その日は弱い雨が朝から延々と降り続いていた。
梅雨時の空は憂鬱なくらいに鉛色で、地上に建ち並ぶ無機質なビル群と相まって、まるで色の抜け落ちたモノクロ絵を見ているようである。
そんな世界の片隅で、少年は一人、雨に打たれながら佇んでいた。
夜の帳のような黒髪には水滴が滴り、一体いつからそこに居たのか、服は完全に濡れてピッタリと肌に張りついている。
およそ子供とは思えないほどの感情がこもっていない声で、少年はぽつりと呟いた。
「……寒いな」
それは果たして、何を指しての言葉であったか。
自らが置かれている状況か。
あるいは人という存在にか。
あるいは世界そのものにか。
いずれにせよ、まだ五歳という幼い齢にありながら、少年の心はまるで氷のように冷え切っていた。
なぜか、と問われても、少年は首を傾げるだろう。
気づいた時には、すでにそうなっていたのだから。
物心つく前に両親に捨てられ。
拾われた施設でも腫れ物として扱われ。
今もこうして立ち入り禁止の屋上へ無断で出ていたとしても、誰かに注意されるどころか気に留められることもない。
少年にとって、この世界はあまりにも冷たかった。
まるでそうあれかしと世界が望んでいるかのように、現実は彼の心から熱を奪っていったのだ。
それでも、希望をもってみたこともある。
少しでも何かを変えようと、誰かに認めてもらえるようにと、努力をしてみたこともある。
だが、結果はいつも同じだった。
何も変わらず、誰にも認めてもらえない。
いや、事実はもっと残酷だった。
否定された。
忌諱された。
嫌悪された。
唾棄された。
誰も彼もが、まるで化け物のように少年を見た。
終わりの見えない道を、歩き続けるには限界がある。
いつしか少年は、全てを諦めていた。
「さて……そろそろかな」
そしてだからこそ、少年は決めたのだ。
もしもこのまま何も変わらないなら、このまま誰にも認めてもらえないなら、そしてそれが、この世界の日常だと言うのなら──己自身で、全てを非日常へと変えてしまおうと。
五年間も耐えたのだ。
五年間も堪えたのだ。
誰も自分に構わないのなら、こちらだって、誰かに構う必要などないはずだ。
「それじゃあ、始めようか」
ありていに言えば、これはただの我が儘だ。
世間で言うところの子供の癇癪と言えるかもしれない──が、そんな生易しい表現では済まないだろう。
何せ自分は今から、生まれて初めて本気を出す。
これまでの生涯で一度たりとも振るうことの無かった、文字通りの全身全霊を世界に向ける。
それでもしも壊れてしまうようなら……
そうなれば、もう思い残すこともない。
全てを終わらせた後で、自分も潔く舞台から退場するとしよう。
そして遂に、少年が一歩を踏み出そうとした時──不意に、屋上に繋がる扉が開いた。
そのままコツコツと靴音が聞こえ、誰かが少年の背後までやって来る。
そして、静かに口を開いた。
「やぁ、君が噂の少年かな?」
声は女性のものだった。
美しく澄んだアルトボイスは、さながら心地の良い音色のごとく響き渡る。
これまでに出会った誰よりも綺麗な声だと、掛け値なしに少年は思った。
と同時に、自分に向けられる言葉に負の感情が感じられないのは初めてで、少年は僅かに興味を惹かれた。
振り返り、その姿を確認する。
腰まで届く長く艶やかな黒髪を赤い御紐で結んだ女性は、胸元を開けたネイビースーツの下に白いシャツを着込み、靴は踵が高めな黒いハイヒールを履いていた。
女性にしては背が高く、立ち姿は凛としていて、整った顔立ちからは落ち着いた大人の印象を受けるが、同時にどこか幼くも見える。
少年は女性の姿を確認した後、質問に答えた。
「どんな噂かは知りませんけど、たぶん僕で合ってますよ。そういう怪しいお姉さんは誰ですか?」
「おや、これはずいぶんな物言いだね」
