奉仕部と私   作:ゼリー

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第十五話

       ◇

 

 比企谷たちもすでに贈り物を購入したらしい。我々は、そろそろお開きを念頭に入れながら、なんとはなしにショッピングモール内をぶらついていた。

 目的を遂行したからには、こんな風紀紊乱の場にことさら残る必要もなく、早々に自宅へとんぼ返って猥褻文書でも紐解きたかったのだが、誰も「帰ろう」の一言を発さないので、いたしかたなく私は集団の殿を務めながら歩いていた。

 ふいにどこからか、「雪乃ちゃん」と呼ぶ声が聞こえてきた。我らが部長を気安く下の名で呼ぶものは誰ぞと、私は首をめぐらせた。

 私はそのとき、半径数メートルをきらきらと輝かせながら走り寄ってくる妙齢のご婦人を見た。否、見とれた。あまりにも美しかったからである。

 

「あっ、やっぱり雪乃ちゃんだ」

 

 名前を呼ばれた雪ノ下さんは、声のしたほうへ振り返ると、「ねえさん」と言った。ねえさん、つまり姉さん。あの美しいご婦人は雪ノ下さんのお姉さんであった。

 私は、にこにこと笑みを浮かべて雪ノ下さんの隣に立ったお姉さんを、舐めまわすように、しかしあくまでも紳士的にしげしげと眺めた。肩の上までの短めに整えられた黒髪はさらさらで、雪ノ下さんと同様に肌は白磁のように白かったが、いくぶん健康的な色合いを帯びていることを私は見逃さなかった。大きく悪戯っぽい目をしており、それは活発さを内包してプリズムのように光を反射している。鼻は小ぶりだがすらりとしていて、唇はほのかに色づいていた。それら各パーツは、収まるべきところに収まり見事に均整が取れている。どう見ても端麗な女性といわざるをえないが、同時に私は、彼女に戦国武将の妻のような意志の強さや気魄といったものを感じていた。

 雪ノ下さんのお姉さんは、自らを雪ノ下陽乃(はるの)と名乗った。これ以後、雪ノ下さんのお姉さん、といういかにも他人行儀な記し方は控えて、便宜上、陽乃さんで統一することにする。ご留意願いたい。

 さて、陽乃さんの隣でなぜかむすっとした様子をしている雪ノ下さんは、お役所仕事のように我々を紹介した。陽乃さんは顎に親指と人差し指をあてながら、頭の天辺からつま先にいたるまで、ひとりずつ品定めするように我々を見てゆく。大事な妹に関することであるから、その学友を仔細に点検するのも当然であろう。私は居心地の悪さを感じながらも、明治百五十年の男にふさわしい態度で微笑んだ。

 そのうち評価が済んだのか、陽乃さんは大きく頷いた。

 

「ふぅん、そっか。うん、みんなよろしくね」

 

 陽乃さんは我々を近くのベンチへ誘った。なにか少し話すつもりらしい。

 我々は男男男女女という具合に並んで座ったわけだが、なにゆえか私は一番端であった。隣は材木座である。これでは陽乃さんと話をするどころか、ほとんど見ず知らずの他人ではないか。いや、たしかに他人で間違ってはいないのだが、これから親睦を深めんとする端緒がこれでは、いかにも幸先が悪い。下手をしたら、明日には忘れられている位置である。これは是非とも、積極的に声をあげていかねばなるまい。

 いったいなぜ同級生の姉と親睦を深める必要があるのか自分でもよくわからないが、おそらく陽乃さんが美人であることと、ガラスケースに閉じ込められているという妄想の二つが関係しているように思われた。

 

「もしかして、比企谷くんは雪乃ちゃんの彼氏だったりして」

 

 陽乃さんは唐突にそんなことを言い出した。そうして、「言っちゃえっ、言っちゃえっ」と比企谷の頬をつんつん触っている。私は思わず、「アッ」と小さく声を漏らした。妖怪ひねくれ小僧の顔なんて触ったら不治の病になってしまうというのに、命知らずな人である。ともあれ、内面の醜さが染み出て周囲の空気を澱ませるに至る比企谷に対して、分け隔てなく接しているというのは、圧倒的な度量の大きさを示していた。これは戦国武将の妻というより、戦国武将そのものと言っても差し支えあるまい。私はますます興味が湧いてきた。なにより美人である。

 

「いえ、違います」

「そんなこと言っちゃって。うりうりぃ、本当はどうなの、どうなの」

「姉さん、彼はただの同級生よ」

「そうです。本当に彼氏とかじゃないですから」

「またまたぁー。そんなムキになっちゃって、怪しいなあ」

 

