奉仕部と私   作:ゼリー

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第二十七話

       ◇

 

 その後、私と川崎さんは騒々しい校舎を練り歩き、催し物を見て回ったり、模擬店で求めたイカゲソを二人で頬張ったりして、敵情視察を終えた。

 楽しげな川崎さんをよそに、私は真剣だった。気に障ったクラスの出し物や模擬店は事細かにメモに取り、公演開始の時刻になるまで法界悋気の茨道を歩き続けた。

 

「付き合ってくれてありがと。楽しかった」

 

 川崎さんのお礼にも、手負いの獣のように眼光炯々としていた私は、ただ一言「警戒せよ」と呟いて返答した。

 ふたたび阿呆を見る目をした川崎さんと別れた私は、照明の落とされた教室の一番後ろで戸塚君、葉山君主演の舞台『星の王子さま』を観劇した。その出来栄えは無類で、思わず文化祭という敵地にいることを忘れてしまうほどであった。原作を十回以上も繰り返し味わってきた私が言うのだからお墨付きというやつである。大筋や要点はしっかり踏襲し、そのうえで創造性も加味された大変素晴らしい脚本だったし、なにより戸塚君の演技が見事だった。きっと彼はこの舞台を通して多くの生徒を不毛な恋路に誘うことになるだろう。初演が終わり一息ついた主演両名と、総指揮を執った海老名さんに称賛の言葉を贈ると、私はどこかで早めの昼食をとるべくクラスを後にした。

 

       ◇

 

「それじゃあ、張り切っていこー!」

 

 生徒会長である城廻先輩が片腕を高々と掲げたのを合図に、私は燃え滾る闘魂を抱えて会議室の席を立った。

 時刻は午後二時、昼食後ともあって、文化祭の活気は最高潮に達していた。糖分を補給したことによって有り余る情熱をさらに持て余した生徒たちが、それを他者に無理強いすべく躍起になっている時間帯である。浮ついた雰囲気は留まるところをしらず、鉄筋コンクリートの校舎は地上三十センチぐらいは浮遊しているように思われ、校内各所で暑苦しいまでの熱気が立ち込めて、上を下への大騒ぎであった。したがって、あちらこちらで諍いやトラブルが起こるのは当然のなりゆきといえる。そこで組織されたのが、文化祭実行委員会の校内パトロール班である。

 この校内パトロール班は、トラブルに対応するだけでなく、模擬店や催し物への調査も行う。たとえば、申請されていた内容と異なる出し物をしていたクラスや団体に、注意や指導をするというものである。そんなパトロール班に私も加わっていた。人手が不足していたらしく、雪ノ下さんに参加を願い出るとあっさりと承諾してくれたのだ。意気揚々と会議室を出発する面々の後ろを、これから始まる孤独な闘いを前にして私は武者震いしながらついていった。

 

「どうしてそんなに気負っているの、ただの見回りよ? もしかして緊張していたりするのかしら」

 

 同じパトロール班で隣を歩く雪ノ下さんが言う。

 

「べつに緊張なんかしてない。ただ、高めているだけだ」

「……ええと、何を」

「士気だ」

「しき」

「さむらいの気だ」

「ああ、士気ね」

「うむ、士気だ」

「なぜ?」

「きみには関係ない」

「そう」

 

 雪ノ下さんは聞き分けのない子どもと会話しているかのようにため息を吐くと、静かに言った。

 

「あまり変なこと、しないでちょうだいね」

 

 私は一笑に付して黙殺した。

 さて、私のこの文化祭ファシズムとの一戦は、やや見苦しいところがあり、その様子をすべて細大漏らさずお伝えすると、いかに寛容な諸君といえどもきっと眉をひそめて、私のことを悪しざまに罵ることになりかねないので、一部だけを書くことにする。簡潔に申せば、青春闇市たる文化祭とその厚顔無恥な無法者たちに一矢報いるため、校内を縦横無尽に暗躍して回ったのだ。本日は私単体で、そして一般公開となる二日目は息を吹き返した材木座も加え、天誅は熾烈を極めることとなった。

