Penance   作:多田川 厚吉

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第四章 狂 鬼

 

 鬼。

 

 人は、人のことをそう呼ぶことがある。

 非情、非道、恐怖―――そんなものを人の中に見出してしまった時、圧倒されてしまう何か、人ならざる何かを人の中に見出してしまったとき、人は、人のことをあえて鬼と呼ぶ。

 

 

 長い頭髪を、海中のワカメのように揺らしている鬼が、ここにいた。

 鬼の名を、碇シンジという。

 

 

「ぬうぅ」

 ゲンドウの口から、呻き声が漏れた。額には脂汗が浮かんでいる。

 発令所の中央モニターに映し出されている鬼を、ゲンドウは見ていた。

「ぬほっ?!」

 更に、ゲンドウは奇声を発した。モニターの鬼と自らの視線が重なったのである。ゲンドウの背筋に悪寒が走った。

 ―――殺される?!

 一瞬、そんな思いがゲンドウの心の中に生じた。だが、ゲンドウはすぐにそれを打ち消した。鬼は―――シンジは自分を睨んでいたわけではない。たまたまエントリープラグ内部のカメラが映した映像と自分の視線が重なっただけだ。そもそも、この場にいない男が、エヴァ初号機に乗っているシンジが自分を殺せるわけがない。

 ゲンドウが自らにそう言い聞かせたとき、視界から鬼の姿が消えた。シンジを映していた中央モニターの映像が消えたのだ。モニターには“SOUND ONLY”という赤い文字が浮かび上がっていた。

 

 

「や、やっと消えたよ……ハー、ハー」

 涙を拭き、呼吸を整えながら、オペレーターの一人が言った。

 実のところ、発令所の中で恐怖に近い感情を抱いていたのは、碇ゲンドウ一人だった。他の人間は、LCLによって海中のワカメもしくはイソギンチャクのようになってしまったシンジの頭髪に失笑させられていた。鬼のような表情よりも、ワカメヘッドに注意が集まっていた。このままでは笑いが止まらない、仕事にならないと判断したオペレーターの誰かが、映像を消したのだろう。

 そう、笑っている場合ではなかった。

 エヴァンゲリオン搭乗適格者、サードチルドレン碇シンジが乗っているにもかかわらず、エヴァンゲリオン初号機は起動していないのである。“使徒”に対抗できる唯一の手段、エヴァが動かない。

「もう一度フーフー最初からやり直してみてハーハー」

 まだ呼吸は乱れていたものの、はっきりとした声でミサトが指示を出した。

 

 

 ぴきっ。

 

 初号機のエントリープラグの中で、乾いた音がした。

 音は、シンジが握っているインダクションレバーからのものだった。強化樹脂で出来ているレバーグリップに亀裂が走っていた。

「……ふざけるなよ……」

 腹の底から響いてくるような低い声がした。シンジの表情はすでに“鬼”ではなくなっていたが、代わりに、あの、感情を感じさせない、爬虫の眼差しが浮かんでいた。

 シンジは座席から腰を浮かせた。エントリープラグの中はそれほど広くない。シンジの体格では、十分に立ち上がることはできない。

 それでも、シンジは身を屈ませながらも立ち上がった。そして右足を振り上げた。

 

 

 発令所に、金属と金属がぶつかり合う硬質的な音が響いた。

「何?!」

 突然の奇妙な音に、ミサトが叫んだ。

「エントリープラグからよ」

 笑いの発作が治まったのだろう、いつもの冷静な口調でリツコが答えた。

 

 がきん。

 

 金属同士がぶつかり合う音が続く。

「シンジくん、どうしたの?!」

 ミサトが言う。シンジは答えず、音だけが続く。

「プラグの映像、モニターして」

 リツコの指示で、再び中央モニターにエントリープラグ内の映像が映し出された。先程のシンジの姿を思い出して再び吹き出す者もいたが、僅かだった。

「シ……シンジくん……?」

 映像を見て、ミサトが口ごもった。オペレーター達の間にざわめきが広がる。

 シンジは、プラグの内部を蹴り壊していた。

 右足の爪先を、凄まじい速さでプラグの内部の機器に叩きつける。その度に、がきんという音が響いていた。ミサトは、今シンジが履いている靴が金属製であることに気付いた。そうでなければ、こんな音はしない。おそらく、工事現場で使われている“安全靴”のようなものを履いているのだ。

