気高くもすました白鳥の風情。
少女はソファから立ち上がり、優雅にスカートの端を指で摘まんでわずかに上げて、お辞儀した。
「お初お目にかかりますわ。わたくしの名はカトレア・ラインツェルン。この度神々の戦争の参加者の一人に任命され、さらにウェザースプーン卿のめがねにかない、ここにいます」
「ほう、ラインツェルン。イギリスに根差した一族だったな。そのような方まで参加しているとは、やはり神々の戦争は老若男女、人種、地位の高低問わずあらゆる種類の人間が選ばれるようだ」
「若輩の身なれど、この身果てるまで戦う所存ですわ」
にこりと、可憐でありながらも不敵な微笑を浮かべるカトレアに対して、ルートヴィヒは好ましそうな笑みを浮かべて右手を差し出した。
「それは頼もしい。それに澄んだ、良い目をしている。君ならば信用できそうだ」
「そう言っていただき、光栄の至りですわ」
差し出された手を握るカトレア。ルートヴィヒが失礼に当たらない程度に力を入れてカトレアの手を握った。
カトレアは握られた手からルートヴィヒの熱が伝わってくるのを感じていた。初老の身からあふれ出る熱情。だが決して不快ではない。感じるのは目の前の男が抱く哀切の願い。即ち、世界を覆う邪悪の黒雲を払ってくれという、切実な感情。
二人と一人はソファに腰かけた。少しして、秘書が三人分のコーヒーを運んできた。
「さすがに、本場の英国人たちに馳走できるような上等な紅茶はなくてな。コーヒーで我慢してくれ」
「気にすることはないよ、友よ」
フレドリックは運ばれてきたカップを手にとって、まずコーヒーの芳香を十分に楽しんだ。
一口口に含み、その味にも満足した。
ちなみに、フレデリックはそのままブラックで飲んで満足げにほほ笑んだが、同じくブラックで飲んだカトレアは顔をしかめた。
「おや、ラインツェルン君。ブラックは苦手かね? だったら砂糖とコーヒーを入れよう」
「ひ、必要ありませんわ!」
ぶんぶんと首を横に振って、カトレアはもう一杯コーヒーを口にした。
孫のほど年の離れた少女の意地っ張り具合に微笑んだルートヴィヒだったが、次の瞬間、不意にその身をくの字に折った。
「ぐ……。く……!」
「
突然の事態にカトレアは立ち上がって狼狽の声を上げる。人を呼ぼうと駆け出しかけたところ、苦しんでいるルートヴィヒ自身が止めた。
「心配ないよ、
取り出したハンカチで首筋の汗を拭き、ルートヴィヒはソファに沈み込むように腰かけた。
確かに、彼の言うとおり、ルートヴィヒの呼吸は安定してきいた。
カトレアが安心してソファに座りなおしたタイミングで、フレデリックが口を開いた。
「……もう、時間がないのかね?」
「ああ……。実にふがいないが、もう保ちそうにない。」
ルートヴィヒはそう言って、己の右手に視線を注いだ。
右手の五指を開いたり閉じたりしながら、自嘲気味に笑う。
「すでにこの体と精神のほとんどは、邪神の支配下にある。十五年前より啓示を受け、デュエルモンスターズを完成させて、しばらく。およそ十余年。この身にすくう邪悪は病魔のように私を食い破ろうと虎視眈々と潜伏していた。そしてついに、その牙は私の魂に届いた」
「……どうにも、ならないかね?」
「無理だな」
痛ましげな視線を送るフレデリックに対して、ルートヴィヒは力なく
「昼間はまだいい。私の身体も、精神も、私のものだ。彼奴は白き太陽を嫌っているからな。だが夕暮れからは、別だ。
白き太陽は地平線のかなたに消え、黒き太陽が、夜の時間がやってくれば、そこからは彼奴の領域だ。私は私でいられなくなる。そしてその時間は、どんどん長くなってきている。今では昼でも夜でもない、夕方の時間帯でも意識が飛ぶことがある」
語るルートヴィヒの声には明確な恐怖があった。
右拳を握り締める。軋んだ音が静かな応接室に響いた。
「案ずるな、フレデリック。この身が完全にかの邪神のものとなった時、その時の処置はすでに依頼している」
「デュエルキング、
六道の名に、カトレアがかすかに息をのんだ。
