ふわりと、花の香りを含むやわらかな春風が頬を撫でた。
鮮やかに咲き乱れる桜の並木道を歩きながら、少年──
「あれから、もう二年か」
ふと、空を仰ぐ。
麗らかな春の青空は透き通るように澄み渡り、たゆたう純白の雲はとても居心地が良さそうだ。
そんな天然のキャンバスの中に、日向はとある人物の姿を描き出す。
記憶の中のその人物は、彼に向かって朗らかに笑いかけていた。
「まったく、どこに行ったんだか」
ふっと、哀愁を交えた苦笑を浮かべる。
それまで長い間をずっと共に過ごしていたその人物は、ある日を境に突然日向の前から姿を消した。
後を追おうにも、そのための手がかりとなりそうなものが不自然なほどに見つからなかったのだから仕方がない。
国内に居ればまだいいが、生憎と彼女の行動範囲はワールドクラス。
闇雲に探すのは、いささか以上に無理がある。
そんなわけで、素直に待つほか無いのだが──そうこうする内に早二年。
気がつけば、日向は十七歳になっていた。
「ちゃんと飯とか食べてるのかなぁ? あの人、家事に関しては本当に壊滅的だったからな」
思わず当時の出来事を振り返る。
掃除をしようとすればなぜか空き巣に入られたあとみたいになり。
洗濯をしようとすればなぜか家中が水浸しになり。
台所に立てば全てが瞬く間に焦土と化した。
そんな人だったから、日向は心配で仕方が無かった。
それに、どうにも自分のためだけに作る料理は味気ない。
振る舞う相手が居ないので、最近はもっぱら簡単な食事で済ませるようになってしまった。
まあ、一人少ない分だけ確かに楽ではあるのだが、やはりどこか物寂しい。
誇張でもなんでもなく、まるで色褪せた世界を生きているようだと、日向は感じていた。
「……いや、それも当然か」
元々、自分の世界に色を与えてくれたのは彼女だ。
どうしようもなく無機質でモノクロだった日々と心を、その手で鮮やかに彩ってくれたのは彼女だ。
なぜなら彼女だけが、この世界でただ一人──自分を認め、必要だと言ってくれたのだから。
「……つまらないな」
ぽつりと、日向は本音をこぼした。
彼は求めていた。
自分を許容してくれる世界を。
自分が平凡でいられる日常を。
それは十七年間、日向が抱き続けた夢。
そして十七年間、叶うことのなかった夢。
日向はただ、誰かと笑い合いたいだけだった。
皆と同じ歩幅で、日々を歩んで行きたいだけだった。
それなのに、世界は彼を認めない。
日向の身に宿る強大過ぎる力が、決してそれを許さなかった。
それならいっそ、全てを投げ出してしまおう。
己の望むままにこの力を振るい、自分自身で日常を非日常へと変えてしまおう。
それは、幼い頃から幾度となく考えたこと。
彼女がそばに居てくれた間だけは満たされていたが、それでも心の奥にぽっかりと空いた空虚な部分だけは、ついぞ埋まることはなかった。
こうして彼女が居ない今、その穴は再び広がり始める。
日に日に大きくなっていくそれに、耐えきれなくなりそうなこともある。
それでも瀬戸際で踏み止まっていられるのは、過去に交わしたたった一つの約束ため。
彼女との、大切な誓いのためだ。
彼女は言った。
『いいかいひー君。いつか、君を認めてくれる世界が、君を必要としてくれる人々が、きっとどこかに現れる。君のその力は、絶対に呪いなんかじゃない。君は決して、いなくてもいい存在なんかじゃない。君のその力は、誰かのために振るえる力だ。そして君は、それが出来る優しい心を持っている。私が言うんだから間違いないさ。だから、もしもそんな世界に、そんな人々に出会えたのなら──」
「──君の力で、守ってあげてね……か」
思い出して、日向は懐かしげに笑う。
彼女の言葉は全てが詭弁だ。
自分は決してこの世界には認められないし、彼女以外は誰も、自分を必要とすることはない。
