奉仕部と私   作:ゼリー

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第三十二話

       ◇

 

 結論から述べさせてもらう。

 私は、戸部なにがしとかいう男子生徒の恋愛相談に乗ることになった。この男、私が生まれて以来はじめて見た、高分子フィルム並みに軽くて薄い、吹けばどこかへ飛んでいきそうな軽佻浮薄のコンコンチキである。畏れ多くも我らが由比ヶ浜さんを凌ぐほど低次元なものの考え方をし、その能天気さはとどまることを知らず、軟派で、意味不明な言葉を操る、なぜか私と比企谷を見下し気味な超弩級の阿呆であった。いったいどうして、このような男が総武高校に紛れ込んでいるのか不思議でたまらず、依頼よりもその謎の方がはるかに解決のし甲斐があるように思われた。

 

「ジミーさん、ヒキタニさん、よろしくオナシャス!」

 

 ジミーさんとは私のことである。由来を聞いて、危うく殴り飛ばしそうになった。曰く、地味だから。なんという剛速球のストレートであろうか。同席していた由比ヶ浜さんだけでなく、葉山君や大岡君、大和君も思わず笑いをこらえきれないといった様子であったのだが、鉄面皮の雪ノ下さんと名前を間違えられていた比企谷が真顔だったので、なんとか怒りを抑えることができた。抑える必要があったかどうかは、今もってして甚だ疑問である。

 

「なあ、比企谷。こいつ、夜道に気をつけた方がいいと思わないか」

「ああ、わかるぞ。その気持ちすごくわかる」

 

 むろん、こんな男の依頼など四の五の言わず門前払いもいいところだが、悲しいかな、由比ヶ浜さんが鼻をフンフン鳴らせて乗り気であり、そうなってしまえば私としてはお手上げなのである。由比ヶ浜さんに異議を唱えるのは、私の流儀にそぐわない。その結果、修学旅行における行動班のメンバー入れ替わりが発生し、戸塚君が外され、戸部が加わるという血も涙もない提案を容れることに相成ってしまっても、私は唇を噛んで耐え忍ぶことしか許されなかった。いかに近い将来の幸福のためとはいえ、千年の都を戸塚君と過ごすという僥倖を放擲するというのは、忍耐強い私でもかなりこたえるものがある。

 

「俺、海老名さんにマジだから」

 

 というのも、戸部の依頼を解決するために、今回の修学旅行を活用しようというやや強引な流れで話がまとまってしまったからである。戸部の恋する相手というのは、同じクラスの海老名さんという女子であり、我々の行うべきは、彼の告白を陰から援助することである。そのためには常に戸部と海老名さん、両者の近いところに控えていた方が得策だというのはわかるが、そんな至極合理的な意見が由比ヶ浜さんの口から発せられるとは想定の埒外であった。

 まとめると、私(と奉仕部)にもたらされた依頼は、京都への修学旅行中に行われる戸部の告白を最大限サポートすること、である。なんとも解決の基準に困る依頼と言わざるを得ない。そもそも、私のような青春の被害者が人の恋路を応援するなど、これまで流してきた汗と涙と男汁に対し、申し開きが立たない、まさしく謀反そのものであるが、如何せん約束を交わしてしまっただけに、そう易々と反故にするわけにもいかなかった。

 

「ね、いいでしょ? とべっちも困ってることだし」

「……そこまで言うのなら考えてみましょうか」

 

 由比ヶ浜さんの懇願に、眉根を曇らせながらもそう言う雪ノ下さん。

 私がしばらく部室へ顔を出していなかったうちに、彼女の由比ヶ浜さんへの態度がひどく軟化していた。少し前なら「ダメに決まっているでしょう? 由比ヶ浜さん、あなた余計な贅肉が胸だけじゃなくて、頭にもついているのではないかしら。奉仕部はそんな腑抜けた依頼を受け付けるために創設されたわけではないの。本当におバカさんね」くらい、言い放っていたであろうに。

