Penance   作:多田川 厚吉

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第六章 学 校

 

「えーでは皆さんに紹介します。転校生の、碇シンジくんです」

 完全に静まり返り、ある種の異様な緊張が満ちつつある2年B組の教室内に、普段と変わらないのんびりとした担任教師の声が響いた。しかし、何処か落ち着ける場所を探すかのように、彼の視線は泳いでいた。

 シンジが黙ったまま、リーゼント風の頭を下げた。

 教卓から向かって左側───つまり、シンジの正面───に座っている男子生徒が、びくり、と体を震わせ、顔を伏せた。

 伏せた顔面は、蒼白になっていた。

 

 

 シンジの正面に座ることになった男子生徒、2年B組出席番号30番馬場トシオの家は、代々理髪店を営んでいる。

 十五年前の大災害とその後の混乱で、トシオの両親は店を失った。また、両親の両親───トシオにとっての祖父母───も亡くなった。

 その当時のたくさんの人々と同様に、不幸が幾つも重なった。

 だがトシオの両親は、悲しみの中懸命に努力した。その努力といくらかの幸運によって、遷都計画の第一候補地である、第三新東京市に店を構えることができたのである。

 バーバー・ババ。

 三代に渡って続いていた理髪店が、第三新東京市で息を吹き返した。

 

 

 理髪店では大抵、順番を待つ客の為に、待合の椅子の側に週刊誌や新聞、マンガ本を置いている。

 トシオは、小さな頃からそれらのマンガ本を読んでいた。共働きであった両親が、トシオが退屈しないように読ませていたのである。

 だが、そのマンガがトシオには良くなかった。

 理髪店に置かれていたマンガは、主に父親の趣味で、前世紀の80年代のいわゆる不良少年たちが暴力行為を繰り返すという内容のものがほとんどだった。

 中には、子供だったトシオには残酷すぎる描写がされているものもあった。

 歯を折りながら、鼻骨を折りながら、指を折りながら、腕を折りながら、あるいは───腕や指を落としながら、それでも血みどろで喧嘩を続けるマンガの登場人物たちに、トシオは恐怖した。吐き気を覚え、貧血を起こしたことも何度かあった。

 どちらかといえば、ネコ型のロボットが気の弱い小学生を助けたりするマンガや、弱小野球チームのメンバーが力を合わせて強くなっていくような、そういったマンガのほうがトシオは好きだった。

 しかし、トシオ自身自覚してはいなかったのだが、恐いもの見たさという気持ちがトシオの中に確かにあった。恐怖やスリルを求める気持ちが存在していた。

 結果、トシオは怯えながらも不良少年達のマンガを読み続けた。そして、作中の不良少年達の姿への恐怖は、トラウマに近い形でトシオの心に刻まれることになったのである。

 だが実際、トシオはそのマンガに出ているような格好をした人物を見たことはなかった。街を歩いているとき、あるいは校内で、素行の悪い学生に出会う機会は数え切れないほどあったが、前世紀の70年代から80年代のような姿をしている者はいなかった。

 

 これまでは。

 

 

 今、トシオの目の前に、幼いトシオに恐怖を植えつけた存在に酷似した男がいた。

 勢いよく上げられた前髪に、暗い目つき、中学二年とは思えない長身、半袖のワイシャツの隙間から見える数々の傷、テレビ中継でしか見たことのないプロレスラーのような太い腕……。

 こんな気候であるというのに、汗が引き、トシオは寒気を感じていた。

 寒気を感じながらも、動悸は激しくなっていく。

 胃が圧迫されるような感触がある。

 トシオの顔色は、青を通り越して灰色になっていた。 

「じゃあ碇君の席は……クラス委員の洞木君の隣にしましょう。───洞木君、手を挙げてもらえますか」

 視線を泳がせながら、それでも普段と同様の語り口を保とうとしている担任教師の言葉も、トシオには届いていなかった。

 担任に促されて、シンジが席へ向かって動き始めた。

 ───こっ、こっちへ来る!

