奉仕部と私   作:ゼリー

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第三十四話

       ◇

 

 翌日も良く晴れた。

 止むに止まれぬ理由で、ぐうたらと朝寝をした私と比企谷は、一足遅く朝食バイキングの列に並んでいた。

 修学旅行の二日目は、洛西をグループで行動するらしい。太秦に始まり仁和寺、龍安寺、鹿苑寺金閣など名立たる観光スポットを巡るという。なお、行き先を決める話し合いの席で、個人的に漢字ミュージアムにぜひとも行きたいと申し出たのだが、満場一致でいともたやすく却下され、ささやかな私の願いは旅のしおりの露と消えていた。

 

「寺なんか見て、何が面白いのか」

「さあな」

 

 比企谷が受け流すように答える。

 

「寺を見て何か役に立つのか」

「しらん」

「漢字を学んだ方が、いざというとき身を助ける」

「どんなときだよ」

「たとえば、強盗に銃とキャンパスノートを突きつけられたとする」

「たとえが物騒すぎるんですが」

「強盗がこう言う。このノートに書いてある文字が読めるか? 読めなければズドンだ」

「なんなのその強盗。さっさと盗るものとって逃げろよ」

「ちなみに強盗はパンツ一丁だ」

「ヘンタイじゃねえか」

「ノートにはこう書いてる。『菠薐草』。お手本のようなゴシック体だ」

「わざわざスマホを見せなくていい」

「読めないだろう? すなわち、お前は今、死んだ」

「前提がいざという範疇を遥かに超えちゃってるんですけど」

「漢字を笑う者は漢字に泣く。いにしえのありがたい格言だ」

「ねえよ、そんなもん」

 

 私は、すぐ前に並んでいた名前も知らない生徒の助言に従って、バイキングの特性を活かした七色プレートを完成させ、一足席に着いた。遅れて、比企谷がやってくる。

 

「お前、絶対食いきれないからな」

「お前とは気合の入り方が違う。なんだその粗食は」

 

 比企谷の前に並べられた偏食極まる献立に、私は若干の怒りを覚えた。

 

「朝はトーストとスープがあれば、俺はそれでいいの」

「一年草の種子を砕いて発酵させて、捏ね繰り回して、燃やした物体を食べるなんて」

「言い方!」

「これだから欧米かぶれは困る。日本人なら白米をいただけ」

 

 もそもそと菠薐草(ほうれんそう)のバター炒めを食べ終えると、温かいほうじ茶で一息ついた。虹色を完成させるために菠薐草をよそってみたはいいが、間違いなく余計であった。それにしても、七色プレートを勧めてきたあの生徒はいったい誰であったのだろうか。見たことのない顔であった。そもそも見たことのない顔の方が多いのだから当然と言えば当然である。

 先に食事を終えたクラスの連中がぞろぞろと部屋へ戻っていく。その中に混じって、お調子者の戸部が、相変わらずフライパン並みに底の浅い笑い声をあげていた。

 

「そういえばさ、戸部の阿呆はどんな感じ?」

 

 私が問うと、比企谷は鼻で笑った。

 

「どうもこうも、見りゃわかんだろ」

「悲しいことだ」

「思ってないだろ」

「しかし、あいつが清水の舞台から飛び降りるとして、振られようが、断交されようが、絶縁されようが、俺は精一杯応援するつもりだぜ」

「たどり着く未来に何の救いもないな」

「そこに議論の余地はないからな。俺たちの可能性が介入できるのは、結果の如何ではなく、過程の有り様である」

「……うわっ、きたねえ。お前、端からそういうつもりなのかよ」

「むろんだ」

「清々しい顔をするな」

「いまさら何を言っても無駄だゼ。依頼内容はサポートであって、関係の成就ではない。馬鹿めっ」

「うん、まあ、そうなんだが。うん、まあ、頑張れ」

 

 比企谷は呆れたように言う。

 

「ああ、粉骨砕身の所存だ。こんなに誰かを応援したい気持ちになったことって、生まれて初めて」

 