 工事現場では、作業内容によっては、工事中の事故―――例えば、百キロを超える鉄の塊が爪先に落ちてきた場合など―――で足をケガすることのないよう、爪先や甲の部分を鋼鉄で保護している“安全靴”を履く場合がある。名称は“安全”靴だが、使い方によっては危険な凶器になる。

 碇シンジは今、凶器としてその靴を用いているようだった。

「止めさせろ!」

 ゲンドウの隣にいた冬月が叫んだ。青白い顔をしていた。ゲンドウはモニターにシンジの姿が映ったときから全く動かなくなっていた。

「シンジくんやめなさいっ」

 止めるわけはないだろうなと思いながら、ミサトは言った。―――彼は、碇シンジは狂っているのだろうか?

 ミサトに応えることなく、能面のような表情で、そして爬虫の目で、シンジは凶器と化した足を振り続けていた。LCLの中には壊れた機器の破片が浮かび、エントリープラグ内部の異常を告げるブザーが発令所内に鳴り響いていた。発令所にいる人間は皆、その光景に圧倒されていた。

 だから、誰も気づくことはできなかった。

 碇シンジの口が微かに動いていたことに。

 「動け」

 と繰り返し呟いていたことに。

 

 

 

 

 振動に合わせて、天井の蛍光灯が点滅した。

 ベッドが三つほど並んだ、薬品、消毒液の匂いが漂う部屋―――医務室。

 ここで、人が一人、眠っていた。歳は十二、三くらいに見える。

 目を閉じ、寝息を立てている様は、一見少女のようである。しかし、短めの頭髪や、若干硬い印象を受ける骨格の雰囲気から、ベッドで眠っているのは少年であることがわかる。中性的な顔立ちだった。

 少年の名前は、久保ナオヤ。

 使徒が襲っていた街で碇シンジが助け、葛城ミサトの車の中で気絶してしまった少年であった。

 ネルフ本部内には医務室と呼べる場所がいくつかある。ナオヤが眠っている医務室は、それらの中でも比較的地表に近い場所にあった。ここでの、使徒の襲撃による振動はかなり激しい。

 だがナオヤは、目を覚ますことなく眠り続けていた。医者や看護婦は他の場所での治療に追われ、この場にいなかった。

 ナオヤは、目を覚ますことなく眠り続けていた。

 

 ―――今までは。

 

 医務室が強く揺れた。蛍光灯が先程より激しく点滅した。

 いきなり、久保ナオヤの目が見開かれた。ナオヤはベッドの上に立ち上がり、点滅する蛍光灯へ顔を向けた。

 ナオヤの全身が細かく震えていた。手、足、頭、胴体―――そして、眼球までもが、カタカタと音を立てているかのように震えていた。蛍光灯の点滅に合わせて、部屋が暗くなったり明るくなったりしている。その中に、震えるナオヤの姿がある。

 ナオヤは震える右手の人差し指だけを立てて、それをゆっくりと持ち上げ始めた。何かを指さそうとしているように見える。

「あ……あぁ……あ」

 震える口から声が漏れた。舌までも震えているのだろう、声は意味を成さなかった。

 ナオヤの指が蛍光灯を指した。蛍光灯は一層激しく点滅し、ナオヤの体も、震えるというよりは痙攣していた。左右の眼球が滅茶苦茶に動く。

「わわわわわわわわわああああああああああああ」

 全身を痙攣させナオヤは叫んだ。

 医務室の全ての蛍光灯が、“破裂”した。同時にナオヤは白目を剥き、倒れた。

 蛍光灯の破片で傷ついた右手と額から、血が流れ出していた。

 

 

 

 

 エントリープラグ内部を蹴り壊していた碇シンジの動きが、止まった。

 狭い内部であるにも関わらず、シンジは辺りをゆっくりと見回す。

 

 

「どうしたの……?」

 モニターでシンジの行動を見ていたミサトがいぶかしげな声を出した。突然動きを止めたシンジの姿を見て、発令所が静まり返る。

「レイを起こせ!」

 先程から活動を停止していたゲンドウが、唐突に叫んだ。しかし、発令所内の人間は皆、モニターの中のシンジに注目しており、ゲンドウの声は無視された。

「シンジ君、どうしたの? シンジ君?!」

 ミサトが訊く。シンジの答えはない。先程、シンジがエントリープラグ内部の音を拾うマイクを破壊したばかりだった。モニターにはただ無音で、ゆっくりと首を動かしているシンジの姿が見えているだけである。