 まず我々校内パトロール班が向かったのは一年生のクラスが並ぶフロアである。ここでは、さきほど川崎さんと敵情視察をしていた際、立ち寄った「占い喫茶」という出し物を潰してやった。なぜかと問われれば、占い喫茶と銘打っているにもかかわらず、内実ほとんど出会い喫茶みたいな様相を呈していたことが挙げられるが、最大の問題は、あまりに不吉すぎる残酷な将来を占って私を慄かせたことだろう。「男だけのフォークダンス」を踊り狂うことになるとか、「妖怪ぬらりひょんみたいな怪人」に付き纏われて大学生活を台無しにするとか、夏の古本市でなぜか「火鍋」を囲んで死にかけるとか、そんなことを予言されて黙っていられるわけがなかった。尻の青い一年生のお子ちゃまには良い教訓になったことと思う。黒髪の乙女と喫茶店で語らっているような幸せな未来を占っていれば、彼らも涙をのむことにはならなかったであろう。ざまあみろ。

 私の助言を発端に雪ノ下さんから占い喫茶の一時営業停止が言い渡された後、我々は次に二年生のフロアへ進軍した。ここには悪名高き、あの「フィーリングカップルゲーム」の2Cがある。

 私はなんとか怒りを抑えて静かに言った。

 

「雪ノ下さん」

「なに?」

「2C、ちょっといかがわしいぜ。調査すべきだ」

 

 雪ノ下さんはちらりと視線を2年C組に送ると、提出された申請書類に目を通し始めた。その間に、私は先頭を歩く生徒会長にも進言する。

 

「生徒会長殿、このハートマークはいささか破廉恥ではありませんか? やっている内容もまるで低俗的ですよ。放っておいていいのですか?」

「うーん? じゃあ、ちょっと覗いてみよっか」

「よろしくお願いします」

 

 生徒会長を筆頭にパトロール班が2Cへガサ入れを行う。全財産を失った投資家のような虚ろな目で立ちつくす材木座の姿を見出した私は、中には入らずひとり廊下で待機していた。戦意喪失した彼に、いま必要なのは慰めの言葉ではない。彼を奈落の底へ落とした無自覚な加害者への正義執行である。

 数分後、戻ってきたパトロール班の報告を聞いて私は失望した。申請内容と特に異なった営業をしているわけではないため、不問とするとの旨を伝えられたのである。私はすぐさま生徒会長に抗議したが、暖簾に腕押しといった具合で取り合ってもらえなかった。

 

「くそっ、明らかに風営法に抵触してるじゃないか」

「大げさね。あれくらい、どうってことないじゃないの」

「県の条例違反だ! 俺は絶対に認めないぞ」

「あなたの認可なんて必要ないのだけれど」

「雪ノ下さん、見損なったよ。きみが青春ファシストだったなんて。俺は悲しい」

「お黙り。阿呆が伝染(うつ)るから、静かにしてちょうだい」

「ひっ、ひどい」

 

 こうなれば実力行使である。怒りに打ち震える身体をなんとか抑えて、私は厠と偽って一時離脱を申し出た。パトロール班を先に行かせると、私はこっそり出口側から2Cへ忍び込み、教室の隅に身を隠した。そうして阿呆面さげてキャッキャウフフと浮かれる軟弱な青春ファシストたちを興ざめさせるべく、両想いのカップルが成立するまさにその瞬間を狙い、電光掲示テーブルのコンセントをぷっつりと抜いてやった。ふいにその場は静まり返り、一呼吸おいてざわざわと不満の声が上がり始め、続いて男どもから喧々囂々たる文句が飛び交いだした。司会の生徒はオロオロと視線を彷徨わせ、他のスタッフが急いで原因を追究し、ようやくコンセントが抜けていたことに気が付くが、そのころにはすでに私はとんずらしていた。潰すまでには至らなかったが、持ち合わせていたビニールテープでコンセントプラグをぐるぐる巻きにしておいたから、しばらくはあのけしからんゲームは行えまい。ざまあみたまえ。これが天の裁きだ。材木座の受けた屈辱には足りないが、これで少しは彼も心が晴れたことだろう。

