◇
「あの、お取込み中悪いけど、エンディングセレモニー始まるから、戻ってくれ」
「そんなものには、出ない」
「右に同じである」
「お前らには言ってねえよ!」
材木座が話していた通り、比企谷は実行委員長を探していたようだ。相模さんを閉会式に連れていくためであろう。ボスがいると部下たちはのびのび出来ないことを悟り、成長を促すためにも後を託そうとする涙ぐましい彼女の決意を知らないらしい。しかし、なぜ比企谷が来たのだろうか。もっと相応しい人物がいるような気がしてならない。
「ていうか、いつまで拍手してんだよ。うるさいから止めろよ」
私と材木座は顔を見合わせると、手を止めた。正直なところ、いい加減腕が疲れていたのでありがたかった。
「とにかくだ、いま雪ノ下や三浦たちが時間稼いでる。その間に戻るぞ」
「そんなものには、出ない」
「右に同じである」
「だから、お前らには言って――」
「いや、委員長殿の話だ。ですよね?」
私が目をやると、相模さんはこくんと頷いた。
「あー、これややこしいやつだぁ」
比企谷が小さく呟いた。濁った目をしばたかせて、一瞬すべてを中空に投げ出そうとする阿呆の顔つきをしていた。その様子にやや親近感を覚える。
「ということだ、八幡。ゆえにお主もここで黄昏に身を任せようぞ」
「任せるわけねえだろ。こっちはマジで急いでんだ、余計なこと言うな」
「目を覚ませ、比企谷。お前のそれ、本当に急ぎの用か? じつはそう錯覚しているだけ、なんてことはないな?」
私が尋ねると、比企谷は途方に暮れて、即座に息を吹き返した。
「よし、お前らは無視する。相模、戻るぞ」
「……雪ノ下さんがやればいいじゃん」
「くそっ、もう面倒くさいな! お前じゃなきゃダメなんだよ」
「えっ……」
「お前の持ってる集計結果とかが必要なの。発表だってお前がやるんだ」
「……そう」
相模さんが我々の方にちらりと視線を寄越した。私は肩をすくめる。材木座はスマートフォンをいじっている。後はご随意に。
相模さんの目に光が宿った。
「いまさら戻れない。集計結果だけ持っていけばいいじゃん」
今度こそ比企谷は途方に暮れた。私はふたたび拍手を送る。材木座は液晶画面を指でタップしている。
比企谷の隣に立つと、私はその肩に手を置いた。
「もう、休め」
「依頼なんだよ、奉仕部活動の。最後にあいつを――相模を舞台に立たせて委員長としての責務をまっとうさせなきゃ、奉仕部を、いや、雪ノ下を否定することになるんだ」
比企谷は小さな声でそう告げた。
「今だって、そのために雪ノ下や由比ヶ浜たちはステージに立ってるんだぞ、ぶっつけ本番で」
「マジか」
なるほど、奉仕部活動か。
私はなんとなく事態が飲み込めてきて、文実とはいえわざわざ比企谷がこの場に来たのもワケがあるのだと思った。とりあえず、雪ノ下さんならまだしも、由比ヶ浜さんの尽力を否定し、悲しませるのは酷かもしれないと瞬時に私は心の中で断じる。
比企谷が私の耳元で続けた。
「こういうことはあまり言いたくないが、相模は委員長としては最悪だった。ただ肩書が欲しかっただけなんだよ。ほとんど仕事らしい仕事もしてない。だから、最後くらいは責務を果たすべきなんだ。終わりよければ、なんとやらっていうだろ。あいつのためでもあるんだ」
私はすべてが瞭然としたわけではないが、ここは比企谷に従うべき場面ではないかと考えた。彼の話を聞くと、途端に相模さんが能無しのお飾り委員長に見えてきたのだから、我ながら冷血すぎはしまいかと自分が嫌になる。しかし、比企谷の人を見る目には重きを置いているのも事実だ。
私は文化祭ファシズムとの闘いを思い出し、その戦火を相模さんが知らなかったことを考え、寛大な気持ちになってから言った。
「実行委員長殿、やっぱり戻りましょう。戻るべきですよ!」
