Penance   作:多田川 厚吉

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第二章 獣 笑

 

 耐えきれなかった。

 笑わずにはいられなかった。

 

 身体の奥に、熱がある。

 この十年、絶えることがなかった熱だ。

 

 耳の奥に、悲鳴が残っている。

 この十年、消えることがなかった悲鳴だ。

 

 そういったものが溜まり、混ざり合い、どろどろとした何かになる。

 方向性を持たない何かだ。絶えることのない、消えることのない何かだ。

 

 その何かが、今ここで、この強烈な笑みを作らせている。

 

 

 

 

 ミサトとリツコは言葉を失っていた。

 不気味な笑顔を浮かべるシンジによって、周囲の空気が重くなっていた。

 背筋に寒気が走る。胃が圧迫されるような気がする。

 凄まじい重圧感であった。言い換えれば、それは殺気というものになるのだろうか。

 空調が効いているケイジの中にいる筈なのに、汗が吹き出てくる。

 シンジの視線が、初号機より更に上へ向けられた。強化ガラスで仕切られたブースがあり、人影が見えた。

 

 碇ゲンドウが、いた。

 

 

 

「ぬおっ」

 碇ゲンドウは思わずそんな声を上げていた。狂人のような笑みを浮かべる見知らぬ男と目が合ってしまったからだ。

「だ…」

 誰だお前は、という言葉をゲンドウは呑み込んだ。既に報告は受けていた。“見知らぬ男”ではない。この男が、自分の息子なのだ。

 十年ぶりの再会であった。息子にかつての面影は全くなかった。

「……久しぶりだな」

 シンジたちから距離が離れていたことと、色の深いメガネをかけていたことが幸いした。内心の動揺を隠し、ゲンドウは言葉を発した。

「父さん」

 怖い表情のまま、シンジが言った。

「シンジ、私が今から言うことをよく聞け」

 シンジの顔が不気味なので、ゲンドウは視線を上へ逸らせて顔を見ないようにして話していた。色深のメガネの為、シンジたちにはゲンドウのそんな仕草はわからなかった。

「これにはお前が乗るのだ。そして使徒と戦え。―――出撃だ」

「待ってください司令!」

 シンジの雰囲気に呑まれていたミサトがようやく口を開いた。「“レイ”でさえエヴァとシンクロするのに七ヶ月かかったんですよ?! 今日来たばかりのシンジ君にはとても無理です!!」

「座っていればいい。それ以上は望まん」

 視線は逸らせたまま、顔だけはミサトの方へ向けてゲンドウはいった。

「でも!」

「葛城一尉!」リツコが言った。「今は使徒撃退が最優先事項よ。そのためには誰であれエヴァにシンクロ可能な人間を乗せるしか方法はないのよ」

 ミサトがリツコを見た。

「それとも、他に何かいい方法があるとでも言うの」

 リツコが言葉を続けた。ミサトは何も言わなかった。

「シンジ君、こっちへ来て」

 ゲンドウ同様、顔を見ないようにしながら、リツコがシンジを促した。

「おい」

 シンジが言った。「降りてこいよ…」

「シンジ君…?」

 シンジは唇を吊り上げながら、ゲンドウを睨んでいた。口調が変わっていた。

「ここへ降りてこいよ…なあ、降りろよ」

「あなた、何言ってるの?!」

 ミサトが言った。シンジは無視した。

「降りてこいよ」

 聞く者を暗い湖底へと引きずり込むような、低い、粘着質な声だった。

「さっさと出撃しろ」

 ゲンドウは言った。内心冷や冷やしていた。降りていったら何をされるかわからない。

 かつて、暴力的恫喝は何度も受けたことがあった。それらは恐ろしくはなかった。痛みはあったが、脅してくる者は大抵プロであり、背景には必ず狙いがあった。つまり、自分に何かをさせたいから脅してくるのだ。背後に、理、というものがあった。それならば恐れることはない。

