- The Another Origin -   作:青葉空太

28 / 35
第27話 日向の過去

 

 その日は弱い雨が朝から延々と降り続いていた。

 梅雨時の空は憂鬱なくらいに鉛色で、地上に建ち並ぶ無機質なビル群と相まって、まるで色の抜け落ちたモノクロ絵を見ているようである。

 

 そんな世界の片隅で、少年は一人、雨に打たれながら佇んでいた。

 夜の帳のような黒髪には水滴が滴り、一体いつからそこに居たのか、服は完全に濡れてピッタリと肌に張りついている。

 

 およそ子供とは思えないほどの感情がこもっていない声で、少年はぽつりと呟いた。

 

「……寒いな」

 

 それは果たして、何を指しての言葉であったか。

 

 自らが置かれている状況か。

 あるいは人という存在にか。

 あるいは世界そのものにか。

 

 いずれにせよ、まだ五歳という幼い齢にありながら、少年の心はまるで氷のように冷え切っていた。 

 なぜか、と問われても、少年は首を傾げるだろう。

 気づいた時には、すでにそうなっていたのだから。

 

 物心つく前に両親に捨てられ。

 拾われた施設でも腫れ物として扱われ。

 今もこうして立ち入り禁止の屋上へ無断で出ていたとしても、誰かに注意されるどころか気に留められることもない。

 

 少年にとって、この世界はあまりにも冷たかった。

 まるでそうあれかしと世界が望んでいるかのように、現実は彼の心から熱を奪っていったのだ。

 

 それでも、希望をもってみたこともある。

 少しでも何かを変えようと、誰かに認めてもらえるようにと、努力をしてみたこともある。

 だが、結果はいつも同じだった。

 

 何も変わらず、誰にも認めてもらえない。

 いや、事実はもっと残酷だった。

 

 否定された。

 忌諱された。

 嫌悪された。

 唾棄された。

 誰も彼もが、まるで化け物のように少年を見た。

 

 終わりの見えない道を、歩き続けるには限界がある。

 いつしか少年は、全てを諦めていた。

 

「さて……そろそろかな」

 

 そしてだからこそ、少年は決めたのだ。

 もしもこのまま何も変わらないなら、このまま誰にも認めてもらえないなら、そしてそれが、この世界の日常だと言うのなら──己自身で、全てを非日常へと変えてしまおうと。

 

 五年間も耐えたのだ。

 五年間も堪えたのだ。

 誰も自分に構わないのなら、こちらだって、誰かに構う必要などないはずだ。

 

「それじゃあ、始めようか」

 

 ありていに言えば、これはただの我が儘だ。

 世間で言うところの子供の癇癪と言えるかもしれない──が、そんな生易しい表現では済まないだろう。

 

 何せ自分は今から、生まれて初めて本気を出す。

 これまでの生涯で一度たりとも振るうことの無かった、文字通りの全身全霊を世界に向ける。

 それでもしも壊れてしまうようなら……()()()()()()()()()()()()、自分を受け入れられないということだ。

 

 そうなれば、もう思い残すこともない。

 全てを終わらせた後で、自分も潔く舞台から退場するとしよう。

 

 そして遂に、少年が一歩を踏み出そうとした時──不意に、屋上に繋がる扉が開いた。

 そのままコツコツと靴音が聞こえ、誰かが少年の背後までやって来る。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

「やぁ、君が噂の少年かな?」

 

 声は女性のものだった。

 美しく澄んだアルトボイスは、さながら心地の良い音色のごとく響き渡る。

 これまでに出会った誰よりも綺麗な声だと、掛け値なしに少年は思った。

 

 と同時に、自分に向けられる言葉に負の感情が感じられないのは初めてで、少年は僅かに興味を惹かれた。

 振り返り、その姿を確認する。

 

 腰まで届く長く艶やかな黒髪を赤い御紐で結んだ女性は、胸元を開けたネイビースーツの下に白いシャツを着込み、靴は踵が高めな黒いハイヒールを履いていた。

 女性にしては背が高く、立ち姿は凛としていて、整った顔立ちからは落ち着いた大人の印象を受けるが、同時にどこか幼くも見える。

 

 少年は女性の姿を確認した後、質問に答えた。

 

「どんな噂かは知りませんけど、たぶん僕で合ってますよ。そういう怪しいお姉さんは誰ですか?」

「おや、これはずいぶんな物言いだね」

「見ず知らずの人を警戒するのは当然でしょう?」

「ふむ、なるほど。それは確かに感心な心がけだ。しかし君も男の子なら、女性には親切に接するものだよ。たとえそれが、初対面の相手であってもね」

 