相模さんは眉根を寄せた。
「でも、うちはぜんぜん役に立ってないし……」
「たしかに役立たずかもしれない。それでもいいじゃないですか」
すると比企谷に小突かれて、「言い方考えろ馬鹿」と耳打ちされた。
私は頭をひねり、実益的な面を述べてみた。
「ここで中途半端に投げ出すと、内申点に響きますよ」
ふと相模さんの瞳が揺れる。どこか迷っているようだ。やはりいつの時代もものをいうのは理想ではなく現実だ。現実的に益のある話をすれば誰しも目の色を変えるのである。と、そんなことを考えていたが、しかしながら相模さんは二の足を踏んで首肯しなかった。
私は比企谷を流し見て「お手上げだ」と言った。比企谷も比企谷で出来ることは何もないと悟っていたのか、口惜しげに拳を強く握っている。材木座は相も変わらず離れたところでスマートフォンをいじっていた。わかってはいたが、ここぞというときにまったく使えない奴である。
これ以上は無駄だし、そもそも私になんの義理があって相模さんを説得する必要があるのかという根本的な問いが、にわかに浮かび上がってきた。敵に塩を送る行為をしてなんになる? 青春ファシズムに抗っていた我々のやることではない。そうだ、おうちに帰ろう。帰って、静かに猥褻文書でも紐解こう。そう思ったときだった。
背後の扉が開く音がして、我々はみな弾かれたように振り返った。
「ここにいたのか……。捜したよ」
そこにいたのは我らがハンサム、葉山隼人君であった。
◇
それで、どうなったか。
一言でいえば、比企谷と葉山君が二役に分かれ、あからさまに明暗を分かつことで事態は収拾した。つまり、比企谷はお得意の陰湿な手を講じて悪役に成り下がり、姫を救う白馬の王子様役を葉山君がこなしたわけである。『ほしの王子さま』にも劣らぬ見事に演出された劇は、文化祭実行委員長である相模さんに己の責務をまっとうさせるべく奏功した。しかし、この悲喜劇を細々と書くつもりはない。私と材木座はほとんど蚊帳の外であったし、なによりそれが見るに堪えない無様なものだったからだ。御都合主義的立場からものを言うのも卑怯かもしれないが、相模さんによる愁嘆場にはいささか閉口した。どっちつかずのぐずぐずとした態度が癇に障ったのだ。だから、比企谷の直截な言葉に胸がすく思いだったのは否定しない。むしろ、もっとやれもっと言え、と心の中で扇動していたほどである。
稀代の悪役、比企谷は言う。
「お前は結局ちやほやされたいだけなんだ。かまってほしくてそういうことやってんだろ? 今だって、そんなことないよって、そう言ってほしいだけなんだろうが。そんな奴、委員長として扱われなくて当たり前。本当、お前、最低だよ」
いや、しかし、最低とはよくぬけぬけと言ったものである。私は「おまえこそ最低だ。しかし、悪くない」と比企谷に心の中でエールを送った。
比企谷は陰湿さに辛辣さを加え、相手の心理を穿つ鋭い言葉を次々と吐いて、とうとう葉山君を激昂させた。怒るのも当然である。私は改めて比企谷という人間の卑劣さに瞠目した。そして、敢えて彼を諫めなかった私や材木座の卑劣ぶりもなかなかだと認めた。潔く。
言われ放題の相模さんがしくしくと嗚咽を漏らしだすと、さすがにかわいそうになった私は、にわかに忸怩たる思いが湧いてきて、その辺にしておけと比企谷を制止しようとした。女の涙にほだされない男はいないのだ。いるとすれば、よほどの冷血漢かあるいは男にみえる女である。そしてそのときであった。
「比企谷、少し黙れよ」
怒りに駆られた葉山君は比企谷の胸倉をつかんで壁に押し付けた。いまにも火花散る殴り合いに発展しそうで、私は伸ばしていた手を引っ込めて狼狽えた。
暴力は紳士の見過ごすべきものではない。材木座は物陰に隠れてあわあわと震えていたので、しかたなく私が前に出た。よもや、私まで詰められるということにはなるまい。
