Penance   作:多田川 厚吉

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第七章 違 和

 

 早川シロウは、強い日差しを受け汗を浮かべながら、爽やかな笑みを浮かべていた。

 テレビCMの、美味そうにビールを飲む俳優の笑顔。

 やるべき仕事を終えたサラリーマンが、ジョッキに口をつけた時の満足げな笑顔。

 一杯、どうだい―――そう言われれば、たとえ下戸であっても、つい飲みたくなってしまうような―――そんな雰囲気の、今日のような暑い日によく似合う、笑顔だった。

 だが、そんな笑みを浮かべながら、早川は血のこびり付いた角材を右手に握っていた。

 白いワイシャツに、小さな赤い点が幾つも飛び散っている。

 何故か、テンガロンハットを被っている。

 血の付いた服に、血の付いた棒を持ち、中学生の夏服の格好でありながらテンガロンハットを被り笑みを浮かべる男―――。

 見る者を爽やかな気分にさせるはずの笑顔は、早川シロウの異様さを際だたせるものになっていた。

 そして、早川の視線の先に、血塗れの碇シンジが立っていた。

 シンジは、笑みを浮かべている早川とは対照的に、感情を感じさせない爬虫類のような眼差しを早川へ向けていた。片目が、頭から流れる血に濡れて赤く染まっていた。

「見ない顔だな」

 早川が言った。テンガロンハットの影になっている眼差しが、一瞬ぎらついたように見える。

「誰だ」

 流れる血を拭おうともせず、低い声でシンジが訊いた。

「俺は早川シロウ。こいつらの同級生さ」

 早川は顎で、角材を握ったままシンジの後ろに座り込んでいるトウジを示した。ケンスケは早川の後ろで腰を抜かしていた。

「お前こそ誰だ」

 折れた角材をシンジへ向けて、早川が訊いた。早川は、シンジが誰であるのか知らないまま、その頭をいきなり角材で殴りつけたということになる。

 早川の問いに答えず、シンジは早川の方へ半歩ほど踏み込んだ。早川が半歩退く。

「こっちの質問は無視か? 誰だと訊く前に自分の名前を名乗るのが礼儀ってもんだぜ」

 礼儀も何も、いきなり角材で殴りつけた自分のことは棚にあげて、早川は言う。

 シンジは黙ったままさらに半歩踏み込む。早川がまた半歩退く。

「凄い目つきだな」

 やはりシンジは答えない。爬虫類のような眼差しを早川に向けたまま、半歩ずつ早川との距離を詰めていく。

「頭の出血、早く止めたほうがいいぞ」

 早川は爽やかな笑顔を浮かべたまま、半歩ずつ下がりながらシンジとの距離を一定の間隔に保とうとする。半歩、また半歩と二人は少しずつ動き、次第に学校の敷地と裏山とを仕切るフェンスへと近づいていく。

 早川が現れる前にその場を満たしていた、シンジを中心とする狂気じみた圧迫感は、早川とシンジ、二人の間に広がる緊張感へと変化していた。トウジとケンスケは、何の言葉も発することができず、それぞれの姿勢を固めたまま、二人の様子を見ている。

「どうもいかんな」

 そう言って、早川は西洋人のように大げさ気味に肩を(すく)め、折れた角材を放り投げた。地面を転がる角材にトウジとケンスケはつい目をやってしまったが、シンジは早川から視線を逸らせなかった。

「よし、ちょっと待ってくれ」

 やはりまた、芝居がかった動作で右手を突き出し、早川は言った。

 自然な動作、とは言い難い。しかしそれだけに、その場にいるものの間を狂わせるような、間を外すような、効果があった。

 コントをやっているわけでも、何かを演じているわけでもない。飯を食いながら駄弁っているわけでもない。暴走族的頭の血塗れの巨漢が、目に異様な光を湛えて、立っているのだ。

