奉仕部と私   作:ゼリー

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第二十四話

       ◇

 

 一人しかいないのだから当然だが、会議室の中は水を打ったように静まり返り、雪ノ下さんが叩くキーボードの音だけが際立っていた。

 目頭を指で押さえた雪ノ下さんは、私が入室すると顔を上げてはっとした表情になった。しばし食い入るように私を見据えていた彼女は、ふと眉間にしわを寄せて冷たく言った。

 

「なにか用かしら」

 

 私は大変な居心地の悪さを感じながらも、軽く咳払いして言った。

 

「調子は、どう?」

「……冷やかしに来たのね。帰ってちょうだい」

「うん。では、帰る」

 

 渡りに船とばかりに私は踵を返した。相手が帰れと望んでいるのだからしかたない。御機嫌は斜めどころではなく真下を向いているようだし、素直に従うのが紳士の務めである。今日はここまで。また明日頑張ればいい。そう思って私が一歩踏み出したときである。ドアの丸窓にこちらの様子を窺う髪の長い女の顔を認め、私は夜道で変態に出くわしたような悲鳴を上げた。

 

「ど、どうしたの?」

「い、いまそこに顔が!」

「え?」

「お化けだ!」

「何もないわ」

「間違いなくそこにいたんだ!」

「馬鹿ね、あなた。幽霊なんて非科学的なもの信じているの」

「だめだよ雪ノ下さん! そういう浅はかな言辞を弄する者が、まず真っ先に呪われるんだ! 謝った方がいいよ」

「……騒がしいわね。幽霊さん、ごめんなさい。これでいいかしら」

「俺は知らないぞ。そんな心のこもっていない謝罪で……あれは、現世に深い未練を残して没した女性の霊だよ! もう知らないからな」

「結構よ。幽霊なんていないもの」

 

 雪ノ下さんの豪胆な挑戦的主張にあわあわと狼狽していた私は、インターネットで不可解な存在から身を守る方法を検索しようと携帯電話を取り出した。ディスプレイを表示させると一通メールが届いていた。

 

「私だ、馬鹿者。

 今日はここまでなどと諦めず、依頼はしっかり果たすように。

 なお、居残りの申請はしておきましたから安心してください。

 未練を残した女性より。」

 

 一瞬、何のことか判然としなかった私は、すぐに得心がいってほっと溜息をついた。よかった、雪ノ下さんは呪われずに済むのだ。ところが、安堵も束の間、紛らわしい真似をした平塚先生に対する怒りがふつふつと沸いてきた。おかげで雪ノ下さんに無様な姿を晒すことになってしまった。この責任は非常に重い。

 

「急に黙り込んで、今度はなに?」

「べつに。あ、もしかして騙された? いや、迫真の演技だったでしょう? ちょっと君の気分転換を、と思って一肌脱いでみたのだよ」

「あれが演技だとは、とうてい思えなかったのだけれど」

「もういいでしょ、終わったことだ。それより、何か仕事手伝うよ」

 

 雪ノ下さんは訝しげに私を睨んだ。

 

「……何が目的?」

「ちょっと、早くしてくれる? 俺も忙しいんだから」

 

 私はそう言って委員長の席に腰を下ろした。

 

「頼んでないわ。久しぶりに顔を合わせたと思えば、何よ、いきなり」

 

 私は胸にわだかまる恥ずかしさとやるせなさともどかしさに膨大な憤りを込めて、盛大な舌打ちをした。雪ノ下さんはちょっと驚いたようで、静かな声で言った。

 

「……怒っているの? 本当によくわからないのだけれど」

「よくわからないのはこっちだ。こんなんじゃいつまで経っても充実した高校生活なんて送れやしない。なんでいまさら俺が、雪ノ下さんを――」

 

 そこで、私はぐっと堪えた。精神の合理化を目指して自己を律しようとする男ならば、不必要な感情的発言は慎むべきである。冷静になれ、雪ノ下さんに当たっても事態は進展しない。むしろ悪化してしまうだろう。深呼吸だ、鼻で吸って口から息を吐く。私は取り澄まして言った。