 トシオの心臓の鼓動はかつてないほど激しくなった。

 どうすればいいのか。何をすればいいのか。何が起こっているのか。

 トシオは、十四年と少しの人生の中で、最も動揺していた。

 

 

「───野生の熊は死んだものには興味を示さず」

 

 

 突然、トシオの耳だけに声が聞こえてきた。

 幻聴である。

 かつてない危機が訪れている、と思い込み混乱しているトシオの脳は、存在しないはずの音をトシオに聞かせていた。

 かつてテレビでみた記憶なのか、聞いた話なのか、それとも本で読んだ記憶が音声という形を取ったのか───。

 いずれにせよ、“声”は続いていた。

 

「だから、逃げてはならない。動くことによって熊の興味を引くことになる。適切な処置は」

 

 ───そうだ……こういうときは……そうだ!

 

 声は、トシオの記憶を呼び覚ました。

 

 

 ───死んだフリだ!

 

 

 トシオは、吐き気を押さえながら、ピッタリと机に突っ伏した。

 

 

 

 ───ボクは空気のような存在だ。ボクの魂はここにはいないんだ。ボクは死んでます。死んでます。父さん母さんさようなら。ミホコさん(2年B組出席番号11番)好きだったけどさようなら。

 

 額を机にくっつけて、死んだフリを続けるトシオの傍を、シンジが無表情に通り過ぎていく。

 

 不思議な事が起こった。

 シンジの歩みに合わせて、シンジの傍にいる生徒達が次々と“死んだフリ”をしていったのである。

 さながらシンジを爆心地として、その爆風に倒されていくかのように、生徒たちは机に突っ伏していく。

 そんな奇妙な光景が、2年B組の教室内に展開されていた。

 個人個人の心理が同じ方向へ向かってしまったのか、あるいは単なる偶然か、多くの生徒たちがトシオを同じ行動を選択していた。

「あっああ碇君ちょっと」

 教卓の椅子から半ば腰を浮かせて、シンジと生徒達双方に落ち着きなく視線を向けながら、担任教師がいった。声と動作両方から動揺している様子が見られた。目の前の光景に、ついに普段の調子を保てなくなったようだった。席へ向かっていたシンジが振り返った。

「あの、碇君ええとだね、校章を渡すのをね、忘れていたよ」

 シンジが通り過ぎていったことに安心しながらも、まだ死んだフリを続けていたトシオがびくりと身体を震わせた。

 

 ───せっかくいなくなったのに何故呼ぶんだジジイ!やめろやめろやめてくれ……

 

 そんなことを考えている間に、シンジがトシオの傍にきて、立ち止まった。

「うぷっ」

 胃液が逆流してくるような気がして、思わずトシオは手で口を押さえた。それから、自分が死んだフリをしていたことを思い出し、手を動かしてしまったことに激しくうろたえた。

「ええとね、これですね、はい校章です。なるべく普段からできるだけ付けるように」

 と言いながら、担任教師は小さなビニール袋に入れられている校章を袋から出そうとした。「おっとっ」

 動揺していた担任教師は手を滑らせた。校章は、トシオの机の上に転がり、トシオの顔に軽く当たった。何が当たったのだろう、とトシオは顔を上げてしまった。

 転がる校章を見ていたシンジと視線があった。

 暗く、何を考えているのかわからないような、昨夜の夕食で食べた死んだ魚のような眼差しだった───ようにトシオには見えた。動悸は1500mの持久走を終えた後以上に激しくなり、頭がクラクラし、視界に靄のようなものがかかった。貧血が起こったのだ。

「おえっ」

 シンジを見たままトシオは奇声を発してしまった。

 シンジの手が、トシオに向かって伸びた。

「おた、おたっ」

 お助け、と言うつもりだったのだが、トシオの口から出てきたのは先程と変わらないような奇声だった。シンジの、勢いよく上げられた恐怖の前髪も迫ってきた。

 シンジの手が、トシオの顔に迫り───傍の校章を取った。

「大丈夫か? 顔色が悪い」

 トシオの顔を見てシンジがいった。

「おおおエッ」

 

