奉仕部と私   作:ゼリー

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第十三話

       ◇

 

 集合場所に立ったとき、あたりは休日の喧噪に包まれていた。

 空には雲が点在しているものの、梅雨真っ只中の時期にしては気持ちの良い晴天である。

 私は時計を検めた。定刻の一時間前であった。少々はやく到着しすぎたようだ。ひとつ断っておくと、この日を待ちわびていたために心弾ませて早く来た、ということではない。私の持つ生粋の律儀さが、何らかの不可抗力によって時間に間に合わなくなる事態を避けようとしただけのことである。つまり紳士ということになる。誤解なさらぬよう願いたい。

 私は植え込みの縁に腰掛けると何気なく周囲に視線を漂わせた。

 駅を出た人々は、猫も杓子も目の前の複合型商業施設へとなだれ込んでいく。そんな蟻の熊野詣もかくやと言うべき人々の潮流の中に、私は見知った顔を発見した。普段と趣を異にした髪型と服装をしていたので、瞬時には誰だかわからなかったが、よくみればそれは雪ノ下さんであった。

 私はしきりに時計を確認する雪ノ下さんをじっと観察していたが、じきに飽きて本を取り出し読み始めた。数頁ほど繰ると、開いた本にさっと影がさした。顔を上げると、雪ノ下さんが立っていた。

 

「おはよう。早いわね」

 

 私は眩しい日差しに顔をしかめて挨拶を返した。

 

「雪ノ下さんこそ早いね」

「ええ。集合時間の前に来るのは当然でしょう?」

「うん、その通りだけど」

 

 まだ一時間前である。彼女は超然とした顔ですましているが、浮き立っている心の有り様が如実に透けて見えた。いくら冷静さを気取っていても、雪ノ下さんはまだまだ子どもなのだ。そう思うと、私はなんだか微笑ましくなった。

 

「どうしてにやにやしているのよ。ものすごく不愉快だからやめなさい。訴えるわよ」

「ひどい言い草だね。俺はただ、雪ノ下さんが嬉しそうに――」

「黙りなさい、変態」

 

 雪ノ下さんは言下にそう吐き捨てた。

 私は慌てて笑みを引っ込めた。それから、入念に辺りを窺った。そして、ふっと息をつく。よかった、誰にも見られていない。見目麗しゅう年頃の女子高生に「変態」と罵られて笑みを浮かべているようでは、それこそ本物の変態である。はたから見れば異常なやり取りが、休日の賑わいに没したようで本当によかった。

 それにしても雪ノ下さんは失礼である。だいたい私の笑みは公序良俗に反するとでもいうのだろうか。かりにそのようなことがまかり通れば、私は微笑むごとに官憲のお世話になってしまうではないか。まるで隠れキリシタンや隠れ念仏だ。どうしても感情を表したいときは、お上の沙汰を怖れて夜な夜な密かに微笑まなくてはならない。これはもう弾圧である。隠れスマイルである。抵抗して絶対に自由を勝ち取らねばなるまい。

 そんなふうに慷慨(こうがい)運動の火種をくすぶらせていると、ふいに雪ノ下さんがよろめいた。

 

「どうしたの。大丈夫?」

 

 私は怒りを忘れて問いかける。

 

「問題ないわ。暑くて頭がぼおっとしただけ」

「あ、そう」

 

 たしかに今日は暑い。汗をかくところをあまり見かけない雪ノ下さんだが、今は白磁のような肌に汗が滴っている。

 私は少し考えてから言った。

 

「まだ時間あるし、そこの喫茶店で涼を取るというのは、どう」

「……あなたと?」

「ほかに誰がいる」

「まあ、そうね、いいでしょう。仕方ないものね、暑いのだから」

 

 雪ノ下さんは片眉を吊り上げて私を見ると、自分を納得させる理由を用意してから頷いた。私はいささか自尊心を傷つけられたが、内心でいくら怒ってみてもむやみに暑くなるだけなので、陰気な薄ら笑いでなんとか受け流した。

 

「アイスティーをください」

「私も同じものを」

 

 休日ということもあって、薄暗い照明の店内には、結構な人が座っていた。我々も窓際に空いた席を見つけると、汗を拭って腰を落ち着けた。エアコンの風が心地いい。運ばれてきた紅茶はよく冷えていた。