 

「失礼。私としたことがやや興奮してしまった。ともかく、何か俺でも手伝える簡単な仕事はないかしらん」

「ないわ」

「まあ、そう言わずに。肩でも揉みましょうか?」

 

 雪ノ下さんは椅子ごと体を引いて、目の前にほやほやの馬糞でもあるかのように私を見た。

 

「今のは冗談が過ぎましたかね」

「……はあ。もういいわ。わかりました。あなたと話していると時間は有限だということをより強く実感できるわね。それじゃあ、これお願いできるかしら」

「お安い御用さ」

 

 雪ノ下さんは呆れた様子で、各クラスの企画申請書類を私に寄越した。この紙の束を精査して不備がないか報告すればいいとのことである。すみやかに終えて帰宅するために、私はさっそく書類に目を通し始めた。

 

「各事項の中に空欄があったら、クラスと空欄箇所をメモしておいて」

「へい」

 

 時刻は一八時半を回っていた。

 十分ほど黙々と作業した私は、小腹が空いてきたため鞄から魚肉ソーセージを取り出して頬張った。もぐもぐと咀嚼していると、隣から非難めいた視線を感じた。それでも私は二本目に手を付けて、これ見よがしに頬を膨らませた。お腹がくちくなり、作業を再開する。もう十分ほど根を詰めると、すべての企画書の点検が終わった。

 

「できたよ」

「そう。どんな具合?」

「一年は不備なし。二年は半分くらい。三年は駄目だなこれ、文化祭をナメてる」

「受験でそれどころじゃないのよ。致命的な問題じゃなければ、ある程度は無視するのが慣例だけれど、再提出してもらうわ」

「ふうん。また仕事が増えるわけか」

「……そうね」

 

 私は肩をすくめた。

 

「で、ほかに仕事は」

「今日はこれくらいにしましょう。ほんの微々たる助力だったけれど、お礼を言うわ」

 

 雪ノ下さんは疲れの滲んだ固い顔で「ありがとう」と言った。

 

「かまわんよ」

 

 私は筆記用具をしまって立ち上がった。雪ノ下さんも帰る支度をしている。開いていたパソコンを閉じて鞄の中に入れたところで私は訊ねた。

 

「それ、持って帰るの?」

「ええ」

「なんで」

「家で不足分を補うためよ。許可は貰っているわ」

「えらく頑張るね」

「仕方ないわ」

「大丈夫?」

 

 雪ノ下さんはふと手を止めて、重ね集めていた書類の一点に視線を落とした。ほんの数秒考え込むようにじっとしていたが、どこか諦めたような嘆息を吐いてふたたび書類を集め始めた。私はその様子から、だいぶまいっているな、と思った。

 消灯して会議室を出る。我々はともに職員室に鍵を返しに向かった。平塚先生は不在だった。文句の一つでも言ってやろうと息巻いていたのだが、いないのであれば、それはそれでありがたかった。

 煌々と照らされた昇降口を出ると、外はすっかり夜の帳が下りている。夏は過ぎ去って、肌にふれる風が秋の到来を物語っていた。

 並んで校門まで歩いていると、雪ノ下さんが消え入りそうな声音で呟いた。

 

「……奉仕部、辞めるの?」

「もう辞めたつもりだが」

 

 くしゅん、と雪ノ下さんが小さなくしゃみをする。

 

「君、体を壊すよ。そんな張り切っていたら、さ」

 

 雪ノ下さんは黙っていた。明らかに様子がおかしい。いつもの斬りかかるような鋭い迫力が欠けている。ゆえに私は訊ねた。

 

「もう俺には関係ないことだから、あくまでも社交辞令として訊くが、奉仕部で何かあったのかい」

「……ないわ」

 

 ためを作ってぽつりと彼女は否定した。予想していたことだ。いくら弱っていると思われても、そこは雪ノ下雪乃である。何があったか知らないが、泣き言を口にするつもりはないらしい。その心意気やよし。

 

「まあ、そう言うと思ったよ」

 