 その緊張感の中での、この仕草―――。

 間を外した早川は、あっさりとシンジに背を向けると、先程自分が出てきた体育館倉庫裏へと歩いていった。

 トウジとケンスケは吹き出す汗を拭うこともできず、依然固まったままでいる。シンジは頭から流れてくる血を拭いもせず、早川が消えた倉庫裏の方を見ている。

 突然、音が聞こえた。

 弦を弾く音―――ギターの旋律。

 倉庫の影から、早川がギターを抱えながら、おもむろに現れた。

 早川の表情からは、先程まで浮かべていた爽やかな笑顔は消え、その眼差しには暗い影が宿っていた。奏でている曲も、物悲しげなメロディである。

 が、そんなことよりも。

 トウジとケンスケは、姿勢のみならず、思考までもが、完全に固まってしまっていた。

 理解が追い付かない。というより、できない。

 ―――何故ギターを弾いている?!

 ―――どこから持ってきた?!

 ―――今弾く必要性がどこにある?!

 ―――何を考えている?!

 ―――何だこいつ?!

 ―――ええぇ?!

 ―――意味わからへんッ!!

 真夏。体育館裏で、腰を抜かして座り込んでいる中学生が二人。血塗れのでかい男が一人。転がる血に濡れた角材。そして、テンガロンハットを被り、角材で男を殴りつけてから、悲しげな表情でギターを弾いている中学生が一人。

 意味不明。

 理解不能。

 ケンスケもトウジも、目を見開き、口を半開きにしていることしかできなかった。

 シンジは―――変わらず、爬虫の眼差しを早川へ向けていた。早川の行動による場の空気の変化―――激変にも、全く動じていないように見えた。

 あの間の外し方―――。

 やり方は違う。やり方は違っていたが、タイミング、呼吸とでもいうべきものは、あのジョン・ランボー・山田と同質のものだった。

「リアクション無しとは、悲しいねぇ……」

 ギターを弾きながら、早川が言い、ゆっくりとシンジとの距離を詰めていく。ギターを持つ前、互いの距離を一定に保とうとしていた時とは違い、無造作な歩みだった。早川のギターのボディが、日差しを受けて、鈍く光った。

「未だに名前も」ギターは艶のある銀色のボディであり、明部と暗部のコントラストが強く、光を反射する無機質な光沢を持っていた。「教えてもらっていないしな」金属光沢。

 ―――木製のギターではない?!

 そうシンジが認識した瞬間。

 曲が止まり、

「ジャッ!」

 ギターのネック部分を両手で握り直した早川が、

 バットスイングのように水平に、

 鋼鉄製のギターを振るっていた。

 両足の間での、一瞬の体重移動。膝、腿部、腰、腹部、背中、腕部へと、身体の捻りの力が伝わり、鋼鉄製のギターが唸りを上げる。

 腕力だけで振り回すのではない、全身の力が乗った恐るべき一撃であった。

 鋼鉄製のギターの重量はどれほどのものか。恐らく、10キロ程度ではない。その鉄塊がまるで木製バットが振るわれるような疾さでシンジの頭部に迫る。

「はうッ」

 奇妙な声を上げて、シンジが仰向けに崩れ落ちた。

 ―――死んだ?!

 トウジとケンスケが驚愕する。シンジはまともにギターを喰らったのではないかと。半分腐りかけた角材で殴られるどころの話ではない。あんなモノで殴られれば、ただでは済まない。

 そうではなかった。シンジの頭にギターが炸裂する打撃音は、生じてはいなかった。

 シンジは瞬間的に、奇妙な声と共に全身を脱力させていたのである。鉄製ギターのスイングを避けるために飛び退く、あるいはしゃがむ―――いずれも、その動作自体を行うために、筋肉の溜め、予備動作が必要となる。その僅かの遅れで、回避は間に合わなくなる。