 雪ノ下さんが言いくるめられてしまうと、皆の視線が、私と比企谷に向けられた。

 

「お、おい」

 

 不安げに比企谷の顔を見ると、彼はため息をついた。

 

「じゃ、やりますか」

 

 こいつもこいつで、ずいぶん甘くなっていた。

 ともかく、やるしかないようだ。

 

       ◇

 

 私は速い乗り物に弱い。

 あまり長くそういう乗り物に乗っていると、きまって不安におそわれ、悲観的になり、憂鬱になり、動悸息切れがし、ついには自家中毒を起こす。たとえ降車したとしても、古代インドの宇宙観のごとく、世界を支える巨大なゾウの背中の上で移動しているような錯覚に陥ってしまう。だから原則として、私は新幹線には乗らないことにしている。しかし、今回ばかりはそういうわけにもいかなかった。

 私はごくりと唾を呑み込んで、ゆっくりとホームへ進入してくる新幹線を出迎えた。ここは東京駅16番ホーム。乗り込むは東海道新幹線のぞみで、行先は京都である。

 

「あんた顔色悪いね。寝不足?」

「我々はゾウに乗っている」

「……は?」

「地球は平面だった。我々はゾウの上に乗っているのだ」

「川崎。いいから、黙ってそいつの背中押してやれ」

「う、うん」

 

 ふいに、後ろから圧力が加えられ、私は乗降口から新幹線の内部へと足を踏み入れた。

 

「こらっ、押すんじゃない」

「後ろつかえてんだよ、早くいけよ」

 

 川崎さんの背後で比企谷が言った。

 

「心の準備があるんだよ」

「あんた新幹線苦手なの?」

「訊きながら押すな!」

 

 座席の方へは向かわず、私はいったん乗降口付近のトイレ前で高ぶる気持ちを落ち着けることにした。

 乗り込んできた生徒たちががやがやと楽しげに私の横を通り過ぎていく。大丈夫だ、落ち着け、地球は丸い。月は翳り、日は昇る。宇宙の理を、帰納的事実を信じるのだ。だいいち、古代インドにゾウが世界を持ち上げているなどという宇宙観はない。

 釈迦の呼吸法であるアナパナサティを繰り返すと、やがて私は自分自身を取り戻した。普段から実践的仏教を身につけておくと、こういうときにすこぶる役立つ。思い出すのも憚られる一年前の夏休みの己を、この時ばかりは少しだけ許せるような気がした。

 

「大丈夫?」

 

 やさしげな声に顔を上げると、眼鏡をかけた女生徒が心配そうに瞳を揺らせてこちらを覗き込んでいる。海老名さんだった。

 

「なに、朝に食べたクラムチャウダーを少し吐きそうになっただけです。心配には及びません」

「えぇ……すごく心配なんだけど」

 

 私はこめかみを引き攣らせて無理に笑顔を作った。

 

「大丈夫です。さ、席の方へ」

「う、うん」

 

 海老名さんは持参していたという酔い止めの薬をひとつ私に手渡して言った。

 

「あのことなんだけど、聞いてるよね? 比企谷くんにはもうよろしく頼んであるんだけどね。きみにも、えっと、期待しているからさ」

「ありがとうございます。は?」

 

 あのことを聞いていなかったし、比企谷と聞いて不吉な予感を抱いた私は問い返そうとしたが、すでに海老名さんは踵を返して客車のクラスメイトたちでごった返す賑やかな輪の中にうずもれてしまっていた。

 

       ◇

 

 京都駅に到着したのは、午前10時だった。

 それ自体がひとつの巨大な工芸品のような京都駅構内は、聞きしに勝る広さと解放感で私を圧倒し魅了した。男子とは、ただただ大きいものにロマンを感じる阿呆である。むろん、私も多聞に漏れない。大きいことはいいことである。