 しかし、今のシンジのような頭のおかしい人間―――ゲンドウはそう思っている―――は別だった。狂った人間は何をするかわからない。天災災害の類と同じだ。この手の人間には6人ほど出会ったことがあるが、ろくな目にあったことがない。そして彼等の末路は悲惨であった。結局三人は射殺され、二人は病院に入り薬漬けになり、プロレス会場で暴れていたもう一人は、トップロープから虎のマスクをかぶったレスラーの真似をして飛び降り、頸骨を折って死んだ。

「乗るならば早くしろ。でなければ帰れ」

 実際に帰られてしまっては困るのだが、帰ってしまってもいいとゲンドウは思った。大体、この男が本当に自分の息子なのだろうか。幼い頃はあった母親の面影が完全に消えてしまっている。成長期とはいえ、ここまで変わってしまうものなのだろうか。

 いや、変わるのも当然かもしれない。十年、ろくに連絡を取らなかった。例えば、十年という月日が流れれば、ランドセルを背負っていた可愛い少年が金属バットで親を殴り殺すようになることだってあるのだ。

 ゲンドウはそんな例を思い浮かべながら、これはまさに今の自分の状況と同じではないのか、ということに気づき顔を青くした。そして、狂人を目の前にしているということだけではない、自身でも由縁の分からない底知れぬ恐怖感を覚えていた。

 今のシンジと最初に視線を交わした時に覚えた、何か自分の根源的な部分を震わせるような、恐怖感を。

「いいから、ここに来いよ」

 凄まじい顔のままシンジは言った。握った拳から血が滴り落ちていた。余程力を入れているのだろう。

「説明を受けろ。そして乗れ。お前がやらなければ人類全てが死滅することになる。人類の存亡がお前の肩にかかっているのだ」

 ゲンドウはシンジの言葉を無視することに決めた。あらかじめ口にするつもりだった言葉をベラベラと喋り続けることにした。己の感情を完全に隠し振る舞うことには慣れている。

「顔色が悪いな」

 シンジが言葉を割り込ませた。

「そうか…わかった。お前など必要ない。帰れ。人類の存亡をかけた戦いに臆病者は不要だ」

 ゲンドウはあくまでシンジを無視していた。

「何言ってるんだ、あんた。馬鹿か?」

 シンジはゲンドウをあんたと呼び、馬鹿といった。ゲンドウは瞬間的に全身の血液が逆流するかのような感覚を覚えた。血色の悪かった顔が見る見るうちに赤くなっていく。

 馬鹿という言葉にゲンドウは敏感だった。しばしばゲンドウは他人にこの言葉を使っていたのだが、自分が使われることには強い抵抗感を感じていた。これでも国内の最高学府と言っていい所を卒業している身なのだ。チンピラ風情の狂人に馬鹿呼ばわりされるいわれはない。

 そもそも何故自分はこんな奴に怯えているのだ、怯える必要はないではないか、とゲンドウは怒りの中で自らに言い聞かせた。全てを捨てる覚悟は既に出来ている。ただ一つの願いが叶うならば、全てを投げ打っても良いのだ。自分の命ですら惜しくはない。

 そうだ。怯えることはないのだ。

「フン、お前などに用はないわ。消えろ。帰れ」

 シッシッ、と野良犬を追い払うようにゲンドウは手を振った。突然の態度の変化だった。先程から支離滅裂な言動を繰り返しているゲンドウに、ミサトとリツコは不信感どころか危機感を覚えて、身体的ではないところをケアするために医療班を呼びたくなるような衝動に駆られていたのだが、もちろんゲンドウはそんなことには気づいていなかった。