 同時に、トシオは吐いていた。

 

 どうしてこのクラスにはこんなヤツばかりが集まるんだと思いながら。

 

 

 

 トシオは保健室へ連れて行かれた。

 2年B組の保険委員は、“死んだフリ”を続けていたので、担任教師に場所を教えられてトシオを連れて行ったのはシンジだった。吐き終えても、トシオの顔色はますます悪くなっており、シンジに触られると、まるで死人のような土色になった。

 シンジとトシオが消え、教室内にはトシオのぶちまけた吐瀉物の臭いが立ちこめていた。

 その吐瀉物をみて、あるいはトシオの吐く様子をみて、気分の悪くなった何人かの生徒が保健室やトイレへと姿を消した。

 トシオの周りの席の生徒たちは、匂いに耐えながら“死んだフリ”を続行している者ばかりだった。やむを得ず、担任教師が吐瀉物の片づけを始めた。途中から、肩よりも長い髪をおさげにしている女の子───クラス委員の洞木ヒカリ───が教師を手伝った。髪型はどちらかといえば子供のような雰囲気だったが、顔つきや立ち振る舞いは、周りの生徒達より落ち着きがあるようにみえた。

 吐瀉物の片づけを終えると、顔色の悪くなった担任教師は、一時限目は自習にします、と言い残して教室から出ていった。

 

 

 教師とシンジがいなくなっても、教室内の雰囲気はおかしくなったままだった。

 誰も言葉を発しない。沈黙が緊張感を生み出していた。一部の生徒達はまだ死んだフリを続けている。

 そんな中、教室の後ろ側に座っている、茶色がかった髪のメガネをかけた男子生徒───相田ケンスケ───は、比較的冷静な様子で教室内を見ていた。

 転校生の姿には確かに驚いたのだが、後方の席であった為に、また彼自身の気質もあって、ケンスケはトシオら前の席の生徒達ほどショックを受けずに済んでいた。

 改めて、ケンスケは教室内を見回してみた。

 空席が目立つ。

 気分が悪くなって教室から出ていった生徒が何人かいるのだが、それ以外に、数日前の───正確には七日前の“戦闘”のせいで疎開してしまった者たちがいるのだ。

 すでに疎開が始まっているのに、碇シンジという男は転校してきた。そういえば隣のクラスにも転校生が来ていた。

 まさか、どちらかがあのロボットの……?

 とケンスケは一瞬考えた。が、そのことよりも、疎開以外の理由で空席になっている生徒───つまり、今日欠席しているある生徒たちのことが頭の中を占めていた。

 “甲斐”に“草壁”、“早川”が欠席でよかった。

 そう思っていた。

 彼らが碇シンジのような人間と出会えば、何が起こるかわからない。

 

 甲斐、草壁、早川───。

 