「見ず知らずの人を警戒するのは当然でしょう?」
「ふむ、なるほど。それは確かに感心な心がけだ。しかし君も男の子なら、女性には親切に接するものだよ。たとえそれが、初対面の相手であってもね」
そう言って女性は美麗に微笑んだ。
少年はしばし彼女の言葉を考えるような素振りを見せ、やがて素直に頭を下げた。
「……ごめんなさい。何せこれまで、他人と接する機会が極端に少なかったものですから」
「気にしなくていいよ。それよりも、まずは君の質問に答えようか。私の名は
「僕に名前はありません」
「む、それは困ったな」
女性はさして驚いた様子も無く、うーんと腕を組んで考える。
すると何かを思いついたのか、ポン、と手を打った。
「よし! それなら私が君の名前を考えてあげよう! どうだい? 君が良ければだけど」
「……僕の……名前を?」
「ああ」
女性は朗らかに笑って頷く。
対称的に、少年は複雑そうな顔をした。
「……お姉さんは、僕が怖くないんですか?」
「私が? 君を? ははは、そんなことあるわけないじゃないか。ただの子供を恐れるほど、私は小心者じゃないからね」
その言動に、少年は今度こそ目を丸くした。
これまで自分を普通の人間として扱ったのは、目の前の彼女が初めてだ。
少年はじっと女性を見つめる。
少なくとも、嘘をついているようには見えなかった。
「……他人からすれば、僕は化け物らしいですよ?」
「私からすれば、君はただの人間だよ」
「これでも、ですか?」
刹那、少年は真横に腕を振るった。
たったそれだけで大気が強烈に渦を巻き、局地的に全ての雨露を吹き飛ばす。
凄まじい風圧が女性の元まで届くが、それでも彼女の泰然とした姿勢は崩れない。
「ああ、
「……」
「君が何をしようと、何を見せようと、君自身が人間であることは変わらない。ほんの少し周りより力が強かろうが、ほんの少し周りより頭が回ろうが、君はれっきとした人間だよ。そして同時に、ほんの少し周りよりも──
「──ッ!?」
ガコン! と、少年の足下から音が何かを砕く音が響く。
見れば彼の右足は、地面に小さなクレーターを作っていた。
剣呑な雰囲気を放ちながら、少年は低く女性に問う。
「……僕が、つまらない人間?」
「ああ、そうだよ。理由を教えてあげようか? これはあくまで、私の推測なんだけどね。君は恐らく──
「……感動?」
「そうさ。『感動とは即ち、生きるのに必要な糧であるッ!!!』……というのは、とある人からの受け売りだけどね。だから感動を知らない君は、ある意味では死人と同じ。この世界で誰よりもつまらない人間なのさ」
ギリッ、と、少年は奥歯を噛み締める。
顔を俯かせた彼は、やがて凍えるような鋭い声で口を開いた。
「……訂正、してください」
「何をだい?」
「僕は、確かに感動というモノを知りません。それでも──この世界の誰よりも劣るだなんてことだけは、認めるわけにはいきません」
「私が訂正したところで、事実は何も変わらないよ。そしてそれは、君が一番良く分かっているんじゃないのかい?」
「……違います。そんなこと、ありません」
「いいや、違わないよ」
「違うッ!!!」
轟、と少年を取り巻く大気が悲鳴を上げる。
殺気を含ませた凄まじい怒りの奔流をぶつけられてなお、女性は揺るぎもしなかった。
「僕は、劣ってなんかいない!! だってそれじゃあ、僕はアイツらに敗北したことになる!!」
「……敗北?」
「僕の周りにいた人たちは皆、僕のことを化け物だと言った!! 出会う人全てが、僕に恐ろしいものを見るような目を向けた!! だけどそれは、僕がアイツらよりも強いから!! 僕が特別な存在だからッ!!!」
「────……」
「もしも僕が、アイツらよりも劣っていると認めたら──僕は本当に、
少年の叫びにも似た独白を、女性は黙って聞き届ける。
