奉仕部と私   作:ゼリー

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第三十三話

      ◇

 

 さて、時は宿につく数時間前に遡り、清水寺を出て南禅寺を参拝、哲学の道を慈照寺銀閣に向かってそぞろ歩いていた折のことである。

 西田幾太郎が好んで散策した小径も、紅葉の季節となれば哲学はもとより、どんな思案も観光客の賑やかさにかき消されてしまう。戸部と海老名さんの縁を結ぶにはいかなる手練手管を弄するのが最適なのか、厳粛な心持で数十秒考えていた私も、周囲のざわめきを受けて潔く思案をあきらめた。こういう潔さには自信がある。つまりは紳士だということだ。

 相も変わらずクラス集団の最後尾をとろとろ歩きながら、徐々に色づき始めたもみじを眺める。緑や黄色、うっすらと染まる赤のトンネルを、心地よいそよ風の中を闊歩するのは愉快であった。

 

「やあ」

 

 安楽寺へと続く法然院橋の上で写真を撮っていると、唐突に声をかけられた。

 

「楽しんでいるかい?」

 

 振り返るとコンデジのレンズ越しに葉山君が柔和な笑みを浮かべて立っている。

 

「ぼちぼち、でんな」

「ハハッ。面白いな。ぼちぼちか、なんだかすごく楽しそうに見えるよ」

 

 これは皮肉なのかと身を固くしたが、葉山君ともあろうお方が、私ごときに当てつける必要性を感じなかったので、本心で私が楽しく見えたのだろう。事実、楽しいのだから文句はない。ただ、わざわざ団体の中心から最後尾くんだりまでやってきて、いったい私に何の用があるのだろうか。

 私が訝しんでいることに気が付いたのか、葉山君は自然と歩くように促しながら言った。

 

「依頼の調子はどうかな」

「……ぼちぼち、でんな」

「また、ぼちぼちか。つまり感触は悪くないってことかい?」

「どうだろう。ちょっとぐらい仲が深まっているとは思うんだけど」

 

 先行する集団の中で、身振り手振りを取り混ぜながら軽薄な笑い声とともに海老名さんに話しかけている戸部の姿を見遣る。日中と夜間の砂漠くらい温度差を感じるように見受けられた。見る人が見れば、「無駄なことはよせ」とすっぱり諦めることを進言するのかもしれないが、私にはよく分からなかった。

 ふたりの隣で、なぜか我々の方にちらちらと視線を送る三浦さんから目を逸らすと、私は言った。

 

「葉山君も動いているんでしょう?」

「……あ、ああ。それなりにね」

「なら、安心だ。たぶん振られるんだろうが、それでも俺は精一杯支援するつもりだぜ」

「あはは……手厳しいな。それで、比企谷は何か言ってたかい?」

「比企谷? いや、これと言って特には。何か汚らしいことを考えていそうではあるけど」

 

 葉山君は苦笑いをこぼす。それからふいに言った。

 

「きみは比企谷と仲がいいね。秘訣でもあるのかい?」

「は? 仲良くなどないが」

 

 いくら葉山君であろうとも、言って良いことと悪いことがある。

 

「いや、ずいぶん親しく見えるよ。きみが思っている以上に、二人は仲が良さそうだ」

「やめてくれたまえ。あの阿呆とは根本的に相容れないところがある。俺は祟られているだけだ。あれは呪いの類なんだよ」

「……ずっと不思議に思っていたんだ。そういうところかもな」

 

 葉山君はなにやら私の軽口に一人で納得しているようで、やや気味が悪かった。

 幸せ地蔵尊という幟が立っているお堂を横切って、木漏れ日の中を我々は歩いた。葉山君はまだ私と連れ立っている。

「気持ちいい天気だな」と彼が呟くと、それきりしばらく無言が続き、やがてぽつりと言った。

 

「現状を維持するっていうのはさ、悪いことなのかな」

「え?」

 

 総武高校とは別の修学旅行生が我々を追い越していく。幾人かの女子がちらっと振り返る。十中八九、葉山君がお目当てであろう。そんなことは、露とも気にせず彼は続けた。偉い男だと思う。

