奉仕部と私   作:ゼリー

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第十七話

       ◇

 

「どうすんだよこの場合は」

 

 由比ヶ浜さんが部室を飛び出してから最初に口をきいたのは比企谷だった。誰にともなく問いかけられたその言葉は、夏にもかかわらず冷え切った部室の空気の中に溶けてく。

 雪ノ下さんは絶望的な顔をしていた。まさか泣くとは思ってもみなかったのだろう。私だって思わなかった。そもそもなぜ彼女は泣いたのだろうか。突拍子もなさ過ぎて思考が追いつかない。

 

「おい、なんか言えよ」

 

 比企谷がこちらを見ていた。

 私は唸った。由比ヶ浜さんの鞄が目に入る。

 

「鞄置きっぱなしだから、まだ帰ってない。探すか」

「だな。まだ渡してねえし」

 

 誕生日プレゼントのことだろう。比企谷は立ち上がった。

 私もつられて立ち上がる。

 

「雪ノ下さんはどうする? 待っていてもいいけど」

「わ、私は……」

 

 雪ノ下さんは胸に手を当てて動揺を隠しきれない様子だった。眉を寄せて今にも泣きだしそうである。これまで接してきて薄々気づきはじめていたことではあるが、今や明らかとなった。普段の女傑のような振る舞いとは対照的に、じつは雪ノ下さんは存外傷つきやすい性質なのである。それがこういう時に如実に表れる。自身の対人関係的許容量を凌駕する場面において、彼女はひどく脆弱になってしまうのだ。誤解を恐れずに言えば、それは彼女がまともな交友関係を結んでこなかったことが原因であろう。僭越ながら、私も同じだからわかる。

 ――いや、全然違う。雪ノ下さんの場合は、その才色兼備さゆえに並び立つものがいなかっただけで、おまえは単なる阿呆が原因だ、と言う者も少なからずいると思う。黙りたまえ。むやみに本質を突くのは控えていただこう。過程に重きを置こうとするのは愚者によく見られる傾向だ。いずれにしても結果が同じであれば、ほかは些末なことである。

 話がそれた。ともかく、雪ノ下さんはどうしたらいいのかてんでわからない、といった状態だった。まさか、彼女まで泣くことはあるまいとは思うが、そのまさかが起こってしまっては我々には手がおえなくなる。私は比企谷を一瞥してから言った。

 

「由比ヶ浜さんはなにか勘違いをしているだけだと思う。すぐに見つけて戻ってくるよ」

「ああ、俺もそう思うぞ。なんかお前らの会話おかしかったし」

 

 比企谷はそれだけ言うと、「先行くぞ」と残して部室を出ていく。

 私は紙コップに入った紅茶を飲み干して、比企谷のあとを追おうとしたが、ふと立ち止まって振り返った。

 

「そういえば、ケーキ焼いてくるとか言ってたよね。その準備でもしてればいいさ」

「……ええ。けれど、私だけここにいてもいいのかしら……」

「いや、しかしね、由比ヶ浜さんが戻ってきたとき誰もいないとまずいでしょう」

「そ、そうね……」

「もしそうなったらちゃんと引き留めておいてくれよ」

「で、でも……私にできるかしら……そんなこと」

 

 雪ノ下さんは歯切れが悪く呟くようにそう言った。私はすんでのところで舌打ちが出かけたが、なんとか堪えた。彼女は心細いのだ。私が苛々してどうする。

 

「大丈夫。その前に見つけてくるからさ。ともかく用意して待っててよ」

「……うん」

 

 雪ノ下さんは小さく頷いた。その姿があまりにもか細く見えたので、私はどうしようか迷った挙句、意を決して言うことにした。あくまでも発破をかけることが目的なだけであって、苛々を発散するつもりは毛頭ない。

 

「雪ノ下さん。君はさ、部長だよね。つまり上に立つ者としての責任があるの、わかる? いつも傲岸不遜にものをいうんだから、こういうときも貫いてくれよ。いままでだって数百人くらい泣かせてきたわけなんだし、そうもじもじしないで部長らしく堂々としてなよ、ね? それでもだめっていうなら、由比ヶ浜さんが泣いたのは全部比企谷のせいだと思い込むといい。ほら、腹が立つ。ぼっちの分際で人を泣かせるとは太い奴だよ。あとで一緒にぶん殴ろう」