 これ以上深入りする気はない。安易な慰撫は相手を侮辱することに等しいのだ。そもそも私に慰められて雪ノ下さんが心安らぐとはとうてい思えない。私とて軽々しく憐憫をかけるなど御免である。そういうのは相手の傷の価値を露とも知らない軽薄な人間が、親切を装った自己満足で行うものである。決して紳士のやり方とは言えまい。

 しかしながら、平塚先生のこともある、これだけは伝えておこう。

 

「雪ノ下さん。君のような賢い人が、自身の体調管理を怠るようなことはしないよね。許容量くらいちゃあんと把握しているんだろう? 体を気遣って少しは――」

「そうね」

「休んだ方が……え?」

「あなたの言う通りよ」

「あ、はい」

 

 そのうち校門にさしかかった。

 私は頭をはたらかせてみたものの、もうかける言葉は見つけられなかった。というより、少々面倒になっていた。雪ノ下さんも比企谷と同様、竹を割ったような話ができないときがある。おそらく、今がそのときなのだろう。滑稽なほど謎めかせて、相手の気を引きたいのか、一筋縄ではいかない人間を気取っているのか、はたまた素直になれないのかは知らないが、もっと単純明快に受け答えできないのであろうか。いずれにしても、先方が胸中を打ち明けない以上、私にできることは極めて少なかった。

 とりあえず仕事をできる範囲で手伝えばいい、そう考えていると、ふいに雪ノ下さんが足を止めた。自然と私も立ち止まる。

 

「忘れ物?」

「ねえ……あなたは、もう……奉仕部には戻らないつもり、なのかしら」

 

 雪ノ下さんはわずかに瞳を揺らめかせ、しかしながら私から目を離さずに言った。弱々しい声音だった。

 一般に、このようなとき――ようするに相手が弱っているときは本心を偽る必要はないとはいえ、なるべく穏便に相手を慮って返答するのが望ましいのだろう。爾後の関係をこじらせないためにも「そのつもりだよ」くらいに留めておくのが最善だと思われる。しかしながら、私は唐突に、なにか堪えがたい苛立ちに襲われて、強い口調で詰問することを選んだ。どうにも雪ノ下さんの態度と、しつこい質問内容が癇に障ったようであった。

 

「君が奉仕部で抱えている問題を先に話せ。それからでないと、答える気はない」

 

 そのとき雪ノ下さんは、どこか放心しているように見えた。たとえるなら、信頼している飼い犬に噛まれてどんな反応をすればいいかわからない愛犬家、とでも言えばいいだろうか。それがまた私をむかむかさせた。良心の呵責を無視して、なおも続ける。

 

「話せないだろうね。結局、そんなもんさ。いつだって傲慢なんだよ、雪ノ下さん。なんでも思い通りになるとは思わんことだ。君は、そこまでの人間じゃあない。

 くそっ、なんか腹が立つな――いまだって、なぜそんな裏切られたような顔をしているの。そういう態度で、いったい誰が部に戻るというんだ。信用してほしいなら、信用するしかないんだよ。お分かりか?」

 

 口を閉じた刹那、私は猛烈な後悔に全身を苛まれた。体中が総毛立って、変な浮遊感があった。弁解させてもらうと、ここまで言うつもりはなかった。奉仕部の問題に介入する気などさらさらなく、自家撞着じみた詰問は、ただ雪ノ下さんのよく分からない態度が我慢ならなかっただけなのだ。事実、告白されても困るし、本意としてはちょっとお灸を据えてやるくらいの出来心だったのだが、私の予想に反して、それは口から澎湃と湧き出でてしまった。しかし、悔いたところでもう遅い。吐いた言葉は呑みこめない。

 ゆえに、だからこそ。

 

「概ね言いたいことは言った。そして言い過ぎた。ごめんなさい」

 

 私は瞬間的に謝罪した。

 驚くべき変わり身の早さと言わざるを得ない。取り返しのつかなくなる前の迅速かつ謙虚な判断であろう。

 

「鞄持つよ。パソコン重いでしょう? さあ、帰りましょう」

 