 

「関係を壊すことに、意味なんてあるのかなってことさ。いままで、それなりに結びついていた輪を無理にほどくのは好きじゃないんだ。だけど、最近、よくわからなくなってきてさ」

「……ん?」

 

 よくわからないのは私の方だった。何か彼にとって重要な葛藤を吐露しているような気配があるのだが、葉山君の顔に悩んでいるような調子はなく、淡々としていているように見受けられた。私を試しているのかもしれない。何を試しているのかはわからないが、葉山君のことだから、けしてむやみやたらということでもなかろう。ともかく、謎の多い言葉から得られたわずかな情報を類推して、私はそれらしいことを述べた。つとめて厳粛に見えるように気を配ることは忘れない。

 

「極端になってはいけない。壊すというのはちょっと乱暴だよ。仕切り直すと考えたらどうだろう。呼吸が合わなければ関取は相撲を取り直すだろう? それは新たな関係をつくるということで、つまり、ええと――そうだ、輪がほどけたら、また結びなおせばいいんじゃないか」

「……結びなおす、か」

「うん。結びなおした輪は前とは違うけど、より強く固く結ばれるんだ。骨折と一緒さ。新しくできた骨は強い」

「本当に、強く結ばれるのかな」

「まあ、保証はできない。それに新しくできた関係も、すぐに輪が切れる可能性も十分に考えられる。ただね、葉山君、きみが何を考えているのかわからないが、俺は、きみを偉い男だと思っているよ。きみはいつだって自己を律している。

 それと、これは経験則だけどね、どうせどんな道を選んだって、いつか後悔する羽目になるし、一方で、開き直ることもできるんだ。きみが進んだ道が、歩んだ道が……ええ、そうだな、その道が正道だ」

 

 もしかしたら彼は本当に悩んでいるのかもしれない。私のような不必要な情動を排した男であっても、悩みのひとつやふたつあるくらいだ。誰にだって、懊悩に苦しむことはあってしかるべきである。たとえそれが完全無欠の葉山君であってもだ。彼は非常に責任感の強い男であるから、なにかこう、重い責任を一手に引き受けているのだろう。それでも見かけは泰然としているのだから、やはりますます偉い男である。

 

「まあ、結局、葉山君の好きにしたらいいってことだ。現状維持を望むならそうすればいい。新しく仕切りなおすのもいい。自由なんだぜ、俺たちは。保証はできないけども」

 

 葉山君は「そこは保証してくれよ」と笑った。

 

「……きみみたいなやつがクラスにいたんだな。比企谷がちょっと羨ましいよ」

「なぜそこで比企谷が出てくるんだ。やめてくれと言ったじゃないか」

「ははっ、わるいわるい。そうだな、自由もいいよな」

「うん」

 

 前方の集団から葉山君を呼ぶ声が届いた。「はぁんやとぉー」という妙に甘ったるい響きのわりに、声の主である三浦さんは私を鷹の眼で睨みつけている。身に覚えがない。

 

「なぜ、あの人は俺を睨んでいる」

「なんでだろうな」

 

 葉山君は、歩きながら右手を差し出した。

 

「これからもひとつ、よろしく頼むよ」

「え?」

「あ、握手だよ。いやならいいんだ」

「ああ、構いませんけど」

 

 私は彼の手を取って、力強く握った。男と男の美しい握手だった。

 葉山君は「それじゃあ」と残して、クラス集団の方へ去っていく。

 思わぬことで妙な達成感を得た私は、いつだか、この修学旅行を高校生活の転機とする誓約を自身に課したことを思い出していた。その日が迫って来るうちに、どうせいつものようにロクなことにならないだろうという頽廃的な予感に駆られ、半ばただのイベント消化程度に見なしていたのだが、あながち大言壮語な目論見ではなかったのかもしれない。

 形容を避けたくなるようなにちゃりとした笑みをこぼしていると、葉山君が振り返った。

 

