奉仕部と私   作:ゼリー

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第二十話

       ◇

 

 翌日のことである。

 登校して日がな一日、重苦しい気持ちで授業だ委員会だと立ち回ったあげく、私はふらりと部室の前までやってきていた。案の定、ドアにかけた手が震えている。たかが部室の引き戸が刑務所の堅牢な鉄扉のように感じられた。

 なるほど、これはなかなか重症だな。ほんの数日離れていただけとは思えないほど、奉仕部との心理的距離が開いてしまっている。今、顔を出したら十中八九恥を晒すことになる。うごうごと情けない台詞を吐き散らかして弁解したが最後、私と奉仕部の間にはマリアナ海溝に匹敵する溝が生まれてしまうことだろう。そうなればすべてがご破算だ。今の私にチャレンジャー海淵にまで潜って土を盛り上げていく気力はない。

 私は手を引っ込めてポケットに収めた。

 なんとなくここで幕引きな気がした。この足で職員室の平塚先生を訪ねて、退部届を貰ってもいいかもしれない。いずれにしても、ふらふらと優柔不断をやっているのもそろそろ限界である。とにかく何か誘因となる行動を起こすべきだ。退部届を前にすれば、また何か考えることがあるかもしれない。

 そう思って私が踵を返したときである。

 

「ようやく出てくる気になったのね」

「うわっ」

 

 雪ノ下さんが神妙な顔つきで私の傍らに立っていた。

 私は情けない叫び声もそこそこに、身を翻して廊下を駆け出した。

 

「待ちなさい」

 

 背後から鋭い声が届く。首をめぐらせて後ろを一瞥すると、雪ノ下さんが追いかけてきていた。

 

「なんと! インドア派のくせして!」

 

 階段を転がるようにして下ると、目につく角を何度か折れて校舎裏まで走り抜けた。ともすれば廊下に崩れ落ちて自分で自分を誉めそうになる衝動を堪えて、私は常日頃昼食をとる階段までたどり着いた。どっと息をついてへたり込む。否応なしに突き付けられたおそるべき持久力のなさに苦笑を禁じえなかった。中学の頃はもう少し走れていたはずだ。

 素早くあたりを見回す。人影はない。とりあえず巻いたようで、ほっと安堵する。ところが、ふいにどこからか小さな悲鳴らしき音が聞こえてきて、私はまさかと身構えた。

 息を切らしながら忍び足で壁際に近づくと、窓からこっそり校舎の中をのぞいた。なにやら女生徒が廊下のど真ん中でうずくまっている。片方の足首をさすっているらしい。

 

「むむっ」

 

 それにしても惜しい、非常に口惜しい。あと数センチ左足をずらせば、天下の大秘宝を礼拝できるというのに、この角度がなんとも絶妙だ。見えそうで見えない。

 私は逃げていることも忘れて、激しい呼吸の合間で女生徒を凝視した。

 客観的に見て、言い逃れできない行為である。弁護の余地のない変態である。恥を知るべきである。が、しかしである――ああ、恥を忍んで己の欲求を偽ることなく続行すべきか、青少年の健全的な道徳心を選ぶか、河豚は食いたし命は惜ししとも言うが、まさにこのような状況を的確に表現しているあたり、昔の人は優れた文彩を有しているのだなあ、しかしながら、結局のところ先人はどちらを選択したのであろうか、河豚を食ったうえでの栄光ある死か、はたまた――いやいや、それよりもあれは雪ノ下さんではないか。

 

「雪ノ下さん!」

 

 私ははっとして駆け寄った。

 

「大丈夫?」

「……ええ、少し足をひねったみたい」

「それはいけない。保健室にいこう」

「これくらい、平気よ」

「ほら、でも一応。折れているかもしれないし」

 

 雪ノ下さんは苦悶の表情で呼吸を落ち着かせていた。さすがに看過することはできなかった。私は雪ノ下さんをゆっくりと起こして、肩を貸した。そのまま保健室まで連れていく。