 そのシンジが、コックピットに腰を下ろした。

「エヴァが、動く……」

 モニターの、シンジというよりはエントリープラグの状態を凝視していたリツコが呟いた。

「えっ?!」

 ミサトが驚きの声を上げる。同時に、

「エヴァ初号機、起動します!」

 と長髪のオペレーターが叫んだ。発令所内部がどよめいた。

「A10神経接続、ハーモニクス正常……いきなりシンクロしましたっ!」

「シンクロ率51.23%!!」

 オペレーターたちが驚きと興奮をこめて報告していく。ミサトが視線をリツコへ向けた。リツコが頷いた。

「いけるわ」

「よし―――いいわね、シンジ君!」

 ミサトの声に、シンジが首を縦に振った。シンジ自身が壊してしまったマイクのために、プラグ内部の声は聞こえはしなかったが、シンジの口が“はい”という言葉を発するように開閉した。

「いいですね、碇司令!」

 ミサトがモニターから振り返り、後方のゲンドウを見た。

 ゲンドウは何も、答えない。

 

 

「本当にいいんだな、碇」

 ゲンドウの傍にいる冬月が言った。顔色が悪かった。ゲンドウは答えない。

「本当に、いいのか? 本当に?」

 尚も冬月はくどくどと訊いた。やはりゲンドウは答えない。冬月はゲンドウのその態度を見、ゲンドウはシンジをパイロットとして初号機を発進させることに了解したのだ、と思った。碇シンジのあれだけの奇行をみても、大事な場面では普段と変わらぬ沈着な態度を取っている、と。

 顔の正面で組んでいる両手の間から、ゲンドウの歪んだ唇が見えた。笑みの形に近かった。

 しかし、濃いサングラスを隔てたゲンドウの瞳には―――うっすらと涙が浮かんでいた。

「か……」口を開いてからゲンドウは軽く咳払いをした。「構わん」

 そして、静かに鼻をすすった。半ばヤケクソになっているゲンドウの心情は、誰にも伝わっていなかった。

 

 

「発進!」

 エヴァ発進を指示するミサトの声が発令所内に響き渡った。

 

 

「50―――無理もないか」

 亀裂の入ったインダクションレバーを握りながらシンジが呟いた。その呟きを聞いている者は、シンジ以外にいない。

 次の瞬間、エヴァ初号機がケイジから射出された。

 

 

 

 

 第三新東京市の中心部は、壊滅状態にあった。

 ビルの大半は崩壊し、地表には無数の亀裂が生じていた。

 その中に、首のない、歪な姿を持った黒い人影がいた。常人の姿と比べると、両肩の位置が極端に上がっており、人間の胸にあたる部分に、ドクロに似た白い何かと、赤い光球がついている。人影といっても、その姿は人と呼ぶにはあまりにも歪であり、その大きさも人のものではない。黒い人影は、ビルを超える大きさを持っていた。

 人影が、昆虫の足のように節くれ立った手を、ビルへ向けた。

 手の平が光る。

 怪音と共に、手の平から放たれた光の棒が、まだ残っていたビルの一つを貫いた。

 破壊を続ける黒い人影―――これが、ミサトたちが“使徒”と呼ぶものであった。

 使徒が、さらに他のビルへその体を向けた時。

 使徒の背後のビルから、衝撃音が響いた。使徒が振り向く。

 ビルの壁面が地面の中へ吸い込まれるように下がっていき―――

 内部から、紫色の長い四肢を持った巨大な人―――エヴァンゲリオン初号機が現れた。 

 

 シンジは、真正面のモニターに映し出されている使徒の姿に、爬虫の眼差しを向けた。

『エヴァンゲリオン初号機、リフトオフ!』

 ミサトの声が無線を通して聞こえてくる。プラグ内の音は発令所には聞こえないが、発令所からの音声は届いてくる。

 ぴきっ。

 レバーグリップの亀裂が広がった。

 エヴァ初号機とリニアリフトを繋いでいた拘束具が外れ、初号機が両腕を前へ垂らした。その動作に合わせてプラグ内部が揺れる。

『シンジ君、まずは歩くことだけを考えて! エヴァは……』

 リツコやミサトからの指示がスピーカーから続けて届いていた。しかしシンジに聞いている様子はない。

 爬虫の眼差しのまま、シンジはインダクションレバーを動かした。

 