「あと、さっきのは誤用だよ。折れた骨が強くなるという根拠はないんだ。じゃ、またあとでな」

 

 私は真顔になると、なぜか会釈した。

 

       ◇

 

 慈照寺の参道で買ったばかりのキーホルダーのお土産を紛失し、通りすがりの三浦さんに舌打ちをされ、材木座と非建設的な会話をするといったアクシデントに見舞われたことのほか、宿に着くまで特に大過はなかった。

 風呂あがりに広縁で寛いでいると、念のために持参していた携帯電話に着信があった。母かなと思いディスプレイを覗くと、そこには可能であれば見なかったことにしたい名が表示されていた。

 

「あのお、はい、なんでしょうか」

「おお、やってるか少年」

「あのお、なんでしょうか」

「いつだったか約束しただろう。今がそれを果たすときだよ、きみ」

「酔ってらっしゃいますか。それでしたら、また明日にでも――」

「まだ素面だ。いいから、10分後にロビー集合だぞ、わかったな」

「先生、ぼく、まだお風呂に――」

「F組の入浴時間はとっくに終わっている。それにきみが風呂から出たところを確認済みだ」

「断る権利は――」

「ない」

 

 通話が切れた。

 材木座が、別のクラスなのになぜか目の前で寝転がっている。まるで食事を終えた豚のごとき風体である。彼がいじっているスマートフォンの充電アダプターを、コンセントから勢い任せに引き抜くと、私は客室を後にした。

 

       ◇

 

「それで、どうして、こいつらがいるんです?」

 

 私は、私の貴重なリラックスタイムを奪った挙句、秋の長い夜の寒空の下に連れ出した平塚先生に尋ねた。問いただした通り、乗り込んだタクシーの後部座席には、なぜか比企谷と雪ノ下さんが同乗している。

 

「仕方がないだろう」

 

 平塚先生が助手席から答える。

 

「ラーメンを食べに行こうとしているのを見咎められたんだ。口止め料というやつだよ」

 

 約束とは、いつぞや下品な車で拉致され連れていかれたラーメン屋の帰りのときに交わされたものらしかった。承諾した覚えはまるでなかったが、異議申し立てを行ってみたところで、正論が通じる相手ではないし、通じたためしがない。

 

「いいんですか、教師がこんなことして」

 

 比企谷が言った。非難するようなことを言いつつ、ラーメンと聞いてまんざらでもない顔をしていたのだから、とんでもないあまのじゃく野郎である。調伏された方が世のためというものだ。

 

「いいんだよ。教師だからね」

「それは開き直りではないでしょうか……」

 

 今度は雪ノ下さんである。なんのかの言っても、畢竟、ついてきている辺り、彼女も卑しい根性を持っているのだ。こんな綺麗な顔をして、じつにはしたない。

 

「ばれたら叱られるんじゃないですか」

 

 私が言った。その場合、奔放教師の巻き添えを喰うのはご免である。どうにか真っ当な言い訳が欲しい。

 

「叱られたりはしないさ。小言や嫌味を言われたり、形式的に呼び出されるくらいで済むだろう」

「叱られてるじゃないですか。いいですか、先生。ぼくの名前は出さないでくださいよ。内申に響きそうだ」

「きみというやつは……あのね、問題を起こすなという命令と、問題を解決するよう促すことはまるで違う」

「違いがわからん」と比企谷。

「そうね。あまり叱られた経験がないからかしら」と雪ノ下さん。

「先生、言質をいただきたいです。ぼくの名前を――」

 

 私の必死の主張を遮って、平塚先生はうんうん頷きながら続けた。もはや黙ることにした。

 

「そうか。では私がちゃんと叱るよ。今までも少なからず叱ってきたつもりだったが甘かったみたいだな」

「いや、結構充分です」

 

 比企谷が顔を引き攣らせて固辞する。

 

「私は特に叱られるようなこともないから構わないけれど」

「雪ノ下、叱られることは悪いことではないよ。誰かが君を見てくれている証だ」

 