 

 私が捲し立てると、雪ノ下さんは少しは持ち直したらしい。わずかに目を細めて、「数百人も泣かせてないわ。数十人よ」と訂正した。それからため息をつく。

 

「……わかったわ、待ってる。だから早く連れて戻ってきなさいね」

「むろんさ」

 

 私はサムズアップしてニヤリと笑った。そうして教室を出ていこうとすると、いつもの調子で雪ノ下さんの声が飛んできた。

 

「誕生日会をするのだから、最終下校時間までには間に合うようにしてちょうだい」

 

 やれやれ、と私は苦笑した。

 

       ◇

 

 廊下へ出てみると、すでに比企谷の姿はなかった。私を置いて、一人で探すつもりらしい。本気か、と思う。泣き濡れる乙女を見つけ出し、丁重に扱い、なおかつ一度飛び出した部室へとエスコートする無類の荒行を、一人で敢行するつもりなのか。私にはとうていできない。私にできないことが、比企谷にできる法はないだろう。共同で事に当たってしかるべきなのに、無謀にもほどがある。

 しかし、そう考えつつも、比企谷には変なところで実行力を発揮する節があるのを私は知っている。やるときにはやる、という私の苦手とする思想をまれに体現する男なのだ。これと言って提示するのは、私の奉仕部活動に対する暴露的な挑戦になりかねないのであえて語るつもりはないが、彼は過去の依頼にわりと貢献してきたのである。繰り返すようだが、これといって提示するつもりはない。

 ようするに何が言いたいのかというと、比企谷が由比ヶ浜さんを部室に連れてきてくれるのではないか、という人任せな懶惰(らんだ)が私の心に芽生えていたということである。適材適所というじつに素晴らしい四文字熟語もある。少なくとも、私よりは彼のほうがマシであろう。

 畢竟、自身の可能性を入念に考慮して、ここは比企谷に任せるべきだ、と私は断じた。さて、そうなると時間を持て余す。向こう三十分と見積もって部室に戻ればいい。

 私はあてどもなく特別棟をさまよい、中庭を見下ろし、自販機でサイダーを買った。

 喉を潤して、ふたたび足の赴くままに歩いていると、開いた窓から涼やかな風が流れてきた。頬を撫でる感触がひどく心地よい。私は昼休みに弁当を食べる例の校舎裏に行こうと思った。あそこはもっといい風が吹く。図書室などもクーラーが効いていて過ごしやすいだろうが、気分がいいのはやはり自然の風である。

 やるべきことを放棄している事実にやや良心の呵責を受けながらも目をつぶり、飲み干した空き缶を捨てて私は校舎裏へ向かった。

 

       ◇

 

 間が悪いというのはこういうときのことを言うのだろう。

 校舎裏にたどり着くと、そこには先客がいた。咄嗟のことで引き返せなかった私は、膝を抱えて蹲るように座っていた人物が、緩慢とした動きで顔を上げる瞬間を、ただ愕然と見つめているばかりであった。

 私と由比ヶ浜さんの視線がぴたりと合致した。

 彼女はほんのわずかに眉をひそめて、それから弱々しく笑った。

 私は踵を返して脱兎のごとく逃げ去りたい衝動に駆られ、かろうじて頬を引き攣らせて笑みを返す。

 

「ここにいたんだね」

 

 何か言わねばと思い、私は動揺を悟られぬよう努めて冷静に言った。

 

「あはは……ごめんね、いきなり出ていっちゃって」

「あ、うん。え、え、ええと。でも、どうして。いや、別にそのことは全然気にしてないんですが……ただその」

 

 我ながら信じられないほど口が回らなかった。これでは動揺丸出しではないか。私は寸暇を盗んで由比ヶ浜さんに悟られぬよう深呼吸した。少し落ち着きを取り戻す。

 由比ヶ浜さんは視線を足元に落としていた。階段には蟻が這いまわっている。

 

「ただその、どうして――」

 

 泣いたのですか、と尋ねようとしたが、私ははっと口をつぐんだ。

 これでは直截的すぎやしないだろうか。我々は由比ヶ浜さんが何か勘違いをしていると勝手に考えているわけだが、そもそも勘違いごときで泣くものだろうか。もしかするとほかに理由があるのかもしれない。とはいえ人の心は推し難く、度し難い。それが女子高生の胸三寸ともなればもはや神秘の領域である。考えるだけ無駄だ。ここはやはり尋ねるべきであろう。