 その後、何食わぬ顔でパトロール班に舞い戻った私は、申請とはまるで異なる危険な出し物をしていたクラスを伝え、3Cのトロッコ遊びを迅速に停止処分に追い込み、またほかのいくつかの出し物を一時停止、あるいは活動内容の即時変更を認めさせるに至った。

 こうして、文化祭初日の私の孤独な闘いは、ある程度の成果と、摘んでは芽吹き、せき止めては湧いてくる途方もない敵、すなわち青春の膨大な戦力を思い知らされる結果となった。彼らは我々パトロール班との問答を面白がっているふしがあったような気がする。自分たちの正当性を主張するそのこと自体が、文化祭という空気の中で、彼らにとってひとつのエンターテインメントと化してはいなかっただろうか。私の闘いは彼らの絆をより強固にするような余興ではない。限りなく余興に似た闘いであっても、そこには富士山よりも高い誇りがあるのだ。

 

「ご苦労さま」

 

 会議室に戻ってくると雪ノ下さんが私を労った。

 

「この後はどうするの?」

 

 窓からは淡い夕日が差し込んでいたが、文化祭はまだ続くようであった。すでに生徒会長や他の委員たちは、トンボ返りのように賑やかな校舎の方へ戻っている。

 私は胸にやり場のないくすぶりを感じながら、「帰る」と言い捨てた。明日のために用意するものがあったのだ。

 

「あなた、姉さんと話したらしいわね」

 

 帰宅の準備を急いでいると、雪ノ下さんがふと言った。

 

「あの、ね。一応、言っておくけれど、姉さんには気をつけなさい」

 

 雪ノ下さんは腹になにやら思惑を隠し持っているような顔をしていた。

 

「気をつけるって、何を?」

「いろいろ、よ。どうせ鼻の下を伸ばしていたのでしょう?」

「失敬な。断じてそんなことはない」

「うそ。知っているわよ」

「な、なぜ? まさか、見てたのか!」

 

 雪ノ下さんはくすくすと笑った。

 

「ほら、そういうところ。あなた、わかりやすいのよ」

「は、謀ったな! 卑怯だ」

「これでも心配しているの。すぐにのせられるから、あなたは」

 

 かまをかけておきながら、いっこうに悪びれる様子もなく雪ノ下さんは言った。

 

「気をつけなさいね」

「余計なお世話だ」

 

 私はむっとしてそう返す。

 

「また、明日」

「……さようなら」

 

 胸の前でひらひらと手を振る雪ノ下さんを一瞥して、私は会議室を出た。

 

       ◇

 

 文化祭ファシズムとの戦いは二日目に突入した。

 きっと友人知人に囲まれて学校生活、あるいは仕事に精を出し、休日は恋人と小粋なランデブーを楽しむような読者諸兄のことだから心配ないとは思うが、くれぐれも我々の闘いを真似するようなことはしないでいただきたい。たしかに我々は己の信念に忠実であり、身を賭して文化祭を戦場と見なしていたが、一方からすればただの悪ふざけと見なされる場合もあるのだ。しかもそれが迷惑行為と断じられて、しかるべき処分を下される可能性もある。文化祭宣伝用の横断幕に落書きをしたという、どうしようもない理由で停学、あるいは退学ともなれば、もはや未来に望みを託すことは叶わなくなるだろう。自室に引き篭もって、キノコの苗床人間としての生涯をまっとうする公算が非常に高くなる。これは真夏に火鍋で死にかけるよりつらい。

 したがって、我々は文実や先生、そして文化祭ファシストの目を盗み、細心の注意を払いながら、戦場を駆け抜けた。

 

「マジで持ってきたのか」

「見損なうな。我を誰と心得る」

 

 私はやや尻込みして材木座に言った。

 

「本当にやるな?」

「天誅を加えると、あれほど猛っていたではないか」

「うん。しかし俺は天誅だと思っているけど、世間の目から見れば、間違いなく阿呆の所業だ」

 