 一人一人を見れば、おそらくは悪い人間ではないのだろう。だが、例え個々では害のない物質でも、混ざり合うことによってとてつもない危険物となることもある。

 欠席でよかった。

 けれども、彼らは今日たまたま欠席しただけであり、いずれ登校してくるだろう。碇シンジとは必ず出会うことになる。それがほんの少し先送りになっただけのことなのだ。

 ケンスケがそんなことを考えていた時、突然教室の後ろ側の引き戸が開かれた。

 室内にいるほとんど全ての生徒たちが一瞬身体を震わせた。

「何だ、トウジか……」

 開いた引き戸のほうをみて、ケンスケがいった。

 引き戸を開けたのは、短めの髪の毛を立てた、黒いジャージを着た少年───鈴原トウジだった。

 転校生が戻ってきたかと思っていた生徒達から、安堵のため息が漏れた。

「鈴原、大丈夫なの……?」

 教室の中に入ってきたトウジに、ヒカリがトウジに訊いた。何が大丈夫であるのか、誰の話であるのか、その対象は伏せられていた。

「ああ」

 ぶっきらぼうに答え、トウジはケンスケの近くの自分の席へ行った。やや乱暴に鞄を机の上に置く。眉間にしわを作り、いかにも不機嫌そうな様子だった。

「もういいのかよ」

 ケンスケがいった。

「逆にもう学校行け言われたわ。サボるなって」

「そっか」

「それよりなあ、ケンスケ」

 何故かトウジは席に座ろうとせず、きつい眼差しで教室内を見回した。「転校生は何処におるんや。来とるんやろ、転校生」

 トウジを見ていた生徒たちの目が、ギョッとしたように見開かれた。

「……何やお前ら」

 皆の奇妙な反応に、トウジは怪訝そうな表情を浮かべた。

「転校生って……お前、転校生に何かあるのか?」

 ケンスケが訊いた。

「あるわ。ボケパイロットのボケ転校生に大事な用事がな」

 苛立ちをこめてトウジがいった。「ボケ」の部分に特に力が入っていた。

「お前、ボケって……それに、パイロットって」

 と言いかけたケンスケの言葉が、途中で止まった。

 死んだフリを止めて、顔を上げてトウジの話を聞いていた生徒達が、再び机に額をくっつけた。

「なに急に黙っとんのや。ボケをボケっ言うて何が悪いんや!」

 苛立ちの為だったのか、トウジは場の雰囲気を読むことができなかった。

 ケンスケが口をパクパクさせて、そっとトウジの後方を指さすようにした。

「なんや? 後ろがどない……」

 振り向いたトウジの動作が固まった。

 開けっ放しにしていた引き戸の傍に、いつの間にか、前髪を勢いよく上げた背の高い男が立っていた。

 転校生碇シンジが、立っていた。

 シンジは無表情にトウジを見ていた。爬虫類のような、感情を感じさせない目つきだった。

 トウジはゆっくりとケンスケを見た。あれが転校生か、と確認するつもりであるようだった。その意図をくみ取ったケンスケが、頷いた。

 トウジは数瞬視線をさまよわせてから、ぎこちない動作でシンジへ向けて歩き出した。顔に汗が浮かんでいるのは、この気候のせいだけではないことは明らかだった。

「おい転校生」

 おい、と呼びかけた声はかすれていた。緊張と苛立ちが混ざり合い、トウジの表情は恐いものになっていた。怒りの表情であるようにもみえた。が、膝は笑っていた。

 シンジは黙って、トウジを見ている。

「お前に話がある。後でツラ貸せ!」

 一気に言った。

 静かな教室内で、トウジの声はよく響いた。

 死んだフリをしながら話を聞いている者、あるいはそうではない者も、とにかくその場にいたほとんど全員が「血の雨が降る」と思った。

 しかし。

「わかった」

 碇シンジは一言そういうと、自分の席としてあてがわれた洞木ヒカリの隣の座席に座った。ヒカリが何か話しかけようとする様子をみせたが、結局やめたようだった。

 血の雨は降らなかった。

 トウジは僅かな間ボンヤリと立ちすくみ、それから我に返って自分の席へ戻った。

 また、教室内が静まり返った。

 

 

 突然、ケンスケは「かちかち」という小さな音を聞いた。小刻みに繰り返される小さな音だった。

 思わずケンスケは音のする方向をみた。

 かちかちかちかちと音を立てながら、トウジが震えていた。

 ───音の正体は、トウジの歯が鳴る音だった。

 

 

 転校生碇シンジとどう接すればいいのか必死に考えていた洞木ヒカリは、意を決してシンジに話しかけてみることにした。

 一言でいい。

 一言、話せれば、教室内に漂うこの緊張感もいくらか緩むのではないか。損な役回りだとは思うが、クラス委員として、きっかけを作らなければならない。いや、「損な役回り」だなんて、転校生に失礼だ。話してみれば実はいい人だった、というのはよくある話だ。

