奉仕部と私   作:ゼリー

16 / 35
第十六話

       ◇

 

 深夜、ひとり布団の上に寝転がっていると猛烈な緊張感に襲われた私は、いそいそと携帯電話を取り出してメールを打つことにした。

 

 『プレゼントを渡すときどんな顔をすればいいんだろう。

  やっぱり笑ったほうがいいのかしら。かりに笑うとしたら、微笑みかな。それとも満面の笑みかな。

  全然わからない。おまえはどんな顔をするつもりだ』

 

 思えばこの世に生を受けて十七年、私はいまだ誰かに贈り物をしたことがなかった。そもそも贈り物を渡す相手がいなかった。さらにいえば贈り物を渡せるような交友関係すら築いてこなかった。だから当然、私は贈り物の作法を知らぬ。

 贈り物は何を渡すかではなく、いかなる気持ちが込められているかが重要であると人はいう。したがって、贈り物を渡す瞬間がなにより大事になってくる。そこにすべてがかかっているといっても過言ではない。下手に渡そうものなら、贈り物は贈り物としての役割を全うせず、相手に不審を植え付ける種と化してしまうだろ。むやみに愛らしい狸時計が、無残にも打ち棄てられ、ゴミ収集車に回収される未来など私は望まない。これは真剣に考えねばならぬ問題だ。

 ああ、不安でたまらない。どう渡したものか。笑えばいいのか。何気なく無表情でいいのか。はたまた、恋する乙女のごとくほんのりと頬を朱に染めればいいのか。いやいや、それではまったく変態的すぎる。そんな気色の悪い贈り方をしたら、問答無用でゴミ置き場行きだろう。おまえはいったい馬鹿なのか? 恥を知るがいい。私は猛省して、ふたたび考え込んだ。しかしいくら頭を捻っても、いっこうに答えは出ない。これはもう潔くメールの返信を待つべきだろう。いささか自尊心が傷つくこともあろうが、ことここに至っては仕方あるまい。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥という言葉もある。

 

 そして悶々と待つこと数十分、ようやく比企谷から返事が帰ってきた。テストの解答を確認するかのように胸をざわめかせながら、スマートフォンのディスプレイを覗き込む。

 

『普通の顔』

 

 普通って何だ、と私は思った。

 

       ◇

 

 その日の授業をすべて終えた私は、とたんにがやがやと騒々しくなる教室を眺め回して由比ヶ浜さんの姿を探した。教室後方へ視線を向けると、案の定、女王蜂に群がる昆虫類のただなかに彼女の姿を認めた。隣には葉山君もいる。週明けの気だるい月曜の放課後にもかかわらず、彼はいつものすがすがしいアルカイックな微笑を湛えて、泰然としていた。見習わねばならないと私は背筋を伸ばして、視線を廊下側へ移す。

 いた。瘴気を撒き散らすこと夥しく、世間と隔絶されること仙人のごとき正真正銘の無頼漢、比企谷八幡大先生である。先生、今日も今日とてお馴染みの狸寝入りを敢行して少しも恥じるところがない。とうの昔に授業は終わっているというのに、微動だにせぬその厚顔無恥な姿勢はまったく見習うべきところがなかった。これから一大事が待ち受けているにもかかわらず、相変わらずの先生である。もうそのまま日が暮れるまで寝てればよいと思った。

 しかし、私は眦を決する。由比ヶ浜さんがやってくる前に、先生を起して部室へ向かわねばならない。待ち構えてこそのサプライズである。贈与の際の顔について、なんら満足のいく結論を出せずにいたが、もはや時間切れ。なるようにしかならないと腹をくくって私は席を立った。いざ、ゆかん晴れ舞台。

 

「ちょっと、あんた。私ら日直だよ」

 

 抜山蓋世、意気揚々と一歩を踏み出した直後、背後から不躾な声が飛んでくる。私は立ち止まって振り返り、歌舞伎風に声の主を睨みつけてやった。

 

「日直。なに帰ろうとしてんの。仕事しな」

 