 瞬間、私は体を傾けて身を乗り出していた。何事かと材木座が迷惑そうな視線を向けてくるが、そんなことは打っちゃっておく。事態は急を要していた。事実、比企谷の肩に陽乃さんの胸のふくらみがおしつけられていたのである。では、私が身を乗り出したのはそんな破廉恥を指摘するためか? 答えは否である。そんな無粋なことはしない。それでは、ただ比企谷が興奮するだけではないかと諸君は思うだろう。これまた否。私には見えていたのである。何が? そんなもの、胸に決まっている。

 私は、蒸し暑い季節にぴったりの薄着で大胆な衣服からちらりとのぞく、陽乃さんのロマンの谷間を血眼になって凝視した。こんなに集中してものを見たのは、年度明けの視力検査以来である。あまりに熱烈な視線を送りすぎていたので、少し経って陽乃さんが体を離したのは、そのせいではないかと危ぶまれたが、材木座の無駄に幅広い体が功を奏したようで気づかれることはなかった。

 ロマンの谷間を見失った私は、何事もなかったかのように居住まいを正した。そしてふぅ、と息をつく。これは今夜が楽しみだ。大いに捗ることだろう。

 私が福々とした笑みを浮かべて来る夜伽に妄想を膨らませていると、突然、陽乃さんが胸をそらすようにして立ち上がった。ひどく神々しかった。

 

「比企谷くん。雪乃ちゃんの彼氏になったら改めてお茶、行こうね」

 

 そう言うと、「じゃまたね」と元気よく別れの言葉を述べて陽乃さんは手を振った。そのままくるりと踵を返して走り去っていく。私は呆気にとられて、ぽかんと口をあけたままその姿を見送った。嵐のような人だった。

 

「え? いったい何があったの」

「我にもわからん」

 

 材木座はまっすぐ虚空を見つめていた。目じりの筋肉がわずかに痙攣していて、口は半開きになっている。これは己のキャパシティを超えたときに、材木座がよくする顔だった。

 こいつに尋ねても仕方ないと思い、私は比企谷と雪ノ下さんへ視線を移した。

 

「お前の姉ちゃん、すげえな」

「姉に会った人は皆そう言うわね」

「だろうな、わかるわ」

「ええ。容姿端麗、成績最高、文武両道、多芸多才、そのうえ温厚篤実……およそ人間としてあれほど完璧な存在もいないでしょう。誰もがあの人を誉めそやす……」

「はぁ? そんなのお前も大して変わらんだろ。遠まわしな自慢か。なあ?」

 

 ふいに比企谷が私と材木座に話を振ってきた。陽乃さんと彼らの交流から、半ば自業自得とはいえ疎外されていた事実はさりとて一旦置いておき、私は素直な感想を述べた。

 

「温厚篤実っていうのはどうだろう」

 

 材木座もかすかに頷いた。

 

「お、おい。そこは肯定しろよ。ま、まあ、あれだ。とにかく俺がすげえっつってんのはあの、なんだ? 強化外骨格みてぇな外面のことだよ」

「ちょっと待て。そもそも君たちはいったい何の話を――」

「お前の姉ちゃんの行動――」

 

 比企谷は私の発言を言下に制して、雪ノ下さんのほうを向いた。

 

「あれは、モテない男子の理想みたいな女だよな。気軽に話ができて、人当たりが良くて、いつもにこにこしていて俺とも普通に話そうとして、あと、その……スキンシップが過剰というか、感触が柔らかいというか」

「この男、最低なことを言っている自覚はあるのかしら……」

「てめえ、最低だなコノヤロウ。死んで詫びろ」

 

 発言を流された私は怒りに任せて雪ノ下さんに同調した。

 

「ば、ばか! お前ら、あれだ、手だよ手! 手の感触!」

「ダウトだ。お前はたしかに陽乃さんの胸部の感触を楽しんでいたはずだ。見ていたからわかる。ただちにくたばれ」

 

 雪ノ下さんを筆頭に、私と材木座から注がれるありったけの軽蔑の視線を受けて、比企谷はしばし、うごうごとなにやら呟いていたが、気を取り直したのか声高に言った。

 

「ともかくだ。あれは理想であって現実じゃない。だからどこか嘘臭いんだよ。俺はあんな詐術に引っかかったりはしない」

「どの口が言ってんだよ、桃色魚眼野郎」

 

 私はそう辛辣な言葉を浴びせ掛けてやったのだが、なにやら雪ノ下さんは感心しているようであった。

 