 私が心を込めて言うと、なぜか比企谷は憐憫の眼差しをした。

 このときに気が付くべきだったのかもしれない。

 

「なんか、その、ごめんな」

 

 そう呟く彼の声も、どこか普段と違っていた。だが、遠い異郷の地に浮かれていた私には、気の毒そうなその声を毫も顧みず、卑劣にひん曲がった比企谷の顔もまるで眼中になかったのである。ずいぶん先の話にはなるが、大変悔やまれることになるなど、ついぞこの時は思いもしなかったのだ。

 

       ◇

 

 それはさておき。

 朝食を終えた我々は、さっそく班に分かれて、太秦映画村へと舵を取った。

はずだった。

 はずだったとは、つまりどういうことか。どうもこうもない。すがすがしい秋の日差しの下、ホテルの玄関前に立っていた私は一人であった。本来であれば、浮かれた連中の群れでがやがやと騒々しいはずの集合場所であるのに、もはや侘び寂びすら漂うこの閑散たる有様。ありていに言えば、置いていかれたのである。

 往年の鴨川を彷彿とさせる激流的便意を催してトイレに駆け籠って数分後、集合場所の玄関ロビーはもぬけの殻。班員たちはもとより、他クラスの生徒、教師の連中まで人っ子一人おらず、狐に化かされた心持でしばし呆然とした。すぐさま律儀な受付のお姉さんが、心配そうに様子をうかがいに来たが、自分でも判然とせぬまま、逃げるようにその場を後にして表へと出た。おそらくあまりに情けなかったためだと思われる。

 丸太町通りは、朝から車通りが激しかった。

 

「え?」

 

 ようやく、自身の置かれている状況の意味不明さに、疑問を呈する声が漏れる。

 

「置いていかれた、のか?」

 

 改めて確認するまでもない非情過ぎる現実を、改めて確認するように私は声に出した。

 

「まさかそんな、無茶な」

 

 私はひとまず落ち着こうとしたが、大方の予想通りそれは難航を極めた。「もしかして除け者にされている?」と不安になるのも無理からぬ話で、事態をどう打開していこうかどうかよりも、まず自身が非人徳的行為の対象になっているのではないかという疑心に苛まれ、私は額を抱えた。

 誰かを不快にさせたか、それとも溢れ出すオーラによって目立ちすぎたため出る杭のごとく打たれてしまったのかと憂慮に悶えたのもわずか、冷静になってみると、私は不快にさせるほどの付き合いを持たなかったし、打たれるほど頭角を現したこともないことに、わりあいすぐに気が付いた。なお、そもそも初めからハブられているのではという指摘には耳を貸さない。

 合理的に考えてみれば、導かれる結論はたんに忘れられていたということである。やや厳しい現実ではあるが、クラスの連中に冷罵される迷妄をたくましゅうしたあとだけに、思いのほか心理的な被害は少ない。と理屈を呑みこんだところで、置いていかれている現状には相違なく、途方に暮れるのにそう長い時間はかからなかった。

 

「これはまいったね」

 

 とにもかくにも、班員たちと合流しないことには始まらないと思い、連絡を取ろうと試みたが、比企谷をはじめ私が連絡先を知る誰とも電話は繋がらなかった。再度、疑念が首をもたげたが、おそらくバスの移動中のため、電話を取れない状況だと判断する。このような突発的不慮の事態のために何か書いてあるかと思い当たり、旅のしおりを検めたみたものの、事態を好転させるような文言は何一つ書かれていなかった。糞の役にも立たない紙切れであると断じ、くしゃくしゃに丸めて捨ててやろうと思ったが、もしかしたら糞の役に立つ可能性もあるかもしれないと思い改めて、一応保管しておいた。生憎、いま手元にティッシュはない。

 私は自分でも得体の知れない謎の微笑みを浮かべながら、岡崎別院の山門を無意味にくぐってまた戻り、進路を西にとって平安神宮の方へ歩きはじめた。とりあえずバス停に向かったのである。