 茫然とした雪ノ下さんから鞄をひったくり、何事もなかったかのように歩き出す。

 きっと雪ノ下さんには、目の前の男がいったい何を考えているのか全然分からなかったであろう。本人である私にもいまいちよく分かっていないのだから、それも当然である。しかし、言うだけ言って別れると、後に遺恨を抱えることになりかねない。ゆえに、最悪手を打ってはいないという根拠のない自信だけはあった。とりあえずは野性の勘に従い、深い省察は後回しにして家に持ち帰ろう、私はそう思った。

 思った以上に鞄が重く、内心ひいこらしながらも私は努めて涼しい顔で最寄りの駅までの道を辿った。雪ノ下さんがどんな顔をしているのか分からないが、一応はあとをついてきているようだった。

 駅に到着するやいなや、雪ノ下さんに鞄を渡した。

 

「体に気をつけて」

 

 それだけ言うと、私は逃げるようにその場から辞した。

 

       ◇

 

 それからしばらく。

 私は放課後の時間を演劇の小道具づくりに費やした。主演の戸塚君や衣装製作の川崎さんなどと言葉少なに交流しながら、与えられたノルマを可及的速やかに終えて、自宅に帰る日が続いた。両の手は「星の王子さま」で不時着した飛行機を作りながら、頭では別のことを考えていた。

 ときおり、平塚先生が我がクラスの進行具合を見にやって来た。生徒指導の立場から、過剰な表現をけん制するため、あれやこれやと海老名さんに注意を与えていたが、目的はそれだけではなく、私に対するけん制も含まれていたことは言うまでもない。先生からちらちらと投げつけられる視線が私を苛んだ。

 咄嗟の機転で最悪の決別を回避することに成功していたとはいえ、あれだけのことを言った手前、何食わぬ顔で仕事の手伝いを買って出るには少々心の準備が必要であった。準備をしている間に、文化祭が始まってしまえばこれに越したことはないが、そうもいかないだろう。おのずとその時はやってくるに違いない。私は来たるその時に身構えながら、割合まめに小道具製作に没頭した。

 

        ◇

 

 「雪ノ下が体調を崩して、本日欠席しました。」

 

 そんなメールが平塚先生から届いたのは、文化祭まで残り一週間を切った月曜日の放課後のことだった。ただ事実だけを報告した文面に見えるが、文字列からは刺々しい非難が如実に漂っていることは猿でも分かるだろう。

 私は、平塚先生に対する言い訳を考えつつも、あれだけ健康に留意するよう諫めたにもかかわらず、体調を崩した迂闊な雪ノ下さんに腹を立てていた。一方で、誰にも頼れず相談もできない彼女を不憫に思った。孤高を拗らせた挙句に、セイフティネットワークから外れて孤独死する老婆の最期が幻視され、失礼ながらもさすがに可哀そうになった。

 携帯電話のディスプレイを睨みながら、さてどうしたものかと思案を巡らせていると、ふいに「ねえ」という声が聞こえた。

 

「ゆきのん、休んでる……知ってた?」

 

 由比ヶ浜さんが不安げに表情を曇らせていた。

 

「あ、うん。平塚先生からメールが来た」

「そっか。でね、あたしちょっと行ってみるよ」

「いいと思う」

「……うん。じゃあ、それだけだから」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って、弾かれたように教室を飛び出していった。

 わざわざ私に告げたのには、相応の理由が込められているのだろう。おそらく由比ヶ浜さんは、私が本気で奉仕部を退いたとは思っていないのかもしれない。夏休みが明けてから何度か、「部活先に行ってるね」と声をかけられているのだから推して知れる。ではどう宣言すれば退部したことになるのだろうか。私は真剣に悩みかけ、あやうくはさみで指を切り落としそうになった。いけない、こんなことを考えている場合ではなかった。今は雪ノ下さんのことである。由比ヶ浜さんはお見舞いに行ったが、比企谷はどうするのだろうか。

 教室のドアががらりと開かれ、折よく比企谷がやって来た。相手も私に用があるらしい。

 