 一瞬での脱力。

 これが、最も疾い。殺那にそう判断したのか、身体が自然に動いたのか、いずれにせよ、予備動作なしに身体を崩したシンジの頭部すれすれを、早川のギターが通過していった。

 鋼鉄製のギターを、木製バットのように振り回す早川は尋常ではなかったが、不意打ちに近い形でのその一撃を避けたシンジもまた、尋常ではなかった。

 空振った衝撃を抑えるように、早川がギターを握ったままくるくると二度三度回っている間に、シンジは立ち上がっていた。死体がいきなり起き上がったかのように見え、トウジとケンスケは小さく悲鳴を上げた。

「これをかわすのかよ……」

 早川の顔に、笑みが浮かんでいた。爽やかで、そして、楽しそうな笑みだった。嬉しそうな笑みだった。「さすがだな、おい」

 シンジの表情は、変わっていなかった。しかしトウジには、血塗れのシャツ越しに、シンジの背中の筋肉が(うごめ)いているのがわかった。

 一歩、早川へ向けて踏み出す。

「よしわかった。ちょっと待ってくれ」

 またもや芝居がかった仕草で、早川は両手を突き出した。左手では、ギターネックを握ったままである。シンジの歩みが止まる。

「すまんな。ちょっと待っててくれよ」

 まるで”今とっておきのを取ってくるからさ、あんたも一杯どうだい”というような口調と笑顔で早川は言うと、シンジに背を向け、倉庫裏へと歩いていった。

 トウジとケンスケは吹き出す汗を拭うこともできず、依然固まったままでいる。シンジは頭から流れてくる血を拭いもせず、早川が消えた倉庫裏の方を見ている。

 三分が、過ぎた。

 三人のほぼ真上で輝く太陽の日差しが、強い。

「おい、トウジ……」

 ケンスケが、口を開いた。

「……言うな、ケンスケ」

 トウジが、答えた。

 シンジは頭から流れてくる血を拭いもせず、早川が消えた倉庫裏の方を見ている。

「早川のヤツ……もしかしてさ」

「……言うな、ケンスケ」

「うん……でもさ……」

 トウジもケンスケも、困惑していた。

 シンジに殴れと言われていた時とは全く違う方向性の、しかしある種それ以上の困惑である。

 一体どうしろというのか。こんな空気にされて、どう収拾をつければいいのか。やりたい放題好き放題やって、途中で投げ出すとは、どういう育ちをしてきたのか。どんな教育を受けてきたのか。

 顔面を引きつらせながら、トウジが呻く。

「は、早川のヤロウ……」

 

 

 早川シロウは、その場から、逃げていた。

 

 

 昼休み前の、体育館裏。死角である筈の場所。そこは今、気まずい空気に満ち満ちていた。

 しかしながら、シンジがトウジの妹の話を聞いた後に生じた、異様な緊迫感が霧散したことは確かだった。

 早川シロウ。

 奇妙な、掴みどころのない、男であった。

 

 

 やがて、シンジが校舎へ向けて歩き出した。トウジの傍で立ち止まる。

「な、何や」

 早川が滅茶苦茶にした場の雰囲気のお陰なのか、トウジはもう、殴れ殴れないのやり取りをしていた時ほど、シンジに対して怯えてはいなかった。怖い事には変わりはなかったが。

「妹さんのこと、すまなかった」

 トウジの顔は見ず、視線を前に向けたまま、言った。

「えっ」

 トウジが、そしてケンスケも、驚く。

 トウジからの言葉を待たず、シンジは歩き出した。

 残された二人は、血に染まったシンジの背中をただ見ていた。

 

 そういえばアイツ、結局誰にも手ェ出さへんかったな……

 

 と、トウジは、ぼんやりと思った。

 

 

 