 物は言い様だなと思う。教師に都合のいい方便にも捉えられる。思い通りにならない生徒を押さえつけるための強権を正当化しているに過ぎない――そう声を荒げたかったが紳士らしく堪えた。

 

「ちゃんと見ているからな。いくらでもまちがえたまえ」

 

 雪ノ下さんが、どこか思慮深げに視線を落としたところで、私が口を挟んだ。

 

「先生、ぼくの名前は――」

 

       ◇

 

 高野川と賀茂川に挟まれた三角地帯に位置する下鴨神社。京都に由緒正しき神社は山ほどあれど、なかでも下鴨神社は平安以前から存在する屈指の格式高い大神社である。縁結びをはじめ、様々なご神徳を得るべく年間多くの参拝客が訪れるが、その界隈に夜な夜なある屋台ラーメンが出没することはあまり知られていない。

 

「名を猫ラーメンという」

 

 以前、狸で出汁をとっているという真偽のほどが定かではない狸ラーメンなるものを食したが、まさかそんな珍妙なものの近縁があるとは思いもよらず、私は唖然とした。

 叡山本線の一乗寺駅付近でタクシーを降りると、夜の街を歩きながら平塚先生が「しかし」と続けた。

 

「出没場所は関係者以外に漏らすことが固く禁じられているらしくてな。私も噂だけは聞いたことがあるのだが、実際に食べたことはないし、食べたという人に出会ったこともないのだよ」

「ただの噂でしょう。実在しない都市伝説みたいなものですよ、きっと」

 

 比企谷が言うと、「まあ、その可能性も否定できない」と平塚先生は頭を振った。

 

「だが、ラーメンに生き様を求める者の端くれとして、無視できるものではないのだよ」

「変なところで熱い人だな、だからいつまで経っても――」

「何か言ったかね?」

「いえ、何も」

「そうか。まあ、いずれ比企谷にもわかる日が来るよ。人は求めてやまないものをいつか必ず持つようになる」

「大袈裟な……ラーメンからずいぶん飛躍しますね」

「きみ、ラーメンを馬鹿にしているな。いいかね、比企谷、ラーメンはな――」

 

 やいのやいの不毛な会話を続ける平塚先生と比企谷が歩いていく後ろをうんざりしながらついていくと、隣にいたはずの雪ノ下さんが、いつの間にか姿を消していた。振り返ってみると、通り過ぎたばかりの路地に彼女が入り込むのが見えた。

 

「ちょっと、どこに行くんだ」

 

 慌てて細い路地を覗き込むと、そこは呑み屋の赤提灯がいくつも連なっている、うすぼんやりとした静かな横丁だった。雪ノ下さんは通りから3軒ほど過ぎた先の、小さな喫茶店の前でしゃがんでいる。

 

「何してるんだよ」

 

 私が声をかけると、肩をびくりと震わせて、振り返った。

 

「いえ、別に。少し気になるものを見つけただけよ」

 

 私を仰ぎ見る雪ノ下さんはどこか気まずそうに目を泳がせた。

 

「なに」

「だから、別に、いいじゃない」

 

 そんなことを言う雪ノ下さんのまたぐらから、白くてなんとも愛らしいもふもふした生物が不思議そうにこちらを見ていた。

 

「ははん、ははん。なるほどね」

「気持ち悪いからあっちを向いて。ここには何もないわ。見失ったの」

 

 どうやら雪ノ下さんは、自分のまたぐらに子猫が居座っている、とんでもなくユーモラスな状況に気が付いていないらしい。可能であれば写真に収めたかったが、コンデジを忘れたうえ、シャッターを切った数秒後には訪れるであろう己の惨状を幻視できたので、スマートフォンによる代替案も断念することにした。

 コミカルな光景をしっかりと目に焼き付けると、私は満点の笑顔で指摘する。

 

「雪ノ下さん、下」

 

 私の指さす先に気が付いた雪ノ下さんは、「きゃっ」と小さく悲鳴を上げて、尻餅をついた。すると、子猫は小柄な身体をぴょんぴょこ跳ねるようにして、路地の奥へと駆けて行ってしまった。