 銀狼が切れ味の鋭い眼光を漲らせていた。私はやや狼狽して、小さな声で呟く。

 

「急いでるん、ですけど」

「あん? 知らないよそんなこと。日誌は書いとくから、黒板きれいにしといて」

 

 私は、やむを得ず黒板消しを引っ掴むとあらあらあらという間に微積分という謎の理論を親の敵のごとく消し去った。高校生を無用の苦しみに落とす公式が消えて、晴れ晴れとした面持ちでクリーナーに黒板消しを当てていると、ふたたび銀狼から声が飛んでくる。

 

「雑すぎ。ちゃんと消しなよ」

「だから忙しいんだって」

「あんたが忙しくしているところなんて、見たことないけど」

「今まさに、そうだ」

 

 川崎さんは舌打ちすると、席を立って黒板消しを手に取った。どうやら日誌は書き終わったらしい。チョークの跡を丹念にこれでもかとばかりに消していく。乱れた服装に有無を言わせぬ豪気な態度と、人目を気にしない大胆な性格を有している彼女は、ちっとばかし汚れていたっていっこうに構うまいという恬然とした女性であろうという大方の予想に反し、なかなか潔癖な女性であった。

 感心してふむふむと川崎さんの仕事ぶりを眺めていると、ひょいと肩を小突かれる。

 

「ぼさっとしてないで手伝いなよ」

「あ、うん」

 

 見事なまでに在りしときの姿を取り戻した黒板を見て、私は言った。

 

「川崎さん、じつはキレイ好きなんだね」

「はあ? ……べつにいいでしょ、わるい?」

「いや、全然。さぞかし、おうちもキレイなんだろうね」

「……まあね。だってそっちのほうが気持ちいいじゃん。あんたは掃除とかしなさそう」

「やだなあ、見損なわないでくださいよ。年に一度の大掃除は全力さ」

 

 川崎さんは目を見張って驚きを露にしていた。それから、なぜか呆れたように笑った。

 

「やっぱり阿呆だね」

「誰が。川崎さんが?」

「バカ。あんたに、決まってるでしょ」

 

 私は肩をすくめた。これだから女子というやつは困る。いきなり人を小馬鹿にしてくれちゃって、まったく手に負えない。おっと、こんなことをしている場合ではなかった。私は川崎さんから視線をはずすと、教室を一望する。すでに比企谷はおろか、由比ヶ浜さんの姿すら見当たらなかった。まずい状況である。

 

「もう仕事はない?」

 

 私は勢い込んで川崎さんに尋ねた。

 

「ええっと、うん、ほとんどね。なにあんた、ホントに急いでんの?」

「だからそう言ってるじゃない」

「あっそ。じゃあ日誌は私が職員室に持ってっとく。ほら行きなよ」

 

 私は漢気溢れる川崎さんに一礼した。この借りはいつか必ず返すと胸に誓って、男らしい背中を見せる彼女に男らしく別れを告げた。

 

「さらばだ、銀狼」

「あ?」

 

 私は逃げるように教室を後にする。

 

       ◇

 

 青春の路頭に迷うこと幾星霜、不遇をかこついわれはこれっぽちもないはずの未来ある若人が、なにゆえここまで辛酸を舐め続けてきたのであろうか。まことに人生とは端倪すべからざるところがあり、一寸先は闇とはよく言ったものである。みるみるうちに閉ざされていく栄光の扉を前にして、ひとりぽつねんと気焔を吐いていた私は、まったく幼子のように純粋無垢であった。

 おそるべき速度で手に手を取り合う生徒の群れに、限りなく正当性を欠いた理由から唾を吐いていた私であるが、いざ孤立の寒々とした味を知ったそのときから、助けを乞うでもなく、あえて一大自虐パノラマをほしいままにしてきたのはいったいぜんたい何のためであるか。

 理由はたしかにあった。誇りはたしかにあった。沽券は信条は矜持は夢破れた悔恨は、たしかにあったのだ。それはもう有り余るほどに!

