奉仕部と私   作:ゼリー

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第三話

       ◇

 

 私が通う総武高校は、その普請的観点から非常に明らかである。幾何学に基づいて建てられたのだろうか、四つの辺で構成される四角のような形をしているのだ。どっしりとしていてどこまでも明らかな恰好は気持ちがいい。一つ難点を言えば、私が学ぶ教室から奉仕部の部室がある特別棟まで距離がある、それだけだろう。

 授業を終えた私は、部室へ向けた歩みをとめ、少しばかり四辺で囲まれた中庭を眺めた。のんべんだらりとした生徒たちが思い思いの時間を友人たちと楽しく過ごしている。私は意図せず「フフッ」という、自分でも得体の知れない奇妙な笑いを零した。

 

「あなた、大脳新皮質にウジ虫でも湧いているの? 気持ち悪いからやめなさい」

 

 私ははっとして、振り返った。数歩ばかり離れたところで、丁度、部室へ向かっていた雪ノ下さんが忌避の目で私を見つめていた。私は赤面すると「失礼しました」と言い、すでに部室へと入っていった彼女の後を追った。

 雪ノ下さんはいつものように定位置に腰を据え、文庫本を読み始める。同様に私も椅子に座って『星の王子さま』を取り出した。すでに数十回は読んでいるにもかかわらず、読む度に涙を流し、サン=テグジュペリに深い畏敬の念を覚えるこの本は私の愛読書のひとつであった。嗚呼、サンテックス、あなたはきっと最後の飛行で地中海からどこか遠い星へと旅立ったのだろう。私はまた涙を流した。

 

「遅いわね」

「……本当に大切なものは目には見えないんだなあ――何か言った?」

「由比ヶ浜さんと比企谷君のことよ。少し遅いようね。それであなた、なにを泣いているのかしら、気持ち悪い」

「こ、これはですね、涙の国に思いを馳せていたといいますか、あるいは――それより確かに遅いね」

 

 我々が、部室で本を読み始めてから一時間ほど経過していた。普段ならとっくに勢揃いしていてもおかしくない時間である。けがらわしいY染色体をもつ比企谷などどうでもいいが、可愛らしい由比ヶ浜さんが来ないと、どうにも活気が満ちてこない。満ちてこないばかりか、減退の一途をたどる可能性もある。

 たしかに、少し離れてはいるものの、隣には才色兼備の雪ノ下さんが優雅に本を読んでいる。これで活気が満ちないなど、奢侈思考も甚だしいと諸君は思うかもしれない。しかしながら、私の心は至って繊細且つ華奢なのである。彼女の虚飾を帯びない実直な言葉はときとして私を大いに閉口させ、全治数日の精神的裂傷を負わすということを、諸君には認識してもらいたい。そんなものが比企谷に向けられるのはいっこうに構わないのだが、私はもう切ない気持ちになりたくないのだ。ゆえに、彼女と二人きりのときは基本的に読書に没我するか、誤謬に気をつけて話をするかのどちらかであった。

 ついでに申せば、雪ノ下さんと結ばれるなどという絵空事が、不可能に近いことも悟った。彼女は始終中世ヨーロッパの城塞都市のように堅固な外壁で身を包んでおり、そこへ非武装で突入しようとしていた私は、なんとまっすぐ且つ、愚かであっただろうか。まさに愚直の一言に尽きる。

 いまや私はその城壁を攻略することはほとんど諦めていた。そして自覚したのである。私はふはふはして、繊細微妙で、夢のような美しいもので頭がいっぱいな優しい乙女が好みであると。一度自覚してみると、敢えて私がここに所属している意味がないと感じ始め、仮入部の特権を行使し、すっぱり辞めてしまおうか悩んだ。いちどその旨を比企谷に伝えると、「てめえぶち殺すぞ」と凄まれてしまい、腐った目が怒りに燃えている様に気圧された私はついつい残留を決めてしまったのである。

 

「来たようね」

 

 廊下を歩く音が近づいてくるとドアが開いた。

 

「なんだ比企谷か」

「俺で悪かったな。ていうかなに泣いてんだよ、気持ちわりいぞ」

「こんにちは。ずいぶん遅かったわね」

「おう、ちょっとな」

 

 比企谷はそう言うと、椅子に座り文庫本を開いた。この態度になぜか著しく気分を害された私は彼に詰め寄った。

 