 

「逃げちゃったね」

「……あなたのせいじゃない」

「馬鹿を言うな。明らかにきみのせいだ」

「馬鹿っていうの、やめてちょうだい」

「へいへい。ほら、戻りますよ」

 

 手を貸して雪ノ下さんを立ち上がらせる。彼女は尻をポンポンと叩いて埃を払った。

 

「あなたがいま見たものは、即刻記憶から消し去りなさい。もしくはくたばりなさい」

「だめだ。魂が拒否している」

「仕方ないわね。物理的にわからせてあげましょう」

「あ、あ、雪ノ下さん、その髪留めは、そういう野蛮な用途に使うものでは――」

 

 そういうふうな阿呆なやりとりを交わしていると、ふと、どこからか、まるで地響きのような音が聞こえてきて、我々二人ははっとして目を見合わせた。なんともおぞましい地の底から湧き上がっているかのようなその音は、路地の先、それもすぐ近くから聞こえてくるらしい。

 

「な、なんだろう」

「わからないわ」

 

 点滅する置き型のネオン看板の向こうに青いポリバケツがあって、その裏が件の発生場所のようだ。

 一歩踏み出すと、雪ノ下さんが私のシャツの袖をきゅっと掴む。

 

「…‥行くの?」

「どうも気になる。雪ノ下さんはここで待っててくれ」

 

 彼女がこくりと頷くのを見届けて、私は恐る恐る進んだ。

 左右の呑み屋からは明かりが漏れていて、賑やかな笑い声やなんだか香ばしい肉の焼ける匂いが路地まで漂ってきていた。店内とは打って変わって、路地は静かなものだった。不思議なことに人っ子一人は歩いていない。この奇妙な対比がやや不気味であった。そして相変わらず悪夢的な重低音は響き続けている。

 ようやくポリバケツまでたどり着くと、私は深呼吸をひとつ、覚悟を決めてエイヤとその裏を覗き込んだ。

 

       ◇

 

 そこいたのは着流し姿でだらしなく眠る老人であった。

 地鳴りのような音も、たしかに思えば鼾に聞こえなくもない。しかし、なんという轟音だろう。私は肩透かしをくらって呆然とし、それから、ちょいちょいと手を招いて雪ノ下さんを呼び寄せた。

 雪ノ下さんは私の腕を取りながら恐々と覗き込んで、それからすぐに腕を離した。彼女も同様に呆れているらしい。

 

「驚いたわ。人間の出せる音なのかしら」

「ずいぶんお年寄りに見えるね」

 

 老人はワインの瓶を抱きながら壁に寄りかかって寝こけている。おそらく泥酔しているのであろう。若者なら自業自得だと一笑して捨て置いたが、如何せんかなりのご老体である。よくよく見ると、非常に立派な鷲鼻をしており、寝ているだけであるのに、なんというか、ただならぬ迫力があった。

 我々はこの場にどう決着をつけるべきか決めかねた。打ち遣っておくのも寝覚めが悪い。こんなところで寝ていて凍死、あるいは追い剥ぎにでも遭ったらことである。

もしここで見捨ててしまえば、心優しい私のことであるから、きっと良心の呵責に苛まれるだろう。そうにちがいない。そのうちに、鷲鼻を持った怪しい老人の姿が常住坐臥つきまとうことになり、やることなすことすべてがうまくいかず、待ち人は来ず、失せ物は出ず、テストで赤点を取る、留年したあげくに材木座と同じクラスになる、電車内で腹が痛くなる、自転車のチェーンが外れるなどといった不幸に見舞われる――ような気がして、どうにもこの場を離れ難かった。

 なにはともあれ、老人を起こすことで私と雪ノ下さんの意見は一致した。

 

「おじいさん。こんなところで寝ていては風邪をひいて、鼻水がいっぱい出ますよ」

 

 私が老人の肩を揺すりながら言うと、「うごご」と返事があった。

 

「うごごとはなんだろう」

「鼾ね」

 