 ゲンドウは側の端末のスイッチを入れた。ディスプレイに白髪の初老の男の姿が映し出された。

「冬月、“レイ”を起こせ」

 ゲンドウがディスプレイの中の男にいった。“レイ”を今使えるのか、とディスプレイの中の男―――冬月が訊ねた。

「かまわん。死んでいるわけではない」

「待てよ」

 シンジが言った。あの強烈な笑みが消えていた。代わりに、怖い目つきでゲンドウを睨みつけていた。

「黙れ。帰るならさっさと帰れ」

 睨み返してゲンドウはいった。そして今度はシッシッという言葉を口に出しながら手を振った。一旦強気になればとことん大胆になれる男だった。

 ドゴッ、という鈍い音がした。

 シンジがケイジの壁を走っているパイプの一つに蹴りを入れていた。一撃で金属製のパイプは曲がり、割れ、中を循環していた気体が漏れだした。

「シンジ君!」

 リツコが咎めるような声を出した。

「すみません、少し黙っててもらえますか」

 ゲンドウを睨んだままシンジがリツコに言った。恐ろしい表情になっていた。眉間に深いシワが生じ、眉が吊り上がり、こめかみに血管が浮き出て、一方で上目遣いにゲンドウを睨み付けている瞳が爬虫類のような感情を感じさせないものになっていた。頭髪も逆立っていた―――いや、もともと逆立っているような髪型だった。

「ふぬっ」

 ゲンドウはまたもや奇声を上げていた。

 ―――なんという顔だ。それが親に向ける顔なのか。間違いない。こいつは人を殺している。人殺しの顔だ。極悪人の顔だ。最低でも三十人は殺している顔だ。

 そんなことを考え、ゲンドウは顔面を引きつらせた。

「余計な真似をするなよ…」

 怖い表情のまま、シンジが言った。

「何だと?」

 シンジの言葉の意味がゲンドウにはわからなかった。その時、外部からケイジへと入るドアが開き、移動式のベッドを押す白衣の男たちが現れた。男たちはシンジたちの側までやってきた。ベッドの上に、腕や頭に包帯を巻いた青い髪の少女が横たわっていた。少女は、身体のラインがくっきりと出る、ラバー製のような光沢のある白い服を着ていた。ベッドのシーツのように、ある意味病的に白い肌には汗が浮かんでおり、少女は苦しげな表情で目を閉じていた。

「まあいい……シンジ、お前はそこで気が済むまでぼやいていろ」

 と言って、ゲンドウは視線を青い髪の少女へ向けた。「“レイ”、予備が壊れた。代わりにお前が乗れ」

 ゲンドウが“レイ”と呼んだ少女が目を開いた。怪我のためか、弱々しく震えながら、少女は身体を起こした。

「……はい」

 レイは息を切らしていた。包帯を巻いた腕で自分の身体を支え、痛みをこらえながら立ち上がろうとしていた。

「無理よ…」

 ミサトが呟いた。

「おい…人の話を聞けよ」

 シンジが言った。また鈍い音が響いた。シンジが壁のパイプに拳を叩き込んでいた。先程と同じようにパイプに亀裂が走り、中の液体が漏れだした。

「うるさい。黙れ。喋るな」

 そう言ってゲンドウは三たびシッシッと手を振った。今度は両手を使い、右足も使った。まるで阿波踊りのような動作だった。

 突然、衝撃音と共にケイジが大きく揺れた。片足を上げていたゲンドウはすっ転んだ。したたかに腰と背中を床に打ちつけ、ゲンドウは痛みの余り床を転げ回った。ケイジを見下ろす位置にゲンドウはいたため、みっともなくのたうち回る様をシンジたちに見られずに済んだ。それは不幸中の幸いだった。

 再びケイジが大きく揺れた。バランスを崩したレイが、ベッドから落ちる。

「レイ!」

と叫ぶミサトの側を、シンジが駆け抜けていた。ヘッドスライディングのようにシンジは身体を投げ出し、レイを受け止めた。更に振動は続き、天井から機材が落ち始めた。シンジとレイの頭上の大型ライトが外れ、二人に迫った。