 

       ◇

 

 市バス嵯峨・嵐山行きのバス停は長蛇の列だった。おそらく2、3度バスを見送る羽目になるだろう。

 私は待つという行為に我慢がならない人間である。約束の時間に遅れてきた人間がいようものなら厳粛にその理由を問いただし、それが真っ当であれば罵倒し、理外であれば容赦なく罵倒してきたほど、待つという行為を憎んでいる。忘れ置かれたという現実が、ふつふつと怒りを醸成してきた頃合ともあって、私は早々に待つという選択肢を放擲した。

 熊野神社前のバス停をやり過ごした私は、川端通りを越えて鴨川に架かる丸太町橋までたどり着いていた。土手沿いは犬の散歩をする人や鴛鴦の契りとばかりに仲良く歩く老夫婦などが散見された。はるか千年の昔、賽子の出目や山法師とともに白河法皇を悩ませた鴨川も、今世にあっては庶民の憩いの場として非常に穏やかである。

 私は土手に下りて、芝生の上に寝転がった。折り返しの連絡が来るまで、ここで少し休んでも罰は当たらないだろう。暑くもなく寒くもない快適な外気で、悠々と流れる鴨川の水音に耳を澄ませていれば、なんとも天下泰平の心持がしてくる。ぽかんと青空を眺めていると、先ほどの怒りや京都にいることすらも忘れて、無性に眠くなってきた。明け方近くまで、材木座のスマートフォンで桃色査定会を敢行していたため、睡眠時間が圧倒的に足りていなかったのだ。

 近くに聞こえていたざわめきがすっと遠のいていく。連絡が来るまで、そう決めて私はまどろんだ。

 

       ◇

 

 文化祭が終わって数日後のことだ。

 残暑にも翳りが見えはじめたころ、良く晴れた日曜日に私は京葉線に乗って南船橋のジュンク堂に出かけた。手に入れたい本がいくつかあったのだ。

 広大な床面積に余すことなくずらりと並ぶ書棚の間を縫うようにして彷徨い歩く。そうして、ひと通り目当てのものを探しあてた私は、碩学の徒としてまだ見ぬ珠玉の賢著を発掘し、高邁な見識をよりいっそう深めようという向上心がむくむくと湧きかけたが、折悪く、歩き過ぎによって右足首にかすかな痛みを覚えたため、泣く泣く向上心は『世界の珍しいモノシリーズ』コーナーに捨て置くことにした。何事も健康には変えられない。過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉もある。

 本を漁るのに疲れた私はどこか一服できる場所を探して、ジュンク堂を後にした。

 ジュンク堂の入るビビット南船橋の向かいには、ららぽーとTOKYO-BAYが物々しく立っている。アメリカ西海岸を彷彿とさせるような外観・装飾の大型商業施設で、とても大きく、とても広い。私は、西海岸と名のつくものは悉く気に食わないタチだが、好んで通っているチェーンの喫茶店があるとのことで、いたしかたなく秘密任務を与ったスパイのように、息を潜めつつ、わくわくと落ち着かない心を持て余しながら、どうみてもlalaには見えないロゴマークの下をくぐった。

 ざわざわと騒がしい施設内を歩いているときだった。

 一軒の服屋の前で、なんというのか知らないふわっとしたズボンをしげしげと眺めている見知った女性が目についた。丁度、ズボンから目を離した隙に、向こうも私に気が付いたらしい。

 女性は弾けるように笑って、とことこと走り寄ってきた。

 

「こんにちは」

 

 私が言うと、由比ヶ浜さんは「やっはろー」と返した。

 

「こんなところでばったりなんてすごいね! お買い物?」

「ちょっと本屋に」

「うわっ、いっぱいだ」

 

 ジュンク堂のレジ袋を覗き込んで由比ヶ浜さんが驚く。

 

「由比ヶ浜さんは何を」

「いやさあ、聞いてよお」と由比ヶ浜さんは口を尖らせる。

 