「だから、僕は今から証明するんだ!! この世界で、僕が誰よりも凄いんだってことをッ!!」
「……そのために、君は誰かを殺すのかい?」
「……ッ……」
不意に放たれた女性の言葉に、少年の体がビクリと震えた。
真剣な眼差しで女性は続ける。
「君が今からやろうとしていることは、多くの人を巻き込むよ。確実に、取り返しがつかないことになる。もしそうなってしまったら、この世に君の居場所は本当に無くなってしまうだろうね」
「……僕の居場所なんて、最初からどこにもありませんよ」
「かもしれないね。だけどそれは、これまでの話だろう? これから先のことなんて誰にも分からない。それでも今、君がその力を振るったら、そんな未来の可能性すらも粉々に打ち砕いてしまうんだよ?」
「……構いませんよ。これ以上希望に縋るくらいなら、僕は諦めることを選びます。この世界に僕の居場所なんて無い。誰も僕を必要としない。この世に……“奇跡”なんてモノは無いんです」
「……それが、君の
「ええ。五年も悩んで出した
そうかい、と呟いて、女性はそっと瞳を閉じた。
そして次の瞬間、射抜くような双眸を浮かべ、
「──だったら、ここで私を殺してみなさい」
真っ直ぐに、ただ一言、そう告げた。
少年は驚愕に目を見開く。
両手を左右に広げながら、女性は更に少年を煽る。
「ほら、どうしたんだい? この世界を相手取ってみせると言うのなら、私にその覚悟を示してみなさい」
「……本気ですか? 僕がその気になれば、お姉さんを殺すのは簡単ですよ?」
「そうだね。生憎と私の体は、一般的な女性のそれと大差ない。君がその拳を軽く振るうだけで、紙切れのようにちぎれ飛ぶだろう。……でもね、私は敢えて断言するよ。
はっきりと、女性は宣言した。
少年は拳を握り締め、最後通牒のように問う。
「……僕の覚悟は本物ですよ?」
「なら、どうして拳が震えているんだい?」
「──ッ! これは……!」
指摘された途端、少年は咄嗟に自分の右拳を押さえた。
それでも、震えは止まらない。
「ほら、その震えが何よりの証拠だよ。どんなに達観したように振る舞っていても、君の本質は変わらない。ただの寂しがり屋な子供なのさ」
「う、うるさい」
「気に障ったかい? でも事実だろう? どんなに理屈を並べ立てても、君の本心は一つだ。本当は居場所が欲しいんだろう? 本当は誰かに必要とされたいんだろう?」
「ち、違う」
「だから違わないと何度も言ってるじゃないか。覚悟だ何だとカッコつけてないで、素直になったらどうだい? 声に出せばいいんだよ。『誰か僕に構ってください』ってね」
「うるさい、黙れ……」
「黙って欲しいなら私を殺せばいいじゃないか。ほら、君は周囲の人間より優れているんだろう? それを証明したいんだろう? だってそうしないと、君は本当にこの世界で必要の無い存在になってしまうんだから」
「黙れ、黙れ!」
「もう一度言うよ。君に、私は殺せない」
「あああああああああぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
その瞬間、少年は足場を砕いて踏み込んだ。
目にも止まらぬ速さで瞬く間に女性の眼前へと迫り、勢いよく振り抜かれたその拳は──
「────……どうして」
彼女に届く寸前で、止められていた。
「どうして……僕は……」
少年の目に涙が溢れてくる。
瞳は揺れ、声が震える。
女性はそっと、両手で彼の拳を包み込んだ。
「だから言っただろう? 君に私は殺せないと」
「……覚悟が、無いからですか?」
「違うよ」
女性は屈み、少年の涙に濡れる顔を見つめて微笑むと──ぎゅっと、その小さな体を抱きしめた。
「……こんな優しい子に、誰かを傷付けられるわけが無いじゃないか」
「──ッ!」
たった、それだけの言葉。
しかし、その言葉は確かに──少年の心に届いた。