「聞いたか、雪ノ下のこと」

「休んでるんだってね」

「俺は由比ヶ浜とあいつんちに行くつもりだが……」

 

 そう言って、比企谷は濁った目でひたと私を凝視した。いちいち報告されることで、妙な焦りを感じたが、とりあえず無視して私は訊ねた。

 

「場所は知っているの」

「由比ヶ浜がな」

「ふうん。なら、いたし方あるまい」

 

 比企谷はふっと息をついて笑った。

 

「偉そうだな」

「おまえよりはな」

「言ってろ」

 

 私は同じ小道具係の生徒に一言断りを入れて、鞄を肩にかけた。普段から製作に励んでいただけあって、相手は嫌な顔一つせず、否、かすかに顔を顰めはしたが快諾してくれた。

 そうして比企谷と私はともに教室を出た。校門前には由比ヶ浜さんがもどかしそうに我々を待ち受けていた。

 向かうは雪ノ下さん宅である。

 

       ◇

 

 茜色に染まった空の下、私は眼前に屹立する高層マンションに圧倒されていた。天を衝かんとするその威容は、下々の民が直視するにはやや高すぎるようで、多くの人間が反感を覚え、そして首を痛めたであろうことは想像に難くなかった。

 

「いつまで見上げてんだ、いくぞ」

 

 私は首をさすりながら、比企谷と由比ヶ浜さんの後についてエントランスへと足を踏み入れた。

 

「こんなところに一人で住んでいるのか、高校生の分際で」

「おまえ、そういうこと絶対本人の前で言うなよ」

「うん」

 

 我々の会話を尻目に、由比ヶ浜さんが雪ノ下さんの部屋と連絡を取ろうとしていた。呼び出し音が鳴ったが反応はない。ここへ来るまでに先方へメールや電話をしていたのだが、由比ヶ浜さんの携帯電話に折り返しの連絡は来ていなかった。ゆえに、門前払いの憂き目に遭う可能性は非常に高かった。

 比企谷が平坦な声音で言い、由比ヶ浜さんが心配そうに答える。

 

「居留守か」

「ならいいけど、本当に出られないくらい体調悪かったら……」

「まさか」

 

 私が一笑に付すと、二人から冷たい視線が送られた。慌てて「心配だから出るまで粘ろうか」と付け加える。

 由比ヶ浜さんがもう一度ベルを鳴らした。すると、ようやくスピーカーから声が聞こえてきた。

 

『……はい』

「あたし、結衣! ゆきのん、大丈夫!?」

『……ええ、大丈夫だから』

 

 私が、よかったじゃん、と肘で小突こうとすると比企谷はひょいと前へ出てスピーカーに向かって言った。

 

「いいから開けろ」

『……どうして、いるの?』

 

 スピーカー越しの雪ノ下さんの声はいないと思っていた男の出現にやや驚いているようであった。私は黙っていた。

 

「話がある」

『……十分だけ、待ってもらえるかしら』

「わかった」

 

 十分後、由比ヶ浜さんの促しに応じる形で自動ドアが開かれた。

 エレベーターに乗り込み、我々は十五階まで上がった。なにやら観葉植物が置いてある廊下を進んで、ひとつの扉の前に立った。

 由比ヶ浜さんがインターホンを押した。わずかな間があって玄関の扉がゆっくりと開く。雪ノ下さんが顔を出した。

 

「どうぞ、あがって」

 

 我々は由比ヶ浜さんを先頭にしてぞろぞろと広い玄関の中へと入った。馥郁(ふくいく)たる石鹸の香りがして、私は思わずびくりと体を硬直させる。思えば女性の部屋に上がるのは、これが人生初であった。この快挙を前にして胸にじんわりと小恥ずかしい気持ちが湧きあがり、同時に緊張で喉がおそろしく乾き始めた。それに比べて比企谷はやけに堂々とした佇まいである。私は裏切られたような心細さを感じた。