 

「でっかいなあ」

 

 広々とした改札口で思わず呟いた私は、ひどく暑苦しい気配を感じて身構えた。

 

「うむ、でかいな。さすが我が魂の故郷」

 

 材木座は片手に携帯ゲーム機を持って、50mはあろうかという吹き抜けの天井を見上げていた。

 

「なんだ、おまえ。来てたのか」

「着いて早々にひどいなお主」

「おとなしく家でお昼のワイドショーでも見てればいいのに」

「それは我も考えた」

「考えたのか。さすがだな」

「二年生という未だ学を修めていない中途半端なお年頃で修学旅行とは笑止千万。そう思っていた時期が我にもございました。なぜ我がわざわざ足労を顧みず――」

「ずっとそう思ってろよ」

「行き先が京都というのならば、これは無視できるはずがあるまい。なぜなら、我は室町幕府第十三代将軍足利の――」

 

 総武生たちの一団がぞろぞろと動き始める。どうやら駅前からバスに乗って移動するようだ。

 

「もあっはっは、つまり、これは将軍の凱旋というわけである」

「おい、いくぞ」

 

 材木座と別れて駅前に出ると、やや離れた先の歩道沿いに数台のバスが停車していた。私は新幹線にも弱いが、バスにも弱い。幼稚園の頃、送迎バスの助手席で嘔吐して以来、バスに乗り込むとパブロフの犬のごとく条件反射で気分が悪くなり、体が鉛のように重くなるのである。近頃は昔のように死んだ魚の目をして虚空を見つめながら、一瞬も気を抜けない吐き気との鍔迫り合いを演じなくなりつつあったとはいえ、油断は禁物である。

 私はポケットに仕舞い込んでいた酔い止め薬を取り出した。先ほど海老名さんからいただいたものである。私は海老名さんに深い感謝の念を捧げながら、家から持参した酔い止めを服用した。やはり信じられるのは経験である。

 息を呑んでバスに乗り込む。襲い来る自律神経の不調を全身に感じながら、空いていた窓際の席に座り込んだ。新鮮な空気を常時取り込むため、すかさず窓を開け放つ。むろん八百万の神々に祈ることも忘れない。ときに裏切られて、ビニール袋に顔を突っ込むことも多々あったが、概ね祈りは届いてきた。神社仏閣の多いこの地であれば、ご利益はきっとあるだろう。

 低いエンジン音が鳴り響き、バスが発車した。

 私は深呼吸を繰り返しながら、流れる車窓の風景に集中した。こんなとき、目を閉じて意識を内向させるのは悪手である。とにかく気を紛らわせるよりほかはない。目的地は清水寺だというから、おそらく大した距離ではないだろう。

 

「あのさ、ちょっと寒いんだけど」

 

 川崎さんの声だった。シートに座り込んだ直後から、片時も視線を動かしていなかった私は、隣に座ったのが誰だかも把握していなかった。

 

「我慢してくれ。取り返しがつかなくなる」

「なにそれ。いいから閉めてよ」

 

 そう言うと、川崎さんはずいと身を乗り出して窓を閉めようとする。

 私はなんだか柔らかいふくらみを右半身に感じながらも、毅然とした口調で言った。

 

「閉めてはいけない! 吐くぞ!」

「え?」

 

 ふわっと鼻に抜ける香気とともに、川崎さんが体を引っ込めた。

 私は窓から目を逸らさずに応対する。丁度、大仏前交番という看板が見えた。

 

「気持ち悪いの?」

 

 私は黙して車窓を追い続ける。無駄に口を開くという迂闊なことはしない。返事は最低限に留め、無意味な問いかけには黙止で返すのがバス移動の鉄則である。

 