 覚悟を決めて、ヒカリはシンジの方に顔を向けた。

 シンジは目を閉じて俯き、規則正しい呼吸を繰り返していた。

 すう、すうという静かな呼吸音が聞こえた。

 

 

 碇シンジは、寝ていた。

 

 

 

 

 一時限目の自習が終わり、二時限目、三時限目と授業が進んでも、碇シンジは眠り続けていた。

 二時限目と三時限目の教師は、一人は男性で、一人は女性だったが、たまたま二人とも大学を出立ての新任教師だった。

 二人とも碇シンジの個性的な姿に動揺を隠すことができず、しかしシンジが寝ていることを幸いとして、その場にシンジがいないことにして授業を進めた。

 教室内はまるで入学試験中のように静かだったが、教師も生徒も全く授業には集中していなかった。

 

 四時限目の体育の授業が、自習となった。体育の授業は、隣の二年A組と合同で行われるので、A組とB組、二つのクラスが同時に自習するということなる。

 二年A組からは、監督の教師が来ていないのか、また昼休み前の自習ということもあってか、騒がしい声が聞こえてきていた。

 二年B組は、相変わらず緊張感を含んだ沈黙に支配されていた。

 

 

 鈴原トウジが、深く息を吐き出して、おもむろに立ち上がった。また、顔に汗が浮かんでいた。

「……トウジ、無理すんな」

 トウジの様子をみて、ケンスケが小声でいった。

「うるさい」

 と答えたトウジの声も、小さかった。

 改めてジャージの袖をめくりながら、トウジは眠っているシンジに近づいた。

 クラス中の視線が、二人に集まっていた。

「起きろ、転校生」

 トウジは俯いているシンジの前に立ち、言った。汗をかき、声の調子も緊張したものだったが、先程とは違い、震えてはいなかった。

 いきなりシンジが目を開いた。

 実は起きていたのか、寝た振りだったのかと周囲の人間は思い、驚いた。そしてすぐにシンジから視線を逸らした。

「面、貸せ」

 視線を逸らすことなく、トウジはシンジを睨んでいた。両方の拳を強く握っていた。

「鈴原」

 シンジの隣の席にいるヒカリが、トウジの様子をみて不安げな声を出した。

「サボってすまんけど、大事な話なんでな……」

 トウジがいった。シンジを睨み続けながら、というよりは、シンジから視線を外すことができなくなってしまったようだった。握った拳が震え始めていた。

 シンジが立ち上がった。そしていった。

「何処に行けばいい」

 シンジのほうがトウジよりも遙かに背が高い。見下ろされながら、トウジは覚悟を決めるようにより一層強く拳を握った。

「ついてこい」

 そういって、トウジは教室の後ろの引き戸へ向かって歩き出した。シンジが後を付いていく。

 クラス内のほとんどの生徒たちが息を潜めて様子をうかがっている中、二人は教室から出ていった。

 教室内の緊張が緩んだ。何人かの生徒が、ため息をついた。

 ケンスケが席を立ち、引き戸の方へ向かった。

「委員長、ごめん」

 とヒカリに言いながら、ケンスケも教室を出ていった。

 

 

 

 

 大抵、どこの学校にも、「死角」と呼べる場所がある。

 誰の目に触れることもない、完全なる「死角」はまずない。

 だがそれでも、何か特定のものに対する「死角」は、確かに存在する。

 それは、周囲の一般家屋に対する死角であったり、同じ学校の生徒たちからの死角であったり、職員室や教師たちからの死角であったりする。

 時間によって、死角となる場所もある。

 例えば、筆記試験中の体育館や、屋上。授業中の運動部の部室。

 絶対に人が来ないということは有り得ないのだろうが、まず、来ない。

 