 私は深刻になりすぎないように問いかけた。

 

「どうして泣いたのかなと。何か理由があるんですか?」

「理由……それはあたしが……なんていうのかな。えっと、あたしがね……」

 

 そこで由比ヶ浜さんは、誤魔化すようにあははと笑った。

 

「えっとね……あたしが勝手に想って、その、勝手に自爆しちゃったって感じかなぁ……もっと早く気づければよかったんだけどね……」

「うん? 思って、自爆? ちょっと意味が」

「いやあ、あはは……かなり恥ずかしいかも。あんまり聞かないで欲しいかなぁ、なんて」

「アッ! すいません。ホント、すいません」

「いやいやっ、こっちこそごめん! あんなふうに出てくなんて、マジ空気読めない子だよねあたし。ゆきのんもヒッキーも絶対怒ってる……ふたりの仲の事ちゃんと話してくれようとしてたのに……」

「雪ノ下さんもあの阿呆も全然怒ってないよ。だいたい今日は由比ヶ浜さんを喜ばそうと思って集まったわけだから」

「うん……でも、きっとあたし、それ喜べないよ……」

「え?」

 

 由比ヶ浜さんは押し黙ってしまった。

 私はやや混乱していた。喜べないもなにも、由比ヶ浜さんは誕生日会のことを知っているのか。知っていて喜べないのか。

 私はまさか、と思った。本日は彼女の誕生日ではない、ということはあり得まいか? なにしろ雪ノ下さんがメールアドレスから推測したまでで、実際に由比ヶ浜さんに尋ねたわけではないのだ。誕生日が違っていることは十二分に考えられる。それなら彼女が喜べないというのも得心がいく。

 私は心底焦りながら言った。

 

「由比ヶ浜さん! 誕生日はいつ?」

「えと……今日、だよ」

「なあんだ!」

 

 私は杞憂だったことに安堵のため息をついて、ひどく咳き込んだ。

 

「え、なに? ていうか大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。由比ヶ浜さんは誕生日のお祝いとかあまり興味がない?」

「へ? ううん。興味っていうか、ふつうに嬉しいよ? 次の休みに優美子たちがお誕生日会やってくれるって言ってたし、すごい楽しみだけど」

「だったら、なぜ? なぜ――」

 

 私は次の言葉を続けようとして、ふと逡巡した。しかし、結局、由比ヶ浜さんを連れて戻るには率直であるべきだと断じる。

 

「喜べないの? これから由比ヶ浜さんの誕生日を祝うつもりなんだけど、なにか不満があったりするのかな」

 

 由比ヶ浜さんはぽかんと口を開けて目を白黒させている。

 

「ごめんっ、ちょ、ちょっと待って……もしかして、今日の集まりってあたしの誕生日のため……なの?」

「うん。本当は部室で驚かそうと思ったんだけど、そういうことなんだ」

「いやいやっ、ええっとね……それじゃあ、ヒッキーとゆきのんは……」

「あいつらがなに」

「……ふたりは付き合ってるんじゃないの?」

 

 私はあからさまに眉をしかめて、由比ヶ浜さんの顔をみつめた。この人は何を言っているのだろう。散々、否定したのを覚えていないのだろうか。雪ノ下さんではないが、失礼ながらやはり彼女は少し馬鹿なのかもしれない。そういうところも好ましい特徴のひとつではあるが、さすがにしつこいと言わざるを得ない。

 

「そんなことはありえない。そう言ったでしょうが」

「なあんだ! あたしはてっきり……」

「付き合っていると思ったんだよね。前も聞いたよ」

「そうだねよね。あはは……ごめんごめん。あー、でもよかったぁ……」

「よかった?」

 

 私は、なぜかその言葉が気になった。由比ヶ浜さんがあまりにも嬉しそうにため息とともに零したからである。

 

「え? や、なんでもない! なんでもないよ!」

「今、よかったって」

「だからなんでもないってばっ! あれっ、そういえばあたし、さっきすごい恥ずかしいこと言っちゃってたかも……」

 

 由比ヶ浜さんは唐突に顔を覆って、指の隙間からちらりと私を覗き見た。

 

