Penance   作:多田川 厚吉

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序 章

 

 空を見ていた。

 気がついたら、空を見ていた。

 夜空。

 星が見える。

 空には薄く靄がかかっていたが、いつもよりはっきりと星が見える。

 音。

 音が聞こえる。

 波の音。潮騒。聞こえてくる音はそれだけ。

 細かい砂の感触。手が砂に触れていた。

 

 

 砂浜に横たわっていた少年は身体を起こした。

 血がぶちまけられていた。

 真っ赤な血が、辺りにぶちまけられていた。

 少年は驚いた様子もなく、無表情に周囲の血を眺めた。

 やがて少年は、それが海水であることに気づいた。

 血の赤。血の赤が、潮騒と共に寄せては引いていく。人らしきものが、血の赤の上に磔にされたようにしてその姿を晒している。

 突然、少年の表情に、感情の兆しが現れた。

 血の赤と磔の間に、少女の姿が浮かび上がっていた。

 初めてこの街を訪れた時に見たのと同じ姿。

 青い髪と、赤い瞳を持った少女の姿を見て、少年は目を見開く。

 少女の姿が消えた。

 そのときになって初めて、少年は自分の傍にいる少女の存在に気がついた。

 青い髪の少女ではない。

 栗色の髪。青い目。赤い服。包帯。

 惣流・アスカ・ラングレーという名の少女が、少年の傍らに横たわっていた。

 

 少女の眼差しは虚ろだった。瞳は全く動かない。白い眼球に青い穴が空いている。

 少年は、暗くどこまでも続いていくような、どこまでも落ちてしまうような穴を、少女の瞳の中に見た。

 

 

 絞めていた。

 首を絞めていた。

 少女の首を絞めていた。

 少年は、少女の上に馬乗りになり、少女の首を絞めていた。

 呼吸が荒くなる。動悸がする。首を絞めている腕が震え、うまく力が入らない。腕だけではなく、体中が震えていた。

 少女の唇が震え、わずかに開いた。少年はそれを見ていない。身体を震わせながら、なお少女の首を絞め続ける。

 ぴくり、と包帯が巻かれた少女の手が動いた。少年はそのことにも気づいていない。少女の目だけは絶対に見ないようにしながら、少年は腕に力を込めようとする。しかし、力は入らない。震えは止まらない。

 少女の手が、少年の頬に触れた。少女の指が僅かに少年の頬を撫でた。少年は驚いたように顔を上げ、少女の顔を見た。少女の顔に変化はなかった。瞳には青い穴が空いたままだった。

 何故か震えが止まった。代わりに、息が詰まった。胸の奥から何かがこみ上げてくるような感触を少年は覚えた。同時に少年の瞳から涙が流れ出していた。

 滴が少女の頬に落ち、濡らした。少年は顔を伏せ涙を流していた。

 少女の瞳が動き、瞳に空いた穴を少年へ向けた。

 

 

「気持ち悪い」

 

 

 虚ろな、抑揚のない声で少女は言った。

 少年が目覚めてから、血の赤の潮騒と、自らの嗚咽以外に、初めて聞いた音がその少女の言葉だった。

 

 少年は少女の瞳を見た。そして、見てしまった。

 少女の瞳の中に映る、自分自身の表情を。

 

 笑っていた。

 少年は涙と鼻水にまみれながらも、確かに笑っていたのだ。

「ひいっ」

 少年は奇声をあげ、少女から飛び退いた。腰を抜かしたような格好で砂浜に座り込んだ。

「違う…違うよ……違う……」

 ぶつぶつと呟きながら、少年は少女から離れようとした。少女が首を動かし、少年を見た。

「わあッ」

 少女と視線が合う前に、少年は走りだした。砂浜を全力で駆けた。何度か転び、膝を擦り肘を擦り手の皮を破き鼻から血を流しても、少年はなお走り続けた。

 

 少年には何も見えていなかった。見えていたとしても、何かが視界に入っていたとしても、少年はそれらを全く認識していなかった。ただただ、大口を開け狂ったように手足を振り走っていた。

 

 何かに思いっ切りぶつかった。

 

 壁のような何かだ。しかしそれは、堅さを伴っていなかった。奇妙な弾力を持っていた。全力でぶつかり、吹っ飛ばされ、少年は砂浜に仰向けにぶっ倒れた。同時に、少年はその何かに奇妙な冷たさを感じていた。

 荒い呼吸のまま身体を起こしてみると、少年の目の前には真っ白な壁が広がっていた。少年にはそれが何であるのか分からなかった。少年は立ち上がり、柔らかな弾力をもつ奇妙な白い壁を見上げた。壁は緩やかで綺麗な流線面を描いていたが、上端に至る部分が突然崩れていた。引き裂かれたような、あるいは壁面が溶けだしてしまったような、そんな崩れ方だった。

 どくり、と少年の心臓が強く鼓動した。治まりかけた呼吸が再び乱れ始めた。

 少年は更に、壁の両端を見極めようしたのか、そのまま視線を横の方向へ向けた。

 壁は急に盛り上がり、三日月のような形の巨大な突起を作り出していた。更に先に目を向けていくと、少年の方を向いた大きな穴が見え、そして更にその先には濁った血の色のような楕円が見え……

 

「うわああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 それは壁ではなかった。それは顔だった。少年がぶつかったのは、かつて綾波レイと呼ばれた少女の、巨大な裂けた顔だった。

「あああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 少年は絶叫していた。半ば白目をむき、膝を地面につき、両手で頭をかきむしった。吐いた。そして叫び続けた。