 トウジ、シンジ、ケンスケらが来たのは、そういう場所だった。

 体育館の裏である。

 周りには、古い用具倉庫があり、学校の敷地と外を区切るフェンスがある。

 だがそこは学校の裏山に面していて、学校外の通行人が偶々通りかかるということはない。用具倉庫は古く、もうほとんど使用されていない。

 また、体育の授業で体育館を使用するのは二年A組とB組だったので、今、体育館内に人はいない。

 死角だった。

 正午が近づき、日は三人のほぼ真上にあった。突き刺すような日差しの強さだった。

 シンジは用具倉庫を背にして立ち、トウジとケンスケは、シンジから少し離れて体育館を背にして立っていた。

「スマンがな、転校生」

 額の汗を拳で拭って、トウジが口を開いた。「ワシはお前を殴らなあかん」

 ケンスケが驚きの表情を浮かべる。

「誰が、誰を殴るって?!」

 トウジはケンスケの言葉を無視して続けた。

「たぶんアンタにはかなわんやろ。けどな、これはそういう問題やない。そういうことやない」

 一歩、二歩と、トウジはシンジに歩み寄った。「一発でも……」

「何故だ」

 シンジがいった。トウジやケンスケほど、汗をかいてはいなかった。冷えた視線で、トウジをみていた。

「俺を殴る理由は?」

 一本調子の低い声だった。

 トウジが立ち止まった。

「妹がなぁ、ケガをした」

 シンジの片方の眉がぴくりと動いた。

「ケガして、入院した。オトンもオジィも仕事でな、看病できるんはワシだけや」

 言いながら、トウジは目を伏せた。妹のことを思いだしているようだった。

「……まあワシのことはどうでもええ。とにかく妹はケガをした。入院しとる。まだベッドから起き上がれん。顔や頭にもケガした」

 聞いているシンジの顔が、微かに震えだしていた。

「誰のせいやと思う」

 シンジは強く歯を食いしばり、痙攣に近い形で目を見開いたり細めたりを繰り返していた。地面を睨み付けているトウジにシンジの表情は見えなかった。離れていたケンスケが、シンジの様子がおかしいことに気づき、僅かに近づいた。

「お前のせいや! お前があのロボットに乗ってムチャクチャに暴れた───ッ?!」

 顔を上げたトウジの言葉が止まった。

 シンジが、目を閉じ、右手でこめかみから顔の右半分までを覆っていた。深く鼻で息を吸い、震えながら、目を閉じたまま天を仰ぐようにする。眉間に深いしわが生じていた。

「お…おい、大丈夫か?!」

 ケンスケが駆け寄ろうとしたが、シンジの異様な様子に躊躇する。

「なんやお前───」

 トウジが一歩退く。

 深呼吸というにはやや激しく、シンジは息を吐き出し、用具倉庫の壁にもたれかかるようにしてしゃがみ込んだ。

「お前…」

「大丈夫かよ」

 二人はシンジに近づいた。近づいて、シンジの手の動きを見た。

 

 二人の表情が凍り付いた。

 

 しゃがみ込んだ碇シンジの右手は、用具倉庫の傍に落ちていた角材を掴んでいた。

 昨年か、あるいはもっと前の文化祭や体育祭で使用された角材が、用具倉庫の周りには放置されていた。

 ゆっくりと碇シンジは立ち上がり、顎をやや上げ気味にして、トウジとケンスケを見下ろした。

 角材を握る右手が震えている。右腕の筋肉が盛り上がっている。震えが出るほど強く角材を握っているのだ。

 そしてその角材の先には、太い釘が十本以上刺さっていた。角材に使った釘を処理せずに、放置していたのだろう。釘が刺さりきっていない、もしくは抜けきっていない様子を見ると、相当堅い角材であるに違いない。

 おそらく、木刀と大差ない。

「おまっお前ッ!」

 一歩二歩と後退しながら、トウジはお前という言葉を繰り返した。

「ちょっと待てちょっと待てちょっと待て」

 下がりながら、ケンスケが待てという言葉を連呼した。四回目の「待て」を口にしようとしたとき、落ちていた角材につまずいて転んだ。

 シンジが歩き出した。ゆっくりと、一歩一歩二人に近づいていく。深い呼吸を繰り返していた。

「わわっわっ待て待て」

 ケンスケは半ばパニック状態になって、立ち上がることを忘れて仰向けに倒れたまま逃げだそうともがいている。

「くううっ」

 トウジの視線は、シンジの持つ角材の釘にまさに釘付けになっていた。シンジの歩みに合わせてトウジは下がる。背を向けて走り出したい衝動に駆られたが、堪えた。背を向けた瞬間にシンジの角材が頭に振り下ろされるような気がしていた。