「腐った目でも、いえ腐った目だからこそ見抜けることが、あるのね」

「お前、それ褒めてるの?」

 

 どう検討したとしても貶しているとしか受け取れない言葉である。しかし、雪ノ下さん的には絶賛したらしい。大いなる謎だ。またひとつ雪ノ下さんの神秘性が増した。

 それから雪ノ下さんはふいに遠い目をして、不機嫌そうに語りはじめた。なんでも陽乃さんは長女ということで、家の都合から多種多様な挨拶回りやらパーティーやらに連れ回されてきたそうだ。それは今も続いているらしく、世を遍く照らし出すようなあの笑顔も人当たりの良さもすべて、長年の社交術で作り上げざるをえなかった仮面なのだという。つまり、偽物ということになるらしい。

 私は陽乃さんの顔を思い出してみた。脳裏にちらつくロマンの谷間を追いやって、美しい容貌を思い描く。しかし、戦国武将のような凄烈さはあったものの、私にはそれが仮面を被った顔のようには思われなかった。もしかすると、人生経験の浅薄さが原因でそう感じるのかもしれないし、尚且つ早く帰りたかったので、私は異議を唱えることはしなかった。

 

「帰りましょうか」

 

 しばらくして雪ノ下さんが言った。我々は皆頷く。

 ベンチから腰を上げると、比企谷は携帯電話を取り出した。

 

「俺、小町と合流して帰るわ」

「我も寄らねばならぬ所があるゆえ、これにて御免」

 

 現地解散となり、二人は早々に人混みの中へ消えた。私も、「それでは失敬」と雪ノ下さんに別れを告げて帰途に着いた。

 商業施設から外へ出るとすでに日が暮れる頃だった。空はうっすらと紺色に染まりはじめている。私は手に提げた由比ヶ浜さんへの贈り物を一瞥すると、鼻歌を口ずさみながら駅の改札を抜けた。

 

       ◇

 

 発車のベルが鳴って、ちょうどプラットホームへの階段を上がってきた雪ノ下さんが電車に乗り込んできた。彼女は私を発見すると、露骨にぎょっとした表情を浮かべたが、すぐに取り澄まして近づいてきた。我々はつり革に掴まって並んだ。車内は混んでいる。

 たっぷり一駅分、無言を貫いていた我々は、やがて、どちらからともなく贈り物についての批評をはじめた。雪ノ下さんはエプロンを購入したらしい。私は得意げに手提げ袋を叩いた。

 

「狸の目覚まし時計さ」

「……狸?」

「そう、狸。お腹のところが時計になってるの。もう抜群にかわいいよ」

「ちょ、ちょっと見せてくれないかしら」

「駄目に決まっているだろう。なに馬鹿なことを言ってるの」

「そ、そうよね。ごめんなさい……――あなた、馬鹿とは失礼じゃない」

「え。あ、ごめん。つい」

 

 電車が揺れる。

 過ぎ去ってゆく町には夜の帳が降りていた。黒々とした車窓には車内灯に照らされた私と雪ノ下さんの姿が映っている。停車するたびに、乗客たちが入れ替わり、やや車内が広くなる。

 私は気になっていたことを尋ねた。

 

「そういえば、さっきお姉さんとは何の話をしていたの?」

 

 雪ノ下さんは片眉を寄せて首をかしげた。

 

「隣にいたのよね」

「……血糖値が下がっていて、ぼおってしてたんだな、多分」

「糖尿病?」

「ちがう」

 

 雪ノ下さんはため息をついた。我ながら、あまりにもぶざまな言い訳だと思った。

 

「別にたいしたことは話していないわ」

「へ、へえ。ちなみに、俺の話とかは出た?」

「いいえ、まったく」

「あ、そう」

 

 私は少なからず落胆した。

 いやしくも奉仕部の一員であり、雪ノ下雪乃の下で部活に励んでいる身の私に、お姉さんである陽乃さんが興味を持つのは当然と考えていたが、どうやら当てが外れたらしい。私はもっぱらロマンの谷間に執心していたことを悔やんだ。そして、やたらと話しかけられていたらしい比企谷を恨んだ。

 また電車が揺れる。

 

「あなたには――」

 

 雪ノ下さんは、鏡のような車窓に目を向けたまま言った。

 

「姉さんはどう映った? 比企谷くんは、ああ言っていたのだけれど」

「無類の美女」

 

 私は即答した。

 

「ちょっとお目にかかれないレベルの美しさだね、あれは」

「外見の話をしているのではないわ」

 

 雪ノ下さんが目を細めて、車窓に映る私を睨んでいた。私は慌てて言う。

 