生まれて初めて感じる他人の温もりは、少年のこれまで凍てついた心を瞬く間に溶かしていく。
胸の奥から激しい熱の奔流が込み上げ、更に涙が溢れて来た。
沸き起こる感情を抑えられず、少年はおもむくままに心情を吐露する。
「僕は、僕は……」
「うん、いいよ。私が受け止めてあげる。君の素直な気持ちを聞かせてごらん」
「……僕は、ずっと居場所が欲しかったんです」
「……私が、君の居場所になるよ」
「ずっと、誰かに必要とされたかったんです」
「私が、君を必要とするよ」
「僕は、僕は……」
「子供なんだから。泣きたいときは、素直に泣いていいんだよ?」
「……う、うわああああああああん!!!」
少年は泣いた。
まるでこれまでの五年間の想いを、全て清算するかのように。
女性の胸の中で、いつまでも泣き続けた。
やがて、女性は少年に問いかける。
「……ねえ。もし良かったら、私の養子にならないかい?」
「ぐすっ……え?」
「実は、今日君へ会いに来たのはそのためなんだ。この施設を離れて、私と一緒に暮らすんだよ」
「で、でも、僕と居たら、きっとお姉さんも周りの人から疎まれて……」
「構うもんか。さっきも言っただろう? 私には君が必要なんだ。後は、君次第だよ」
少年は顔を俯ける。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「……僕も、お姉さんと一緒に居たいです」
「……そっか。それじゃあ私は、今日から君のお義母さんだ」
女性は少年から身体を離し、優しげな声音で話しかける。
「君は、さっきの提案を覚えているかい?」
「……提案?」
「ああ。君の名前を、私が考えるという提案だ」
「え、えっと……」
「私が決めてもいいかい?」
少年は少しだけ戸惑うような素振りを見せた後、やがて、こくりと頷いた。
女性は少年に額を合わせ、ゆっくりと彼の名前を告げる。
「君の名前は日向。天道日向だ」
「てんどう、ひなた……」
「ああ。とても温かそうな名前だろう?」
「は、はい」
少年は顔を赤くして応える。
女性は微笑むと、次に少しだけ表情を真剣なものにした。
「……日向君。今から言う私の言葉を、しっかりと覚えておいて欲しい」
「え?」
「君にはこれからも、多くの不幸が降りかかるかもしれない。いつかまた耐え切れなくなって、何もかもに絶望して、自分を見失う時が来るかもしれない」
「……」
「だけどね? いつか君を認めてくれる世界が、君を必要としてくれる人々が、きっとどこかに現れる。君のその力は、絶対に呪いなんかじゃない。君は決して、いなくてもいい存在なんかじゃない。君のその力は、誰かのために振るえる力だ。そして君は、それが出来る優しい心を持っている。私が言うんだから間違いないさ。だから、もしもそんな世界に、そんな人々に出会えたのなら──」
女性は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、
「──君の力で、守ってあげてね」
と、とても優しい声音でそう言った。
「あ、あの……」
「ふふふ。今はまだ、分からなくてもいいさ。私の言葉を信じるか否かは、これから長い時間を掛けて、君自身で決めるといい」
「わ、分かりました。えっと……お義母さん」
ズキューン!!!
その瞬間、女性の胸をハートの矢が貫いた。
顔を俯けてプルプルと震える女性は、しばらくしてバッと勢い良く顔を上げると、
「日向君! いや、ひー君!」
「え? ひ、ひー君?」
「すまないんだけど、今の言葉をもう一度言ってくれるかな?」
「ええ? えっと、はい。……お義母さん?」
「ぐふっ……もう一度」
「お義母さん」
「がはっ……もう一回」
「お義母さん」
「かふっ……もう一声」
「お義母さん」
バキューン!!!
ドキューン!!!
ズドキューン!!!