「ごめん、気が付かなかった。背中さすったげようか?」

「いい」

「アメなめる?」

「いい」

「酔い止めは……うわっ、忘れてきちゃった」

「飲んだ」

「そっか。ねえ、大丈夫?」

「……」

「ビニール袋は?」

「不要」

「もう少しだと思うから、頑張りな」

「……」

「アメ、ホントにいらない? 黒飴だよ?」

「……」

 

 その後もなにかと世話を焼こうとする川崎さんに辟易とさせられ、返事するのに多大な精神の力を必要としたが、おかげで気が紛れたようだった。比較的首尾よくやり過ごせたと言えよう。だがまだ気は抜けない。降りるまでがバス移動である。

 バスは清水寺へと続く坂の途中にある広い駐車場に停まった。

 

「川崎さん」

「ん、どした? まだ気持ち悪い?」

「今日のバス移動は隣に座って、さっきみたいに下らないことを俺に話しかけ続けてくれ」

「……は?」

 

 川崎さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから目を細めて言った。やけに声が低い。

 

「あんたねえ……」

 

 しまった、いまのは失言だったか。しかし、一刻も早くバスから下車する必要がある私に、川崎さんのご機嫌をとるような心の余裕は微塵もない。

 暗澹たる面持ちで私は言った。

 

「おい、早くどいてくれ。バスから降りたいんだよ、俺は」

 

 半ば強引に川崎さんを押しのけて下車すると、晩秋の透き通った風が満身五体を吹きぬけて、浩然の気が満ち満ちてくるようだった。

 深呼吸を繰り返す。見上げれば、私の心の有様を移すかのごとく、薄暗い雲が突風にあおられて消え去っていく。覗いてみえるのは、天高く馬肥える秋の青空である。ああ、いい気持だなあ。

 莞爾とした笑みを浮かべながら両腕を広げていると、川崎さんがバスから降りてきた。私は改めて先ほどの件をお願いしようと近づく。

 

「川崎さん、助かったよ。さっき言ったこと――」

 

 しかしながら彼女は、ぷいと顔を背けて足早にクラス集団の方へ歩み去ってしまった。

 

「よろしく頼みますよ」

 

 口の中で呟くと、やれやれと私は肩をすくめた。

 

       ◇

 

 清水寺。山号は音羽山。

 非常に古くからの歴史を持つこの寺は、その伽藍や景観の壮麗なるをもって、世に遍く膾炙されていることから、全国津々浦々、否、世界中から押し寄せた観光客で、四六時中足の踏み場もないほど混雑するという。京都を訪れたものは、猫も杓子も必ず清水の舞台を踏むらしい。歴史の一ページに足跡を残さんとし、私もまた清水寺の玄関口である仁王門をくぐって境内へと足を踏み入れた。なお、言うまでもないがクラス集団の殿を務めている。つまり一番後ろである。

 諸君にはおわかりいただけるであろうか。こういうとき、なんとはなしにクラス集団とは距離を置きたくなる心情である。

 浅薄な学生がかくも阿呆であるということに、私は苦笑を禁じえなかった。

 連中は軟弱な気配を漂わせ、周囲にはとにかく無頓着、なかには「うぇーい」なる奇声を発すものまでおり、自分たちこそがこの場で一番盛り上がっていると信じで疑わない。はたから見れば猿山の馬鹿騒ぎに過ぎず、彼らは白い目であしらわれていることに絶対に気づかないのである。その腫れもの扱いがまた連中の馬鹿騒ぎを助長するのだ。そして、「ここで一番盛り上がってる俺ら最高にカッコいい」および「俺らには誰も何も言えない」という謎の類人猿的自信が、彼らのアドレナリンに火をつけてしまうという悪循環。衆人は憐みの微笑。なぜかこちらまで羞恥を感じるというのだから理不尽でやり切れない。彼らはそのうち不可逆的な累を及ぼすことだろう。そうして洒落にならない大問題に発展するのが目に見えている。というか、そうなれ。