 雪ノ下さんの先導のもと、前の二人がリビングルームへと消えていく。ひとり廊下に取り残された私は、可能な限り口の中でぺちゃっぺちゃやって唾を生成し、喉を潤すことに必死だった。そのうちにお呼びがかかる。口内は未だ火星表面のごとくからからに乾燥していたが、しかたなく私はリビングルームに入室した。

 

「あっ……あなたも、来ていたのね」

 

 雪ノ下さんは青白い顔を引き攣らせていた。びっくりと目を大きく見開いて、心底信じられないというような顔だった。どうやら今まで私の姿を確認できなかったらしい。それにしたってこの反応は幾分失敬すぎやしないだろうか。招かれて早々に私は気分を害された。まあ、招かれたわけではないが。

 

「成り行きで、ね。体は平気かい」

「……ええ。どうぞ、座って」

 

 二人掛けのソファが机を前にして二つ直角に置いてあった。机の上にはパソコンと文化祭実行委員会のラベルが貼ってあるファイルが並んでいる。私は空いていたソファに腰を下ろした。

 しばらく雪ノ下さんは、壁にもたれかかってじっと私の方を見ていたが、気を取り直して「話って何かしら」と誰にともなく呟いた。

 

「今日、ゆきのんが休んだって聞いたから、大丈夫かなって」

「一日休んだくらいで大袈裟よ。学校に連絡もしていたのだし」

 

 私はご尤もと小さく首を振った。すると比企谷が言う。

 

「一人暮らしだからな。そら心配くらいされる」

 

 私はご尤もと大きく首を振った。由比ヶ浜さんが言う。

 

「それに凄い疲れてるんじゃないの? まだ顔色悪いし」

「立ってないで座りなよ。というか、なぜ立ってるの?」

 

 私が言うと、雪ノ下さんは顔を伏せた。

 

「ほら、ここに座りなよ。代わりに俺が立つからさ」

「……結構よ」

「いや君、体調が悪かったんだよね。なぜ強情を張る」

「そうだよ、ゆきのん。無理しちゃだめだよ」

「無理なんか――」

 

 不毛な押し問答の結果、しぶしぶ雪ノ下さんは私と立ち替わり腰かけた。私はきらきらと輝く新都心の美しい夜景を一望できる窓のそばに立った。いかに考えても高校生が住むには奢侈が過ぎる部屋である。

 

「多少の疲れはあったけれど――」

「ゆきのんが一人でしょい込むこと――」

 

 私は窓際で黄昏ながら、奉仕部員たちのごちゃごちゃした言い合いを聞き流していた。自発的に口を挟む気は毛頭ない。私がここにいる理由は、平塚先生の抗しがたい圧力によるものであってそれ以上でも以下でもないからだ。

 由比ヶ浜さんの怒気を孕んだ声がした。また言葉の応酬。私はどこか冷めた心持ちで、よくもまあ赤の他人をそんなに気遣えるものだと、由比ヶ浜さんの性根に感心した。ともすれば雪ノ下さんの自由意志の掣肘にも受け取れる彼女のやさしさは、幼稚で狭量な私には少々眩しすぎた。

 そのうちに比企谷が口を開く。

 

「誰かを頼る、みんなで助け合う、支えあうってのは一般的に正しいことこの上ない。模範的な解答だろ。でも理想論だ。それで世界は回ってない。必ず誰かが貧乏くじ引くし、押し付けられる奴は出てくる。誰かが泥をかぶんなきゃいけない。それが現実だろ。だから、人に頼れとか協力しろとか言う気はない」

 

 比企谷の主張は概ね正しいと言えた。しかし、個人的に認めるわけにはいかない。私のためにも雪ノ下さんには協力的であって欲しい。一度引き受けた頼みをこれ以上疎かにするわけにはいかないのだ。雪ノ下さんが再び過労で体調を崩すなんてことがあれば、それは私の沽券に関わってくる。文化祭がどうなろうと知ったことではないが、私にもプライドがあるのだ。

 

「でも、お前のやり方は間違っている」

「じゃあ……正しいやり方を知っているの?」

「知らねえよ。だけど、お前の今までのやり方と違ってるだろうが」

 