と、連続して矢が胸を貫く。
堪らずに、女性は少年を抱き上げた。
「あーもう! ひー君は可愛いなあ! この可愛いさは世界で私だけのものだよ!」
少年を抱きしめながらクルクルと回る女性。
豊かな胸に顔を埋めた少年は、息が出来ないのか必死に両手をバタつかせる。
女性が拘束を緩めると、ぷはっと顔を上げて大きく息を吸い込んだ。
女性は苦笑しながらごめんごめんと少年の頭を優しく撫で、そっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……ひー君。私がつけた君の名前にはね、二つの意味があるんだよ」
「二つの意味、ですか?」
「うん。一つ目はね、ひー君が太陽のように明るく元気な子に育ちますように、っていうお願いだ」
「二つ目は、何ですか?」
「ふふ、それはね……」
女性はもう一度、少年を優しく抱きしめる。
「私はこれから母親として、ひー君に精一杯の愛情を注ぐよ。だけどひー君は、それを私に返す必要は無いんだ」
「え?」
「その代わりに、いつかひー君に大切な人たちが出来たら……その時こそ、全力で愛情を向けてあげて欲しい。君の名前の二つ目の意味はね……“太陽のように、皆を明るく照らせる存在になりますように”っていう願いだよ」
「太陽のように……」
「そうさ。今日君が感じた温もりを、いつの日か周りの人々にも向けられるような。そんな誰かを想える優しい人間に育って欲しい。それこそが、私の一番の願いだ」
「……はい」
今度こそ、少年は力強く頷いた。
女性は満足げな笑みを浮かべると、よしと声を上げて背筋を伸ばす。
「それじゃあ、もうこんな場所とはおさらばだ。院長と話はついているから、早速私たちの家に向かうとしよう。そんなに大きくは無いけれど、日当たりの良い素敵な場所なんだ。きっとひー君も気に入るよ」
「はい!」
女性は朗らかな笑顔で手を差し伸べる。
少年もまた、朗らかな笑顔でその手を握る。
二人は手を取り合って寄り添い歩く。
その姿はまるで、本当の親子のようで。
──いつの間にか、雨は上がっていた。
***
それからおよそ十年に渡る長い時を、日向は忍音と共に過ごした。
彼女は最初の言葉に違うこと無く、日向に精いっぱいの愛情を注いだ。
唯一、家事だけは苦手で──というかあまりにも壊滅的だったため──日向が行っていたものの、学校に行けない日向に自らが教師役となり、持ち得る知識の全てを与えた。
暇さえあればどこにでも彼を連れ出して、国内外を問わず様々な場所へ訪れた。
正月やクリスマスといった行事は毎年欠かさずに執り行い、常に二人一緒に楽しんだ。
それは、平凡ながらも穏やかな日常。
日向がずっと、焦がれ続けていた幸せな生活。
「あの人と一緒に過ごした時間は、間違いなく俺にとって幸せな日々だった。それだけは、今でも迷うことなく断言できる。……けど、時間が経つにつれて、同時にこうも思ったんだ」
多くのことを経験する度。
周囲と変わらない日常を送る度。
ああ、自分はやっぱり。
“この世界の平凡にはなれないんだ”と。
「……そして、そんな事実を確信した頃。ある日突然、あの人は俺の前から姿を消したんだ。別れの言葉も置き手紙も無く、いつものように『行ってくるよ』と笑顔で家を出て行ったきり、二度と帰って来なかった」
今にして思えば、前兆はあった。
行方知れずになるまでの数日間、彼女の態度は明らかに普段と違っていた。
悲しそうな、それでいて辛そうな。
彼女自身、そんな素振りは見せまいとしていたようだが、日向にはそんな彼女の心の機微が伝わっていた。
「探そうにも、手がかりは一切残っていなかった。まるで最初から居なかったかのように、忽然と消えてしまったんだ」
その後の足取りも、当然だが分からなかった。
「それから二年経っても、結局あの人は戻ってこなかった。正直に言って、あの人の居ない日々は退屈で味気ないものだったよ。けど、そんなある日……空から一通の封書が落ちてきたんだ」
それは、異世界からの招待状。
彼女が語っていた世界への入り口。
「この時、俺は思ったんだ。ああそうか、あの人は最初から、こうなることが分かっていたんだって。だからこそ、俺は迷わなかった。それに、何だか後押しされているような気がしたんだ」
──“この先に、君の望む世界がある”
そう、彼女に言われているような気がした。
そして、日向は箱庭の世界に行き着いた。
そこで十六夜に出会い。
飛鳥に出会い。
耀に出会い。
黒ウサギに出会い。
──“ノーネーム”に出会ったのだ。
これこそが、これまで天道日向の歩んで来た人生の全てである。
「……あの人が今どこかで生きているのか、それとも死んでいるのかは分からない。全てを捨ててこの世界に来たつもりだが、それだけは今でも未練だよ」
──それでも、後悔はしてないけどさ。
と、日向は朗らかに笑って話を終わる。
ふと目の前で湯船に浸かるレティシアに視線を向けてみれば、彼女は何やら思い詰めたような表情をしていた。
日向は首を傾げて問いかける。
「レティシア? どうしたんだ?」
「……え? あ、ああいや、何でもない。少しのぼせてしまったようだ。そろそろ、私も上がらせてもらうよ」
レティシアは湯船から出るために立ち上がる。
この時、彼女の内心は盛大に乱れていた。
足取りが覚束ず、思考もまともに定まらない。
それだけ今の話は、事実は、彼女にとって信じがたいものだった。
(まさか、まさか、まさか……! お前なのか、忍音……!!!)