 あと五分で、昼休みになる。

 教室後ろの隅、引き戸の側の席で、伏せていた顔を上げて時計を見ながら、2年B組出席番号2番阿部ユミコは思った。こんな大変な一日になるなんて、と。

 転校生が来るという話だったから、どんな転校生が来るのかと期待していたら、隣のクラスに転校してきた久保くんみたいなカワイイ男の子だったらどうしようドキドキしてしまうかもと期待していたら、やってきたのはカワイイどころか中学生とは思えないような恐ろしい男だった。違う意味でドキドキさせられてしまった。

 自習時間となった四時限目、転校生は鈴原たちと教室の外に出ていったのだが、いつ戻ってくるかと思うと、せっかくの自習時間ものんびりと過ごすことはできなかった。せめて昼休みくらいは気持ちを落ち着けて過ごしたい、と阿部ユミコは時計の秒針の動きを見ながら考えた。あと四分。そして、あと二コマで今日の授業は終わる。とりあえずあと少し、あと少しだから……。

 側の引き戸が勢い良く開き、反射的に引き戸の方をみた阿部ユミコは、両目と口をOの字にして、

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 と悲鳴を上げた。

 血塗れのリーゼント風髪型の大男が、立っていた。

 女子の悲鳴が連鎖する。一部男子の悲鳴が重なる。教室を覆う狂瀾の中、2年B組の生徒たちの意識は一つになった。

 

 

 ”こ、こいつ、殺りやがった―――!!”

 

 

 引き戸周辺の生徒たちが席を離れ、ある者は腰を抜かして床を這いずりながら、ある者は駆け出すように、シンジから逃げていく。教室の壁際に殺到していく。

 阿部ユミコはひとしきり悲鳴を上げたあと、白目を向いて意識を失っていた。

 その教室内の様子を横目に、阿部ユミコとは丁度反対側、教室の対角線上の隅の位置に座席がある、出席番号16番出来林(できばやし)ヒデトシは素早く携帯電話を手にして、110番をコールしていた。

 一秒でも早くこの危機を警察に伝える必要がある、と出来林は考えていた。結局のところ、凶悪な犯罪者を何とかできるのは警察、国家権力だけなのだ。警察を呼び、後は身の安全を確保する。逃げ延びる。隙をついて、極悪殺人犯人がいる位置とは反対側の引き戸から逃げればいい。慌てる奴から死んでいく、ホットな状況であるときほど、頭はクールに、それがこのクラスでトップクラスの成績を誇る自分の―――電話が繋がらない。繋がらないというか、発信音すら聞こえない。室内が騒がしいから聞こえないということではない。完全に無音だった。

 ―――まさか、電波ジャミング?!

 出来林は驚愕した。そこまでやるのかと。予め携帯を使えなくして、外部への連絡手段を絶って、そして―――鈴原トウジ、相田ケンスケ殺人の事実を知る、2年B組全員を皆殺しにするつもりなのか?!

 一瞬の意識の空白の後、全身に震えが襲ってきた。

「おおおおおおっおっおっお助けッ?!」

 携帯のボタンをデタラメに押しながら、出来林は叫んだ。

 

 

 教室内のテレビのリモコンを握りしめ、何やら喚いている出来林ヒデトシを横目に、出席番号10番小山ショウイチは、ある決断を下そうとしていた。

 自分が、あの、極悪殺人犯人を止める―――。

 小山ショウイチは、小学校に上がった時から某流派で空手を続けている。

 今朝、転校生の姿を見たときには、正直面食らってしまい、不本意ながらも他の生徒達と同様に、机に額をくっつけ死んだフリをするという醜態を晒してしまった。

 だが今。

 凶悪殺人犯人がまさにその魔手をクラスメイトたちに下そうとしている今。

 この今、動かないでどうするのか。理不尽な暴力に立ち向かわずにして、何が武か。空手か。

 そして、俺が俺であるために。

「コオォォォォォ」

 額の前で己の両腕を交差させ、呼気と共にゆっくりと下ろしていく。息吹と呼ばれる、空手独特の呼吸法であ「きゃああああああああああ」女子生徒がショウイチの背中にぶつかってきた。ゆっくり気持ちを高めている暇はないようだった。