「そもそも俺は会話してない。けど、性格は良さそうだ。なんと言っても比企谷にためらいなく関われるくらいだからね。分け隔てない度量の大きさを示していると言える」

「比企谷くんがどういう人間なのか知らないのだから当たり前でしょう。姉さんは誰に対しても初めは、ああなのよ。初めはね」

 

 雪ノ下さんは最後の言葉を強調した。

 

「ずいぶん含みがあるね。仮面とかなんとか言ってたけど、なんなのそれ」

 

 比企谷は、雪ノ下さんと陽乃さんでは笑った顔が全然違う、とわけのわからぬことをぬかしていたが、私にはそれこそ全然違いがわからなかった。顔が似ているのはもとより、どちらとも魅力的である。それだけで十分ではないか。美しい笑顔は鬱々とした青春を彷徨う男たちにとって、寒い冬に浸かる温泉に匹敵するということは広く知られている。要するに、半端ではない癒し効果があるのだ。

 

「そのままの意味よ。わからないかしら? 外面はどこまでいっても外面でしかないの。底が見えない――いえ、底を隠している人を……華のような外面で自己を欺瞞している人を、私は……」

 

 雪ノ下さんはそこで口をつぐんだ。

 私は自身の見解に疑念を差し挟む余地を認めていなかったので、率直に述べることにした。少し詭弁ぽく聞こえるが、まあいいだろう。

 

「しかしだよ、外面を含めてお姉さんそのものなわけだよね。まず自己を欺瞞しているという考えが良くない。かりにあれが仮面だと言うのなら、その仮面は、お姉さんが種々様々な経験を通して長年培ってきたものなんだ。そしてそれは、本心から形作られたものであるはずだよ。だって、仮面を作ったのは彼女自身なんだから。つまり、考え方によっては外面もお姉さんの本心の一部と言えるわけだ。そう易々と否定する気にはなれんな。凄いと思うよ。並々ならぬ努力の上に獲得した外面なんじゃないかなあれは。いや、まったく、ほんと凄いよ。なにより美人だよ。笑顔が素敵だね、お姉さん」

 

 これは、必要以上に陽乃さんを擁護して、間接的にでも自分の株を上げようとか、そんなふうに目論んだわけでは断じてない。あくまで雪ノ下さんが陽乃さんに対し、私という存在を評するときのための便宜を図っただけである。ありのまま伝えてくれればそれでいい。他意は毛ほどもないのだ。本当である。

 ともかく、私が滔々と語っているうちに、刺々しい視線がわが顔面表皮を襲っていることに気がついた。乾いた唇を舐めて、おそるおそる首を回すと、雪ノ下さんと目が合った。とてつもなく怖い顔をしていた。般若面もかくやと思われる形相である。私は一瞬、この肌の白い美しい般若面に抹殺されるのではないかと慄いた。

 ところが雪ノ下さんは車窓のほうを向いて俯いただけであった。私はほっと息をつく。

 

「……そういう考え方もあるのね」

 

 ――だけどやっぱり私は、と雪ノ下さんは悲しげに目を伏せた。それがあまりにも儚く見えたので、私は虚を突かれたように沈黙してしまった。何かまずいことを言ったのであろうか。だが、思い返せば雪ノ下さんと話していると、以前からまずいことしか言わなかったような気がしてくる。だいたい、あの奉仕部にいる人間はまずいこと以外口にしないではないか。いまさら私がまずいことを言ったところで、おあいこである。

 馬鹿馬鹿しい。私はそう思って、一切その場の空気など読まず、さらにもうひとつ気になっていたことを尋ねた。

 

「お姉さんは、彼氏がどうとか言っていたけど、あれはなに。もう一度聞くけど比企谷とはやはり」

 

 ロマンの谷間に没入していた私は、陽乃さんの話していた内容について、比企谷と雪ノ下さんが交際しているという憶測しか耳にしていなかった。これだけ近々にその類の話を幾度も聞かされれば、由比ヶ浜さんの疑いを短絡的だと一笑に付すわけにもいかぬ。むろん、比企谷という人間が、誰かと交際するという驚天動地の奇怪事が起こるとは思わないし、思えるわけがない。しかしながら、その可能性が示唆されている時点で、私としては胸中穏やかではないのである。いくらなんでも不条理だ。

 雪ノ下さんは、先ほどまでの悲嘆に暮れる乙女のような面持ちを一変させた。その瞬間、愚問だったと悟った私は、罵詈雑言が飛んでくることを見越して、きわめて冷静に非礼を詫び、すかさず話をそらすことにした。

 