 そう言って女性は美麗に微笑んだ。

 少年はしばし彼女の言葉を考えるような素振りを見せ、やがて素直に頭を下げた。

 

「……ごめんなさい。何せこれまで、他人と接する機会が極端に少なかったものですから」

「気にしなくていいよ。それよりも、まずは君の質問に答えようか。私の名は忍音(シノビネ)。君は何ていうんだい?」

「僕に名前はありません」

「む、それは困ったな」

 

 女性はさして驚いた様子も無く、うーんと腕を組んで考える。

 すると何かを思いついたのか、ポン、と手を打った。

 

「よし! それなら私が君の名前を考えてあげよう! どうだい? 君が良ければだけど」

「……僕の……名前を?」

「ああ」

 

 女性は朗らかに笑って頷く。

 対称的に、少年は複雑そうな顔をした。

 

「……お姉さんは、僕が怖くないんですか?」

「私が? 君を? ははは、そんなことあるわけないじゃないか。ただの子供を恐れるほど、私は小心者じゃないからね」

 

 その言動に、少年は今度こそ目を丸くした。

 これまで自分を普通の人間として扱ったのは、目の前の彼女が初めてだ。

 少年はじっと女性を見つめる。

 少なくとも、嘘をついているようには見えなかった。

 

「……他人からすれば、僕は化け物らしいですよ?」

「私からすれば、君はただの人間だよ」

「これでも、ですか?」

 

 刹那、少年は真横に腕を振るった。

 たったそれだけで大気が強烈に渦を巻き、局地的に全ての雨露を吹き飛ばす。

 凄まじい風圧が女性の元まで届くが、それでも彼女の泰然とした姿勢は崩れない。

 

「ああ、()()()()()()

「……」

「君が何をしようと、何を見せようと、君自身が人間であることは変わらない。ほんの少し周りより力が強かろうが、ほんの少し周りより頭が回ろうが、君はれっきとした人間だよ。そして同時に、ほんの少し周りよりも──()()()()()()()()

「──ッ!?」

 

 ガコン! と、少年の足下から音が何かを砕く音が響く。

 見れば彼の右足は、地面に小さなクレーターを作っていた。

 剣呑な雰囲気を放ちながら、少年は低く女性に問う。

 

「……僕が、つまらない人間?」

「ああ、そうだよ。理由を教えてあげようか? これはあくまで、私の推測なんだけどね。君は恐らく──()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……感動?」

「そうさ。『感動とは即ち、生きるのに必要な糧であるッ!!!』……というのは、とある人からの受け売りだけどね。だから感動を知らない君は、ある意味では死人と同じ。この世界で誰よりもつまらない人間なのさ」

 

 ギリッ、と、少年は奥歯を噛み締める。

 顔を俯かせた彼は、やがて凍えるような鋭い声で口を開いた。

 

「……訂正、してください」

「何をだい?」

「僕は、確かに感動というモノを知りません。それでも──この世界の誰よりも劣るだなんてことだけは、認めるわけにはいきません」

「私が訂正したところで、事実は何も変わらないよ。そしてそれは、君が一番良く分かっているんじゃないのかい?」

「……違います。そんなこと、ありません」

「いいや、違わないよ」

「違うッ!!!」

 

 轟、と少年を取り巻く大気が悲鳴を上げる。

 殺気を含ませた凄まじい怒りの奔流をぶつけられてなお、女性は揺るぎもしなかった。

 

「僕は、劣ってなんかいない!! だってそれじゃあ、僕はアイツらに敗北したことになる!!」

「……敗北?」

「僕の周りにいた人たちは皆、僕のことを化け物だと言った!! 出会う人全てが、僕に恐ろしいものを見るような目を向けた!! だけどそれは、僕がアイツらよりも強いから!! 僕が特別な存在だからッ!!!」

「────……」

「もしも僕が、アイツらよりも劣っていると認めたら──僕は本当に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!」

 

 少年の叫びにも似た独白を、女性は黙って聞き届ける。

 

「だから、僕は今から証明するんだ!! この世界で、僕が誰よりも凄いんだってことをッ!!」

「……そのために、君は誰かを殺すのかい?」

「……ッ……」

 

 不意に放たれた女性の言葉に、少年の体がビクリと震えた。

 真剣な眼差しで女性は続ける。

 