 だがしかし、言ってしまうぞ、いいか諸君。

 私はもう、振り返らない! そんな暇は犬に喰わせてやる!

 苦節をともに歩んできたこの魂も肉体も満身創痍であり、限界はすぐそこまで来ていた。君はじつによく耐え抜いた。もはや報われてしかるべき。お天道様はしかとみていらっしゃったのだ。なむなむ!

 

 目的地とは真逆の方角へ全力で走ってきた印象が濃い、そんな月日の総決算。ついにこのときがやってきたのだ。赤面請け合いの一大イベント。そう、女子にプレゼントを渡すその瞬間が――。

 

       ◇

 

 深呼吸を繰り返しながら、努めて「普通の顔」を意識して部室を目指す。

 急ぎ足で向かったが、途中、心を落ち着かせるためグラウンドでのびのびと蹴球に励む生徒たちの姿を眺めたりした。ようやく私も彼らと同じ土俵に立つのだと思えば感慨もひとしおである。青春とは放課後の部活動とみつけたり。硝子に囲まれた部屋に大型肉食獣だと? そんなものはしらん。俺は霊長類だ。

 廊下の角を折れると、奉仕部室の前に人影が見えた。

 にわかにきゅっと股間がすくんで、私はその場に呆然となった。しかし、すぐに気を取り直して部室へと歩き出す。もう何年も特別棟で彼女の姿を見ていないような気がした。

 

「やあ、来たね。由比ヶ浜さん」

「うひゃあ! び、びっくりしたあ……」

 

 由比ヶ浜さんはお化けと遭遇したかのような驚嘆をもって私を迎えた。

 

「やっ、やーその、えっと、うん。来たよ」

「みんな喜びますよ。じゃ、入ろうか」

「ちょ、ちょっと待って! 深呼吸させてっ」

「どうぞ」

 

 失礼にあたる、否、それだけでは済まず全校中の侮蔑の対象になりかねないと頭では理解していても、呼吸するたび上下する由比ヶ浜さんの胸のふくらみから、私は目をそらすことができずにいた。はっと冷静になって視線を動かすと、由比ヶ浜さんはまだ深呼吸している。ジョニーの不穏な蠢動を感じた私は、禅僧のごとく壁に向かって色即是空とは何かを考えることにした。

 

「ごめん、もう大丈夫……だと思う」

 

 私はむっくり振り返る。

 由比ヶ浜さんの顔色はすぐれなかった。「あはは」と、とってつけたように笑っていたが、八の字に寄った眉が愉快な気分ではないことを明白に物語っている。敷居が高いと感じているらしく、部室への一歩を踏み出そうとしない。

 不憫に思うと同時、私は心の中でほくそ笑んだ。もうすぐ、比企谷に対する引け目や同情、あるいは部室の雰囲気を壊すという危惧のすべてが解消され、尚且つ彼女の奉仕的精神が報われることとなるであろう。

 私はドアの隙間から部室内を覗き込む。いつもの席に比企谷と雪ノ下さんが腰掛けて、それぞれ本を読んでいた。傍から見ると異様な光景である。お通夜でもやっているのかなと疑りたくなるような、しんみりとした雰囲気が芬々とドアの隙間から香ってくる。気味が悪いことこの上ない。平生は自分もあの場所に席を設けているのだと思えば、一瞬、何が悲しくてこんな部に所属しているのだろうと、根本的な問題に触れそうになった私は慌てて振り返った。

 

「よし、入ろう」

「……うん」

 

 私はドアをがらりと引いて、「どうもこんにちは」と言った。

 

「諸君、由比ヶ浜さんが来てくれたぞ。喜べ」

 

 バっと風を切る音が聞こえてきそうなほど、勢いよく雪ノ下さんが顔を上げた。続いてのろのろと亀みたいに、比企谷が腐乱した目をこちらに向ける。

 

「由比ヶ浜さん……」

「や、やほー。ひさしぶり、ゆきのん……」

「ほらほら、座りましょう自分の席へ。挨拶はそこで、ね? おら比企谷、こんにちはの挨拶はどうした?」

「……うっす」

 

