奉仕部と私   作:ゼリー

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第十八話

       ◇

 

 気がつくと、私は暮れかかる町を蹌踉(そうろう)と歩いて帰路についていた。途中で、鞄や贈り物を部室に置き忘れていることに思い当たったが、引き返す心の余裕は微塵もなかった。

 家に到着するとそのまま自室に向かい、音高くドアを閉めて、制服のまま布団に飛び込んだ。少し前から携帯電話が何度も着信を知らせている。私はそれをポケットから取り出すと、画面の確認もせず電源を切った。

 私は天井を仰いで、自身の胸に去来する様々な想念を思案した。そうして、なんだこれ、と思った。

 

「なんだこれ」

 

 無意識に口から漏れていた。

 案の定、モヤモヤとして冷静沈着に思案に耽ることはできなかった。どうやら、由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという事実は、私の繊細微妙な魂を深々と傷つけたようである。

 

「なんだこれ」

 

 だがしかし、どうして私はこんなにもセンチメンタルになっているのだろうか。自分で自分のことがわからない。これではまるで私が由比ヶ浜さんを恋慕していて、その想いが実らなかったかのようではないか。そんなことは断じて認めない。たしかに、私は少なからず彼女に好意を抱いていたが、それはあくまでもクラスメイトや同じ部員としてである。けっして恋人になりたいとかそういう不埒な助兵衛根性はつゆとも抱いていなかったのだ。いや、ちょっとはあったかもしれないが、しかし、それは一般的男子高校生が、「あー俺も誰かと付き合いてえ」と言うような浅はかさに限りなく近い。

 

「なんだこれ」

 

 ようするに、私のこのモヤモヤは、由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという事実そのものが原因ではないということになる。では、この鬱屈とした感情はなんであるか。

 

「なんだこれ」

 

 そこで私の大脳新皮質は活動を一時停止した。ひどく疲れていて、瞼が重かった。私は不愉快なわだかまりを胸に残しながら、ひとまず睡魔に身を任せることにした。

 

 じつにヘンテコな夢を見て、はっと目を覚ましたところ、すでに朝日が昇っていた。コアラ並みの睡眠時間に呆れ果てながら、顔を洗い歯を磨いた。まだ早朝で、リビングに人気(ひとけ)はない。私は食事まで時間を潰すため、朝の散歩と洒落込むことにした。

 うららかな澄んだ日差しの下、気持ちよく町を逍遥していた私であったが、ふいに昨日のことを思い出して気分が害されてしまった。こんな清々しい早朝に、ふくれっ面をしたみっともない男の姿など誰も見たくないだろう。ご近所の朝を台無しにしては申し訳ないと思い、私は早々に散歩を切り上げて家に戻った。

 誰もいないリビングのソファに腰を下ろすと、しばらくアンニュイに任せてぼおっと窓の外を眺めていた。そろそろ両親が起きてくる頃になって、自室に戻り登校の準備を始める。布団のそばに投げ出された携帯電話がふと目についた。昨日から電源が切れたままである。私は恐る恐る電源を入れた。

 やはり奉仕部の面々から連絡が来ていた。そしてなぜか材木座からもメールと電話の着信が入っている。しかも一番多かった。私は両方とも見なかったことにして再び電源を切った。

 母親が作った朝ごはんを食べ終え、玄関で革靴に足を突っ込んだ。そのときなって、私は学校に向かうのがひどく億劫であることに気がついた。憂鬱である。仮病でもなんでも使って休んでしまおうかしら、と一瞬迷った。しかし己に厳しい私はこれも修行の一環だと考えて、怠惰な魂を奮い立たせ学校へ向かうことにした。

 

       ◇

 

 早くに到着したので教室はまだしんと静まり返っていた。ホームルームまでだいぶ時間がある。

 私は放置したままの鞄を取りに部室へ向かった。

 鞄は元の位置に置いてあった。中を検めると、贈り物の入った紙袋もしっかりある。私は紙袋を鞄から取り出して机の上に置いた。大学ノートを一枚ちぎってメモ書きを残し、紙袋の横に添えておく。そうして、私は鞄だけ持って部室を後にした。

 

 教室に戻ってきた私は、そそくさと席に着くと、心をひそめてセリーヌを読んだ。しかし『なしくずしの死』を読んでいると世界に対するあらゆる憎悪や呪い、怨嗟が込められた内容に、ますます重苦しい気分になってきて、ついには吐き気が込み上げてきた。私はセリーヌを放り出した。顔を上げてあたりを見回せば、いつのまにか教室はがやがやと騒々しくなっている。