「は、葉山君。乱暴はいけないよ、落ち着いて」
さすがにいきなり殴り合うという非文明的なことにはならなかった。
獣のごとく睨み合う両者をなだめるべく、後ろで呆然としていた相模さんとその取り巻きが私に加勢した。
「ほら、急がないと閉会式が始まってしまうよ」
「そうだよ! 葉山くん、もういいから、やめよ! そんな人ほっといて、行こ。ね?」
「そうそう、喧嘩はよくないって!」
「わ、我もそう思う」
「急ご、葉山くん」
背中で息をしていた葉山君は比企谷から手を振りほどくと、平静を装って「早く戻ろう」と相模さんたちを促した。文化祭実行委員長とその取り巻きは扉を開けて、体育館へと去っていく。比企谷への暗い感情と心ない言葉を吐き捨てながら。最後に、葉山君はひどく悲しそうな面持ちで言った。
「どうして、そんなやり方しかできないんだ」
比企谷はちらりと彼を一瞥すると、「ふん」と鼻で笑って、へなへなと腰を下ろした。強がったふうだが、明らかに震えている。私は、ものすごくダサいなこいつ、と思った。
比企谷はしばらく身じろぎもせず、秋の暮れゆく空を眺めていた。それから、ふとこんなことを言って、私の皮膚に鳥肌を立たせた。
「ほら、簡単だろ。誰も傷つかない世界の完成だ」
比企谷は言ってから、しまったというように顔をしかめた。
余談として、私と材木座は以後数か月にわたってことあるごとにこの台詞を引用し、比企谷を赤面させた、というのは言うまでもないだろう。
◇
長かった文化祭が終わった。後に残るのは熱狂の静かな余韻と役目を終えた祭りの残骸ばかりである。
あれから比企谷と屋上で別れた私と材木座は、間を置かずしてこちらも各自赴くままに別方向へと歩みをとった。奇妙な節をつけて古いロボットアニメの歌を歌いながら階段を下りていく材木座を見送って、私は手摺の方へ歩いていった。
「宴のあと」と言うべき空しさが漂い、少し肌寒くなった潮風が身に染みた。私は盛りだくさんな一日を反芻しようと試みたが、不必要に傷つくおそれを感じてすぐに記憶に蓋をした。反省するのはいいが、やはり後悔だけはしたくない。とにもかくにも昨年の雪辱だけは晴らすことができたと心を落ち着けながら、私は長い間、手摺に気怠く腕を預けていた。
そのうちに体育館の方角から歓声が聞こえてきて、私は閉会式の幕が下りたことを知った。ふいに、ひと際強い潮風が吹いた。文化祭にやって来て風邪をひいて帰るのも癪なので、私は屋上を去ることにした。
さて帰ろうかと廊下を歩いていると、前方からがやがやと閉会式を終えた生徒たちがやって来た。ほくほくと満足げに言葉を交わす連中から一人の女生徒が抜け出すと、ぱたぱたと私の方へ走り寄ってくる。
「やっはろー」
由比ヶ浜さんだった。さすがの彼女も二日間のお祭り騒ぎには疲れたらしい。心なしか元気のない顔をしていた。私たちは通る生徒の邪魔にならないよう廊下の隅に移動した。
「文化祭終わっちゃったねー」
「うん」
「ねえ、最後のライブ観た?」
「ライブ? いや、観てない」
「えー、あたし歌ったんだよー。でね、ゆきのんがギター弾いたの。体育館にいなかったの?」
「うん、まあね」
由比ヶ浜さんは目をぱちぱちさせると、じっと私の顔を見つめた。
「もしかして、ヒッキーと?」
「え?」
「あ、ほら、さがみんのことで、その……」
心苦しそうに口ごもる由比ヶ浜さんに、私は屋上での出来事がすでに明るみに出ていることを知った。ただ、彼女の反応を見るに、私や材木座の存在は公言されていないのかもしれない。迷ったが、いずれどこからかバレると思い、私は言った。
「うん。偶然だけどね」
「そっか……」
「実行委員長に聞いたの?」
「実行委員長ってさがみんだよね」