 

 エヴァ初号機が、瓦礫を踏み砕き、アスファルトに足部をめり込ませながら歩き出した。

 

 

「歩いた!」

 ミサトが声をあげた。周りのオペレーター達も、驚きと喜びが混ざり合ったような表情になる。

 エヴァ初号機が、初めての、そしていきなりの実戦で動いたのだ。

 だが、ゲンドウと冬月だけは表情を崩していなかった。そして皆の表情もすぐに曇ることになる。

 

 

 エヴァ初号機は、無造作に使徒へ向けて進んだ。

 進む先に使徒がいないかのように、ただ、歩く。

『待ってシンジ君!!一旦兵装ビルの……』

 スピーカーから声が届く。シンジは聞いていない。モニターに映し出されているミサトらの映像にも目を向けない。

 使徒が唸り声をあげ、右の手の平を初号機に向けた。

 それでも初号機は止まらない。無防備に、平然と歩き続ける。使徒との距離が詰まっていく。

 使徒の手の平が光った。同時に初号機が機体を傾ける。

 避けられなかった。光の棒―――というよりは槍―――が初号機の左肩を貫いていた。その衝撃で初号機は後方に弾け飛び、ビルの壁面に叩き付けられた。辛うじて転倒は免れたが、初号機の左腕が力を失い、だらりと下がった。

『シンジ君!』

 シンジの爬虫の眼差しが細められた。

『シンジ君聞きなさいっ! シンジ君!』

 初号機は右腕も左手同様に下げた。背を丸め、前屈みの姿勢になる。だが、頭部だけは使徒へ向けて上げられていた。

『シンジ君ッ!!』

 ミサトに応えることなく、初号機はだらりと両腕を垂らし、先程と同じように無防備に使徒へ向けて歩き出した。頭部を突き出すような格好になっている分、先程以上に無防備かもしれない。

 使徒が手の平を初号機へ向け―――いきなり走り出した。一気に使徒と初号機の距離が狭まる。

 使徒の手が突き出された初号機の頭をつかもうとした瞬間、初号機の体が沈んだ。使徒の手は空を掻き、光の槍は地面に突き刺さった―――と同時に、沈み込む動きから弾けるように身を起こした初号機の右腕が、使徒の光球をぶち抜いていた。

 使徒は一度ビクンと大きく体を痙攣させると、動かなくなった。

 

 

 発令所にいたほとんどの人間が、唖然とした表情でモニターを見上げていた。国連軍に大きな被害を与え、N2兵器にも耐え、この第三新東京市をあれだけ破壊していた使徒が、ほんの僅かな時間で倒されてしまったのだ。

「カウンター…なのかよ…」

 誰もが無言の中、眼鏡をかけた短髪のオペレーターがようやく口を開いた。ボンヤリとしたものであったが。

 そんな発令所の中で、全くの冷静な表情でモニターを見ている男がいた。背が高く、体つきはがっしりとしており、顔つきは日本人離れしている。

 男は保安部に所属しており、本来戦闘中には発令所に来ることは出来ない。しかしその男は、「任務中であるファーストチルドレンを独断で医療班に渡してしまったことに関する報告の為」という勝手な理由を作り、この場に来ていた。

 あの碇シンジが乗るエヴァ初号機の戦闘を見たいと思ったのだ。

「対の先……か」

 ややたれ気味の目を鋭く細めながら、その男―――ジョン・ランボー・山田三尉は呟いた。

 

 

 先の先(せんのせん)後の先(ごのせん)といった言葉がある。

 主に、日本での武道において使われる言葉だ。交叉法(こうさほう)とも呼ばれ、カウンター的な攻撃の種類を示している。

 相手に先に仕掛けさせ、その終わりと同時にこちらから仕掛け先を取る、後の先。

 相手の呼吸、動作のきっかけを読み、その相手の動きの先を取る、先の先。

 端から見れば、いずれも同じような動きに見えることがしばしばある。だが、その実は違っている。

 そして、対の先(ついのせん)、というものもある。

 相手からの仕掛けの瞬間、守という面では最も無防備になる瞬間にこちらからも仕掛け、相手の仕掛けを捌くと同時に攻撃を加えることをいう。

 いずれも、読み、洞察力……“見切り”と、それに応えるだけの動きが必要となる。

 ジョンは初号機の―――シンジの動きを見て、“対の先”といった。使徒の仕掛けと同時に仕掛ける、最もリスクが高い選択だ。だが、使徒の様を見てのとおり、リターンも大きい。