「たしかに自分で恥ずかしいとは言ってたけど」

「もしかして、気づいた……?」

「気づいたって、それは――」

「ここにいたのかよ」

 

 私の言葉を遮るようにして、ふいに背後から声がした。振り返らなくてもそれが比企谷のものであると判断がつく。おそらくそれは由比ヶ浜さんも同様であったことだろう。しかし、彼女はまるで雷に打たれたかのように硬直していた。

 

「おまえら、なに仲良く喋ってんだよ。こっちは必死に探したってのに」

 

 そう言うわりには、汗一つかいていない。大方、ぶらぶら歩いていたら偶然我々を見つけたのだろう。

 

「まあいいや。ともかくさっさと戻るぞ」

 

 比企谷が急かすようにそう言った。

 私は振り返って比企谷を一瞥すると、隣の由比ヶ浜さんを見た。

 そのとき私が見た由比ヶ浜さんは頬を桃色に染めて羞恥に悶えるような顔をしていた。驚きながらも目を眩しそうに細め、秘めやかにはにかんで比企谷を仰ぎ見ている。その表情からは、人の胸を高鳴らせるような淡い「青春のかほり」が芬々に漂っていた。まるでもう恋する乙女である。恋する乙女と極めて相似している。むしろ、恋する乙女そのものである。というか恋する乙女である。

 私は、なぜかぎくりとした。

 

「ヒ、ヒッキー……もしかして聞いてた……?」

「なにをだよ」

「ううん、なんでもない」

「あ、そう。ていうかもう大丈夫なのか、おまえ」

「うんっ。あはは、ごめんね。もう全然ヘーキ」

「じゃ、行くぞ」

 

 立ち上がった由比ヶ浜さんはスカートについた埃を払って、歩き出した比企谷の後をついていく。

 一方、何か根本的な世界の理に反するような間違いが今まさに起こっているような気がして、私は不覚にもぷるぷると震えていた。

 

「おいっ、早く来いよ。置いてくぞ」

 

 比企谷がそう呼んでいる。

 私は意思とは無関係に動く体を引きずって二人の後を追った。

 

       ◇

 

 客観的に、事実のみを俎上に載せて、冷厳な目で事態の経緯を見れば、いつだって正しい答えが導き出せる。私は職場見学の日に端を発した比企谷と由比ヶ浜さんの不和について考えてみる。

 比企谷は由比ヶ浜さんの優しさを同情だと決めつけ、彼女を遠ざけるような発言をした。私も彼女の優しさについては、事故によって居場所を失った寂しい男を救わんとする慈愛だと考えていた。だからこそ、由比ヶ浜さんはぼっちの比企谷に近づいているのである。そう信じていた。

 しかし。

 しかしである。もし彼女が、同情から比企谷に優しくしているのでないとしたら――入学式の日の事故はただのきっかけに過ぎず、もっと他になにか特別な理由があるとしたら、それはなんであろうか。

 そこで私は、由比ヶ浜さんが比企谷と雪ノ下さんの交際について偏執的に疑っていたことを考える。電話で話したときだけでなく、さきほどもその疑惑に囚われていたことを考える。そして、彼女が突然泣いた理由を考える。

 すると、我々が下した何かの勘違いという推測が正しければ、由比ヶ浜さんは、比企谷と雪ノ下さんが交際していると思い込んでいて、そのために泣き出してしまったということになりはしまいか。

 嬉し泣きという言葉もあるが、一般的に悲しくつらいときに涙は出るものだ。つまり由比ヶ浜さんは二人が交際していると悲しいということになる。それはなぜか。また、彼女は二人の交際がはっきりと否定されたとき、心の底から安堵した様子を見せた。それはなぜか。

 私の脳裏を、奉仕部で過ごしてきたこれまでの時間が走馬灯のようによぎっていく。天真爛漫な由比ヶ浜さんがいつも目で追っていた人物は誰であったか。そしてつい先ほど、頬を桃色に染めた彼女が見ていた人物は誰であるか。そう、比企谷である。

 ああ、なんたることだ。そこから導き出される苦い結論を呑みこむには、多大な精神の力を必要とした。筆舌に尽くしがたい苦さに堪えるために、私は升一杯の角砂糖を欲した。

 

 「青春のかほり」をまとったパンドラの箱は今開かれた。

 由比ヶ浜さんは比企谷に恋をしているのである。

 


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