 日常からかけ離れた地で浮かれてしまうのもわかるが、自分は決してああいうふうにはなるまいと思った。常に自己を律し、数段高い位置から俯瞰するくらいの冷静さを持ち続けて、連中とは一線を画し続けなければならない。そもそもクラス集団に馴染めていないのだからいらぬ心配だという意見もあろう。

 さて、そうなってくると、おのずから比企谷が帯同することになる。まるでクラス集団という大型船舶に曳かれる襤褸船のごとく、我々は千年の都でも相変わらずであった。

 

「知ってるか? 清水寺っていっぱいあるんだぜ」

「知ってるよ」

「嘘つけ。じゃあ、どこにあるか言ってみろよ」

「千葉にあるだろ。たしか、いすみの方だったか」

「……比企谷、見てみろよ。京の町が一望できるぜ」

「おい、合ってるのかどうか答えろ。誤魔化すな」

「あれが京都タワーか。案外大きなもんだなあ」

「っち。130メートルあるんだから、そりゃデカいだろ」

「もっとあるだろう、だってあんなに大きいんだぜ。また嘘ついたなおまえ」

「またってなんだよ。さっきのも合ってるだろうが。というか、だったら調べてみろや」

 

 ならばと私は、比企谷が口から出まかせを吐いている証拠を眼前に突き付けてやろうとスマートフォンを取り出した。そうしてインターネットで京都タワーと検索し、おもむろにスマートフォンをポケットにしまった。

 

「さて、そろそろ中に入るか。拝観料とるんだってさ」

「こらこら、何スルーしてんだよ。いま、おまえスマホで調べただろ。高さは? おい、高さは何メートルだったんだよ、おら」

「比企谷君、きみね、細かいことにうるさいね。どうしてそう、きみは細かいんだ? 鬱陶しいやつだな」

「てめえ……」

「しかもね、調べた結果、京都タワーの高さは131メートルだった。つまりお前の言ったことは間違っていたというわけだ」

「ほぼ同じじゃねえか……」

「やっはろー」

 

 いち早く阿呆な会話で修学旅行を台なしにしかけた我々のもとへ、黄色い声が届いた。由比ヶ浜さんだ。

 

「相変わらずふたり一緒だね。ホント仲いいよねえ」

「なんだお前、喧嘩売りに来たのか?」

 

 比企谷がわりあい真面目に言った。私も同感だった。

 

「ち、ちがうし! と、そうだ。面白そうなとこ見つけたからちょっと行ってみようよ」

「後でな。もう拝観の列できてるから早くいかないとまずいだろ」

 

 比企谷が言うと、由比ヶ浜さんはむうっと頬を膨らませる。シマリスみたいで可愛いらしい。

 

「仕事忘れたの?」

「旅行の間くらい仕事を忘れていたいです」

「仕事……あぁ、戸部の」

 

 私としたことが、新幹線やバスという艱難辛苦を乗り越えるのに必死で、依頼のことをすっかり失念していた。このまま、永劫に忘れられていたらどんなに良かったことであろうか。

 

「そそ。もうとべっちと姫菜は呼んであるから早く早く!」

 

 我々は鼻息を荒くした由比ヶ浜さんに袖を引っ張られ、随求堂というお堂までやってきた。なんでも胎内めぐりができるらしい。拝観入口の近くで、小さな人だかりができていた。胎内めぐりが何なのかは知らんが、願いが叶うご利益があるとのことだ。願いが叶うのというのであれば、もう一度母親の胎内からやり直させてくれないだろうか。自信はないが、次はもう少し上手くやれるはずだ。

 

「なんでこいつらまでいるんだ?」

 

 比企谷が小さく言う。こいつらとは、葉山君と三浦さんのことだろう。

 

「あの二人だけ呼んだらなんか変じゃん」

「まあ、そうか……」

 