 我々は自席へと着いた。

 由比ヶ浜さんは後ろめたい気持ちでもあるのか、やや雪ノ下さんから距離を取って席についている。そこで私は何気なく比企谷から離れることにした。必然的に私と由比ヶ浜さんの距離が近くなる。

 

「由比ヶ浜さん、何か飲むかい? ほら、さっさと用意したまえ、君たち」

「だ、大丈夫、大丈夫。あたしぜんっぜんのど渇いてないし」

「そう? 遠慮することないよ。え、本当にいらない? そう、残念だね」

 

 由比ヶ浜さんはひどく畏まっていて、まるで他人行儀であった。あのおそろしく馴れ馴れしい態度がなりをひそめ、まさしく借りてきた猫状態、これは果たして由比ヶ浜さん本人であろうかと思うほどの恐縮振りなのである。

 私は胸を裂かれるような思いにため息をついた。

 非をもって追及することのできぬ事故に心を痛める由比ヶ浜さんは、今、何を考えているのだろうか。私はこの場で言ってやりたかった。――あなたは悪くない、誰も悪くはないんだ。しかし、しいて悪者を挙げるとすれば、それはすなわち比企谷八幡大先生にほかならない。さあ、先生。ここは是非あなたの口から吐露すべきですよ。身体中に澎湃と溢れる懺悔の気持ちを伝えてやりなさい。……

 しかし、私は黙っていた。あくまでもこれは比企谷と由比ヶ浜さんの問題なのである。当事者でない私がぬけぬけと介入するワケにはいかない。謝罪を促すのもスマートなやり方ではないだろう。私の出番は謝罪のあと、贈り物になってからである。私は改めて盛大なため息をこぼした。

 すると、ふいに三人の視線が私に集まった。ところが、反応しようと首をめぐらせたときには手遅れで、すでに視線は外されていた。私は、はてなと思い、比企谷に尋ねる。

 

「ねえ、どうしたの? 俺の顔になんかついてるの?」

 

 すると、比企谷は前日比で二倍は濁っている目を剥いて呟いた。小さな声音だったので、やむを得ず私は椅子ごと比企谷に近づく。

 

「――この空気がわからねえのかよ。ため息とか普通つかなくね? しかもでかい声で俺に聞くし。もう呆れを通り越してすごいよ。おまえ超スゲエ」

「え、え。空気? なにそれ。どういうことだ」

 

 つられて私もこそこそ言う。比企谷は突然、「んふっ」と噴き出して肩を小刻みに揺らした。どうやら失笑を買ったようだ。意味がわからなかったものの、私が滑稽なことを仕出かしたらしいことは察しがついた。むろん腹が立ったので、事態の把握を急ぐ前に、比企谷の本のしおりの頁を変えることで怒りを鎮めた。

 

「な、何を笑っているのかしら、比企谷くん」

「いや、なんでもない」

「そ、そう……」

 

 夕日が差し込んで部室を鮮やかな茜色に染めている。窓の向こうには、水平線に消えなんとする太陽の雄大な姿が見えた。そろそろ日が暮れる。

 雪ノ下さんは机の上の文庫本に目を落としていたが、やがて顔を上げると頬を紅潮させて、「由比ヶ浜さん」と言った。私と比企谷はほんの一瞬顔を見合わせると、とりあえず部長と女子部員のやり取りに集中することにした。

 

「あ、あのっさ……その――」

 

 由比ヶ浜さんはひどく慌てた様子をして、雪ノ下さんが言葉を継ぐ前に口を開いた。

 

「ゆきのん、と、ヒッキーのことで……えっと、話がある、んだよね」

「ええ。私たちの今後のことであなたに話を――」

「いやー、あ、あたしのことなら全然気にしないでいいのにっ」

 

 相手の言葉に耳を貸すのを厭うかのように由比ヶ浜さんが容喙する。雪ノ下さんはいささか驚いて由比ヶ浜さんを見つめた。我々も黙して続きを待つ。

 