「じつを言うと、由比ヶ浜さんがそんなふうに誤解しているみたいなんだ。ほら、君たち二人がなにかのイベントで偶然、彼女に出会ったときにさ。まあ、俺はちゃんちゃらおかしいよって念を押したんだけど、いかんせん多感なところあるじゃない由比ヶ浜さんという人は」

「……そう、由比ヶ浜さんが」

「うむ。昨日ちょっと電話で語り合ったんだけどね――」

 

 私は電話で語り合った、という部分をさも得意げに言った。

 

「そこのところを、いやに気にしているみたいだった。なぜだろうね。心当たりはある?」

「……ううん、とくにないわ」

 

 雪ノ下さんは顎に手を当てて真剣に考え込むと、頭を振った。どうやら彼女の怒りをうやむやにできたようだ。私は安堵して、「そうかい」と返事した。

 最寄りの駅が近づいている。我々はふたたび沈黙した。雪ノ下さんはまだ何か考え込んでいるようで、観世音菩薩のような半眼を車窓に映して蕭然としていた。

 

「……由比ヶ浜さんは喜んでくれるかしら」

 

 やがて彼女はそう言った。

 私は何気なく返す。

 

「さあ、わからん。雪ノ下さんはどう思う」

「わからないわ。ずいぶん一緒の時間を過ごしてきたと思っていたのだけれど……彼女が喜ぶものひとつ満足に選べないなんて……私、なんにも知らなかったのね」

「エプロンだっけ」

「ええ」

「桃色の」

「そう」

 

 ポケットのいくつもついたピンクのエプロン姿をした由比ヶ浜さんを想像してみる。文句のつけようがない、垂涎ものの光景だ。是が非でもその姿を拝見したいものである。

 

「比企谷くんに助言してもらったの。私一人だとあまりに心許ないから」

「え? あいつが桃色選んだの? それは最高に気持ちが悪い」

 

 だがいい判断だ、と私は比企谷の性癖にそっと感謝した。

 

「よくよく考えてみると、あなたの言うとおり、最高に気持ち悪いわね。なんのつもりかしら彼」

「ピンクを選ぶあたり筋金入りのヘンタイだよ。しばらく距離を置いたほうがいいかもしれない」

「そうね」

 

 雪ノ下さんはふふっと目じりを傾けた。なぜだか物憂げになりかけていたようだったが、今は笑っている。そちらのほうがよほどいい。

 ――どうもありがとう、君の実直な変態的所業のおかげでひとりの少女が笑顔を取り戻したよ。私は同じ夜空の下の比企谷を想った。

 

「それはともかくとして、――喜ぶかはわからないけど由比ヶ浜さんにぴったりだと思う、そのエプロン」

「……うん、私も、そう思うわ」

 

 雪ノ下さんは微笑みながら小さく呟いた。

 

「まあ、この狸時計よりは劣るだろうけどな」

 

 

 それから我々は、最寄りの駅に到着するまでいろんなことを話した。雪ノ下さんの舌鋒は鋭く研磨されており、ご機嫌が平生と変わらぬ調子に戻ったことをありありと物語っていた。私は、落ち着き払って容赦ない言葉を吐く彼女に苦笑いで追従し、ときにおだて、ときに黙殺し、ついには反駁して、できればちょっと黙っていてくれないかなと思ったりした。

 

「……参った参った、降参だよ。たしかにバンさんは可愛らしいよ」

「パンさんよ、二度と間違わないでちょうだい」

「どっちだって一緒じゃないか」

「あなた馬鹿? 濁音と半濁音の違いが理解できないなんて、文明人の面汚しね。もしかして濁音でしか会話しない未開の地から――」

 

 

 駅の改札を出ると、初夏のなんともいえない生ぬるい微風が我々を包んだ。

 私はやれやれと夜空を仰いだ。腰に手を当ててぐっと伸びをする。ちくしょう、星のひとつも見えやしない。相槌製造機と成り果てて疲弊した私に、労いがてらひと明滅くらい奮発してくれてもよさそうなものなのに、なんとすげない恒星たちであろうか。

 

「帰りましょう」

 

 雪ノ下さんが言う。ようやくお役御免である。

 

「うむ。では、俺はこっちだから」

「私も、そっちよ」

 

 おそらく私はげんなりとした顔をしたのだろう。雪ノ下さんは「失礼な顔ね。汚らしいからしまいなさい」と言った。私は頬を引き攣らせ、丁重に返事した。

 

 そうして我々は、ひたすらに不毛な会話を繰り広げつつ、長い長い家路に着いたのだった。

 

 

 


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