 保健室は無人だった。入口に掛けられたホワイトボードによると養護教諭は会議に出席しているらしい。しばらくすれば戻ってくるようだ。

 雪ノ下さんを丸椅子に座らせて、私はその傍らに立った。

 

「とりあえず安静にしていたほうがいい」

「……そうね」

「痛い?」

「少し」

「軽い捻挫だといいけど」

「ええ」

 

 ふと猛烈に後ろめたくなって、私は頭を下げた。

 

「すみませんでした。自分でもなんだかわからないうちに逃げなくちゃと。まさか雪ノ下さんが追いかけてくるとは思ってなくて」

「べつに謝る必要はないわ。転んだのは私の不注意よ。追いかけたのも私の勝手だから」

「だけど――」

「それより、ここまでありがとう。助かったわ」

 

 彼女は私の二の句を制してそう言った。

 

「いえ、とんでもないです」

 

 エアコンがよく効いている室内は肌寒いくらいだった。

 数日ぶりに対面した雪ノ下さんは眉を寄せて難しい顔をしている。明らかにご機嫌は芳しくない。言うに及ばず、それも当然である。ここで刺激してしまうのは、逆鱗をやすりがけするに等しい。また、雰囲気もよろしくなかった。万人が可能な限り避けて通りたいと願う「気まずい状況」であり、ひとたび口を開けば間の抜けた会話になること請け合いだった。

 私は、ここで例の件を追及されたらなにかよからぬことを口にしてしまうと考えた。三十六計逃げるに如かず、これは早々に退散した方が良さそうだ。

 

「あの、んでは、俺はこれで」

「待ちなさい」

 

 雪ノ下さんは鋭く私を見据えた。

 私は、「へえ、なんでしょう」と大店の小僧じみた態度と台詞でおどけてみせたが、案の定場の空気はいっそうに冷え込んだ。やれやれ、というやつである。

 

「何か不満でもあるのかしら?」

「はい?」

「だから、奉仕部に不満でもあるのか、と訊ねているの」

「え」

「……それとも、私に対して、かしら」

 

 ほんの瞬きの間だけ雪ノ下さんの瞳は不安げに揺れた。それから射貫くような視線が私に注がれる。

 私は慌ててかぶりを振った。

 

「雪ノ下さんに不満なんてあるわけないよ」

「……そう。それはよかったわ。では、奉仕部に?」

 

 ないといえば嘘になる。否、大嘘になる。しかし、それだけだろうか。本当に不満だけしかないのだろうか。昨夕の平塚先生の妙に勿体ぶった表情と言葉が脳裏によみがえってくる。大して顧問らしいこともしていない分際で、何を利いたふうな口を叩いているのだと家に着くやいなや心中で大閉口だったが、一考の余地は少なからずあった。

――君にとって比企谷はなんだね? 雪ノ下は、由比ヶ浜は?

 私にとって彼らは何なのだろうか。センチメンタルに心のチエノワを弄ぶのは大嫌いであったが、珍しくそのときは頭を悩ませた。一人一人の顔を瞼の裏側に描きながら、感傷的な自分に嫌悪を感じつつも、あと一歩で廉恥的皮膚から蕁麻疹が表出するという段階で、一個のあやふやな答えが導き出された。

 もしかすると、彼らは「友達」なのかもしれない。

 部員という下知にも似た学校側からの識別的呼称を超えた、ひとつの自由意志。発端は半ば強制的ではあったものの、ことさら意識することなく私が獲得したらしき関係性。やはり、もしかするとこれは一般的にいうところの、「友達」というやつなのかもしれない。しかしながら、袂を分かつこと幾星霜、それについて慮ることを忌避し続けた結果、もはやそれが如何なる定義を持つのか私にはわからなかった。

 友達とはなんぞや?