当然といえば当然か。六道天は全デュエリストの羨望の的にして、頂点を目指すもの全員の前に立ちはだかる巨大な壁だ。本気で上を目指してるものならば、その名を聞けば身構えるのは当然。
「その通りだ。彼と私は表向き、プロデュエリスト契約を結んでいるが、実際は私が彼に彼の望む戦いの場を提供しているに過ぎない。互いが神々の戦争に参加することになった後もそれは変わらない。ただ、一般の常識から外れた戦いを提供する機会が増えただけに過ぎない。
そして六道にはすでに私について語っている。テスカトリポカ、奴の好きにはさせん。最終的にこの身が完全なる悪に傾けば、六道に引導を渡してもらうさ」
「……そう、か。君が覚悟を決めているならば、私から言えることはない。君の願いは私が引き継ぐよ。邪悪を断つ正義を集めることを」
「進捗はどうか?」
「順調さ。ここにいるラインツェル君を含め、多くの若い力に目をつけている。近々、本格的な接触を図る」
「急いでくれ。私が私でいられる間に、正義はあるのだと、邪悪に負けぬと、その確信を持ちたい」
懇願のようにも聞こえるルートヴィヒの言葉に、フレデリックは力強く頷き、席を立った。
「君の願いをかなえられるよう、努力しよう」
◆◆◆◆◆◆
その知らせを受けた時、
驚き、目を丸くする
バスと電車を乗り継いで、ついたのはある病院だった。
東京都内某所にある病院。かつて、それこそ東京大火災から生還した直後などは、東京都内に入るのさえ恐怖と嫌悪感からくる震えでできなかったが、今はそんなことはない。
教えられた病院にたどり着いた。面会であることを入口で告げ、エレベーターの中へ。
ほかに相乗りする客も、医者も、入院患者の姿もない。
無言のままエレベーターが上がっていく。和輝は沈黙。姿を消してはいるが、同行しているロキも沈黙していた。
やがてエレベーターが目的の階についた。そのまままっすぐ、記憶した番号の病室に向かう。
白い壁、白い天井、リノリウムの冷たい床。徹底して、病的なまでに、不浄を排除した清潔な空間。
目的の病室の前で立ち止まる。個室だ。事前に言われた通り目立たず、しかし必要以上にこそこそせず、普通に、何気なく病室までやってこれた。その事実にわずかな安堵を感じ、ほっと一息ついた。
ノック。
「開いてるよ」
重厚な声が返ってきた。「失礼します」と告げて入室した。
病室の中には白いシーツがかけられたベッドが一つ。その上に男が一人、退屈そうに寝そべっていた。
ベッドが小さく思える、大柄な男だった。
四十代前半。アメフト選手のようながっしりとした体つき、白いものが混じった角刈りの黒い髪と茶色の瞳。入院着姿でもわかる頑健さ。年経てもなお勇猛な猛牛の風情。
かつて和輝と戦い、その実力を認め合った中にして、
「鷹山さん。怪我は大丈夫なんですか?」
「大したことないさ。あばら何本かに、罅が入っただけだ」
おおらかに笑う鷹山。その拍子に傷が痛んだのか、顔をしかめた。
「本当に大丈夫ですか?」
「怪我は本当に大丈夫さ。大丈夫じゃないのは、俺の相棒が消えちまったって現実に、どう向き合うかってところでな」
部屋の空気が変わる。和輝は表情を引き締めた。
「連絡を受けた時は驚きました。ウェスタが敗れ、鷹山さんが神々の戦争から脱落したと」
「しかも気になるのが、戦った相手が神々の戦争に参加していない神だそうじゃないか」
実体化したロキが言う。いつも口端に浮かべていたにやにや笑いも、今は鳴りを潜めている。彼なりに気を使っているのだろうし、事はおちゃらけた雰囲気を許さない。
「そうだ。ウェスタはそう言っていた。名前は、テミスって言ってたな。倒したと思ったら重たい反撃を喰らう、やばい奴だった」
「テミス、ね……」
ロキは何かを思案するような顔で沈黙した。和輝はロキの様子がおかしいことに気づいていたが、あえてこの場では何も言わなかった。
「岡崎君」
会話が僅かに途切れるタイミングで、鷹山から切り出した。