 しばらく揺すっていると、断続的な「うごご」が静まりはじめ、やがて「んがっ」という響きを残して、地鳴りのような音が止んだ。

 老人がゆっくりと重そうな瞼を開く。

 

「……弁天か?」

 

 老人は雪ノ下さんを見て、そう呟いた。

 

「ふむ、人違いか」

 

 老人はもぞもぞと身動きしたと思えば、ぶっと放屁した。そうして、私に視線を移し、ふたたび雪ノ下さんを見て言う。

 

「人間の小娘が、わしに何の用だ」

 

 凍死の憂き目から救ってやったというのに、私は人数勘定にすら入っていないらしい。なんともぶんふてぶてしいジジイである。

 

「あの、大丈夫ですか」

 

 雪ノ下さんが答えの代わりに尋ねた。

 

「夜は冷えますから、寝るならご自宅に帰ってはいかがでしょうか」

 

 老人はまじまじと雪ノ下さんを見つめて、黄門然と蓄えられた真っ白なあごひげをさすった。

 

「なるほどな、間違えるわけだ。在りし日の弁天と声も顔もよく似ておる。可愛いらしい娘ではないか」

 

 雪ノ下さんは目を丸くして、一歩後ずさった。

 この期に及んで口説き文句とはいい度胸である。年甲斐がないとはこのことを言うのだろう。

 仕方なく助け船を出した。

 

「おじいさん、家は近いのですか。お巡りさんを呼びましょうか」

「気安く話しかけるでない。わしは、お前のようなひょろひょろした人間の小僧が、阿呆狸の次に好かぬだ」

「阿呆狸って、こんのジジイ……」

 

 思わず呟くと、雪ノ下さんに「こら、よしなさい」と窘められた。

 

「ふむ、感心感心。その娘は良く心得ておるようだ。気に入った、名を何という」

 

 雪ノ下さんは、名乗っても問題がないか確認するように私に目配せする。

 私は肩をすくめた。

 

「え、ええと。雪ノ下ですが」

「雪ノ下か、良い名だ。覚えておこう」

「ぼくは――」

「お前には聞いておらん」

 

 どこまでも不愉快なジジイである。

 

「さて、おなごに名乗られて黙っていては天狗が廃る。よく聞くがいい、わしの名は――」

 

 そう言って、老人は勢いよく立ち上がろうと意気込んだ。しかし、ふいに「はうわっ」という素っ頓狂な悲鳴を上げると、へなへなとその場にうずくまってしまう。

 

「こ、腰が」

「だ、大丈夫ですか?」

 

 慌てて駆け寄ると、老人は脂汗をかいて気息奄々たる有様であった。

 

「これは大変だ! 救急車を呼びましょう。雪ノ下さん」

「え、ええ」

「よ、よさぬか。ただの腰痛だ、大事にするでない」

「しかしね、おじいさん。あなた、いまにも死にそうですよ」

「これしきで往生してたまるものか。なに、少し休めば――」

「おや、先生。そんなところで何をしていらっしゃるのですか」

 

 ふいに声がした。

 はっとして、我々が目をやると、先ほどの喫茶店の前で、ひとりの青年が愉快そうにこちらを見ている。平生から私が嫌う、いかにも軽薄そうな大学生という風情があるが、どうやら老人の知り合いのようだ。

 青年はゆっくりと近づいてきたと思えば、老人の置かれている状況を目の当たりにして、大仰なため息をついた。

 

「まったく、先生ともあろうお方が、なんと嘆かわしい」

「……矢三郎か」

「はいはい、矢三郎ですよ。これはいったい何事ですか」

「ふむ、些末なことだ」

 

 矢三郎と呼ばれた青年は、私と雪ノ下さん、それから老人を見比べて呆れ顔をしている。

 老人の知己らしき人物が現れたためか、私と雪ノ下さんの間で張りつめていた緊張感が解けた。

 

「おじいさんの知り合いの方ですか?」

「ええ、そうですとも」

「それはよかった。ここで寝ていらっしゃたので、声をかけたしだいで……」

「それはそれは。ずいぶんと迷惑をかけたようで」

「迷惑などかけておらん」

 