 由比ヶ浜さんなりにいろいろ考えているようだった。奉仕部の仕事とはいえ、他人の恋わずらいによく無償で献身できるものだと感心、半ば呆れた。

 そこで、ふいに私ははっとした。

 これは本来、私に課せられた依頼であった。由比ヶ浜さんだけに丸投げしていては男が廃る。廃るような男気を所持しているかは微妙な塩梅ではあるものの、少しはデキる男っぽさを表明しておくにやぶさかではない。というより、大なり小なり関わっておかないと、後々に功労者として評価されない恐れがありはしまいか。たとえ、最終的な裁定者が私自身であろうとも、面倒な難癖をつけられるのも面白くない。私のような恋の不心得者に何かできるとは思えないが、ここは積極的に関わっている体を醸し出す必要があるだろう。

 私は阿呆の戸部に視線を送った。戸部も気が付いて、にかっと笑う。能天気な奴め。しかし、この場は海老名さんと阿呆を二人にしてやらねばなるまい。葉山君は三浦さんと連れ添うだろう。ということは、私は由比ヶ浜さんと暗闇のランデブーを楽しむことになる。しかたあるまい、これも仕事のためだ。

 

「最初にあたしたち行くから、次、優美子と隼人くんね。それから――」

「あまり時間もないし、そんなに間隔はあけないほうが――」

 

 入場する順番やパートナーが決められていく。どうやら私と由比ヶ浜さんは先頭になりそうだった。

 

「大丈夫だった?」

 

 ふいに海老名さんが近づいてきて、私に尋ねる。

 

「なんのこと?」

「ほら、新幹線のとき」

「ああ。この通り、問題はなかったですよ」

「そっか。よかったね。薬、効いたのかも」

「え、あ、はい。その節はどうも」

 

 私が飲んでいない薬の件に対して頭を下げると、海老名さんはくすくすと笑った。

 

「そんなかしこまらなくてもいいよ」

「はあ」

「――んじゃ、あたしたちから行くよー。ほら、ヒッキー行こ」

 

 由比ヶ浜さんと比企谷が床にぽっかりとあいた真っ暗闇に、二人そろって下りていく。

 

「あっ……」

 

 私は、海老名さんと話していることも忘れて、呆然とその後姿を目で追っていた。続いてすぐに葉山君と三浦さんが下りていく。

 

「ああ……」

 

 じつのところ、大方、予想していたことではあったが、かくもナチュラルにハブられると、いささか心にくるものがあった。いつから私は、「あたしたち」に含まれていなかったのだろうか。たしか随求堂に来るまでは「あたしたち」の一員だったはずである。別れはいつだって唐突だ。

 残されたのは、海老名さんと阿呆と私である。

 心の痛手はわりと深かったが、我ながら驚くほどスムーズに自身のすべきことに気を取り直すことができた。あまりに非情な現実を直視したくなかっただけともいえる。とにかく今は依頼である。

 

「では、海老名さんはそこの――」

「じゃあ、私はきみと行こっかな」

 

 遮るようにして海老名さんが言った。私に向かってである。

 

「え、いやいや。それは、どうかな。俺は一人で――」

「いいから、いいから。ほら、もう隼人くんたちが入っちゃったよー」

「ちょ、ちょっと、引っ張らないでください。あの、海老名さんは戸部と――」

 

 海老名さんは私の腕を取ると、強引に入口へと引っ張っていく。

 引っ張られつつも、私は戸部に視線を送る。

 賑やかな観光客の一団を背にして、戸部は口をパクパクとさせながら両手をわなわなと震わせていた。まるで何かに怯えているかのようだ。

 どうやら戸部は混乱しているらしい。むろん、私だって混乱している。彼から小さく「ジミーさん……」という声が聞こえた。

 これはいけないと思い、私は慌てて言う。

 

「せ、せめて3人で行きましょう」

「あ、そうだよね! ごめんとべっち。一緒にいこ?」

 