「君が今からやろうとしていることは、多くの人を巻き込むよ。確実に、取り返しがつかないことになる。もしそうなってしまったら、この世に君の居場所は本当に無くなってしまうだろうね」

「……僕の居場所なんて、最初からどこにもありませんよ」

「かもしれないね。だけどそれは、これまでの話だろう? これから先のことなんて誰にも分からない。それでも今、君がその力を振るったら、そんな未来の可能性すらも粉々に打ち砕いてしまうんだよ?」

「……構いませんよ。これ以上希望に縋るくらいなら、僕は諦めることを選びます。この世界に僕の居場所なんて無い。誰も僕を必要としない。この世に……“奇跡”なんてモノは無いんです」

「……それが、君の結論(こたえ)かい?」

「ええ。五年も悩んで出した結論(こたえ)です」

 

 そうかい、と呟いて、女性はそっと瞳を閉じた。

 そして次の瞬間、射抜くような双眸を浮かべ、

 

「──だったら、ここで私を殺してみなさい」

 

 真っ直ぐに、ただ一言、そう告げた。

 少年は驚愕に目を見開く。

 両手を左右に広げながら、女性は更に少年を煽る。

 

「ほら、どうしたんだい? この世界を相手取ってみせると言うのなら、私にその覚悟を示してみなさい」

「……本気ですか? 僕がその気になれば、お姉さんを殺すのは簡単ですよ?」

「そうだね。生憎と私の体は、一般的な女性のそれと大差ない。君がその拳を軽く振るうだけで、紙切れのようにちぎれ飛ぶだろう。……でもね、私は敢えて断言するよ。()()()()()()()()

 

 はっきりと、女性は宣言した。

 少年は拳を握り締め、最後通牒のように問う。

 

「……僕の覚悟は本物ですよ?」

「なら、どうして拳が震えているんだい?」

「──ッ! これは……!」

 

 指摘された途端、少年は咄嗟に自分の右拳を押さえた。

 それでも、震えは止まらない。

 

「ほら、その震えが何よりの証拠だよ。どんなに達観したように振る舞っていても、君の本質は変わらない。ただの寂しがり屋な子供なのさ」

「う、うるさい」

「気に障ったかい? でも事実だろう? どんなに理屈を並べ立てても、君の本心は一つだ。本当は居場所が欲しいんだろう? 本当は誰かに必要とされたいんだろう?」

「ち、違う」

「だから違わないと何度も言ってるじゃないか。覚悟だ何だとカッコつけてないで、素直になったらどうだい? 声に出せばいいんだよ。『誰か僕に構ってください』ってね」

「うるさい、黙れ……」

「黙って欲しいなら私を殺せばいいじゃないか。ほら、君は周囲の人間より優れているんだろう? それを証明したいんだろう? だってそうしないと、君は本当にこの世界で必要の無い存在になってしまうんだから」

「黙れ、黙れ!」

「もう一度言うよ。君に、私は殺せない」

「あああああああああぁぁぁぁぁぁッッ!!!」

 

 その瞬間、少年は足場を砕いて踏み込んだ。

 目にも止まらぬ速さで瞬く間に女性の眼前へと迫り、勢いよく振り抜かれたその拳は──

 

「────……どうして」

 

 彼女に届く寸前で、止められていた。

 

「どうして……僕は……」

 

 少年の目に涙が溢れてくる。

 瞳は揺れ、声が震える。

 女性はそっと、両手で彼の拳を包み込んだ。

 

「だから言っただろう? 君に私は殺せないと」

「……覚悟が、無いからですか?」

「違うよ」

 

 女性は屈み、少年の涙に濡れる顔を見つめて微笑むと──ぎゅっと、その小さな体を抱きしめた。

 

「……こんな優しい子に、誰かを傷付けられるわけが無いじゃないか」

「──ッ!」

 

 たった、それだけの言葉。

 しかし、その言葉は確かに──少年の心に届いた。

 生まれて初めて感じる他人の温もりは、少年のこれまで凍てついた心を瞬く間に溶かしていく。

 胸の奥から激しい熱の奔流が込み上げ、更に涙が溢れて来た。

 沸き起こる感情を抑えられず、少年はおもむくままに心情を吐露する。

 

「僕は、僕は……」

「うん、いいよ。私が受け止めてあげる。君の素直な気持ちを聞かせてごらん」

「……僕は、ずっと居場所が欲しかったんです」

「……私が、君の居場所になるよ」

「ずっと、誰かに必要とされたかったんです」

「私が、君を必要とするよ」

「僕は、僕は……」

「子供なんだから。泣きたいときは、素直に泣いていいんだよ?」

「……う、うわああああああああん!!!」

 