「たしかに驚いたというか、えっと、そのちょっとびっくりしたっていうか……。でも、そんなぜんぜん気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ? むしろ、いいことじゃん! だからお祝いとか祝福とか、そんな感じだし……」

「よ、よくわかったわね。もしかして知っていたのかしら? そのお祝いをきちんとしたかったの。そ、それにね。私は、あなたに感謝、しているから……」

「や、やだなー、感謝されるようなことなんてべつに、なんにもしてないよ、あたし……」

 

 私は首を捻って比企谷に目で問いかける。やはり思うところがあるのか、比企谷も訝しげな面持ちで頷いた。何かおかしい。客観的に見て由比ヶ浜さんが途方もなく空回っている感が拭えない。

 

「いえ、本当に感謝しているわ。私だけじゃなくて、そこの二人もそう」

「え……?」

「それに、こうしたお祝いは本人の行動如何で催すものではないでしょう。純粋に私がそうしたいだけよ」

「……う、うん」

 

 なぜか由比ヶ浜さんが意気消沈してしまったところで、比企谷が「なあ」と私の耳元でささやいた。

 

「微妙に会話がかみ合ってないように聞こえるんだが」

「だな。由比ヶ浜さんがあらぬ方角へ先行しちゃってるね、どうして?」私も小声で返す。

「知らん」

「嘘をつけ。おまえが関係してるんだろう」

「はあ? なんでも俺のせいにするなよ」

「俗界万斛の凶事皆比企谷という悪漢より来る、なんて言葉があるじゃん?」

「いやいや、――あるじゃん? とか言われても、ねえからそんなもん。さもありそうな慣用句風に作ってんじゃねえ」

「ったく、これだから元凶は。自覚がないだけにタチが悪い」

「だからちげえっての」

 

 ろくでもない会話を切り上げ、改めて二人の様子をうかがうと、雪ノ下さんが救いを求めるように視線をちらちらと投げて寄越していた。あの雪ノ下さんが、困っている。どこからどう見ても困っている。困窮の果てに立ち尽くした迷い子のように、途方に暮れた顔をしている。私と比企谷は一瞬顔を見合わせると、莞爾とした笑みを浮かべて雪ノ下さんを見つめた。端的に言えば日ごろの意趣返しである。紳士たるもの、やられっぱなしではいられない。我々は常に反撃の機会をうかがっていたのだ。雪ノ下さんはますます困惑していく。それでも手は差し伸べない。安易な手助けは相手のためにならないと嘯き、我々はほくそ笑む。日ごろの鬱憤を思うままに解消する。そのうちに我々の嗜虐心は閾値を超え、妙な連帯感でさらなる辱めを与えんと、次なる行動に出ようとしていた。

 しかしそのときである。

 私と比企谷が何か甘味な飲料水を買いに二人を残して教室を出ようとすると、ふいに由比ヶ浜さんが弱々しく呟いたのだ。

 

「あ、あれ? おかしいな」

 

 由比ヶ浜さんは泣いていた。

 

「ごめんね、こんなつもりじゃなかったのに……ちゃんとおめでとうって言いたかったのに……」

 

 我々は、雪ノ下さんも含め皆息をのんだ。

 咄嗟のことで、かける言葉が見当たらなかった。ただ、呆然と小刻みに震える由比ヶ浜さんを見つめることしかできない。彼女は両の手のひらで流れる涙を拭っていた。

 

「ホント、おかしいよね、あたし。何で泣いてんだろ? バカみたいだよね。うぅ……」

 

 私は腫れ物に触るように「えっと」と声をかけた。

 

「あの、由比ヶ浜さん。君はいったい――」

「ごめん……ちょっと、ここにいられないかも。出るね、あたし」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんは立ち上がって小走りに教室を出て行ってしまった。

 教室は水を打ったように静まり返る。しばらく誰も何も口にしなかった。

 開け放たれたドアから視線を移すと、机の上の由比ヶ浜さんの鞄を見て、派手に飾られた鞄だなと、そんな間の抜けたことを私は思った。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。