 シンジは使徒の動きを予め読んでいたのだと、ジョンは考えた。

 エヴァンゲリオンはパイロットとの“シンクロ率”によって動きの速さ、反応速度が決まるとジョンは聞いていた。シンクロ率が高ければ高いほど、エヴァンゲリオンとパイロットの間の動きの誤差は少なくなるらしい。

 だが、初めて乗るエヴァンゲリオンでは高いシンクロ率は望めない。いかに碇シンジの身体能力が優れていても、それではエヴァンゲリオンは大きな戦闘能力を発揮することはできないだろう。

 だから、碇シンジはあえて初号機の頭部を狙わせる動きを取り、短い時間での決着を狙ったのではないか? 単調な歩み、無造作、無防備に見えた動きも、使徒の攻撃をあえて受けて光の槍が発射されるタイミングをつかむためのものだったのではないのか? 相手の動きを読みやすくするため、誘導するためだったのではないか? そして、読めたとしても、十分な動きが期待できない現状から、先の先でも後の先でもなく、リスクの高い対の先を選んだのではないのか? 結果的に、それが最もリスクが少なくなるということを確信して。

 全ては、敵を仕留める為の布石だった―――ジョンはそう考えた。

 

 

「ひっ」

 

 女性のオペレーターの怯えた声が、ジョンを思索―――僅か数秒ではあったが―――から引き戻した。

 ジョンの背に、戦慄に似たものが走った。

 発令所の中央モニターに、獣の笑みが映し出されていた。

 まだ、碇ゲンドウ、葛城ミサト、赤木リツコの三人しか見たことがない、碇シンジの獣の笑みが、映し出されていた。

 

 

 初号機が使徒ごと、右手を振った。

 崩れかけたビルに、初号機の右手から抜けた使徒が突っ込んだ。

 使徒はぴくりとも動かない。その使徒に初号機が飛びかかり、馬乗りになった。

 碇シンジの唇が吊り上がり、歯がむき出しになる。

 

 ぐしゃ。

 

 初号機の右拳が、ビルの瓦礫ごと使徒の胸を貫き、ドクロを潰した。

 

 ぐしゃ。

 

 初号機の右拳が、使徒の右肩を砕いた。使徒の右腕がちぎれ、飛んだ。

 さらに初号機は拳を落とし続けた。

 ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。むっつ。ななつ……

 その度に使徒の何処かが潰れ、グチャグチャの肉片と化していく。

 潰れきった場所にも初号機は拳を振るう。使徒というよりはアスファルトの地面を殴りつけているようなもので、初号機の右拳の装甲板の所々が割れ、砕けた。

 

 

 碇シンジは笑っていた。おそらくは笑っていた。しかし発令所の人間達には、碇シンジの表情が笑みであるとは思えなかった。

 歯をむき出しにし、唇の両端だけでなく眉と目も吊り上げ、瞳に異様な光を湛えている、碇シンジ。

 何か言葉を発しているのかもしれないが、発令所には届かない。

 モニターには無音で、碇シンジの獣の笑みと、初号機の獣のような振る舞いが映し出されている。

「なんなの……一体……」

 ガタガタと身を震わせる、ショートカットの女性オペレーターの顔面が、蒼白になっていた。女性オペレーターだけではなく、発令所の皆が異様な光景に圧倒されていた。リツコもミサトも、そして冬月も口を半開きにしてモニターを見ていた。ゲンドウは今日何回目であるのかわからないが、全身を硬直させたように動かなくなっていた。

 初号機―――シンジは狂ったように滅茶苦茶になった使徒を殴り続けていた。

 そう、狂ったように。いや、本当に狂っているのか?

 葛城ミサトは思った。

 シンジの瞳に見えるのは、怒りのようでもあり、憎しみのようでもあり、喜びのようでもあり、そして恐怖のようでもあり、あるいは―――あるいは、その全てだった。

 

 狂気。

 

 一言で言うならば、狂気―――。

 葛城ミサトは、碇シンジの瞳の中に狂気を見ていた。

 

 

 

「ククククククク…………」

 機器の破片が浮かぶプラグ内のシンジの口から、笑声が漏れていた。

「ククククククククク…………これからだ…………クククククク」

 

 

 狂鬼が、いた。

 

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