 少年は泣いた。

 まるでこれまでの五年間の想いを、全て清算するかのように。

 女性の胸の中で、いつまでも泣き続けた。

 やがて、女性は少年に問いかける。

 

「……ねえ。もし良かったら、私の養子にならないかい?」

「ぐすっ……え?」

「実は、今日君へ会いに来たのはそのためなんだ。この施設を離れて、私と一緒に暮らすんだよ」

「で、でも、僕と居たら、きっとお姉さんも周りの人から疎まれて……」

「構うもんか。さっきも言っただろう? 私には君が必要なんだ。後は、君次第だよ」

 

 少年は顔を俯ける。

 しばらくして、ぽつりと呟いた。

 

「……僕も、お姉さんと一緒に居たいです」

「……そっか。それじゃあ私は、今日から君のお義母さんだ」

 

 女性は少年から身体を離し、優しげな声音で話しかける。

 

「君は、さっきの提案を覚えているかい?」

「……提案?」

「ああ。君の名前を、私が考えるという提案だ」

「え、えっと……」

「私が決めてもいいかい?」

 

 少年は少しだけ戸惑うような素振りを見せた後、やがて、こくりと頷いた。

 女性は少年に額を合わせ、ゆっくりと彼の名前を告げる。

 

「君の名前は日向。天道日向だ」

「てんどう、ひなた……」

「ああ。とても温かそうな名前だろう?」

「は、はい」

 

 少年は顔を赤くして応える。

 女性は微笑むと、次に少しだけ表情を真剣なものにした。

 

「……日向君。今から言う私の言葉を、しっかりと覚えておいて欲しい」

「え?」

「君にはこれからも、多くの不幸が降りかかるかもしれない。いつかまた耐え切れなくなって、何もかもに絶望して、自分を見失う時が来るかもしれない」

「……」

「だけどね? いつか君を認めてくれる世界が、君を必要としてくれる人々が、きっとどこかに現れる。君のその力は、絶対に呪いなんかじゃない。君は決して、いなくてもいい存在なんかじゃない。君のその力は、誰かのために振るえる力だ。そして君は、それが出来る優しい心を持っている。私が言うんだから間違いないさ。だから、もしもそんな世界に、そんな人々に出会えたのなら──」

 

 女性は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、

 

「──君の力で、守ってあげてね」

 

 と、とても優しい声音でそう言った。

 

「あ、あの……」

「ふふふ。今はまだ、分からなくてもいいさ。私の言葉を信じるか否かは、これから長い時間を掛けて、君自身で決めるといい」

「わ、分かりました。えっと……お義母さん」

 

 ズキューン!!!

 

 その瞬間、女性の胸をハートの矢が貫いた。

 顔を俯けてプルプルと震える女性は、しばらくしてバッと勢い良く顔を上げると、

 

「日向君! いや、ひー君!」

「え? ひ、ひー君?」

「すまないんだけど、今の言葉をもう一度言ってくれるかな?」

「ええ? えっと、はい。……お義母さん?」

「ぐふっ……もう一度」

「お義母さん」

「がはっ……もう一回」

「お義母さん」

「かふっ……もう一声」

「お義母さん」

 

 バキューン!!!

 ドキューン!!!

 ズドキューン!!!

 

 と、連続して矢が胸を貫く。

 堪らずに、女性は少年を抱き上げた。

 

「あーもう! ひー君は可愛いなあ! この可愛いさは世界で私だけのものだよ!」

 

 少年を抱きしめながらクルクルと回る女性。

 豊かな胸に顔を埋めた少年は、息が出来ないのか必死に両手をバタつかせる。

 女性が拘束を緩めると、ぷはっと顔を上げて大きく息を吸い込んだ。

 女性は苦笑しながらごめんごめんと少年の頭を優しく撫で、そっと柔らかな笑みを浮かべた。

 

「……ひー君。私がつけた君の名前にはね、二つの意味があるんだよ」

「二つの意味、ですか?」

「うん。一つ目はね、ひー君が太陽のように明るく元気な子に育ちますように、っていうお願いだ」

「二つ目は、何ですか?」

「ふふ、それはね……」

 

 女性はもう一度、少年を優しく抱きしめる。

 