 

「友達とはなんぞや」

「……」

 

 うっかり心の声が漏れていたようで、雪ノ下さんは鳩が豆鉄砲を喰らったようなおもしろい顔をしていた。ところが、すぐに何かを悟ったようで、さらに表情を険しく歪めてからふっと緊張を解いた。

 私は自身のあまりの阿呆さ加減と間を置かずして訪れる雪ノ下さんの反応に戦慄した。

 彼女が言う。

 

「たしかに、あなたを更生するという依頼は果たせていないわ。……私だって、思うところがないわけではないの。あれだけの壮語を吐いておきながら、あなたを一向に更生させることができないなんて、ええ、それは間違いなく私の落ち度よ。けれど、あなたがここまで悩むなんてね。普段の様子から、友達なんて一顧だにしない人だと考えていたのだけれど、部活動を休むほどだとは思ってもみなかったわ……全く気が付かなかったの、ひどい怠慢よね。本当に、ごめんなさい。まさか、あなたが悩むほど友達を欲しがっていたとは……」

 

 私は小さく「あらら」と呟いた。

 もはやなんて言い訳をしていいやら、これはちょっと収拾がつかなそうである。しかし私の不手際といえども、雪ノ下さんの自己完結・早合点も大概だ。自省するのは結構だが、着地点が大幅に逸脱しすぎである。勇んで先頭を歩いたあげく、自身が致命的な方向音痴だとはつゆ知らず仲間を山中に遭難させてしまうタイプに違いない。こういう手合いは過失を責めると開き直るのがもっぱらである。虫の居所が悪ければ激昂することもままありうる。慎重に言葉を選ばねばなるまい。ああ、なんてこったい。

 

「いや、あのですね。けっしてそういうわけではないのです」

「……どういうこと」

 

 途端にぶすっとした表情になる雪ノ下さん。扱いづらいことこの上ない。

 

「まあ、我々はいったいどういう関係なのかと、ちょっと考察して参ったわけでして。これはじつのところ深遠な問題なのですが――雪ノ下さん、怒るのはあとにしてくださいね。つまり、奉仕部に所属するだけの意味が欲しかったのだけれども、考えてみればそんなものはないと思ったんですよ」

「……ない」

「うん。ただ、平塚先生に雪ノ下さんたちは君の何だ、とか言われましてね。困ったんです、いやいやそんなの部長と部員だろうと。それ以外に何かあるのかと。

けれど、ふと思ったんですよ。もしかして我々はすでに部員という枠を超えているのかもしれない。気づいていないだけで、はたから見ればそうなのかもしれないって。もちろん、きみらはどう思っているのか知らないけど、あくまでもこれは俺個人の話であって」

「それは……」

「まあ、あれですよ。あれ」

 

 決定的な言葉を使うのは憚られた。もう一度自ら口にしてしまったらなんだか負けという気がしたのである。

 

「……そんなことを、考えていたのね」

「うむ」

 

 雪ノ下さんは目を伏せて言った。

 

「友達、ね。私にはわからないわ」

「でしょうね」

 

 間髪を容れずに私が返す。

 

「……失礼よ」雪ノ下さんはむっとした表情をしてから続けた。「友達の意味は別として、あなたは私が友達だと言ったら、……それで、満足なのかしら」

「さあ、どうかな。それって確認をとる類のものだとは思わないし、そもそも、その関係性というのは相互的なものじゃない。相手の心は分からないわけだし、どこまでいっても結局は一方的なものなんだ。ようするに、俺がどう思っているのか、ということが重要になってくる」

「はあ、面倒な男ね。それで?」

「だから、言ってるだろう。友達とはなんぞや。その定義がわからないから、判断できないの」

「なるほど。では、奉仕部を休んでいる理由はそこにあるのね」

「いや、全然ちがう」

 

 私が言下に否定すると、雪ノ下さんは目を見開いて唖然とした。

 

「は?」

「そんな些細なことで俺はうじうじと深くは悩まないし、部活を休むつもりもない」

「……ごめんなさい、頭が混乱してきたわ。あなたは何を言っているの? もしかして喧嘩を売っているのかしら」

「いや、えっと」

 