「相模さんです」
私がそう言うと、由比ヶ浜さんは「えっと、周りの子がね」と苦笑いを浮かべた。
「あのね、たぶん、だけどね」
「なに?」
「うん……たぶんね。ヒッキー、嫌われると思う」
「だろうね。あれはなかなか酷かった」
そう言って私が豪快に笑うと、由比ヶ浜さんはぷりぷりと怒り出した。
「もー、笑わないでよ、あたし真面目に言ってるんだからっ」
「ご、ごめんなさい」
「うん……だから、さ。ヒッキーのこと、ちゃんと見ててね。きっと男の子同士じゃないと分からないことって、あると思うから」
私が返答に窮していると、由比ヶ浜さんは続けた。
「ヒッキーはさ、悪気があってやったんじゃないと思うんだ。何か考えがあって、それはバカなあたしには、たぶん分からなくて」
「分からなくていいと思う」
「え? うん。でもね、やっぱりみんなから嫌われるのって、すごくつらいと思うから」
「自業自得だと思うんだけどな」
「あー、すぐそーゆーこと言うし、もう」
「まあ、由比ヶ浜さんがそこまで仰るなら、わかったよ。べつにあいつのためってわけではないが」
「うん、ありがと。お願いね」
由比ヶ浜さんは花が綻ぶように笑うと、「それじゃあ行こ」と言った。
「どこへ?」
「ん? 教室だよ?」
「いや、俺は帰るつもりなんだけど」
「帰りのホームルームは?」
そんなものが文化祭当日まであるとは知らなかった私が驚いていると、由比ヶ浜さんはくすくす笑った。
「打ち上げの話も出るみたいだから、行かないともったいないよ。ていうか文化祭、欠席扱いになっちゃうかも」
「それはそれで、かまわないけれども」
並んで教室に向かう道中、由比ヶ浜さんに「打ち上げ行くでしょ?」と尋ねられたが、私はそれどころではなかった。比企谷がこんなにも彼女に想われていることが腹立たしくて仕方なく、あのとき私も黙っていないで、相模さんを徹底的に扱き下ろすべきだったのではないかと血迷ったことを考えていたのだ。学校中から嫌われるのと、ただ一人由比ヶ浜さんにだけ理解されて心配されるのとであれば、後者を選ぶくらいには私も愛に飢えていた。
その後、教室ではつつがなく帰りのHRが行われた。比企谷は例のごとく机に突っ伏して寝た振りをしていたし、相模さんはいまだにくすんくすんと鼻をすすっていた。葉山君はやっぱりアルカイックに微笑んで悠然としていたし、川崎さんは憂鬱そうな顔で窓の外を眺めていた。戸塚君は心配で顔を曇らせて比企谷を見ており、そしてそれは由比ヶ浜さんも同じであった。
ふいに私は、雪ノ下さんはどうだろうと思った。彼女も屋上での出来事を知っているはずだ。すると彼女はどんな言葉を比企谷にかけるだろう。なに、きっと、私と大差あるまい。私がするように、きっと雪ノ下さんも比企谷を評価するだろう。閉会式は無事終わったらしい。口惜しいが、今度の比企谷の手腕は見事というほかない。
生徒たちが打ち上げ会場に向けて、教室を出ていく。私はそれには混じらずに、ひっそりと廊下へ出た。すぐに見慣れた後姿を発見する。
「おい」
「おう」
比企谷は校内一の嫌われ者という称号を得たにもかかわらず、まるで何事もなかったかのようなしれっとした顔をしていた。満足げな顔もしていないし、悲愴な顔もしていない。ただいつものようにポケットに手を突っ込んで前傾姿勢でスカしているだけである。私はやはり由比ヶ浜さんの頼みなど、真に受ける必要はない気がした。
「打ち上げにはいくのか」
「それを俺に訊くか」
「あえて、訊いてみた」
「んじゃ、あえて答えるわ。行くわけねえだろ阿呆」
私は「だよな」と呟いた。そういう私も、むろん行くつもりはなかった。気の置けない仲の知り合いが少なすぎて腫れもの扱いが目に見えていたからである。いや、そもそも私は文化祭を楽しむ連中とは人生哲学を異にしているわけであり、彼らの道は私の道ではないのである。打ち上げに参加するなど言語道断だった。