 一応、昨日は文化祭実行委員という建前と大義があったが、これから行う闘いはかぎりなく個人的復讐に近い。

 

「世間を気にして、貴様は信念を曲げると言うのか? 我が身も心も委ねたのは、そんな漢ではないぞ」

「気持ち悪いよ」

 

 私と材木座はこそこそと移動すると模擬店が並ぶ一画の背後にやってきた。風向きを考慮に入れて、模擬店からは死角となっている校舎の影に身を潜ませると、私は持参したビニール袋、材木座は幾重にも重なった一斗缶を地面に置いた。

 

「よし、やってやるぞ」

 

 我々は四つの一斗缶に用意してきた炭を入れて火をつけた。そうして網を載せると、ビニール袋から十本近い秋刀魚を並べた。準備は整った。

 むろん、秋刀魚を焼く行為というのは、食べるためにするものである。決して、大量の煙を発生させるためだけに行うものではないし、ましてや、それを風に乗せて人に迷惑をかけたり、面白おかしく盛り上がる文化祭の参加者を攻撃するためのものではない。繰り返すようだが、くれぐれも真似はしないでいただきたい。

 今が旬の香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。同時にもくもくと薄墨色の煙が立ち込める。我々の背後から模擬店の方へ向けて、強い潮風が吹いた。自然の法則に従い、煙は一斉に模擬店へと流れていく。

 

「うひょひょひょお、いいぞいいぞ!」

 

 材木座がいまだかつて聞いたことないような声で哄笑を上げた。

 

「材木座、団扇だ! もっと炭をあおげ! 煙を増やせ!」

「合点承知! うひょひょひょッ」

 

 そのうち手が付けられないくらいに濛々と煙が立ち込め、もはやこの位置からでは模擬店が判然としないほどになった。ほとんどボヤである。

 

「よし、逃げるぞ!」

 

 私はそう言うと、きわめつけによくかき混ぜた納豆を秋刀魚の横にばらまいた。えもいわれぬ臭気が芬々と漂いはじめる。日本人の朝食的攻撃である。これで味噌汁をぶっ掛けられればなお良い。

 

「天誅、天誅!」

 

 狂ったように叫ぶ材木座を引っ張って、我々は煙と臭気で阿鼻叫喚となっている模擬店の一画を目指した。

 マスクを装着し、無事チョコバナナを売る模擬店の前まで来ると、材木座と目で合図を交わす。あたかも煙や発酵臭の被害者であるかのごとくふるまいながら、私は模擬店に張り付けてあるポップ広告に0をひとつ付け加えていく作業に没頭した。百円のコーラが千円になり、二百円のわたあめが二千円になり、三百円のラブラブ苺パフェが三十万円になった。煙と臭気の騒ぎを聞きつけた文実が現れる頃になって、我々はその場を離脱した。

 校舎裏の外階段で落ち合うと、私と材木座は無言で握手を交わし、健闘を称え合った。煙と臭気があの界隈から晴れる頃、あらゆる模擬店は物価がジンバブエ的に高騰していることに気が付くだろう。しばらくは混乱が続き、客離れが加速するはずだ。上出来で、文句なしだった。言うことなしだった。にもかかわらず、腹の奥底からは空気が抜けるように言葉が漏れた。

 

「俺たち、何やってるんだろうな」

 

 我々の総意に、材木座はうおん、と鳴いて応えた。

 

       ◇

 

 だが、しかし我々は止まらなかった。負けなかった。負けることができなかった。

 そして負けていた方が、きっと我々もみんなも幸せになることができた、とは言わない。みんなは幸せかもしれないが、我々は相対的に不幸であるという現実に押しつぶされていただろう。だから止まらなかったのだ。

 頭の片隅に何度も「不毛」という言葉がよぎったが、我々はその後も文化祭との大立ち回りを演じた。ゲリラ的に校内各所を引っ掻き回して、気が付けば文化祭も残りわずかという時刻になっていた。千里の堤も蟻の穴からということわざを信じて走り抜けたものの、我々の眼前には、「かゆいかゆい」とびくともしない文化祭が屹立していた。体育館では滞りなく閉会式が行われようとしており、これでは富士の山を蟻がせせる、だった。