 海老名さんが申し訳なさそうに言うと、戸部は一瞬硬直し、それから満面の笑みを浮かべた。

 

「うぇーい、忘れるとかひでえよ! マジかんべんだわー」

 

 何気ないふうを装っているわりには、声が震えている。意外に情けないところがあるらしい。まったく興味のない阿呆の一面を知ってしまった。

 

「ジミーさん、サンキュな」

 

 菩薩の胎内へと続く暗闇に没していく間際、戸部がそう言って片目をつぶってみせた。

 私は小さく頷き返したが、それよりもなぜ海老名さんが友達である戸部ではなく顔見知り程度の私を誘ったのか不思議に思っていた。そしてそれ以上に、先行している由比ヶ浜さんたちの様子にいたく気をもみ、比企谷の汚らわしいY染色体が蠢きださないことを祈っていた。

 

       ◇

 

 恋など一過性の精神錯乱に過ぎない。

 いつだって壊れたテープのように己に言い聞かせてきたし、ときには比企谷や材木座にも口を酸っぱくして言明してきた。

 

「あれは疾患だよ。病院に入った方がいいぜ、阿呆どもめ」

 

 胡坐をかいた二人を前に立ち上がり、恋愛至上主義吹き荒れる世間様へ、より取り見取りの罵詈雑言で一席ぶったことも一度や二度ではない。

 大体、「惚れる」というのが胡散臭い。恋をすると盲目的になると言うが、そもそも「惚れる」というのが理性の欠如した明らかなる動物的行為なのだから当然である。そうして振った振られたなどという無益な煩悶に悩まされるているのだから、ちゃんちゃら可笑しい。はじめから合理性を欠いているのだから秩序だった答えなど出せるはずもなく、悩むこと自体が水を斬ろうとするような虚しい行為にほかならないのだ。にもかかわらず、胸が苦しいだの、あなたのことが頭から離れないだの、会いたくて会いたくて震えるだの、気味の悪い精神疾患に襲われて右往左往しているのは、傍から見ていて痛々しく、馬鹿馬鹿しかった。

 もう、震える前に会いに行けよと進言したかった。

 自己を律し、節度を重んじた人間であれば、断じて「惚れる」などという理性の敗北は喫しない。そして私はいつだって理性的な紳士であり、そんな不必要な情動を排していることを誇りに思っている。

 

「……」

 

 恒常的なバスの揺れから意識を逸らすべく暑苦しいまでの熱弁を繰り広げる私に、川崎さんは何の反応も見せなかった。

 

「つまりだ。恋愛にうつつを抜かす暇があるなら、元素周期表を暗記していた方が圧倒的に有益なんだよ。わかる?」

 

 川崎さんはむすっとしててんで取り合わない。どうやらご機嫌がすぐれないようである。それにしたって、これだけ滔々と語り聞かせているというのに無視するのは、いささか生意気だなと思う。

 バスが左折して、川崎さんがもたれかかってくる。身(胃)の危険を感じ、私は深呼吸とともに言った。

 

「軽々しく俺にぶつからない方がいい。どうなってもしらないぜ」

「……」

 

 川崎さんは、ちょっとやそっとではお目にかかれないような冷たい視線を投げてよこし、それから舌打ちした。

 

「え、え、あれ、なんか、怒ってらっしゃる?」

 

 訊くまでもなく彼女はぷりぷり怒っていた。峩々として聳え立つ眉根は、平生の十倍は大きな谷を作っている。はてな、と思ったが、ああ、そういえば先刻バスを降りるときにひと悶着あったなと他人事のように記憶が蘇ってきた。しかしながら、今の私に彼女を気遣う精神的な余裕は、重ね重ね芥子粒ほどもない。ただでさえ、いましがたの左折で胃液が逆流気味なのである。ここで、むやみに愛想を振りまこうとすれば、車内の衛生環境に責任が持てなくなり、ひいてはクラスの人間に申し訳が立たなくなる。それはいけない。私は私以外の何者にも負い目を感じることを良しとしない男なのだ。