「おおおおおおおおお」

 ショウイチは叫び、シンジからできるだけ離れようと半狂乱になっているクラスメイトたちを押しのけ、辺りの机を乱暴に押しやりながら、シンジへ突進した。

 一撃。

 一撃だけでいい。一撃だけ叩き込み、時間を稼げればいいのだ。一撃でいい。

「喰らえええええ」

 シンジがショウイチを見た。

 血に染まった顔面の中に光る、爬虫類のような視線がショウイチの頭部から足元までを一瞬で舐めた。

 悪寒。

 ショウイチの全身に、空手の稽古の後、悪ふざけした仲間に、パンツの中に大量の氷を入れられた時の感覚が蘇った。股間がすくむ。股間が冷える。

「恐わわわわわわわわッ?!」

 ショウイチの身体は、ショウイチの意思に反して、腰砕け気味に方向転換していた。

 教室後方の連絡用黒板の前で、ショウイチの身体は止まった。かつてテレビで見た、消費者金融のCMに登場していた子犬のように、プルプルと全身が震えていた。いつの間にか身体中から汗が吹き出していた。ついさっきまで、クラスメイトたちは皆半狂乱で逃げ惑っていたはずだったのに、今、女子生徒を含む幾人かがショウイチへ期待を込めた視線を向けていることを、ショウイチは感じていた。

「くぅぅぅッ」

 進退極まったショウイチは―――壁に向かって、シャドーを始めた。

「エイッヤアッ!エイシャオラァッ!」

 ショウイチの脳内に存在する凶悪極悪殺人犯人に向けて、ショウイチは拳足を振るっていた。

 

 

 シンジは、壁に張り付いているクラスメイトたちを見回してから、歩き出した。エア空手を始めた小山ショウイチの背後を通り過ぎる。悲鳴を上げながら、女子生徒たちが自分たちの身体を更に壁に押し付ける。

 シンジは、洞木ヒカリの前で歩みを止めた。

 ヒカリも他の生徒達と同様に、シンジから離れるように教室の壁際に移動していたが、例えば絶叫し気絶した阿部ユミコほど、動揺してはいないようだった。シンジを見る瞳に、力強さがあった。

「委員長」

 シンジが言った。

「な、何」

「見てのとおり、ケガをした。だから、早退する。鈴原と相田たちはそのうち戻ってくる」

 それだけ告げると、シンジはヒカリに背を向けた。エア空手を続けるショウイチの背後を通り、自分の机にかけてあるバックを取る。

「あの、碇くん、保健室、じゃなくて、病院に行かないと……」

 ヒカリが二歩三歩、シンジの方へ近づいて、言った。

 シンジは答えることなく、開いたままの引き戸を通り、教室から出ていった。

 ちょうど、四時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。

 

 

 

 教室を出たシンジは階段を下り、玄関へと向かっていた。

 血塗れのシンジが、他のクラスの生徒たちと鉢合わせすれば、またひと騒ぎ起こったかもしれない。しかし、パンや弁当など、昼食を販売する購買コーナーへと向かう動線と、2年B組の教室から玄関へと向かう動線は異なっており、昼休みが始まったばかりの時間帯に、外に出ようする生徒も少ない。シンジが他の生徒と顔を合わせることはなかった。

 シンジは玄関まで来ると、2年B組の自分の下駄箱から、靴を取り出した。黒い革靴のように見えたが、この靴は、爪先部分―――先心に鋼板が入っている、いわゆる安全靴だった。見た目以上に、重みがある。

 玄関入口から入ってくる人影が視界に入り、シンジはそちらへ視線を向けた。

 青い髪。

 病的に白い肌。

 この学校の制服。

 三角巾で吊った、ギプスで固められた右腕。

 頭に巻いた包帯。

 右目を覆う眼帯。

 紅い、左目。

 