「こら、てめえ。何スカしてんだよ」

「はあ?」

「まあ、いい。弁解を聞こうか」

「何の弁解だよ。過去にいろいろあり過ぎて弁解してたらキリが無いんだが」

「職場見学のときに決まってるだろう」

「……別にいいだろそれは」

「いいもだくだくもあるか」

 

 顔を背け、はぐらかそうとする比企谷になおも詰問しようと、私は身を乗り出したが、雪ノ下さんが「なんのことかしら」と話に加わってきたので、彼女に任せることにした。

 

「だから何でもないんだって」

「本当になんでもなかったらそういう風にあらぬ方向をみたりしないものだわ。私たちはもう慣れているから、嫌悪したりはしないわ。だからその腐った目でまっすぐこちらを見ても大丈夫よ。さあ話しなさい」

「お前、それ励ましてるのか貶してるのかどっちだよ。むしろ俺がお前らを嫌悪しまくりなんですけど」

「雪ノ下さん、コイツなめてますよ。やっちゃいましょう」

「どこの三下だよお前は。明らかに瞬殺されるザコのセリフだぞそれ」

「はぁ……話がすすまないのだけれど」

「ほらほら雪ノ下さん、コイツしばきましょう。ささやかな肉片にしちゃいましょう」

「もうお前は黙ってろよ……」

 

 どうせろくでもない癖に、わざわざ秘密をかもし立たせる比企谷にいっそう腹を立てた私は、雪ノ下さんを煽って、一泡吹かせてやろうと散々に横から口を出した。もはや、比企谷の隠している秘密などどうでもよくなり、なんとか痛い目にあわせてやりたくなっていたのが本心なのではと問われれば、否めない。否めないのだが、やっぱり気になる。

 その後も、喧喧諤諤とした言葉の応酬が続けられたが、これ以上の自白は望めないと判断した雪ノ下さんは収拾をつけるために言った。

 

「とにかく、由比ヶ浜さんに関する話ということはわかったわ。そこの目だけでなく舌も腐った男は、もうほっときましょう。あとは、彼女が来たときに訊けばいいわ」

 

 比企谷は少し安堵した様子だった。

 

「なんて口が堅い男なんだ。少し見直したぞ」

「そりゃどうも。見直したついでに、俺との関係も改めてもらえませんかね」

 

 それを機に、各々が再び読書へと戻っていった。私は、いつもならもう少し突っかかってくる比企谷の顔面から、少々覇気が失われていることが気になった。

 結局、その日、由比ヶ浜さんは部室に現れなかった。

 

       ◇

 

 奉仕部における最初の活動らしい活動は、由比ヶ浜さんの依頼であった。

 入部してから数日間、我々は互いに干渉することなく読書ばかりしていた。それに関して特に異論は無かったのだが、ある日、三人寄れば文殊の知恵という諺を引用してここを哲学部に改めるべきではないかと私は二人に主張したことがあった。

 

「よくもそんなことが言えたものね。あなたその諺の真意を理解して言っているのかしら」

「もちろん。文殊菩薩は俺の守護本尊だからね」

「はあ、阿呆ねあなたは本当に。……いかに凡人でも三人集まって話し合えば素晴らしい知恵が生まれるということよ。もう分かったでしょう? あなたと産廃眼の持ち主はきわめて的確だろうけれど、私が凡人なわけないでしょう」

「ちょっと待て。何も喋ってない俺を当たり前のように貶すのはやめろ」

「あら、貶してなんかいないわ。だって事実だもの。あなたが凡人なのも、特別管理産業廃棄物のように人に害を――」

「分かった分かった。もう俺が悪かった」

「そうやって、悪いとは露ほどにも思っていないくせに、卑屈に引き下がるのもあなたが腐っているということの証明よ。大体において――」

 

 活動方針の転換を求めた結果、比企谷に罵詈雑言が降り注いだことがいたく私の気に入った。すでにこの時から、私は比企谷の矮小な魂を見抜いており、何らかの不可抗力が彼を罰してくれることを少なからず望んでいたのだ。しかしながら、これを私の性格の悪さと断定してはいけない。あくまでも彼の成長のためなのである。比企谷を思うからこそ出た、まことの衷心なのである。

 私が悦に入って二人の会話を眺めていると、唐突に部室のドアがノックされた。

 

「ゾウリムシに――どうぞ」

 