「神々の戦争に異変が起こっているのは間違いない。参戦していないはずの神の存在がその証拠だ。これから、おそらく戦いはもっと変質していくと思う。俺からこう言うのは変かもしれないが――――命を大切にな。どんな願いも、思いも、命があってこそだ」
鷹山の言葉に、和輝はなんと返答したら困った。何しろ、彼には神々の戦争で叶えたい願いはないからだ。
正確には願いを明確に決められないでいる。
無欲な参加者。ただ彼が戦うのは、神々とその契約者による非道、外道が我慢ならない。悪意がもたらす理不尽で傷つく人を見たくないからだ。
そして、七年前、死ぬはずだった和輝を、心臓を半分捧げてまで生き延びさせてくれた変わり者の邪神、ロキに、その時の借りを返すためだ。
それはある意味とても強欲な願いかもしれないが、それは神々の戦争に立ち上がった褒美として叶えるものではない。なぜならその時点で、和輝の願いはもう叶っているのだから。
「まぁ、死なないように気を付けますよ」
だから結局和輝は、そんな当たり障りのないことしか言えなかった。
◆◆◆◆◆◆
ロキの様子がおかしいことには、和輝は当然気づいていた。
イギリスから帰国して少ししたあたりから、ロキはどこかピリピリしていた。
理由を聞いてもはぐらかすばかりで暖簾に腕押し糠に釘。何ら有用な情報は得られなかった。
だがさすがにそろそろはっきりとさせなければならない。
「おい、ロキ」
切り出したのはもちろん和輝。夕食後、和輝は自室でロキに問いかけた。
「お前最近様子がおかしくないか? 何か俺に言いたいことがあるんじゃないのか?」
「おっと。単刀直入だね。まあいいか」
肩をすくめて嘆息するロキ。ここいらが頃合いかと呟く。
「実際鷹山さんの話は深刻だ。何しろ、神々の戦争本戦にいないはずの神がいるんだからね。アンラマンユが封印されている現状、イレギュラーは歓迎しがたい」
「つまり、お前にとって歓迎しがたいイレギュラーが、今神々の戦争で起こっているんだな?」
「いくつかね」
口元の微笑は絶やさないが、深刻な口調のままロキは言う。
「和輝、今、人界には嫌な“気”が流れ込んでいる」
「気?」
「そう。言い方はいろいろあるけれど、神々は
例えば陰の気。例えば瘴気。それこそ国や地域によって変わってくるけれど根源の意味は同じ。魔の気配。
「それが流れ込んでくると、どうなる?」
「世が乱れる。とても大きく」
ごくりと唾を飲み込む和輝。正直言えばロキの言っていることはよく理解できないが、それでも彼の口調の真剣さが事態は深刻な方向に転がり込んでいると感じさせた。
「具体的には?」
「人界に住む人間たちの目に見える形では、世界中で大きな災害や大規模な事故。目を覆いたくなるような紛争が立て続けに起きるだろうね。もちろん、人心が乱れるからどこそこの国の政府が転覆しただとか、どこかの街でテロが起こっただとか、負の波動に当てられた人間による犯罪行為やクーデターも増えるだろう。とにかく、世界中に流れる血の量が増えるのは間違いないね」
「……止められないのか?」
「残念ながら」
ロキの返答を受けて、和輝は自分でも知らないうちに拳を握り締めていた。
みしりと右拳が軋んだ音を立てる。
和輝の脳裏をかけるのは七年前の東京大火災。炎と闇と、そして死が満ちたあの地獄。あれもまた、神の行いが原因だった。
絶対悪の神、アンラマンユ。人知れず行われた神々の戦闘行為。東京のバトルフィールドを舞台にした戦いは熾烈を極め、ついにバトルフィールドが崩壊。その代償は、和輝たちが眠る現実世界に押し付けられた。
バトルフィールドからあふれ出た炎が東京を襲い、大災害として土地を覆った。
炎の波は魔神の舌となって地上を舐め、家を、人を、土地を焼き、そのせいで火災現場は今もって復興のめどはたっていない。
あんなことが、今度は世界中で起こる可能性がある。それを止めるすべとてないままに。
ロキは和輝の内心に沸き起こる怒りについて、気づきながらも言及しなかった。その怒りもやるせなさも、すべて自分で受け入れて、飲み込まなければならないことだ。余人が干渉していいことではない。少なくともロキはそう思っていた。