「私はこれから母親として、ひー君に精一杯の愛情を注ぐよ。だけどひー君は、それを私に返す必要は無いんだ」

「え?」

「その代わりに、いつかひー君に大切な人たちが出来たら……その時こそ、全力で愛情を向けてあげて欲しい。君の名前の二つ目の意味はね……“太陽のように、皆を明るく照らせる存在になりますように”っていう願いだよ」

「太陽のように……」

「そうさ。今日君が感じた温もりを、いつの日か周りの人々にも向けられるような。そんな誰かを想える優しい人間に育って欲しい。それこそが、私の一番の願いだ」

「……はい」

 

 今度こそ、少年は力強く頷いた。

 女性は満足げな笑みを浮かべると、よしと声を上げて背筋を伸ばす。

 

「それじゃあ、もうこんな場所とはおさらばだ。院長と話はついているから、早速私たちの家に向かうとしよう。そんなに大きくは無いけれど、日当たりの良い素敵な場所なんだ。きっとひー君も気に入るよ」

「はい!」

 

 女性は朗らかな笑顔で手を差し伸べる。

 少年もまた、朗らかな笑顔でその手を握る。

 二人は手を取り合って寄り添い歩く。

 その姿はまるで、本当の親子のようで。

 

 ──いつの間にか、雨は上がっていた。

 

 

 

***

 

 それからおよそ十年に渡る長い時を、日向は忍音と共に過ごした。

 彼女は最初の言葉に違うこと無く、日向に精いっぱいの愛情を注いだ。

 

 唯一、家事だけは苦手で──というかあまりにも壊滅的だったため──日向が行っていたものの、学校に行けない日向に自らが教師役となり、持ち得る知識の全てを与えた。

 暇さえあればどこにでも彼を連れ出して、国内外を問わず様々な場所へ訪れた。

 正月やクリスマスといった行事は毎年欠かさずに執り行い、常に二人一緒に楽しんだ。

 

 それは、平凡ながらも穏やかな日常。

 日向がずっと、焦がれ続けていた幸せな生活。

 

「あの人と一緒に過ごした時間は、間違いなく俺にとって幸せな日々だった。それだけは、今でも迷うことなく断言できる。……けど、時間が経つにつれて、同時にこうも思ったんだ」

 

 多くのことを経験する度。

 周囲と変わらない日常を送る度。

 ああ、自分はやっぱり。

 

 “この世界の平凡にはなれないんだ”と。

 

「……そして、そんな事実を確信した頃。ある日突然、あの人は俺の前から姿を消したんだ。別れの言葉も置き手紙も無く、いつものように『行ってくるよ』と笑顔で家を出て行ったきり、二度と帰って来なかった」

 

 今にして思えば、前兆はあった。

 行方知れずになるまでの数日間、彼女の態度は明らかに普段と違っていた。

 悲しそうな、それでいて辛そうな。

 彼女自身、そんな素振りは見せまいとしていたようだが、日向にはそんな彼女の心の機微が伝わっていた。

 

「探そうにも、手がかりは一切残っていなかった。まるで最初から居なかったかのように、忽然と消えてしまったんだ」

 

 その後の足取りも、当然だが分からなかった。

 

「それから二年経っても、結局あの人は戻ってこなかった。正直に言って、あの人の居ない日々は退屈で味気ないものだったよ。けど、そんなある日……空から一通の封書が落ちてきたんだ」

 

 それは、異世界からの招待状。

 彼女が語っていた世界への入り口。

 

「この時、俺は思ったんだ。ああそうか、あの人は最初から、こうなることが分かっていたんだって。だからこそ、俺は迷わなかった。それに、何だか後押しされているような気がしたんだ」

 

 ──“この先に、君の望む世界がある”

 

 そう、彼女に言われているような気がした。

 そして、日向は箱庭の世界に行き着いた。

 

 そこで十六夜に出会い。

 飛鳥に出会い。

 耀に出会い。

 黒ウサギに出会い。

 

 ──“ノーネーム”に出会ったのだ。

 

 これこそが、これまで天道日向の歩んで来た人生の全てである。

 

「……あの人が今どこかで生きているのか、それとも死んでいるのかは分からない。全てを捨ててこの世界に来たつもりだが、それだけは今でも未練だよ」

 

 ──それでも、後悔はしてないけどさ。

 と、日向は朗らかに笑って話を終わる。

 ふと目の前で湯船に浸かるレティシアに視線を向けてみれば、彼女は何やら思い詰めたような表情をしていた。

 日向は首を傾げて問いかける。

 

「レティシア? どうしたんだ?」

「……え? あ、ああいや、何でもない。少しのぼせてしまったようだ。そろそろ、私も上がらせてもらうよ」

 

 レティシアは湯船から出るために立ち上がる。

 この時、彼女の内心は盛大に乱れていた。

 足取りが覚束ず、思考もまともに定まらない。

 それだけ今の話は、事実は、彼女にとって信じがたいものだった。

 

(まさか、まさか、まさか……! お前なのか、忍音……!!!)