「危ないっ!」

「ちぃぃッ!!」

 シンジが咄嗟にベッドを両手で持ち上げた。

「があっ!!」

 シンジはそのままベッドを空中に―――つまり、落ちてくるライトに―――叩きつけた。

 ベッドでライトを弾き飛ばしたのである。

 信じられないほどの力であった。ベッドと大型ライトは初号機が浸かっている液体の中へ沈んでいった。

 ミサトとリツコは言葉を失い、ただ目を見開きシンジを見ていた。

「くだらねえ真似しやがって」

 シンジがケイジの上方、ゲンドウがいる場所を睨んだ。「怪我人をこんな所へ連れてくるな……誰も乗らないとは言ってないだろうが」

 ゲンドウが腰をさすりながら立ち上がった。

「何だと……?」

「……シンジ君、それって……」

 ミサトがいった。

「乗りますよ」

 吐き捨てるようにシンジがいった。「俺が、乗ります。―――彼女のことは」視線だけを、床に横たわっているレイに向けた。一瞬、人外爬虫のようだったシンジの眼差しが、和らいだように見える。「頼みます」

「わかったわ」

 ミサトが頷いた。リツコは一瞬、怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに周りの作業員に指示を出し始めた。

「シンジ君、こっちへきて。簡単に操縦システムを説明するから…ゲホゲホ」

 いきなりリツコが咳き込んだ。

「シンジ君、頼んだわよ…ゲホゲホ」

 ミサトが咳き込んだ。

「ええ…げほげほ」

 シンジが咳き込んだ。周りにいる整備のスタッフたちも咳き込んでいた。涙を流している者もいる。

「ちょっと…ゲホ…コレ何?!ゲホゴホ」

 ミサトの目からも涙が流れていた。ケイジ内に刺激臭を伴う煙が立ちこめていた。

「ゴホゴホ…ガスよ、これは…この臭いは塩化水素ゲホゲホ」

 口を押さえながらリツコがいった。「どうしてこんなことに…」

 警報が鳴り響いた。ケイジが振動する。

「使徒が迫ってるのに…! ゲホゲホゲホ」

 ミサトがしゃがみ込んで揺れに耐える。リツコが辺りを見回す。ガスは初号機が浸かっている赤い液体から発生しているようだった。

「あれよ…ゴホ…さっきシンジ君が壊したパイプ…ゴホゲホ…中に塩化すずが流れてたのよ…ゲホゲホゲホゲホ…それがLCLと化学反応を起こして…ゴホゴホ」

「ゲホゲホ…そ、そう…ゲホゲホ…で、何とかならないのゲフン」

「と…とりあえずここを出ないと危険よ…全員退避、強制排気…ねゴホホ」

「わかった…それでゲホゲホ…いいですね碇司令ゲホゲホ…」

 ミサトが涙を拭いながらゲンドウを見上げた。ゲンドウのいるブースは強化ガラスで仕切られている為、ゲンドウは塩化水素ガスの影響を受けてはいないはずだった。しかし、ゲンドウはミサトの言葉に応えることなく、口を大きく開けてボンヤリと立ちすくんでいた。舌が半ば飛び出していた。

「い、碇司令…ゲホゲホ」

 ミサトがもう一度ゲンドウに声をかけた。

 

「逃げた…」

 

 舌を引っ込め、ゲンドウがぼそりと言った。

「…は?ゲホゴホ」

「ミ…ミサトげほげほ…シンジ君がいないわ…ゲホゲホゴホ…レイも」

「えっ?!」

 辺りを見回した。シンジとレイの姿が消えていた。ガスが充満しつつあるケイジの中に、二人の姿はなかった。レイが入ってきたのとは反対方向のドアが開いたままになっていた。

「逃げた…」

 ゲンドウは再び舌をだらりと伸ばし、宙を見つめていた。

 

 

 エヴァンゲリオン搭乗適格者、ファーストチルドレン綾波レイと、サードチルドレン碇シンジは、エヴァンゲリオン初号機の前から姿を消していた。

 

 ミサトは目眩がした。それは塩化水素ガスのせいだけではなかった。

 

 人類滅亡。

 

 そんな言葉が、葛城ミサトの頭の中に浮かんでいた。

 

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