「ひぃぃぃぃぃぃッッッッッッッ――――」

 やがて少年は意識を失い、糸を切られた操り人形のように地面に崩れ落ちた。 

 

 

 

 

 

 

 暗闇の中、少年は音を聞いた。

 

 ある程度定期的に繰り返される振動音。

 振動に合わせて、身体が揺れる。

 レール…電車。そんな言葉が唐突に思い浮かぶ。

 少年は自分が目を閉じていることに気づき、目を開いた。

 

 やはり、電車の中だった。向かい合った四人掛けの椅子に少年は座っていた。目の前の席は空いていて、隣にはたるんだ頬と腹が張りだしている中年の男が座っていた。何が起こったのか、状況が理解できないまま、少年は男の顔を見上げた。男の後ろで、窓の外の風景が流れていた。

「シンジ、どうした?」

 と中年の男は少年に声をかけた。少年は男の顔を知っていた。なぜならば、少年は自らの人生の中で最も多くの時間をその男と過ごしてきたからだ。例えその時間が空虚なものであったとしても、だ。少年は口を開き、言った。

「伯父さん……?」

 中年の男は少年の伯父だった。何故伯父がこんなところにいるのか、いやそもそもここは何処なのか、何故自分はここにいるのか、頭の中に様々な疑問が浮かび、少年は当惑した。

「まだ着かないから、もう少し寝ててもいいぞ」

 中年の男は少年の頭を軽く撫でた。何が起こっているのかもわからない、何が分からないのかもわからない状態で、その伯父の態度はさらに少年を動揺させた。伯父の言葉や仕草は少年が知っている伯父からは想像できないものだった。まるで、そうまるで自分が初めて伯父に会った頃のようではないかと少年は思った。

 いつの間にか伯父との関係は冷え切ったものになっていたが、今の伯父のように、例えそれが表面上のものであったとしても、伯父は少年に優しさを持って接してくれていた時期があったのだ。

「ト、トイレに…」

 少年は言った。言ってから、この電車にトイレがあるのかどうか自分は知らないことを思い出した。伯父は怪訝そうな表情を浮かべたが、車両の後方を指さし、

「確か、後ろのほうだったぞ」

 と言った。少年は座席から立ち上がり、座席に付いている手すりにつかまって揺れに耐えながら後方の車両へ進んだ。立ち上がったとき、奇妙な感覚、違和感を覚えたが、それがいったい何であるのかはわからなかった。

 とにかくわからないことが多すぎた。何もかもがわからない。とりあえず一人になって状況を整理したかった。トイレに向かいながら、少年は車内の様子を確かめた。小綺麗な電車だった。家族連れ、しっかりと背広を着こなしているビジネスマン風の男性、老夫婦…。

 座席の配置から、少年はこの電車が通勤用ではないと考えた。それから、いやそんなことはどうでもいい、と思った。

 ビジネスマン風の男が読んでいる新聞をちらりと見てみたが、離れているために何が書かれているのかはわからなかった。

 

 二つほど車両を抜けると、洗面室が見つかった。中に入る。ここで気分を落ち着け、何が起こっているのかを考えるつもりだった。しかし、何の判断材料もない状態で、しかもこんな場所で、何がわかるというのだろうか。

 そんなことを考えながらも、便器を見ている間にもよおしてきて、少年は用を足した。

 

 違和感。

 

 見慣れないモノを少年は見た。これは自分のモノではない、と少年は思った。大きさが、違う。

 少年はトイレから出た。洗面台の上にある鏡を見ようとする。またもや違和感。洗面台が大きい。何故こんなに大きいのか? いや、それを言うならば、何もかもが大きいではないか。座席も、ドアも、伯父も。

 

 鏡には、少年の胸から上の部分しか映っていなかった。

 

 鏡は、四、五歳の子供の姿を映しだしていた。

 

 少年は、鏡の中に、四歳の頃の自分の姿を見ていた。

 

 洗面台の脇に、誰かが置き忘れていったものであろうか、新聞が置かれていた。

 

 

 

 

 

 

「西暦2005年 9月20日(火)」

 

 

 

 

 

 日付が、少年の瞳に刻み込まれた。

 

 

 

 

 

「ひぃぃぃぃぃッッッッ――――」

 

 

 

 

 先程上げたばかりの悲鳴が、少年の頭の中で再び響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「がああああああああああああああっ!!」

 意味のない声をあげ、少年は鏡に拳を叩き込んだ。

 右の拳。

 左の拳。

 右。左。右。左。右。右。右。左。右。左。左。右左右右右………

「馬鹿野郎ォ!! 馬鹿ヤロォ、ばかア!!」

 拳の皮が裂け、血が飛んだ。赤く濡れたガラスの破片が洗面台の上に落ちていく。

「うおああわああああああああああッ!!!」

 滅茶苦茶に少年は拳を叩きつけた。

「君、やめろ!」

 大声を聞きつけた車掌らしき男が駆け寄り、少年を取り押さえようとする。

「ばかヤロォ!! 死ねェ!! 馬鹿ヤロゥ!!」

 尚も少年は暴れ続けた。車掌一人では押さえきれず、いつの間にか数人の大人達が少年を取り押さえていた。

「離せッ! 離せ!」

 少年は叫んだ。

「わああああああああああああああああッ」

 少年は吠えた。

 大人達が必死に少年を身体を押さえる。少年の拳から出る血が大人達の服を汚す。

「離せえええええェェェェッ!!」

 

 ――――――少年は、泣いていた。

 

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