 雪ノ下さんは、単細胞生物のくだりがどう比企谷に結びつくのか語らず、ドアの向こうの人物を促した。私は残念に思いながらも、ドアを開けて入ってきた生徒に視線を送った。

 それが由比ヶ浜さんであった。

 由比ヶ浜さんは、入ってくるなり、「チョーキモイ」や「マジアリエナイ」あるいは「ヒッキー」はたまた「ジョシリョク」などという謎の言語を操り私を辟易させた。これが巷間を騒がせている、いわゆるギャルというヤツなのかと私は由比ヶ浜さんを観察した。

 

「な、なに?」

 

 不躾な視線を送りすぎたようで、彼女が少し引いていた。

 

「その位にしておきなさい。あなたは知らないようだから言っておくけどそれはセクシャルハラスメントといって立派な迷惑行為よ。通報されたくなかったらその猥褻物のような目を閉じなさい」

 

 私は素直に目を閉じた。隣で比企谷が笑っていたので、後でコイツの読んでる文庫本のあらゆるページに付せんを貼り付けてやろうと心に誓い、雪ノ下さんが許可するまで目を閉じ続けた。

 見た目ケバケバしく、言動からは社会の何たるかを理解すること白頭に至るまで能わざる表現が垣間見られる由比ヶ浜さんは、さぞや派手な交友関係を所持しており爛れた高校生活を送っているどうしようもない不良少女であろうという大方の予想に反し、依頼はとても可愛らしいものであった。

 もじもじした由比ヶ浜さんに気を使った我々は、雪ノ下さんだけを残して飲み物を買いに出かけ、再び戻ると、その可愛らしい依頼内容を聞かされたのだ。

 なんでも依頼とは、クッキーを渡したい人がいるらしく、不味いものは渡せないから手伝って欲しいとのことであった。我々は膳は急げとばかりに、早速家庭科室へと向かうことにした。

 

「手作りクッキーなんて友達に手伝ってもらえばいいだろ」

 

 家庭科室に到着すると、比企谷は頭を掻きながらそう呟いた。友達がいないコイツが言っていいセリフなのか私は少し考えた末、いないからこそ出た発言なんだろうと納得した。

 

「馬鹿もここに極まれりだな。頼めないから奉仕部に来てるんだろ」

 

 私は言った。

 

「はあ? そういうの頼めるから友達じゃないのかよ」と比企谷。

「それは俺もちょっと分からない」と私。

「あなたたちが友達の何たるかを語るのは四千年早いわ。黙ってなさい」

 

 耳聡い雪ノ下さんが、調理器具やら材料やらを机に並べながら取り澄ましてそう言った。比企谷は「中国の歴史かよ」ともにょもにょ言っていたが、最終的に「俺たちは何をすればいいんだ」と問いかけた。私も頷く。

 

「そうね。一人でも構わないのだけれど、嗜好は人それぞれだしより多くの意見が欲しいわ。味見して感想を頂戴」

「任せてください」

 

 私は胸を張った。

 

「私、頑張って作るね!」

 

 由比ヶ浜さんは我々の方を見て意気揚々と拳を握り締めた。私は不覚にも、ナンダカカワイイじゃない、と思った。

 さて、由比ヶ浜さんの名誉のためにも、彼女が作ったクッキーの出来に言及するのは控えようと思う。彼女は度重なる雪ノ下さんの辛辣な言葉にめげることなく、むしろマゾヒストではないかと勘繰ってしまうほど嬉しそうに取り組んでいた。私はそんな彼女のひたむきな姿勢と健気さにほだされ、心の中で熱いエールを送った。

 ともかくこの一件は、比企谷の「男ってのは単純でな――」という男性代表を気取ったあつかましい説得で一応の解決をみた。あつかましいが正論だったので、特に私は反駁せず、女性陣も納得といった様子であった。

 

「で、どうするの?」

「私、自分のやり方でやってみるよ。ありがとね雪ノ下さん」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って微笑んだ。

 数日後、家で作ったという手作りクッキーを持参して、由比ヶ浜さんが部室へ姿を見せた。彼女はお礼だからと、我々三人にハート型のクッキーを手渡した。ふわふわした模様が描かれた包装紙に包まれたクッキーは見るものを和やかにしてくれる温かみがあった。私は「ありがとうございます」と頭を深々と下げて受け取った。