 川崎さんがやってきて、「おはよう」と挨拶を投げてよこした。私は軽く頷いて、机に突っ伏した。体調でも悪いのか、と問われたが、返事をするのが面倒で無視した。

 ホームルームが始まったが私は顔を上げなかった。右ひじを枕にしてのうのうと窓ガラス越しの青空を睨みつけていた。空の青さを見つめていると……、というのは谷川俊太郎氏の詩であるが、私は、氏のように空の青さからロマンティックな言葉を並び立てることができない。代わりにできることいっては、暗雲立ちこめる我が心と対照的なその青さに、ひたすらメンチを切ることくらいであった。

 一限目の予鈴が鳴って、私はようやくむっくりと顔を上げた。鞄から教科書を取り出そうとすると、ふと視界の端に比企谷の姿が映った。比企谷は田沼時代並みに腐敗した目でじっと私を見つめているらしい。思わず心臓がどきりと跳ねた。慌てて教科書を引っ掴み机に載せる。しばらくして、さりげなく比企谷の様子をうかがったが、すでに下を向いていたので私はほっと胸を撫でおろした。

 その後の授業には身が入らなかった。私ともあろう人間が、比企谷ごときの視線に臆するというのも忸怩(じくじ)たるものがあるが、如何せん心にやましいところが無いといえば嘘になるのだから仕方がない。自惚れているわけではないが、おそらく由比ヶ浜さんも私の後頭部に何度か目をやったことだろう。

 昨夕は紳士にあるまじき振る舞いをしてしまったと、私はほんのちょっぴり反省した。さすがになんの連絡もせずに帰宅したのは横暴が過ぎたようである。とはいえ、あのとき私は一種の心神喪失状態にあったのだから、それを責められても困る。自己を律することにおいては何人にも一歩も譲らない覚悟を持っているが、精神は人一倍繊細にできているのだ。ときには呆けて約束を破ることだってあるだろう。誰にだって弱点はあるものだ。それを(あげつら)って攻撃するというのは、弱い者いじめにほかならないのではあるまいか。

 私は拳をぐっと握った。そうして、謝らないぞと心に決めた。断固として謝らないぞ。私は悪くない。

 

 昼は校舎裏へ行かなかった。

 なるべく奉仕部の面々とは顔を合わせたくなかった。授業の合間、何度か由比ヶ浜さんが私のところへ来るそぶりを見せていたが、いち早くそれを察知した私は、涙を呑んでトイレに行くふりをしてやり過ごした。比企谷は朝以来、特に何のアプローチもしてこなかった。その無関心が今はありがたかった。

 あっという間にすべての授業が終わって放課後になる。

 私は素早く帰りの支度をして、韋駄天のごとく教室を出た。ちんけな窃盗をしたコソ泥と(いささ)かも遜色のない去り方であったが、呼び止められるよりかはわずかにマシである。むろん、部室に顔を出すつもりなどなかった。さっさと帰宅して、心の安寧を思う存分満喫する腹積もりだ。

 校門までやってくると、私を呼び止める者があった。前傾姿勢でやや俯き、粛々と歩いていたところだったので、ひどく驚いた。

 

「おい、君。部活はどうした」

 

 帰宅する各生徒に別れの挨拶をしながら、平塚先生は朗らかに言った。

 

「まだ帰る時間ではないだろう」

「あ、うんむ」

 

 咄嗟のことで言葉をうまく発せずに、奇怪な音で答えてしまった。咳払いで誤魔化して改める。

 

「期末考査の勉強をしようと思いまして」

「ほう。感心だな……と、言いたいところだが部活動が一斉休止になるのは一週間前からだぞ?」

「はい、承知しております」

「うん? では、なぜだ」

「へへへ」

「へへへ、ではない。君、何か隠しているな?」

「そんなことはございません」

「む」

 

 平塚先生の怜悧な眼光がきらりと瞬いた。私の両足は先生と相対したときからすでに瞬間的な逃走へ向けて張りつめた弓のごとく準備されていたが、こうなったらもはや蛇に睨まれた蛙も同然である。私は諦めて曖昧に笑みを浮かべるほかなかった。

 

「そういえば、由比ヶ浜の件はどうなった」

「どう、と言いますと?」

「彼女は戻ってきたかね」

「ええ、昨日」

「そうか。それはよかった」

「おかげさまで」

 

 平塚先生はにこりと優しく微笑んだ。そのとき、私の脇を姦しい声をあげながら女生徒たち数人が通り過ぎた。

 

「おい、おまえたち。少しスカートが短くないか?」

「えーこれくらい普通ですよー」

 