「文実は大変だった?」
「まあ、多少はな。なんか馬鹿な奴がいたみたいでさ、外で秋刀魚焼きやがったんだよ。そのせいで記録雑務の俺まで駆り出されたよ。模擬店がえらいことになってた」
「ふうん、面白そうだな。そんな傾き者がいたとは。ほかには?」
「傾き者っておまえよくも……まあ、いい。ほかは特にないな。軽度のいたずら騒ぎは、毎年あるらしいし」
「へえ、そう」
もはや私は意気消沈したりしない。どうせ、そんなことだろうと思っていたからである。とはいえ、日本人の朝食的攻撃がある程度の騒ぎになったのは痛快だった。
「で、お前、帰るのか?」
「うん」
「そうか。ちょっと部室寄ってかないか?」
「断る。奉仕部からは足を洗ったんだ」
「まだ洗えてないぞ。顧問が認めてない。それに部長も」
「……では、くるぶしくらいまでは洗った」
「なんだよそれ」
比企谷はくつくつと喉を鳴らすように笑った。
おい笑うなと比企谷の肩を小突く。
「慰謝料三万な」
「比企谷菌に触れた俺に? そいつはありがたい」
「ガキかよ……」
「なんだと、この野郎」
「おい、二回も殴るな」
「殴ってなどいない。これは重力に従ったまでだ」
「なら俺は神に従ってお前を蹴る」
「アッ、キックは反則だ!」
そんなことをしながら我々は歩いた。廊下のいたるところに、文化祭の残骸が転がっていた。私もこの打ち捨てられた残骸の一部のような気がした。クラスの連中も、それに雪ノ下さんや由比ヶ浜さんも、そして認めたくはないが、この比企谷だって立派に文化祭を青春していたのだろう。それに比べて私はどうであるか。考えたくもなかった。
「文化祭なんて、未来永劫滅びてしまえばいいのに」
「いきなりどうした」
「なんでもない。本音の全部が漏れてしまっただけだ」
「一部じゃないのか。おっかねえな」
「次は体育祭か」
「そうだな」
「校庭に直径五十メートルの穴が空いたら、中止になるかな」
「そりゃ、なるだろ」
「俺はやるぞ」
「無理だろ。重機でも借りてくんのか」
「明日から毎日スコップでちょっとずつ掘る」
「掘りきる前に卒業するだろ」
「そうか、卒業しちまうか。では校長を襲おう」
「冗談でも言って良いことと悪いことがあるんだぜ」
「これは冗談ではないから、その限りではない」
「悲しいな。お前もついに退学か」
「うそうそ。冗談。失敬した」
気が付けば部室前までやって来ていた。
扉を開ける前に、比企谷はなぜか目を泳がせながら言った。
「助かったよ」
「なにが」
「屋上でさ、葉山に掴まれたときだよ」
「俺は何もしてないんだが」
「止めようとしただろ」
「まあ、やむを得なかったからね」
比企谷のことだからいろいろ思惑があったのかもしれない。人一倍誠実であろうとする葉山君は、あの場面ではまず間違いなく怒るだろう。だが、どう転んでも切った張ったというような事態に陥ってはならない。それは誰も望まないのだ。温厚な彼のことだからそんな羽目にはならないだろうが、万が一を思えば止めに入ったのは正解だったはずである。ほかの誰でもない、葉山君のためにも。そのことを比企谷は言っているのだと思う。比企谷は誰よりも姑息で陰湿で卑劣で最低だが、同時に誰よりもやさしいのかもしれなかった。私にはそれが頼もしくあり、戦友として誇りに感じるのだった……。
なんてことを思うはずもなく、比企谷のどこか達観した風情がじつに気に食わなかった。
「誰も傷つかない世界の完成だな」
「……次にその台詞を吐いたらぶち殺すぞ」
私は思うことがあって、少し考えてから言った。
「実行委員長には謝っておけよ。すくなくともあの人は傷ついただろ」