 青年はその言葉を無視して、「ちょっと失敬」と我々の間に入ると、老人に肩を貸して立ち上がらせた。

 

「酒くさい。やっぱり飲んでらっしゃったんですね」

「なに、金光坊に誘われてな。いささか飲み過ぎたようだ」

「わざわざ一乗寺まで来なくたって、あのボロアパートで飲んでいればいいのに」

「余計なお世話だ。わしの勝手であろうが」

「大方、弁天様の尻でも追っかけてたんでしょう」

「戯けたことを言うでない。毛玉風情が生意気な。そんなことあるものか」

 

 青年は老人をひょいと背負いあげた。まるで祖父と介抱する孫といった態である。

 

「大変、世話をかけましたね」

 

 青年が頭を下げた。我々もつられるようにして頭を下げる。

 

「このご恩は、不肖赤玉先生の高弟、下鴨総一郎が三男、下鴨矢三郎、必ず返させていただく。では、これにて失敬。先生も、ほら、お礼をなさってください」

「なぜわしがお礼をせねばならん。なにも感謝するいわれはなかろう」

 

 老人は「しかし、」と雪ノ下さんを見た。

 

「おぬしは、なかなか見所がある。わしが本領であれば、連れ帰ったものを。口惜しい」

「またそんな無茶なことを……ですが、たしかに昔の弁天様によく似てますねえ」

 

 青年は老人から何かを受け取ると、雪ノ下さんを呼び寄せて、それを渡した。

 

「またどこかで会うこともあるかもしれませんな。それでは」

 

 ふたりは通りまで出ると、タクシーに乗り込み、去っていった。

 

「なんだったんだ」

 

 たしかに現実なのだが、どこか現実味の薄い、狐につままれたみたいな出来事だった。ただ、酔っ払った偏屈老人の醜態を目撃しただけなのに、明日の朝目覚めたときにはもう忘却の彼方に追いやられていそうな、そんな幻想的な感覚がある。

 

「天狗とか弁天とか、変なことばかり言ってたね」

「ええ」

 

 私と雪ノ下さんは、しばし通りでぼんやりとしていた。

 

「何を貰ったの?」

 

 そういえばと私が尋ねると、雪ノ下さんは奇妙なものを眼前に掲げた。それは鳥の羽だった。硬くてごわごわとして、普通の羽に見えたが、どこか神秘的な趣がある。

 

「気味が悪い。捨てちゃいなよ、そんな変な羽」

「でも、綺麗だわ」

「どこが。そのへんの鳩の羽を拾っただけだろ。あのじいさん、耄碌してそうだから、紙幣と間違えて拾ったとしてもおかしくないぜ」

「……」

 

 雪ノ下さんの眉がそばだてられる。そこはかとなくリアリティのある言葉が響いたようだ。

 

「あなたに預けるわ」

「い、いらないよ。きみが貰ったものだ」

「ともかく持っておいて。捨てるのもなんだか忍びないから」

「押し付ける気じゃないか……ったく、仕方のない人だ」

 

 ポケットに羽を突っ込むと同時、携帯電話が震えた。

 

「アッ」

「どうしたのよ」

「……ラーメン」

「すっかり忘れていたわね」

 

 雪ノ下さんが冷静に言う。

 

「すでに到着しているから、地図を頼りに歩いてこいだってさ」

「そうしましょう」

「怒ってなければいいけど。平塚先生、気が短いから」

「きっと、叱られるわね」

「雪ノ下さんのせいにする腹積もりだ」

「べつにかまわないけれど、先生はどちらを信じるでしょうね」

「きたねえ……実際、きみのせいじゃないか」

 

 何気なく通りから横丁を振り返る。相変わらず静まり返っている路地からは、鼻孔をくすぐる高貴で妖艶な香りがした。導かれるようにして頭上を仰ぎ見ると、路地の細く切り取られた宵の空の遥か遠くを、細身の女性が宙を舞っているのが見えた。

 


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