 生活指導としての職務を全うすべく平塚先生が女生徒たちに注意をはじめる。女生徒たちは臆したふうもなく、和やかに反抗の意を述べている。長い交渉になりそうだった。その隙を見逃す私ではない。女生徒たちのスカートがいかほど短いのか、その露出具合は非常に気になったが、「さようなら」と別れの挨拶を残して、私は一目散に校門をくぐりぬけた。後ろからなにやら穏やかでない言葉が聞こえたが、聞こえないふりで押し通して、家路を急いだ。

 

       ◇

 

 ひとりぽつねんと自室の机に着きながら、精神的ホメオスタシスの不調を引き起こした原因について、私はいくつかの回答を導き出した。簡単に言ってしまえば以下の通りである。

 職場見学を境に引き起こされた不和を、全身全霊を以て解決に挑んだ私であったが、その幕は由比ヶ浜さんが比企谷に恋をしているという青天の霹靂によって閉じられた。由比ヶ浜さんを部に帰還させるという当初の目的は果たせたとはいえ、かような結末は、彼女を取り戻そうとした私の努力を水泡に帰させるには十分すぎるほどであった。汲々として過ごした私の日々が無駄の一言で容易に片づけられるのである。なんと馬鹿馬鹿しいことであろうか。これに納得がいくはずがない。

 また、由比ヶ浜さんに対する私の思いこみが、ものの見事に的外れだったことも挙げられる。てっきり彼女を、慈愛を有した聖母のような女性だと思いこんでいた私の浅はかさは潔く認めよう。しかし、たとえ彼女が聖母でなく、人より割と鷹揚で純粋な一般女性であったとしても、恋する相手として選んだ男がアレでは、さすがの私も心穏やかではいられない。無視してもらって構わないが、これには選ばれたのが私ではなかったという幼気(いたいけ)な微々たる不満も含まれている。

 最後に、そしてこれが一番の原因といって差し支えないのだが、それはほかの誰かが自分のごく近辺で青春らしきことに身を窶していることである。世には、残念ながら高校生を青春とイコールで結ぼうとする悪しき風潮が蔓延っている。そのことを常々苦々しく思ってきたが、私とてそのすべてを拒絶するほど狭量ではない。部活動に汗を流すのもよかろう、町でゲームセンターだのカラオケだので日が暮れるまで時間を浪費するのもよかろう、東京湾に向かって大声で叫ぶのもよかろう、そして、まあ、理不尽な情動である恋愛にうつつを抜かすのだってこの際目をつぶろう。だが、しかしである。それらを青春の被害者である私の目前で繰り広げることは断じて容認できない。できるわけがない。これまで私は、奉仕部という構内の最終処分場のような空間でロシア的宿命主義の名のもとにひたすら我慢を重ねてきた。それもこれも、柔軟な社交性を身につけてあり得べき薔薇色の高校生活を送らんがためである。間違っても他人の青春を阿呆面さげて見物するためではない。青春から疎外されているという不合理な劣等感を味わいながら、これから部内で起こりうる甘酸っぱい心の錯綜を鬱々と眺めているなど、考えただけでも壁に頭を打ちつけたくなる。長くなったが、ようするに他人の青春なんぞ犬に喰われてしまえ、ということである。

 こういうことに心の整理がついたのは、私が奉仕部に顔を出さなくなって一週間が経過したあとだった。

 

 机の半開きになった引き出しから、未来予想図と題されたA4紙に描かれたマスター・ヨーダの絵がのぞいて見える。私はそういえばつい最近も同じような思案に耽っていたと苦笑した。ここ数日は、夏目漱石風の神経衰弱に苛まれて、奉仕部を辞そうかと考えてばかりいる。仮入部なのだから、べつに表立ってわざわざ辞めますと告げに行く必要はないだろう。このままずるずると休み続けてしまえば夏休みも近い、いずれ自然解消となるはずだ。厄介なのはそれを平塚先生が許諾してくれるかどうかである。十中八九、殴られるだろう。残りの一、二割に希望を見出したかったが、やはり殴られる未来しか想像できない。

 さて、どうしたものか。

 辞めるか、否か。

 ふいに携帯電話が鳴った。先ほど調べ物をするために使用したのだが、その後、電源を切るのを忘れていた。ネグレクトするつもりだったが、一向に鳴りやまない。鳴りやんでも二度、三度と立て続けにかかってくる。私は意を決して携帯電話を手に取った。ディスプレイには雪ノ下雪乃と表示されている。

 