日向は知らない。
今より三年前、“ノーネーム”には二人の参謀が居たことを。
遠き日に姉妹の契りを結んだ、二人の女性が居たことを。
そしてその妹に当たる人物の名が──忍音であるということを。
(そんな、それでは……! もしも、今の話が本当だとするのなら、忍音は──箱庭の外に追放されていたというのか……!?)
急速に顔が蒼白になっていくのが分かった。
心の中では一心に、ただ一心に、一つの事を願い続けていた。
それで事実が変わるなら。
それで星の廻りが変わるなら。
億千万でも願い続ける覚悟があった。
──どうか間違いであってくれ。
──とうか人違いであってくれ。
──頼むから、同名の何某であってくれ。
それでなければ……今日までの三年間が、報われない少女が居るのだ。
レティシアは血の気の引いた顔のまま、浴槽の縁に足をかける。
そのまま力を込めて湯船から上がろうとした瞬間──ツルッと、足を滑らせた。
「──ッ!?」
「レティシアッ!!!」
ばっしゃーん!!!
と盛大な音と共に水しぶきが上がる。
背中から勢いよく湯船へと倒れ込んだレティシアは、咄嗟に反応した日向の腕によって抱きとめられた。
ほっと安堵の息を吐き、日向はレティシアに声をかける。
「ふう、危なかったな。大丈夫か?」
「あ、ああ。すまない、ありがとう主殿」
慌てて謝罪する彼女だが、その様子はどこか落ち着きがない。
いつも冷静沈着な彼女にしては非常に珍しい光景だ。
「一体どうしたんだ? さっきも何だか心ここにあらずって感じだったが……」
「そ、そんなことはないぞ? きっと湯船に浸かりすぎて、少しぼーっとしていたのだろう」
「そうか? ならやっぱりのぼせたのかもしれないな。早く上がって休んだほうがいい」
「ああ、そうさせてもらうよ。それでその……そろそろ離して欲しいのだが……」
そう言われ、改めて状況を認識する日向。
現在、彼は湯船に倒れ込んだレティシアを抱きとめている状態だ。
当然体は密着しており、日向の腕の中に収まっている彼女の頬には、ほんのりと赤みが差していて──
「……っ! わ、わるッ!?」
「なっ!?」
日向が慌てて離れようとしたその時、元々倒れ込んだ衝撃で緩んでいたのか、レティシアが体に巻いていたタオルがはらり──とひとりでに広がった。
タオルはそのまま物理法則に従って湯船の中へと落ちていく。
当然ながら、彼女の艶やかな肢体は露わとなり、日向の前に惜しげも無く晒される。
「~~~~~ッッ!!?!?」
ぼんっ! と音でも鳴りそうな勢いで顔を真っ赤に染めたレティシアは、すぐさま大事な部分を両手で隠して湯船の中へと沈み込んだ。
「「………………」」
二人は無言になり、静寂が湯殿を支配する。
やがて律儀に視線を逸らしていた日向は、そっと湯船に浮かんでいたタオルを拾い、レティシアに向かって差し出した。
「……ごめん」
「……いや、こちらこそ」
タオルを受け取り、静かに体へ巻き直す。
すると、再び無言の時が流れる。
「……その、見たか?」
不意に、レティシアが問いかけた。
顔を赤くした日向は僅かに躊躇するも、素直に答えることにした。
「……一瞬だけ」
「……そ、そうか」
二人で更に顔を赤らめ合う。
そのまま湯船に浸かり続けること数十秒。
やがて、日向が口を開いた。
「そ、そろそろ出るか。またのぼせたりしないか心配だしな」
「う、うむ。そうだな。そうしよう」
二人はどちらからともなく立ち上がると、やはり無言で湯殿から出た。
そして脱衣場に戻ったところで、十六夜のヘッドホンが無くなったことを知るのだった。