 由比ヶ浜さんに押される形で盛り上がる二人を部室に残して、私と比企谷は校舎裏の階段に腰掛けた。

 

「みろよこれ。そこはかとなく不気味だな」

「……」

「うっ。まるで成長のあとが窺えない味だぞこれ」

 

 比企谷はそう言いながらもぼりぼりと完食していた。

 私は、手作りクッキーを様々な角度から眺めたのち、持って来た鞄の中に丁寧にしまった。

 

「なんだよ。食わねえのかよ」

「うん。これは我が家の神棚に飾ることにした」

「……え?」

 

 比企谷は言葉を失ったようであった。

 我ながら変態だとは思うが、こんな記念すべきものを食べるなど私には出来ない。これから先、私が歩むであろう輝かしい未来を疑いたくはないが、後にも先にもこれが唯一の手作りクッキーになるかもしれないのだ。そんな迂闊なことは言語道断である。あの天真爛漫な由比ヶ浜さんがその手でこねあげたクッキーは、神棚に置くことで霊妙さを纏うことになるだろう。将来、引きも切らさず手作りクッキーを渡されることを願って、毎朝拝む必要も出てくる。

 

「おい、誰にも言うなよ」

「お、おう。まあ、なんだ。だ、大事にしろよ」

「むろんだ」

 

 そして、これ以降、初めて手作りのお菓子をくれた女性として、私は由比ヶ浜さんを敬うことに決めたのであった。

 

       ◇

 

 由比ヶ浜さんが部室に顔を出さなかった翌日のことである。

 週末のこの日、私は以前から所望していた書籍をもとめるべく、午前中に家を出て駅前の繁華街へと自転車を走らせていた。

 すがすがしい休日の朝であった。五日間に及ぶ高校生活のけがれが、吹き寄せる向かい風とともに、私の後方へと流れ去っていくようである。私はすこぶる快活になっていく心を感じながら幹線道路を進み、繁華街への道を折れた。しかし、私のすがすがしい朝はそこまでだった。繁華街に近づくにつれ、徐々に増してくる男女の連れ合いが等しく私の気分を減退させた。休日の朝からふしだらに遊び呆けて、もっと他にやることはないのかと、私はペダルを力いっぱい踏み込みながら、風紀紊乱の世を嘆いた。

 嘆きは憤りに取って代わった。書店の前で自転車を止めた私は、何とはなしに、車が行き交う車道を挟んで反対側の歩道に顔を向けると、そこに小柄な可愛らしい女の子と歩く比企谷を見つけたのである。あのスカした前傾姿勢を見まごうはずもない。由比ケ浜さんだけでは飽き足らず、あんな可愛らしい少女にまで手を出そうというのか。たいした桃色遊戯野郎である。車道を挟んで、あからさまに明暗を分けた形となり、私は憤った。

 ゆっくりと歩いていく二人をしばし睨みつけていたが、そういうことをしていても腹が減るだけだ。私は気を取り直して、書店のドアをくぐった。

 本を購入し、再び自転車にまたがった私は、自宅へ戻る道を走った。途中、緑道に差し掛かったときである。前方から犬に引っ張られるように走ってくる由比ケ浜さんと遭遇した。

 

「犬の散歩?」

「うん。サブレ、走るの速くって」

 

 由比ヶ浜さんはそう言って、あははと笑った。

 

「昨日、部活出られなくてごめん。ちょっと用事があったから……」

「なんの。大したことはしてないから。少し比企谷をからかって終わっただけだよ」

 

「そう、なんだ……」

 

 由比ヶ浜さんは、一瞬だけ眉を寄せるとすぐに、またあははと笑った。

 私は、職場見学の際、比企谷と何かあったのか、尋ねようか迷っていた。正直なところ、経験に乏しい私は、あの時の二人の様子を、青春を彩る小粋なスパイス程度にしか考えていなかった。しかし、もしかするとあれは昼ドラじみた生々しい本格的な諍いだったのかもしれない。目の前の由比ヶ浜さんを見ていると、なんだかそんな気がしてくる。とはいえ、もしそうであるならば、もはや私の手に負えるものではない。

 私は口から出かけた質問を飲み込み、別れの言葉を述べた。

 

「それではまた学校で」

「……うん。ばいばい」

 

 私は後ろ髪を引かれる思いで、彼女と別れ、自転車を走らせた。

 

 

 


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