「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入って――」

「ようやく出たわね。何度かけさせれば気が済むの、訴えるわよ」

「すみませんでした」

「それで、あなたいったいどういうつもり? 一週間も部活に来ないで。誕生日プレゼントも――」

「そのことなんだけど、じつは奉仕部を辞めようかと考えている」

「……ずいぶん唐突ね。なぜ?」

「なぜって言われても」

「真っ当な理由がなければ話にならないわ。あっても認めないけれど」

「お、横暴だ。校則にあるように一生徒としての権利を主張する」

「大袈裟ね。私はあなたを更生する依頼を受けているの。少なくともそれを完遂するまでは部にいてもらうわ」

「……余計なお世話だ。俺にそんなものは必要ない」

「本気で言っているの? もう少し客観的に自分を見てごらんなさい。あなたほど憐れまれる対象として相応しい人間はいないわ」

「なんてひどい言い草だ。平塚先生に言いつけてやる」

「あら、丁度よかったわ、どうぞご自由に。先生もお話がしたいと待望してらっしゃったの。あなた、生きて帰ってこられるかしらね」

「あっ、あっ、そ、それは脅迫だぞ! 生徒相談室に駆けこんでやる」 

「だから、好きにしなさい。ともかく、私は退部なんて認めません」

「うるさい馬鹿」

 

 私は悔し紛れに毒づくと慌てて電話を切った。苛立ちにまかせて携帯電話を放り投げると、しばらくギラギラした鷹のような目で布団に落ちたそれを睨みつけていた。すると再びその携帯電話が鳴り響いて、私は婦女子のごとく「きゃあ」と悲鳴を上げた。知らない番号であった。むろん、取らなかった。私は鼓動と着信が収まるのを待って携帯電話の電源を切った。

 金曜日の夕闇迫る逢魔が時のことである。

 

       ◇

 

 二日間の休日はいたって平和に過ごすことができた。依然として、部を去るか残留するかについてわくわくと落ち着かない心で思案していたが、天秤は退部に傾くことが多かった。今、あの部に戻っても活路が開ける云々以前に、精神衛生上悪すぎるのだ。

 土曜日はそんなことばかり考えていたが、日曜日は来客があった。失礼な話ではあるが、家を訪ねてくる同級生がいることに母親は顎が外れんばかりに驚いていた。しかもそれが今をときめく女子高生であるに及んで、ほとんど泣きかけていた。父親は泣いていた。我が両親ながらいい性格をしていると思った。

 私はやや気まずげに玄関の戸を開いて、その女子生徒と対面した。

 

「やっはろー。ごめんね、いきなり休みの日に訪ねちゃって」

「大丈夫です。それで?」

「あー、んとね――」

 

 この場では話しづらいこともあるかもしれないと、私と由比ヶ浜さんは近くの公園へと場所を移した。途中で購入した缶ジュースを飲みながら、我々はベンチに腰を落ち着ける。日曜の昼間なので、比較的大きなこの公園には散歩をする家族連れやデート中のカップルなどが見えた。

 

「よくわかったね、俺の家」

 

 私は立ち並ぶ木々の隙間からのぞく遠い景色を眺めながらぽつんと言った。

 

「ヒッキーに教えてもらったんだ。だって全然電話に出ないんだもん。だから行くしかないって」

「なるほど」

「でね」

 

 由比ヶ浜さんは楽しそうにして、抱えていたバッグから小包を取り出した。

 

「お礼がしたくてさ、誕生日プレゼントの。あの目覚まし時計すっごい可愛かったよ、ありがと! これ焼いてきたんだ、よかったら食べて」

「え、え、これを俺に」

「うん」

 

 私は由比ヶ浜さんに手渡されたリボンのついた袋を穴のあくほど見つめた。中身はどうやらクッキーのようだった。あまりの熱視線にそのうち袋が焼け焦げはじめるのではと危ぶまれてくるころ、不安になったのか由比ヶ浜さんが言った。

 

「あ、あのぉ、気に入らなかった?」

「いやや、とんでもありません。大変うれしゅうございます」

「あはは、大げさだなあもー」

「へへへ」

 

 正直に白状すると、私はその場で小躍りしたくなるほど嬉しかった。心に巣食っていた奉仕部に対するわだかまりも、きれいさっぱり失念していたほどである。これぞ夢にまで見た薔薇色のハイスクールライフなのではと半ば恍惚としていると、ふと由比ヶ浜さんが言った言葉で急速に現実へと引き戻された。

 

「あのさ、ずっとサボってたあたしが言うのも変かもだけど、どうして部活に来ないの?」

「それは、その……」

「えっと、別に責めてるワケじゃないから、そんな落ち込んだ顔してほしくないかなあ」

「ずっと考えていたんです」

 