 とりあえず、そっとしておこうと思い、私は車窓の風景に目を移した。

 それにしても怒っているくせに、彼女がわざわざ私の隣に座るのは不可解だった。いったい、これはどういうわけであろうか。諸君もご存じの通り、私は節度を重んじた人間である。したがって、隣に座ったのは彼女が私に好意を寄せているからなどという奇天烈な因果関係を導くことはしない。そのような可能性は万に一つもないからである。自身で答えを出しておきながら、そのあまりの卑屈さに小さな煩悶と怒りを感じないでもないが、論を待たない事実であるため、これは潔く受け入れるほかない。となれば、いよいよ謎は深まるばかりである。

 車窓の向こうには、鴨川の流れが見えた。夕暮れ時の川岸に幾組もの男女が等間隔に座っているなか、そこに割り込むようにして荒涼とした4人の男たちがまるで五条大橋を守る弁慶のごとく仁王立ちし、ふわふわした雰囲気と景観を台無しにしているのが目についた。彼らは暮れゆく茜色の空を見ながら、一心に煙草を吹かしている。何か、非常に困難な任を預かっているようにも、ただただ阿呆が高じているようにも見えた。私はそんな光景を眺めながら、バスに揺られていた。

 

 バスは本日の最終目的地となる宿まで近づいていた。

 辺りはすっかり夜の風情で、ちらちらと揺れる車のテールランプや街灯の光が薄暗い車内を照らしている。川崎さんが隣に座った謎を解き明かそうとあくせくしている間に、私はいつのまにか眠っていたようであった。

 

「そろそろ着くから降りる準備しとけよー」

 

 疲れの滲む先生の声で目覚めた私は、すぐさま全身に気を配った結果、軽微な気持ち悪さを感じていることに気が付いた。そして同時に、川崎さんの肩に頭を乗せてもたれかかっている現状を認識した。

 

「世話をかけるね」

 

 下手に動けば事態は悪化しそうであったため、私は視線を前席に固定したまま、か細く言った。心がときめくとか、そういうのは一切なく、何か御仏の腕に抱かれているような精神年齢が低下しそうな安心感を覚えていた。

 

「起きたの? ちょっと、重いんだからはやくどいて」

「だから、世話をかけるね、と言ったじゃないか。今は動けない。今動けば吐く、可能性が生まれる。すべてのゲロは動くから吐くんだ。俗界万斛の反吐皆動の一字より来たる、という言葉があるね?」

「知らないよ」

「あ、そう」

 

 バスが揺れる。

 川崎さんが、もう少しだよ、とやさしく言う。もう少しだから、我慢だよと。

 

「川崎さん、さっきは悪かったね。ちょっと配慮が足りていなかった。気持ち悪かったんだよ。ああ、今もだけど」

 

 しばらく沈黙があって、それからバスがどこかの角を曲がった後、彼女が小さく笑った。

 

「いいよ、べつに。それより、大丈夫?」

 

 私はそのとき、彼女が左手にエチケット袋を握りしめていることに気が付いた。窓は開け放たれていて、忍び込んでくる夜気は冷たかったが、川崎さんは乗り込んだ時のままのブラウス姿だった。ブレザーは丁寧に畳まれて膝の上に置かれたままである。

 私はなぜ彼女が隣に座ったのか、ようやく悟った。

 

「世話をかけるね」

 

 私は胸がいっぱいになり、母の偉大さを知った。

 

「もう、わかったから」

 

 川崎さんはまた、小さく笑った。

 

 




この場を借りて、誤字を報告していただいた方に感謝申し上げます。まことにありがとうございます。
今後も、可能な限り誤字脱字のないように彫琢してまいりますが、もしも発見した場合は、生暖かい目で看過していただくか、よろしければ報告いただけると恐悦至極でございます。

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