 私と材木座は閉会式前の有志によるコンサート中の体育館に忍び込むと、躁状態にある群集の中へ動くおもちゃのヘビやゴキブリを解き放つことをもってして、この戦いに幕を閉じた。蠢く爬虫類や昆虫の大群にコンサートが台無しになることを願うが、おそらくもみくちゃにされたあげく、踏みつぶされてゴミになるのがオチだろう。

 

「疲れた」

「うむ」

 

 校舎裏の階段で我々は乾杯した。一仕事終えたあとのサイダーは汗と涙の味がした。

 

「やるだけのことはやった」

「うむ」

「最後に、見届けよう」

「うぬ?」

「俺たちが何を為して、何を為せなかったのか」

「それはいい考えであるな」

「なにゆえ戦い抜いた俺たちが、こんな校舎の片隅にいる必要がある? もっと相応しい場所があるだろう」

 

 俯いていた材木座が顔を上げる。

 

「覇者である織田信長が安土城から世間をあまねく睥睨したごとく、我々も彼を見習うべきだ。この戦の勝利者として」

「異議、なしである!」

 

 適当な御託を並べてみたものの、その実、生まれかけている唾棄すべき後悔を一刻も早く捨て去るために、気分転換が必要だっただけである。この校舎裏の外階段は、私や材木座にとって不遇の象徴であるからだ。

 我々は重い腰を上げた。

 

       ◇

 

 途中、気安く話しかけてきた川崎さんを無言の眼光で黙らせ、私と材木座はふらふらと特別棟までやってきた。フィナーレが近いこともあって、校内に人気はまばらだった。生徒たちは体育館に集まっているのだろう。私はふたたびヘビとゴキブリの縦横無尽の活躍を願った。おぼつかない足取りで階段を上ると、我々は屋上の扉を開いた。

 

「うわぁ」

 

 手摺付近に佇む先客の後ろ姿を見て、戦いの傷を癒そうと思っていた私は、やや気分を害された。先客は物音にはっと振り向いて、なんとも微妙な面持ちで我々を迎えた。待ち人の来訪を裏切られたかのような顔と形容すればいいかもしれない。失敬なその女生徒には見覚えがあった。たしか比企谷の相棒で、文化祭実行委員長の相模さんである。ようするに敵の総大将ということになる。

 普段であれば、曖昧な笑みでもひとつこぼして失礼するところであるが、落ち武者のごとき我々にそんな気遣いは不可能である。すでに戦は終わり、無用な争いは望まないものの、近寄らば斬り捨てるという気迫だけは持ちながら、我々は相模さんから少し距離を取って手摺に体を預けた。

 

「これでは、かっこよく余韻に浸れないではないか」

 

 材木座が相模さんを意識しながら小声で言う。

 

「なぜ女子がいる」

「知らねえよ。しかもあの人、文化祭実行委員長だぜ」

「んま! 我らが宿敵ッ」

 

 潮風に混じって、軟弱な楽器の音や誰かの歌声がかすかに聞こえてきた。体育館では何事もなくコンサートが続いているらしい。私は歯噛みした。

 

「あのぉ」

 

 おそるおそるといった声が聞こえてきたのは、材木座の携帯電話が鳴るのと同時だった。私は材木座の「我だ」という応答の声を耳にしながら、相模さんの方を向いた。

 

「なにしてるんですか? エンディングセレモニーは、えっとぉ……」

 

 私は「えっとぉ」の続きを待ったが、いっこうに続く気配はなかったので、ここぞとばかりに不敵な笑みを浮かべて言った。

 

「閉会式には出ません、開会式も出てませんからね。ところで、文化祭実行委員長、見事な文化祭でした。じつに良い勝負でしたね」

「……え、はあ、うぅん?」

 

 私はこのとき、文化祭の中心人物たる実行委員長がなぜ閉会式直前にこんなところにいるのか、という疑問には迂闊にもまったく思い至らなかった。そして、彼女がこのとき私に尋ねたのは、閉会式がすでに始まっているのかどうかについて、だということにもまったく気が付かなかった。