 不安げに私の横顔を覗き込む由比ヶ浜さんの視線に、私は心がすうっと冷めていくのを感じた。

 

「高校一年を棒に振って、二年もこのままなのかとほとんど諦めていたんですが、奉仕部に入ることになって、これは好機だと思いました。それで、なんとなくこうやって数か月過ごしてきましたが……」

「……うん」

「やっぱり何も変わらなかったかなと。今までたくさん依頼はあったけど、そのほとんどを比企谷や雪ノ下さん、それに由比ヶ浜さんが解決しているばかりで、俺はなんにもしていないんです」

「そ、そんなことは……」

「慰めは結構です。ただ事実を言っているだけなので。これじゃあ、居る場所が変わっただけで、一年生の頃と何も変わらない。たしかに比企谷と戯れたり、材木座と馬鹿をやったり、雪ノ下さんに侮辱されたり、材木座を馬鹿にしたりするのは楽しいですが、それって停滞していると思うんです」

「……うん?」

「仮ではありますけど奉仕部に入ってなかったら、もっと別の未来があったんじゃないかな。なにかもっと有意義な、もっと楽しい学生生活を満喫できていたんじゃないかな。そう思いませんか」

「えー、ええっと……そう、かも?」

「俺がいかに学生生活を無駄にしてきたかって、やっと気づいたんですよ。でも、まだ遅くないと思うのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えてみれば、まだ間に合う。一年生の頃は道を誤ったけど、またここで誤るわけにはいかない。ですから、奉仕部を辞めようかどうか考えているんです」

「え!? マジ!?」

「マジです」

「ほえーっ……」

 

 由比ヶ浜さんは口を半開きにして私をまじまじと見つめていた。

 近くで見ると、由比ヶ浜さんはやはりとても可愛らしい顔をしていた。奉仕部のごときなんだかよくわからない生徒が集まる部ではなく、もっとキラキラとした爽やかな汗の飛び散る活発的な部に入るべき人の相がありありと見て取れる。なぜ彼女は奉仕部なんぞに所属しているのかと一瞬考えた私は、そういえばそうであったとひどく幻滅した。

 

「人ってそう簡単に変われないと思うんだ。けど周りはすごい早さで変わってく。あたしなんか追いつくのに必死で必死で、もうわけわかんないって感じ。でもね――だからさ、どこに居たって、その環境で精一杯やるしかないんじゃないかなぁ、なんて。そうすれば、ゆっくりだけど人は変わると思うの。あははっ、なんか偉そうでごめん」

 

 由比ヶ浜さんは少しだけ声を落として言った。

 

「あたしさ、四人でいる奉仕部、好きなんだ」

 

 俯きながら組んだ手の爪の先を凝視していると、由比ヶ浜さんが私の肩を叩いた。そうして、「聞いてた?」と尋ねてくる。私は頷いた。

 

「うん、好きなの。誰かひとりでもいないと、奉仕部じゃないみたいでさみしい。でね、あたしが休んでたときも、みんなはこんな気持ちだったのかなって、自意識過剰かもしれないけどね、そう思ったんだ。どう、かな?」

「はい。皆とても寂しかったと思います」

「そっか。あはは、嬉しいな……そ、それでね! やっぱりヒッキーもゆきのんもなんだか元気ないの。張り合いがないって思ってるみたいで」

「俺がいなくて?」

「うん」

「そんな馬鹿な。嘘に決まってる」

「ううん、絶対そーだよ! もう二人ってばホントわかりやすいもん」

「……ちなみに、それは由比ヶ浜さんも?」

「だから、さっき言ったじゃん、さみしいって」

「ふーん、へえ……ふぅん」

「あ、なんか、その反応腹立つ」

「すみません」

 

 それから我々は黙々と缶ジュースを飲んで、休日を思うさまに満喫する人々を眺めていた。サッカーボールを蹴っていた小学校低学年くらいの男児が勢い余って転ぶと、由比ヶ浜さんは素早く立ち上がって手を差し伸べた。擦りむいた膝小僧を近くの水道で洗わせて、どこからか取り出した絆創膏を傷口に貼り付けてやっている。泣きべそをかいていた男児は、彼女に頭を撫でられて優しく微笑まれると、小さくお礼を言ってからべえと舌を出して去っていった。なんと羨ましいくそ餓鬼であろうか。

 

「帰りますか」

「うん、そうだね」

「これ、ありがとうございます。美味しくいただきます」

 

 そう言うと、由比ヶ浜さんは朗らかに笑った。

 


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