 私は大きく息をついてから口を開いた。

 

「不満があるのかって訊いたよね。詳しく話す気はないけど不満はある。奉仕部にいて何か人間的に成長したかといえば、むしろ退化している気がするし、だいたい俺がいなくても奉仕部はうまく機能すると思う。けど、不満しかないかと考えたとき、平塚先生の言ったことが思い浮かんだのよ。俺が得たもの――俺にとって奉仕部の面々は果たして、……うんぬんかんぬん。とまあ、そういうわけだ」

 

 雪ノ下さんはじっと私を見つめて、それから胸に手を当てて考え込み始めた。私の語った内容に思うところがあったらしい。長い睫毛が瞬きのたびに細かく揺れていた。

 私はそわそわと落ち着かない気持ちで雪ノ下さんを見る。

 

「……きっと、それはあなた自身で答えを出すべきものよね。友達に関しては由比ヶ浜さんに訊いてみてはどうかしら、比企谷くんや私よりは適任だと思うわ」

「べつにそこまで――」

「それと」

 

 雪ノ下さんがふいに語気を強めて言う。

 

「人間として成長しないのは奉仕部のせいではなく、あなたに問題があるからよ。依頼を遂行できていない点から考慮して、雀の涙ほどの責任はたしかに私にもあるけれど、それでもやっぱり張本人であるあなたの意識の低劣さが原因ね。あまりふざけたことを言わないでちょうだい」

「……ひええ」

「だから、あなたはこれからも奉仕部にいなければダメよ。依頼を受けた私の立つ瀬がないじゃない。放棄なんて許されないわ。あと、あなたが奉仕部に役立っているかどうかだけれど、それを決めるのはあなたじゃない――この、私よ。私が奉仕部に残りなさいと言っているのだから、残ればいいのよ。余計なことは考えないの、わかったかしら」

 

 だいたいあなたがいなかったら誰が比企谷くんの相手をするのよ、と雪ノ下さんは最後に付け足して尊大な御高説を締めくくった。頬がやや薄紅色に染まっている。私は、「相手をしているのはあんたじゃないか」と強く思った。

 

「返事は?」

「ハイ」

「よろしい」

 

 私は思わずこくこくと頷いていた。どうやら雪ノ下さんの言辞には人をして喜々と頭を垂れさせる圧倒的な魔力があるらしい。熱狂的な信者を持つ教祖みたいな人である。

 しまった、と思ってから私は反論した。

 

「おいおい、勝手に決めないでくれ。俺にだって選択の権利はある」

「あら、いま返事をしたじゃない」

「それは成り行きで……ともかく、俺はもっと有意義に高校生活を送りたいんだ。奉仕部にいて叶う気がしない」

「有意義って、たとえば?」

「易々と口にしていい代物じゃあない。そして口に出して説明すべきものでもない」

「大方、恋愛とか青春ごっこがしたいのでしょう」

「まっ、なんてことを言うのです!」

 

 核心を突かれたかたちの私は、ぶざまなほどに狼狽えた。

 

「いったい、どうして、そんないきなり……」

「よく知らないけれど、一般に高校生ってそういうものじゃない。比企谷くんも、法界悋気を持て余しているってあなたのことを評していたし」

「くそっ、あいつ、ぶちのめす」

「もしかして図星なのかしら?」

「ば、馬鹿なことを言うんじゃありません! 俺はもっとこう、なにか深く思索をめぐらせて世のため人のためにと……」

「ふふっ、阿呆ね。語るに落ちているじゃない」

「うるさい、笑うな」

「大義を掲げるのも青春したいのも勝手だけれど、部活動には出なさい。奉仕部に所属していたからって他を犠牲にする必要はないのよ」

「雪ノ下さん、なにか勘違いをしているようですが、ぼくは青春に対して海よりも深い怨恨を抱えている男ですよ。そんなぼくが、やれ恋愛だ友情だに現を抜かすなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないですか。おかしいんですよ!」