 魚を獲って与えるのではなくその獲り方を教える、ずいぶん昔に雪ノ下さんがしたり顔で宣っていたことが思い浮かんだ。二人のやりとりは奉仕部内の問題が関係しているのだろう。しかしながら私はその内容をなにも知らない。知らないことは述べない。

 沈黙が訪れたところで、由比ヶ浜さんが奥ゆかしいくしゃみをこぼした。雪ノ下さんが慌てたように言う。

 

「ごめんなさい。お茶も出さずに……」

「いいよいいよ、そんなの。あたしやるし、ゆきのん」

「体調の方は心配しないで、一日休んでだいぶ楽になったから」

「体調の方は、か」

 

 比企谷が含みのある言い方で言葉を挟んだ。

 雪ノ下さんはそれを無視して立ち上がるとキッチンの方へ向かおうとした。そこへ由比ヶ浜さんがおそるおそるといった体で口を開く。私は、甘くないもので、という言葉をなんとか呑みこんだ。

 

「あのさ、ゆきのん……誰かとかじゃなくて、あたしたちを頼ってほしいな。あたしはべつに何か役に立つってわけじゃ、その、ないんだけどね。でも力になりたいから……それにヒッキーは――」

「紅茶でいいかしら」

「砂糖抜きで」

 

 だしぬけに私が言うと、皆一斉にこちらへ視線を向けた。由比ヶ浜さんの真心こもった親切も意に介そうとせず、薄暗いキッチンへ消えようとしていた雪ノ下さんでさえ、私を見ていた。

 私はちょっと狼狽えたが、聞こえなかったのかと思い、繰り返した。

 

「あの、砂糖は抜きで。ストレートが好みなので」

 

 異常な喉の渇きのなか、甘ったるい紅茶など断じて飲みたくなかったのである。

 しばし黙然とした間があった。

 ふいに比企谷が失笑した。由比ヶ浜さんは目をぱちぱちと瞬かせている。雪ノ下さんは呆れ顔をしていたが、こくりと頷いてようやくキッチンに入っていった。

 

「おまえなあ……ホント、おまえ、ヤバいぞ。致命的に阿呆だわ」

「え、なに」

「あ、あははは……いやあ、あれはちょっと信じられないっていうか……さすがにって感じ、かな」

「悪いが、本気で甘いものは飲みたくなかったんだ。真剣なのよこちらも」

「まあ、いいんじゃね。久々に吹いたわ、俺」

 

 そう言って比企谷は思い出したようにまた笑った。つられて由比ヶ浜さんも笑みを浮かべる。私は馬鹿にされているのは承知だったが、たしかにあの容喙(ようかい)は場の雰囲気を壊すものだったかもしれないと、二人の嘲笑を甘んじて受け入れた。

 拳を力いっぱい握りしめ苛立ちを忍んでいると、雪ノ下さんがお盆に紅茶のカップを載せてやって来た。机にお盆を置くと、棘のある口調で言った。

 

「はじめから砂糖を入れて出すわけないじゃない。何のためにシュガーポットがあるのよ」

 

 由比ヶ浜さんが苦笑いしている。私は抗議を無視していただきますと言った。ソファに腰かけるのも忘れなかった。立って飲むなどという行儀の悪いことをしては躾をした母親に顔向けができない。なお、アイスティでなかったことに落胆し、シロップ抜きでと言えばよかったと後悔した。

 三人が紅茶をふうふう冷ましているなか、私は隣に座る雪ノ下さんに言った。

 

「由比ヶ浜さんがさっき言っていたけど、俺は大賛成だな。奉仕部のことは知らんが、文化祭に関する仕事はどおんと頼りたまえ。どうせあと一週間ほどだしな。ただし、限度は弁えてくれよ。俺にもプライベートがあるんだからさ」

 

 比企谷が「相変わらず一言多いな」と呟く。静かに紅茶をソーサーに戻すと、雪ノ下さんは探るような目つきで言った。

 

「この前の……帰りの時の言葉は、どういうつもりだったの」

「謝ったじゃないか、忘れてくれ。虫の居所が悪かっただけだ。そんなときって、あるでしょう?」

「……ないことも、ないわね」

 