 

「ときに委員長殿、模擬店でのボヤ騒ぎには閉口しましたね?」

「……え? そんなのあったんですか?」

「え? いや、え?」

 

 私は愕然とした。

 彼女の耳に届いていないということは、下っ端委員の間で内々に処理される程度のトラブルに過ぎなかったということである。

 

「で、では、調理室のシャボン玉騒動は?」

「す、すいません。ちょっとわかんないです」

「そんなぁ……」

 

 彼女は本当に文化祭実行委員長なのか、という疑いが首をもたげたが、会議室において雪ノ下さんの隣で委員長席に座る相模さんを実際に見ているのだから、現実から目を背けるわけにはいかなかった。我々の闘いはなんだったのか。彼女のどこか当惑したような様子は、むしろ我々のような雑魚を歯牙にもかけない王者然とした佇まいに感じられた。ゆるく漸減していた私の意気は、この瞬間、粉々に砕かれてしまった。

 うなだれる私に、ふと材木座が言う。

 

「八幡から電話を受けた」

「あ、そう……」

「人を探しているようであったが」

「知らねえよ! そんなこと!」

「何を怒っているのだ?」

「てめえ、バカ、てめえ。これが怒らずにいられるかい」

「なぜだ?」

「なぜって、お前……もういいよ。で、誰を探しているって?」

「そこの人だ」

「え?」

「だから、そこの実行委員長だ」

「へえ。なんでだよ」

「知らん」

 

 比企谷が誰を探していようと心中では我関せずであったが、そのときになってようやく私は、閉会式が始まるにもかかわらず、相模さんがこの場にいる異常性に気がついた。

 

「比企谷に教えたのか?」

「それが、その前に切られてしまってな」

「ふうん」

 

 そのとき私には、このまま放っておけば閉会式に文化祭実行委員長が不在という、なんとも間抜けで私好みなフィナーレを迎えるのではないかという姑息な期待が生まれていた。ここで、なんとか彼女を足止めできないものかと、数十通りの策が浮かぶ。最後に意趣返しができるかもしれない! しかし、私はいくばくか逡巡したのち、紳士たるもの負けた時にこそ潔くあるべきだと前を向いた。

 

「委員長殿、そろそろ閉会式が始まるようですよ」

 

 にわかに相模さんは眉根を寄せていまにも泣き出しそうな表情をした。そんな反応をされるとは思わなかった私はかなり慌てた。

 

「ど、どうしました?」

「べつに、うちがいなくても……」

「はあ?」

 

 言っている意味がわからなくて、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。文化祭の終わりに文化祭実行委員長がいなくていいわけがあるまい。それとも、「老兵は死なず、ただ去るのみ」的な意味合いがあるのだろうか。だとすれば、見事というほかない。老兵とは、老いた兵ではなく、戦場を斃れず生き抜いた強靭な戦士に与えられる称号なのだから。

 

「雪ノ下さんがいるし、うちはもういいの」

「なっ……」

 

 私は呆然とした。

 これが勝者の謙遜であろうか。敵ながら、あっぱれ。すがすがしい風が心の中を吹いた気がして、私は竜虎の争いを制した側の代表に惜しみない拍手を送った。彼女の物思いに沈んだように見える顔も、おそらくは使命を果たし、あとはただ静かに退場していくことへの一抹の寂しさから来たものなのだろう。完敗だった。彼女になら煮るなり焼くなり好きにされてもよい、そう思った。言い換えると、ようするに、まあ、ヤケクソだった。だって、悲しそうな乙女の取り扱い方なんてわからないのだもの。

 

「材木座、ほら、お前も早く手を叩け」

「なぜだ」

「いいから」

 

 そうやって我々がぱちぱちと最大限の敬意を表しているときだった。

 

「え、何、この状況」

 

 階段に続く扉を開いて、ぬっと下っ端実行委員の比企谷が姿を現した。

 




この場を借りて、誤字報告、訂正していただいた方に感謝を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。

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