 私はのどを潤すと、鞄から文庫本を取り出して読み始めた。わざわざ補足するまでもないことだが、向かいに座る雪ノ下さんは私より先に本を開いていた。

 奉仕部へ通いたての雪ノ下さんを意識していたあの頃であれば、こうはいってなかった。休日の喫茶店という恋人たちの舞台に、美しい女生徒と二人きり。おそらく私はどう対処していいかわからず、しどろもどろに無意味で不毛なお喋りを繰り広げていたことであろう。あるいは、会話の糸口すら見つけられず、茫漠とした無言の時間にか弱い胃腸を傷つけられていたこと請け合いだ。しかし、雪ノ下さんという人間を知った今は違う。こうして本を読みながら静かにしているのが最善であると、私は知っている。心の静謐は何にも代えがたい。君子危うきに近寄らず、である。

 我々はしばらくのあいだ、黙然と活字を目で追っていた。

 隣に置いていた鞄から、電話の着信を告げる電子音が響いた。私はおもむろに携帯電話を取り出すと、画面に材木座の表示を見出した。何も見なかったことにして、再び本に目を移す。すると、間をおかずに今度はメールの着信があった。「我、到着す。お主はまだか? 至急返信求む」と書いてある。私は、「まだ着いていない。集合時間には間に合う」とだけ書いて返信した。このあたりが我々の友情の限界であろう。

 

「もしかして比企谷くんから? 今日のことで何かあったの?」

 

 雪ノ下さんはテーブルに本を置いて、まっすぐ私を見つめていた。

 

「いや、ちがう」

「そう。電話も鳴っていたみたいだけれど」

「え? ああ、多分間違い電話だと思う」

「出ないでどうしてわかるの? それにメールもしていたわよね」

「ええと、それは」

 

 ふと、私は材木座の参加について知らせていないことに思い当たった。まさか気づかれたかと疑ったが、いまさらである。数十分後にはご対面だ。隠す必要もない。

 

「あなたがメールのやりとりをする相手なんて極々限られているでしょう。いえ、ひとりだけよね。それに内容は事務的なものではないかしら。であれば、比企谷くんと今日のことで何かあったのかとしか考えられないわ」

「材木座です。今日、来るみたいです」

 

 あまりに失礼な憶測を一挙に言ってのける雪ノ下さんに対し、私は正直にそう告げた。

 雪ノ下さんは面食らったのかぽかんと口を開いていた。そうしてすぐさま咎めるように目を細めた。

 

「あいつも由比ヶ浜さんにはお世話になっているし、別にいいじゃん。ちょっと、そんな目で見ないでよ。俺だって好きで呼んだわけじゃない。あいつが強引に――ともかく、お願いだからそんな目で見ないで」

 

 非難を映して苛烈に光る雪ノ下さんの双眸に、私は小動物のように縮こまってしまった。これ以上言い訳を並べるのは得策ではない。機関銃のごとき罵詈を受ける前に、素直に謝ったほうがよさそうである。

 私が謝罪すると、雪ノ下さんは眉間に寄った深い皺を緩めた。

 

「別に謝る必要はないわ。私はただ、事前に報告もできないあなたの幼稚な社会感覚に、心底あきれ返っていただけだから」

 

 返す言葉もない。私は神妙に俯いて、彼女が満足いくまで罵倒されるのを覚悟した。ところが、雪ノ下さんはそれ以上何も言わなかった。

 はてな。気分でもすぐれないのだろうか。訝った私が顔を上げると、雪ノ下さんはなにやら複雑な面持ちをして、こちらをじっと見つめていた。私の見間違いでなければ、やや頬が染まっているようにも見える。不気味なことこの上なかった。よもやあれは、私をもみくちゃにするような罵詈雑言では飽き足らず、粉々に粉砕して利根川に遊泳する魚の餌にしようと画策している顔ではあるまいか。このままではいけない。彼女のほとぼりが冷めるまで戦略的に撤退するべきである。

 そう思って、私がお手洗いを申し出ようとしたときである。

 

「それはもういいわ……それで、あの。少し、訊きたいことがあるのだけれど……」

「え」

 

 雪ノ下さんは、それまでの饒舌が嘘のように途端に口ごもった。視線も私の顔から、アイスティーに浮かぶ氷に変わっている。おや、と私は思った。なぜかしらないが、立ち込めていた暗雲が取り払われているようだ。