「心配しないで、あなたがどんな恥ずかしい変態的願望を持っているかなんて誰にも言わないから。それより、もう行くわよ。湿布を貼ったから、あとで先生に伝えておかなければね」

 

 雪ノ下さんは丸椅子から立ち上がると、トントンと床を足で叩いた。もう痛みはある程度引いたらしい。

 

「どこに行くの」

「部室よ、決まっているじゃない」

「俺は行かないぞ」

 

 私が肩をいからせていると、雪ノ下さんは澄ました顔で言った。

 

「由比ヶ浜さんが出ていったときのこと覚えているかしら。約束をしたでしょう? 早く連れて戻って来るようにと頼んで、あなたは親指を上げて了承したはずよ。部長らしく堂々と言わせてもらうわ。約束は守りなさい」

 

 ぐうの音も出なかった。いたしかたあるまい。

 とりあえず私は、どこかほっとしながら恭順の意を装うことにして、楽しげな雪ノ下さんとともに部室へと向かった。

 

「お茶くらいは出るんでしょうね」

「そうね、熱い紅茶なら」

「冷たい玉露で頼む」

「死になさい」

 

 さすがにひど過ぎると思った。

 

       ◇

 

 一寸先も見えない荒涼とした高校生活のさなかに立ちつくし、私は幾度となく多数の私と議論を交わしてきた。一年生の二学期初日、天照大神のごとく天岩戸ともいうべき心の殻に閉じこもることになったあの日から今日に至るまで、定期的に意見を交換してきた会議場に、長い廊下を伝って、私はいま赴いている。

 私が登壇して、「奉仕部に復帰をしてみてはどうだろうか」と提案すると、議場は興奮の坩堝と化した。

 

「情けないぞ。あれだけ世の中に迎合しないと嘯いていたくせに」

「どうせ寂しくなったんだろう。兎みたいな男だな。人類としての誇りはないのか」

「一年前の誓いを忘れたとは言わせんぞ。この卑怯者め。歯を食いしばれ」

「青春ってなに? それ教科書に載ってるの? 面白いの?」

「由比ヶ浜さんは可愛いよね。でもそれだけサ。彼女には審美眼がない」

「裏切られたんだよ? 奔走して必死に彼女を連れ戻して、でも裏切られたんだよ? 比企谷だよ? ねえ、マゾなの?」

「鉄槌を下そう。奴は粉々にされてしかるべきだ」

「有意義な学生生活を送りたいなら、勉強をしよう。高校生の本分は学びだよ。しかし、奉仕部なんかにいて勉強ができるものかな」

「猥褻なことで頭がいっぱいなんだろう。所詮それだ。筋金入りの助平野郎め! エッチな雑誌で満足してればいいものを」

 

 ついに私は堪えかねて反論した。

 

「黙れ黙れ! たしかに猥褻なことで頭はいっぱいだが、この際それは関係ないだろう! 皆、待っている様子だし戻ってもなんら差し支えないではないか」

「ならば問おう。貴君はそれでいいのか? 流されるままに門戸をくぐり、何も成しえず負け犬のごとく逃げ出して、挙句の果てには尻尾を振って首輪で繋がれる。果たしてそれでいいのか? 貴君に意志はないのか?」

「意志はある。しかし、期待に応えるというのも、また大事なことだ」

「何を偉そうに! 貴君はただ逃げているだけに過ぎない。暗い土の中から一時的に陽の当たる地上に顔を出しても、根本的解決にはならんぞ。過去を肯定することから始めよ。奉仕部というぬるま湯で傷を癒そうとしても過去からは逃れられないのだ」

 

 私は身悶えするほかなかった。

 

「けど雪ノ下さんが……」

「女史の言うことなど放っておけ! あれはいささか乱暴だ、話にならぬ。そも、貴君は婦女子に強制されるほど軟弱者であったか? わかったら家に帰って、ショーペンハウアーの幸福論を百回音読しろ!」