 

 どん。

 

「アテッ」

 トウジは背中に軽い衝撃を感じた。つい間抜けな声が出た。

 

 ───壁?!

 

 下がっているうちに、いつの間にか、体育館の壁にぶつかっていた。もう下がることはできない。

 シンジがトウジの近くに来た。釘付きの角材で、トウジの頭を叩き割ることができる距離だ。

「───ッッ!」

 泣きそうな表情になって、トウジは拳を持ち上げた。

 せめて、一発。

 どうせ頭を割られるなら、せめて一発、妹の分だけでも叩き込む。一発でいい。

 そう覚悟を決めようとした。

 だが、恐怖の感情が押さえようもなく高まっていく。釘。角材。盛り上がった筋肉。上げられた顎。上げられた前髪。深い呼吸音。得体の知れない、圧迫感。

 そのくせ、見下ろしてくる瞳からは、全く感情が感じ取れない。

 それが、恐い。たまらなく恐い。

「おワアアアアアアッ」

 叫んだ。

 恐怖を消し去る為に、恐怖を忘れる為に、一発だけでもぶち込む為に、トウジは叫んだ。

「アアアアアアアアアアア」

 叫び続けた。が、消えない。忘れられない。どうしても、恐怖の感情が消えない。

 次の瞬間、角材を握ったシンジの右拳が、トウジの目の前に突き出されていた。

「ひっ」

 シンジの動きが、トウジには見えなかった。いきなり目の前に拳が現れたようにトウジには感じられていた。傷跡だらけの、ごつごつとした岩のような拳だった。

 

「───殴れ」

 

 低い声で、シンジがいった。

「?!」

 トウジは声が出ない。何を言われているのかもわからない。

「これで、殴れ」

 シンジがさらに拳を突き出した。

「わッ」

 仰け反ろうとしてトウジは壁に後頭部をぶつけた。その衝撃で、目から涙が流れた。トウジは自分が泣いていることに気がついた。

 

「これで、俺を、殴れ」

 

「へっ?!」

 シンジの目が、まっすぐトウジの目を見ていた。ようやく、トウジは碇シンジの言っていることを理解した。

「な、殴る? おっお前をコイツで?」

 舌がうまく回らなかったが、何とか意味のある言葉を口にすることができた。

 シンジがトウジの言葉に頷いた。

 シンジは、釘の付いた角材をトウジに差し出していたのだった。

「な何言うとるんやッ! そないなモンでナナ殴ったら、しっ死んでまうっ」

 トウジは混乱した。様々な感情が入り交じっていた。殴られることへの恐怖と、頭を割られずに済んだことへの安心感と、安心している自分への腹立ちと、そして、意味不明の行為を要求してくる碇シンジへの新たな恐怖感を、覚えていた。

「殴れ」

 爬虫類のような目つきで、同じ言葉をシンジは繰り返した。

「できんできん」

 トウジが首を振る。

「殴れ」

 首を振る。

「いいから、殴れ」

 首を振る。

「殴れ」

 首を振る。

「殴れよ」

 シンジが無理矢理トウジの右手を開き、手の平に角材を置き、握らせた。

 そして、言った。

「殴れ」

 トウジは首を振った。角材を離そうと右手を振ったが、どういうわけか角材を離すことができなかった。

「妹の分まで俺を殴れ」

 そう言われても、トウジは首を振った。

 シンジが身を屈めて、落ちていた角材を拾った。釘は付いていない。

 その角材を、いきなり振り上げた。

「わわわっ」

 トウジが叫んだ。

 