 

「ええとね、その……」

「うん」

「奉仕部のことなのだけれど……」

「うん、なに」

 

 雪ノ下さんはちらっと私に視線を投げかけて、再び俯く。普段から容赦のない言辞を弄すること田中角栄のごとき彼女が訥々と話すさまは新鮮であり、私はしらぬ間に形勢が逆転していることをほくそ笑んでいた。

 私は得意になって、ちょっとため息をついてみたりした。

 

「はあ、ったく要領を得ないな。だからなに」

 

 雪ノ下さんはキッと私を睨みつけた。それは手負いの獣を思わせる眼光で、私は、「あ、いや、ゆっくりでかまわないです」と情けない声をあげた。

 

「あのふたりの仲違いの原因について知りたいのよ。先日、あなたは由比ヶ浜さんが帰ってくると言ったわよね? それならそれでいいのだけれど、やっぱり奉仕部員として原因は知っているべきだと思うの。もし本当に解決したらあなたを労う必要があるわけだし……、それに私はこの件については何の役にも立っていないから……」

「ふぅん」

 

 なるほど。彼女は引け目を感じていると、そういう訳のようだ。おそらく、先日に部室で口ごもって話さなかった内容はこれと同じなのだろう。部長として部をまとめる立場にありながら、迂闊にも部内の軋轢を看過してしまった。そして、あまつさえその解決に何の助力も担えなかった己を不甲斐なく感じているのかもしれない。

 傲岸不遜で高飛車、冷酷無情のお嬢様である雪ノ下さんに、こんな心の機微が存在したとは驚きである。私は素直に感心した。

 

「雪ノ下さんも人の子なんだなあ」

「……なによ、その反応は。い、いいから、早く教えなさい」

 

 私は咳払いをすると、端的に言った。

 

「比企谷が悪い。この一言に尽きる」

「どういうことかしら」

「話せば長くなる。が、これは比企谷の生き方の問題なんだ。天の邪鬼で、斜に構えればカッコいいとか思っちゃっているあいつが原因そのものというわけだ。だけどね、雪ノ下さん。あいつを責めないでやってくれ。本当に、それはもう本当にかあいそうなやつなんだから」

 

 私は話していて、思わず落涙しそうになった。中学の頃の彼の話は、誰しも涙なしにはとうてい拝聴などできやしない。ちなみに私は笑い転げた。

 

「だからね、雪ノ下さんが気に病む必要はないぜ。由比ヶ浜さんが優しすぎて、そしてやつがひねくれすぎているだけなの。これから誕生日プレゼントを買って、明日渡してきちんと謝れば、それでおしまいだと思う。由比ヶ浜さんは優しいからね」

 

 二人の不和のきっかけとなった交通事故に言及するのは控えておくことにした。話すのが面倒だったし、きっかけはきっかけでそれ以上でも以下でもないと思ったからだ。あくまでも人間関係をこじらせるのは本人たちの性分である。交通事故なんぞ、ほとんど関係がないといえる。

 

「……そう。なんだかよくわからないけれど、比企谷くんが原因と言われれば納得できる気はするわね」

 

 私は大きく頷いた。そして、日ごろ思うところを述べてみた。

 

「うん。あのぬめっとして澱んだ淵みたいな目を見れば、考えなくてもわかるね。俺だって、この数ヶ月で明らかにスポイルされてるんだ。それでも、仲違いせずやってこれたのは、俺の深甚なる気配りにほかならない」

「……えっと、それは笑うところかしら」

「ん?」

「あなたはもとから台無しじゃない。以前はまともだったみたいな言い方はよしてくれる。癇に障るわ。それに気配りなんてしているところを見たことがないのだけれど。あなたみたいな無神経で不器用な人間は、世界広しといえどふたりと存在しないでしょう。嘘を吐くのはやめなさい、閻魔様に舌を抜かれるわよ」 

 

 私は呆気にとられた。なんという様変わりだ。先ほどまでの控えめな態度はなんだったのか。おそるべし、雪ノ下雪乃。とはいえ、さすがにこうまで言われて黙っていては男が廃る。私は低く呟いた。

 

「……舌を抜くのは地獄の鬼であって閻魔様じゃない。そして俺は地獄へはいかない。なぜなら日々徳を積んでいるからだ。だいたい雪ノ下さんこそ――」

 