 

 日向は知らない。

 今より三年前、“ノーネーム”には二人の参謀が居たことを。

 遠き日に姉妹の契りを結んだ、二人の女性が居たことを。

 そしてその妹に当たる人物の名が──忍音であるということを。

 

(そんな、それでは……! もしも、今の話が本当だとするのなら、忍音は──箱庭の外に追放されていたというのか……!?)

 

 急速に顔が蒼白になっていくのが分かった。

 心の中では一心に、ただ一心に、一つの事を願い続けていた。

 それで事実が変わるなら。

 それで星の廻りが変わるなら。

 億千万でも願い続ける覚悟があった。

 

 ──どうか間違いであってくれ。

 ──とうか人違いであってくれ。

 ──頼むから、同名の何某であってくれ。

 

 それでなければ……今日までの三年間が、報われない少女が居るのだ。

 レティシアは血の気の引いた顔のまま、浴槽の縁に足をかける。

 そのまま力を込めて湯船から上がろうとした瞬間──ツルッと、足を滑らせた。

 

「──ッ!?」

「レティシアッ!!!」

 

 ばっしゃーん!!!

 

 と盛大な音と共に水しぶきが上がる。

 背中から勢いよく湯船へと倒れ込んだレティシアは、咄嗟に反応した日向の腕によって抱きとめられた。

 ほっと安堵の息を吐き、日向はレティシアに声をかける。

 

「ふう、危なかったな。大丈夫か?」

「あ、ああ。すまない、ありがとう主殿」

 

 慌てて謝罪する彼女だが、その様子はどこか落ち着きがない。

 いつも冷静沈着な彼女にしては非常に珍しい光景だ。

 

「一体どうしたんだ? さっきも何だか心ここにあらずって感じだったが……」

「そ、そんなことはないぞ? きっと湯船に浸かりすぎて、少しぼーっとしていたのだろう」

「そうか? ならやっぱりのぼせたのかもしれないな。早く上がって休んだほうがいい」

「ああ、そうさせてもらうよ。それでその……そろそろ離して欲しいのだが……」

 

 そう言われ、改めて状況を認識する日向。

 現在、彼は湯船に倒れ込んだレティシアを抱きとめている状態だ。

 当然体は密着しており、日向の腕の中に収まっている彼女の頬には、ほんのりと赤みが差していて──

 

「……っ! わ、わるッ!?」

「なっ!?」

 

 日向が慌てて離れようとしたその時、元々倒れ込んだ衝撃で緩んでいたのか、レティシアが体に巻いていたタオルがはらり──とひとりでに広がった。

 タオルはそのまま物理法則に従って湯船の中へと落ちていく。

 当然ながら、彼女の艶やかな肢体は露わとなり、日向の前に惜しげも無く晒される。

 

「~~~~~ッッ!!?!?」

 

 ぼんっ! と音でも鳴りそうな勢いで顔を真っ赤に染めたレティシアは、すぐさま大事な部分を両手で隠して湯船の中へと沈み込んだ。

 

「「………………」」

 

 二人は無言になり、静寂が湯殿を支配する。

 やがて律儀に視線を逸らしていた日向は、そっと湯船に浮かんでいたタオルを拾い、レティシアに向かって差し出した。

 

「……ごめん」

「……いや、こちらこそ」

 

 タオルを受け取り、静かに体へ巻き直す。

 すると、再び無言の時が流れる。

 

「……その、見たか?」

 

 不意に、レティシアが問いかけた。

 顔を赤くした日向は僅かに躊躇するも、素直に答えることにした。

 

「……一瞬だけ」 

「……そ、そうか」

 

 二人で更に顔を赤らめ合う。

 そのまま湯船に浸かり続けること数十秒。

 やがて、日向が口を開いた。

 

「そ、そろそろ出るか。またのぼせたりしないか心配だしな」

「う、うむ。そうだな。そうしよう」

 

 二人はどちらからともなく立ち上がると、やはり無言で湯殿から出た。

 そして脱衣場に戻ったところで、十六夜のヘッドホンが無くなったことを知るのだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。