 がっ。

 

 木が割れる、乾いた音がした。

 木が骨を打つ、乾いた音がした。

 砕けた木片が辺りに飛び散った。

「おまお前」

 トウジは全身を震わせていた。

「あわわわ」

 二人からやや離れた場所で、腰が抜けてしまったケンスケが奇声を上げていた。

 シンジの頭から顎の先までに、細く赤い線が引かれた。顎に至った線は、滴となって、シンジの白いワイシャツに染み込んでいった。

 

 碇シンジが、拾った角材を、自分の頭に叩きつけたのだ。

 

「こうやって、俺を殴ればいい」

 シンジは折れた角材をその辺に投げた。

「なな何や……何なんやお前」

 初めてシンジと会った時のように、トウジの歯が鳴っていた。

「殴れ」

 激しくトウジが頭を振る。

「殴れよ、なあ」

 頭を振る。

「殴れ」

 シンジの顔の赤い線が増えた。

「嫌やできんできんてッッできんッ!!」

 トウジが叫んだ。

 突然、シンジの表情が鬼の形相へと変わった。

 眉間に深いシワが生じ、眉が吊り上がり、こめかみに血管が浮き出て、頭から流れる血が片側の目を赤く染めていた。

 

「殴れえッ!!」

 

「いいいいっ?!」

 

 ───殺される!?

 

 生まれて初めて、鈴原トウジは自分の生命の危険を感じた。圧倒的な恐怖を目の前にして。

 

 ごがっ。

 

 また、乾いた音がした。

 折れた角材が地面に転がった。

 だが。

 トウジの右腕は、釘付きの角材を振り上げたまま止まっていた。口を半開きにして、トウジはシンジの後ろを───後ろに立った男の姿を見ていた。

「殴れって言ってるんだから、こうやって殴ればいいのさ」

 シンジほどではないにせよ、背の高い男が、折れた角材を握り笑みを浮かべて立っていた。

 笑っていても、目つきだけは鋭い。体つきは若干痩せ型、というよりは、引き締まってみえる。その姿が、男の鋭い印象をより強いものにしている。

 だが何より、周囲にいる者たちの視線を惹きつけるのは、男が被っている黒いテンガロンハットだった。この場───中学校の校舎という場所に、テンガロンハットを被る者がいるということに、奇妙な違和感がある。加えて、男の服装は、シンジやケンスケと同じ、半袖のワイシャツに黒いズボンだった。つまりこの男は、この学校の生徒ということになる。

 

「早川……」

 

 ケンスケが呟いた。

 このテンガロンハットを被った男が、ケンスケが気にしていた三人の生徒の内の一人、早川シロウだった。

 早川は、突然倉庫の裏から現れると、地面に落ちていた角材を拾い、それを無造作にシンジの後頭部に叩きつけたのである。

 ケンスケはその様を見ていた。

「こううるさいと、寝てられん」

 早川が笑みを浮かべていった。折れた角材を右手に持ったままでいる。

 

 後頭部から血を流し、シャツの背中を赤くしているシンジが振り返り、血まみれの顔と爬虫の眼差しを早川へ向けた。

 

 早川が、その視線を真っ正面から受け止めた。

 

 

 この場所は、死角の筈だった。

 しかし、死角であることを知る人間が何人もいれば、その場所は死角ではなくなる。そして、そういった“死角であった筈”の場所には、却って人が集まることになる。

 けれども、よりによって転校生と早川が出くわすになるとは。そして、その場に居合わせ、巻き込まれることになるとは───。

 最悪だ、とケンスケは思った。大人しく教室で自習をやっているべきだった、と本当に心の底から思った。

 トウジは、ボンヤリとシンジと早川の方を見ながら、地面に座り込んでいた。角材はまだ、手から離れていない。

 

 

 これが、碇シンジと、鈴原トウジ、相田ケンスケらとの“二度目”の出会いであり、そして───

 

 早川シロウとの、出会いだった。

 

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