 雪ノ下さんは、一瞬斜向かいの二人に視線を投げてから、続けた。

 

「けれど、いいの? 奉仕部のことについては」

「かまわん。話したくないなら話さない方がいいんだよ。それに、もともと大した興味もないからね」

「……なによ、それ」

 

 カップの中に視線を落とした雪ノ下さんの表情は、先ほどと比べ幾分か和らいだようだった。それに気づいた由比ヶ浜さんも目じりを下げる。何はともあれ、お見舞いは首尾良くいったらしい。であれば、長居は無用だ。一息に紅茶を飲み干す。

 私が腰を上げようとすると、比企谷がいきなり決定的なことを言った。

 

「で、おまえ。奉仕部にはいつ戻るんだ?」

 

 これだ。私がもっとも恐れていたもの。すなわち、今の面子で集まった時、この不用意な言葉をいつか誰かが吐くと思っていたのだ。比企谷は今、敢えて言及したと思われる。口の端を歪めているのを見れば明白だ。その故意犯的所業、絶対に看過できるものではない。許すまじ。

 

「な、なに言ってんの。俺はもう辞めたんだが」

「だって、あれだろ? まだ受理されてないんだろ? 退部届」

「えー、されたような、されてないような……」

「……そうなの?」

 

 横で雪ノ下さんが目を細めて私を見つめる。

 じっとりとした視線に堪えられなくなった私は、勢いよく立ち上がった。鞄を手繰り寄せて、軽く頭を下げる。

 

「ごちそうさまでした。由比ヶ浜さん、また明日。比企谷てめえ、覚えてろよ。では、お先に失敬」

 

 そそくさとリビングを後にして廊下を抜ける。

 急いで革靴を履いていると、背後から声をかけられた。

 

「今日はありがとう」

「う、うむ。いいさ、いいさ」

 

 声で雪ノ下さんだと分かる。いたくやさしげな口調だった。一方、私は靴ベラを扱いながらかすれた声で返した。余計な詮索を受けそうで気が気ではなかった。

 

「それで、明日、手伝ってくれるかしら。クラスの準備が終わってから、少しだけ……」

「うん、いいよ」

「では、お願い、ね」

「はいはい。それじゃ、これで」

 

 私が玄関のノブに手をかけると、「あっ」と小さく雪ノ下さんの声が漏れた。まずいと思いつつも、私は振り返る。

 

「なに」

「い、いえ、べつに、その……」

「退部届のことは聞いてくれるな。つまりは、そういうことだから」

 

 この際である、私は先回りして釘を刺すことにした。

 

「それは……本当はよくないけれど、今はもういいの。違うわ……あの時の話、あなたが話せと言ったこと。奉仕部が――いいえ、私自身が抱えている問題だけれど……ええとね、いつかきっと、あなたに話すわ。だから、その――」

「いえ、気遣ってくれなくて結構。では、また明日。くれぐれも体に気を付けなされ」

「え、ええ」

「ほな、さいなら」

 

 別れの言葉を背中で聞きながら、私は雪ノ下宅を辞した。

 エレベーターに身を滑らせると、箱の中で私はほっと息を吐いた。非常に危ないところであった。雪ノ下さんはいささか感傷的になっていたように思われる。体力が衰え、つられて精神も脆くなっていたゆえに、何か私の手におえぬ重大な事実を仄めかそうとしていた。以前に私の言ったことを意図しているのであれば、一応信用に値する人間だと認められたことになるのかもしれない。それに関して喜ぶのは、まあ、やぶさかではないが、そもそも私に話すのはお門違いなのである。なんと言っても、もはや私は奉仕部員ではないからだ。

 ともあれ、あと一週間もすれば文化祭は終わり、徒労に煩わされることもなくなる。それまでは平塚先生の心証をこれ以上悪化させないように辛抱するしかなかろう。

 私は、雪ノ下さんがもう余計な心労を溜めないことを祈りながら、とっぷりと暮れた街路を歩いていった。

 

 


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