日向はそれが現実であると知っていた。
それこそが現実であると悟っていた。
それでも──
「──それでも、あの人の言葉なら、なぜだか信じられるような気がするんだよな」
だからこそ、日向は胸の奥底に刻み込む。
もしも本当にそんな世界があるのなら、自分は必ずそこへ行こうと。
もしも本当に自分を必要としてくれる人々が居るのなら、命を賭して守ろうと。
本来ならそれは、意味を成さないはずだった虚しい決意。
泡沫のように儚く消えて無くなるだけのはずだった、覚悟のこもった強き意思。
しかし、そんな彼の切なる想いを──“とある世界”は聞き届ける。
「……うん?」
ざあっと、桜の木々が一斉に揺れた。
数多の花弁が軽やかに空へと舞い上がる最中、不意にその中を漂う一枚の封書が目に入る。
ひらひらと風にたゆたうそれは、やがて寸分違わず日向の手元に落ちてきた。
首を傾げながらも手首を返して裏面を見れば、そこには達筆でこう書かれていた。
『天道日向殿へ』
──と。
その宛名を目にした瞬間、ずっと燻っていた彼の心に火が点いた。
火は瞬く間に炎となり、全身を焼き尽くすかのごとく燃え盛る。
胸の奥から抑えきれない衝動が沸き起こり、鼓動は早鐘のように高鳴った。
「……ハ、ハハハ」
自然と、笑い声がこぼれた。
封を切る必要はなかった。
中身を確認するまでもなかった。
なぜなら、日向には確信があった。
これは、自分の望みを叶えるものだと。
これこそが、彼女が示していたものなのだと。
だからこそ、日向は迷わない。
たとえ生まれ育った故郷を捨て去るとしても。
たとえもう二度と、帰って来られなくなるのだとしても。
その先に、自分が望む世界があるのなら。
そしてそこに、自分を必要としてくれる人々が居るのなら。
拒む理由などありはしない。
「……」
ふと、日向は背後に振り返る。
桜が舞い散る並木道の向こうに、人の気配はない。
それでも日向は、まるで誰かに語りかけるように呟いた。
「……もしもここで躊躇したりなんてしたら、あなたは俺を叱るんだろうな」
『ふふ、当然じゃないか』
一陣の風にのって、不意に、そんな言葉が聞こえた気がした。
日向はしばしの間、その風を感じるように瞳を閉じ、
「──ありがとう、
朗らかな笑みで、そう告げた。
『ああ。行ってらっしゃい、ひー君』
そして遂に封を開け、中に描かれた文章を読み始める。
***
『悩み多し異才を持つ少年少女に告げる。
その才能を試すことを望むのならば、
己の家族と、
友人と、
財産を、
世界の全てを捨て、
我らの“
***
刹那、日向の目に映る世界は劇的な変貌を遂げた。
突如として沸き起こった浮遊感と共に、自分が空へと投げ出されたことを理解する。
あまりに唐突過ぎる展開に目を白黒させるが、咄嗟に落ち着いて周囲の状況を確認する。
凄まじい風圧に耐えながら、世界にその双眸を向け──心を奪われた。
「────……」
言葉が出なかった。
圧倒的なその光景に、日向はただただ見惚れることしか出来なかった。
視線を向けた先。
地平線の彼方に見えるのは、まるで世界の果てを彷彿とさせるような断崖絶壁。
そして眼下に映るのは、縮尺を見間違うほど巨大な天幕に覆われた未知の都市。
その時、その瞬間、日向の前に広がるのは──
「……ハハハ、ハハハハハハハッ!!!」
日向は歓喜する。
感動に胸が打ち震え、全てが確証に昇華する。
彼女の言葉は正しかった。
彼女の言葉は本当だった。
なぜなら、こうして現実が証明しているのだから。
だからこそ日向は、万感の想いを込めて叫ぶ。
ここは、自分を認めてくれる世界。
ここが、自分の望んでいた世界。
そして──
「こここそが、俺の生きるべき世界だッ!!!」
この日、日向は久しぶりに。
心の底から笑ったのだった。