「……やだよ。俺は間違ったことをしたつもりはない」
「いや間違いまくりだろ。正しいかもしれんが、女を泣かせるやつにロクな男はいないからな。そしてだ、泣かせる台詞というのはね、いいかい比企谷君、惚れた女にするもんだ」
いつか観たハードボイルド映画のタフな主人公を真似てにやりと笑えば、比企谷はものすごく不愉快になる顔をした。正直なところ自分ではかなりイケているつもりだった。
「なんだ文句あんのか」
「いや、それお前が言うには五世紀くらい早いと思ってな」
「やかましい」
比企谷に謝るつもりなどないことはわかっていた。当然だが、謝るくらいなら初めからあのような弁舌を振るわないだろう。いかにも青春活劇の端緒たる出来事で、謝罪から始まる不埒なラブロマンスがありそうなものだが、さすがと言うべきか、私が促した程度では彼の信条は少しも動じないようである。この何ものにも染まらない、これこそ比企谷が「ボッチ」たる所以であり、私が一目置いている理由でもあった。比企谷はやはり比企谷である。私はいつなんどきも変わらぬ比企谷に、人知れず深い安心感を覚えた。たかだか文化祭などに、我々を変える力などまったくありはしないのだ。そして肝要なのは、私が青春できないことよりも、ほかの近しい誰かが青春しないことである。己のおそるべき卑劣さにやや慙愧の念を感じないこともないが、文化祭を終えた直後ということもあり見逃してやることにした。
私は大きく伸びをして、比企谷の肩を叩いた。
「ま、お前はよくやったよ。しばらくはこれまで以上に浮くだろうが、望むところだろ。何かあったらとどめは刺してやるから安心しろ」
「あー、はいはい」
そのとき、ふいに部室のドアが開いて、部長の雪ノ下さんが顔を出した。
私は彼女が何か言おうとする前に慌てて口を開く。
「では、俺は帰るよ」
「おい、寄ってかないのか?」
「だから、さっきもそう言っただろ。俺は奉仕部員じゃないんだ」
「部員でないと入ってはいけないなんて規則はないわ」
雪ノ下さんが言った。
私は軽く肩をすくめると、踵を返した。
「ま、待ちなさい」
「用事があるんだ。二人とも、打ち上げなどという馬鹿騒ぎには決して参加しないように。偏差値が下がるよ」
私は手を上げて「さよなら」と残し、振り返らずに廊下を歩いた。背後からじっとりとした視線を感じたが、それ以上声はかけられなかった。
校舎を出ると、無人となった模擬店が私を迎えた。祭りの後とはなんとも悲しげなもので、いくら怨み骨髄の文化祭であっても、どこか感じ入るものがあった。私は芭蕉の句を思い出し、「夏草や兵どもが夢の跡」と口ずさんだが、しっかりセンチメンタルになっている自分に気が付くと、情けない己を叱咤した。掲げられた看板「千葉の名物、踊りと祭り! 同じ阿保なら踊らにゃsing a song‼」を睨みつける。
「阿呆なら踊ってないで、もうちっと勉強せいやコラ」
そう呟くと、かすかに香る秋刀魚の残り香を吸い込みながら、私は足早に校門をくぐり抜けた。
その日の夜、平塚先生は労いの、雪ノ下さんからは文化祭のことでお礼のメールが来ていた。雪ノ下さんのメールの文面は感謝を表しているわりには、ひどく刺々しく、行間からは非難めいた態度が見え隠れしていたので、また私の知らないところで何かがあったのかと少々気が滅入った。しかし後に比企谷から聞いたところによると、じつは、諸々のお礼に忙しい中クッキーを焼いてきたにもかかわらず、私がさっさと帰ってしまったことが原因らしいとのことだった。
私は呆れた。せめて連絡の一つは入れておくべきだろうに、どこまで不器用な人なのか。
「クッキー、また焼いてください。次は食べます」
後日、そんなメールを送ると、すぐに返事が来た。
「もう二度とあなたには作れません」
変な誤字が、余計に私を痛めつけた。