 話すうちつい熱くなって日ごろの鬱憤を晴らそうと躍起になりかけたが、雪ノ下さんの端整な顔に青筋が入りかけているのを認めるに及んで、私は冷や水を浴びせ掛けられたように意気消沈した。

 雪ノ下さんは、「私がなあに?」とやさしげな猫なで声で問うている。私は戦慄した。これは危ない、と直感が叫んでいる。

 

「いやいや、なんでもないんです。徳を積むことにかけては誰よりも雪ノ下さんが、お得意ですからね、ヘヘッ……。とにかく、とにかくだ。部長として心配する気持ちもわかるけど、雪ノ下さんは部長らしくどおんと構えていればいいよ。明日にはもとの奉仕部に戻っているはずだから。いつものように由比ヶ浜さんを迎えて、それで盛大に祝ってあげよう。そうだ、そうしよう」

 

 いかにも無理がある締めくくり方であったが、雪ノ下さんはしばし顎に手を添えて考え込んだのち、ありがたいことに目じりを下げて、「そうね」と笑った。私はほっと嘆息した。

 雪ノ下さんの機嫌も直り、危惧も解消させたところで、我々は何気なく見つめあっていたが、どちらともなく再び本を取り出した。

 

 しばらく読書の時間が続く。カランとアイスティーの氷が小気味よく鳴った。

 活字を追うのに疲れた私は、ふうと息をついて窓硝子の向こうを走っている車を眺め始めた。ふいに楽しかった昨夕の通話が脳裏に蘇ってくる。そういえば、と私は思った。そうしてほとんど無意識に口を開いた。

 

「そういえばさ、比企谷とふたりで出かけてたらしいね。犬だか猫だか動物を見に」

 

 アイスティーを飲んでいた雪ノ下さんは、むせてあからさまに動揺していた。落ち着くと目を見開いて言った。

 

「たまたま会っただけよ。それよりどうしてあなたが知っているの」

「由比ヶ浜さんに聞いた」

「……なるほど。そういうこと」

「あのさ。まさかとは思うけど、比企谷と交際しているなんてことは――」

 

 にわかに雪ノ下さんはおそろしく冷たい目をした。私はうろたえて、「あるわけないよね」とお茶をにごす。

 

「いくらなんでも侮辱が過ぎるわよ。もしかして宣戦布告なのかしら」

「滅相もないです」

「まったく」

 

 雪ノ下さんは糸のように目を細めて眼力を漲らせていた。一旦は終息した修羅場が再度もちあがりかけ、私は焦った。すぐさま心ない言葉を詫びる。雪ノ下さんは、「本当に阿呆ね」と嘲ってから、意外そうに言った。

 

「あなたでも、そういうこと、気になるのね」

 

 気になっていたのは私ではないのだが、誰がとは言えないので黙っていた。

 私は由比ヶ浜さんの杞憂を思った。そもそも、なぜ由比ヶ浜さんは比企谷と雪ノ下さんが交際しているなどと考えたのだろうか。休日に二人で会っていたからといって交際しているとは、やや短絡的である。だいいち、交際していたからといって、どうということもないではないか。それとも、どうということがあるのだろうか。あるとすればなんだ。だめだ、検討もつかないし、なんだか混乱してきた。考えるのがじつに面倒である。

 時計に目をやると集合時間が迫っていた。私は思考を中断して、立ち上がる。

 

「そろそろ時間だ。行こう」

 

 伝票を取って会計に向かうと、雪ノ下さんは私を引き止めて、「いくらかしら」と尋ねた。私は男らしく、「奢るよ」と格好つけたが、にべもなく一蹴されてしまった。

 

「あなたに奢ってもらう理由がないわ、結構よ」

 

 小柄で可愛らしいウェイトレスの前で恥をかかされたかたちの私は、「んふっ」という我ながら気が滅入るような汚らしい声を漏らして、颯爽と店を出て行く雪ノ下さんの後を追った。

 憩うために入った喫茶店で、なんだか機嫌取りばかりしていたように思い、私はドッと疲れていた。

 




誤字、脱字の訂正をしてくださった方に、この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。非常に助かりました、どうもありがとうございます。
今後、このような不手際がないよう校正に励みます。

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