ゆえにロキはただ淡々と、事実だけを告げた。
「神々の戦争は、これから大きく動くと思う。和輝、どのような事態になっても、決して冷静さを失うことはやめてくれよ?」
「――――――わかってるさ」
幸いというべきか、まだ世界には大きな変化も、その兆候も見られない。それは同時に、今和輝たちに何かできるわけではないということだ。
じたばたしても始まらないならじたばたしない。慌てるのも、足掻くのも、その時が来てからでいい。
と、その時、おやとロキが声を漏らした。
「誰か上がってくるね。てゆーか、
ピクリと和輝の眉が上がる。心得たとばかりにロキが頷き、姿を消した。直後、控えめなノックの音が和輝の部屋のドアを叩いた。
「兄さん? いらっしゃいますか?」
「ああ。どうした?」
失礼しますの一言ともに、義妹がドアを開いて子猫のように顔を出した。
「エアメールが、兄さん宛に届いていました」
「俺宛? 父さんか、先生か?」
「いいえ。初めて見る名前でした」
疑問符を頭に浮かべながら、和輝はとりあえず綺羅から手紙を受け取った。
綺羅が去った後、差出人の名前を見る。確かに、覚えのない名前だった。
「誰だ? フレドリック……ウェザースプーン……?」
記憶に検索をかけてみても、ヒットしない。どこかで聞いたことがあるような気もするが、全く覚えがないような気もする。正直よくわからない。ひょっとしたら名前を聞いたのかもしれないが、印象に残っていない。
「覚えていないかい、和輝?」
解答は和輝の記憶の中ではなく、隣に座る邪神から来た。ロキは真面目な顔で、和輝が手にしたままのエアメールを指さした。
「この名前、ボクは覚えているよ」
「どこかであったか?」
「会ったとも。まぁ君が忘れてしまったのも仕方がないか。会話は少なめ、翌日には師匠のところに行って、さらにその次の日にはウェールズの森でバロールとの死闘だ。ちょっと後にあったイベントが濃すぎたね」
師匠、ウェールズの森。それがキーワードとなって、和輝の記憶が繋がった。
「思い出した。イギリスの、ロンドンだ。
ロンドンで教授職をしている養父と、彼についていった養母。二人を訪ねてロンドンを訪れた時、和輝は偶然、同じく神々の戦争に参加し、アテナの契約者となったプロデュエリストの少女、
そのデュエルが終わった後、二人に声をかけてきた英国紳士、それがフレデリックだった。
彼は和輝たちのこれまでの戦いを二人の前で語り、そして邪悪が迫っていることを伝えて去っていった。
印象に残る出会いだったのだが、和輝はその後今の両親との再会。翌日、師でありカウンセラーのクリノ・マクベスに会いにウェールズの森に行き、さらにその翌日には復讐に猛り狂うバロールと彼に狙われたルー。そしてルーの契約者のエーデルワイスの戦いに首を突っ込んだのだった。
そんな戦いの連続のせいで、フレデリックのことをすっかり忘れてしまったのだ。
「待て。あのおっさん、なんで俺の実家の住所知ってるんだ?」
「君の戦いの詳細を知っていたんだ、それくらい朝飯前だろう。それに、彼が契約した神がボクが思っている奴なら、こんなことは芸当とさえ呼べない。あの
手紙の内容は、冒頭に突然の手紙に対する謝罪と社交辞令的な挨拶の言葉が続く。
「んー。いったい何のための手紙だろう?」
「本題はここからだな」
続きに目を通して、和輝とロキの表情が引き締まった。
手紙を通して、フレデリックは語る。
『突然の手紙、驚いたことだろう。しかしいろいろ言いたいことは省いて私から言える警告は一つ。邪悪な軍勢が、ついに本格的に動き出した。近々私は日本に来る。そして君の前に現れるだろう。
正義の心を持つ少年よ、そこで、私が知ることを語ろう。その力、正しいことのために使われることを願っている』
手紙を読み終えて、和輝とロキはしばらく無言だった。どちらともなく、感じていたのだ。
戦いが、今までの比ではない、大きな戦いが迫っていると。