 綾波レイが、立っていた。

 

 頭部とシャツを血で染めているシンジを見ても、綾波レイの表情に特に変化はなかった。

 シンジは俯いて、安全靴を自分の足元に投げた。かつん、と、靴底が床に当たる音が響く。

「もう動けるのか」

 レイから視線を外したまま、言った。

 レイは何も答えず、ただ、シンジを見ている。

「無理をしないほうがいい」

 言葉面だけであれば、レイを気遣っているかのようであったが、抑揚のないシンジの口調からは、その言葉に特別な感情が含まれている様子はなかった。靴に足を入れ、かかとで軽く地面を叩き、それから爪先で軽く地面を叩く。

「血が、出てる」

 レイが口を開いた。今度はシンジが、答えない。

 互いに言葉を発してはいても、会話にはなっていなかった。シンジがしゃがみ込み、靴紐を結び始めた。

 気まずさも、躊躇いも含まれていない、ただの沈黙が、広がった。

「これはこれは、エヴァンゲリオンの搭乗適格者が二人もお揃いとはね」

 シンジとレイは、玄関口に新たに現れた人影を見た。

 早川シロウが立っていた。ギターケースを肩からかけていた。

「何故知っている」

 シンジが目を細めて、言った。今日、鈴原トウジが教室にやってきたときに、ボケパイロット云々と叫んではいた。だが早川は教室内にはいなかったはずだ。勿論、担任教師もシンジの素性を話してはいなかった。

「”有名”だからな」

 早川はレイを見、それからシンジに視線を戻して、言った。

 トウジがシンジのことを知っていたのだ。使徒が現れ、エヴァが稼働した今、身内にネルフの関係者なり何なりがいれば、レイやシンジがエヴァのパイロットであることを、早川が知っていても不思議ではない。

「最初から知ってたのか」

 シンジの眼差しに、爬虫の光が宿り始める。

「おいおい待ってくれ。もうお前とやるつもりはないぜ」

 早川が肩を竦める。「もう頭は冷えただろう?」

「冷える?」

「ああ。お前の頭を冷やす必要があると思ったのさ。あの場では、ああしないと、死人が出ると思った」

 どこまで本気で口にしているのかはわからないが、早川は笑顔を浮かべて、さらりと言った。

「へぇ……」

 シンジは視線を落とし、もう片方の靴紐を結んだ。

「なあ、学校をサボるのは構わないんだが」

 早川がシンジに近づく。「お前、その格好で外を歩いていたら通報されるぞ」

 早川は、ギターケースに添えている手に、タオルを握っていた。そのタオルを、シンジに向けて差し出した。

 シンジは早川を無視して、傍らのバックから、タオルと水の入ったペットボトルを取り出した。タオルをペットボトルの水で濡らし、乱暴に、自分の顔や首周りを拭った。それから、更にバックから黒い上着を取り出し、羽織った。

 上着の間から血の付いたシャツが見えていたし、頭や顔にこびりついた血痕を綺麗に拭えたわけではなかったが、いくらか、ましになった。歩いていたら即通報、ではなく、警官との巡り合わせ次第では職務質問を受ける、という程度にはなった。

 シンジは立ち上がり、玄関口へ向けて歩き始めた。

「じゃあまたな」

 早川が言ったが、シンジは答えない。だがレイの側で、

「無理はするな」

 と言った。

「平気」

 シンジを見ないまま、レイが答えた。

 シンジとレイ、二人の間で、ようやく会話として言葉が交わされた。

 しかしただ、それだけだった。

 

 シンジは無言で玄関から出ていき、レイも口を閉じたまま、教室へと向かった。

 早川は、去っていくシンジの背中をしばらく見つめていた後、低い声で何かを呟いた。笑顔が、消えていた。

 それから、上階へ向かう階段の方へ、歩いていった。

 人影の絶えた玄関に、昼休みの生徒たちのざわめきが、微かに届いていた。

 

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