 

 私は憤怒に膨れるだけで反論できず、「いやだ! 青春を謳歌するのだ!」と叫んだ。

 

「明快に説明せよ。青春とはなんぞや。友達とはなんぞや。恋愛とはなんぞや。貴君が今この時、奉仕部に帰還すべきだと主張するのならば、以上について万人の納得する定義を論理的に提示せよ」

 

 一斉に罵倒が飛んでくる。卑怯なり、裏切りなり、謀反なり、助平なり、阿呆なり、無謀なり……あらゆる罵倒を総身に浴び、壇上にある私は息も絶え絶えであった。

 

「しかし、諸君!」

 

 私は両手を上げ、満場の論敵たちに向かってかすれた声で叫んだ。

 

「しかし、一般の高校生はそれらを俎上に載せて論理的に考えているのであろうか。定義や根拠などと諸君は求めるが、そんなことに拘泥している暇があれば彼らはとっついてひっついて円満な関係を築くことに注力するのではないのか。あらゆる要素を仔細に検討してみても謎が謎を呼ぶだけに過ぎず、結果として虚空に静止する矢のごとく、我々は足を踏み出せなくなるのではないか。性欲なり流行なり俗物なり妄想なり阿呆なり、何と言われても受け容れる。いずれも当たっていよう。だがしかし、あらゆるものを呑み込んで、たとえ行く手に待つのが未曽有の悔恨であっても、闇雲に跳躍すべき瞬間があるのではないか。今ここで藁にも縋る思いで跳ばなければ、未来永劫、薄暗い青春の片隅をくるくる回り続けるだけではないのか。諸君はそれで本望か。このまま鬱々とした高校生活を送り、明日ある若者が内向的愚痴をだらだら零し続けるという切なすぎる未来を望む者がいるか。もしいるならば一歩前へ!」

 

 議場は水を打ったように静まり返った。

 私は疲れ果てて壇上から下り、また長い廊下を伝って、はっと我に返った。

 雪ノ下さんが訝しげに眉を寄せていた。

 

「何をしているの。さあ、入るわよ」

 

 いつの間にやら特別棟にたどり着いている。

 

「やっぱり行くのか……」

「当たり前でしょう」

 

 雪ノ下さんが部室のドアをがらがらと引いた。

 私は表情を引き締めて、数日ぶりに奉仕部へ足を踏み入れた。

 

 

       ◇

 

 こうして私は奉仕部に一時帰還した。

 部室にはすでに比企谷と由比ヶ浜さんの姿があり、我々の到着を一方は無表情で、一方はとびきりの笑顔で迎えてくれた。

 どんな話をしたかはよく覚えていない。一、二週間程度の不在を責められることはなく、ただ平生と何ら変わり映えのしない緩慢な時間が過ぎていたように思う。それが私にはわりと心地よかった。

 由比ヶ浜さんの顔を見つめ、視線を転じて雪ノ下さんを眺めた。いまさらながら、二人ともキレイな鼻をしているなと思った。比企谷に目を移す。相変わらずのスカした佇まいである。私は椅子を寄せると、彼の読んでいる小説の結末を微に入り細に入り克明に囁いてやった。比企谷は顔を歪ませて激怒していたが、いい気味だと思った。

 斜陽が部室をやさしく包み込む。そろそろ下校の時刻だった。

 突然、ふわふわとした妙な心持ちになってきて、あやうく涙を流しそうになった。しかしそれは自己を律する紳士のやり方ではない。私は涙を堪えて、きわめて冷静な表情を維持しつつ立ち上がった。

 

「えー、みなさん。お話があります」

 

 その日を最後に、期末考査のため奉仕部の活動は休止となった。

 

 そして同じく、私も「フルモデルチェンジする」と言い残し、奉仕部から退くことを言明した。

 

 

 


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