「ママと買い物に来たんだけどね、なんかエステ行くから適当に時間つぶしててって置いてかれちゃってるの。ひどくない?」

 

 その割には楽しげな様子なので、私は曖昧に頷いた。

 

「もう帰る途中?」

「珈琲でも飲もうかなと」

「えっ、あたしも行く!」

「……珈琲を飲むだけなんですけど」

 

 私がぼそぼそ言うと、由比ヶ浜さんは申し訳なさそうに眉を顰めた。

 

「ごめん、迷惑だった?」

「ああ、いやいや、むしろ由比ヶ浜さんに迷惑じゃないかなと」

 

 気色の悪い卑屈さを露呈したかたちだが、本心ではあった。休日の西海岸風ショッピングモールで私とお茶をして何が楽しかろう。そういうのは、由比ヶ浜さんの意中の男性と行うべき催しであって、たとえば比企谷みたいな、と考えたところでふと鶏冠に来た。自然と想起された比企谷は、紛うことなき由比ヶ浜さんの意中の男である。

 

「なにそれもーっ、全然迷惑じゃないよ! ちょうど暇だったんだもん」

「あ、それなら、一緒に」

「うんっ」

 

 努めて冷静に返したが、上目遣いの由比ヶ浜さんがきらきらと眩しくて、こうやって幾人もの男を不毛な恋路に誘ってきたのだろうと容易に推定できた。こういう無遠慮な可愛さを撒き散らして果てしがないと、将来的に痛い目を見ることは必定である。忠告するのが紳士の義務に思われたが、一方で、無遠慮な可愛さを私に向けてくれなくなる可能性を考慮し、両者を天秤にかけた結果、私は黙秘を選択した。

 喫茶店でアイスコーヒーを頼んだ我々は、窓際の席に腰を落ち着けた。とりとめもない世間話を交わした後、話は奉仕部関連に移った。

 

「そういえばさー、ゆきのん怒ってたよ」

「なぜ」

「よくわかんないんだけどさ、ヒッキーが言うには、クッキーがどうとか。先に帰っちゃったんでしょ?」

「ヒッキー、クッキーって韻を踏んでいるじゃない」

「えー? いんってなあに?」

「韻っていうのは、ほら、詩とかで使われるやつで」

「うん?」

「あと、ラップとかさ」

「うんうん」

「音がこう、似てる感じ」

「あ! ヨーチェケラッチョ! みたいな?」

「まあ、それかな」

「って、全然関係ないじゃん! 何の話してんのあたしたち!」

「なんのって。押韻の話だよ」

「おういん?」

「押韻というのは、つまり韻を踏んでいるってこと」

「よーちぇけらっちょ?」

「うん、もうそれで」

「って二回目! もういいから!」

 

 由比ヶ浜さんが可愛らしく頬を膨らませてぷりぷり怒るものだから、私は「失礼しました」と頭を垂れた。

 

「で、クッキーがなんですか」

 

 由比ヶ浜さんは咳払いした。

 

「せっかく作ったのに誰かさんが無碍にしたのだわ。こちらが感謝の気持ちを表明しようとしているのに、いったいどういう未開地で暮らしてきたら、あんな人が出来上がるのかしら。まるで社会通念というものを知らないの。サムライアリの方がもう少しまともな社会性をもっているわ」

「それ雪ノ下さんの真似? 蕁麻疹が出るから止めてほしいね」

「どう、似てた?」

「瓜二つだ。よく覚えたね、そんなの」

「何回も言ってるんだもん」

「まずいな。逆鱗に触れたようだ」

「なんで帰っちゃったの?」

 

 私は回答に詰まった。

 

「ゆきのんと喧嘩でもしてるの?」

「まさか」

「じゃあヒッキーと?」

「あいつとは闘争をしていましてね」

「壮大だ!」

「じつのところ、まあ、用事がね」

 

 私が苦し紛れにいうと、由比ヶ浜さんは少し間をおいて真面目な顔をした。

 

「あのさ……辞めないでほしいな。前にも言ったけどね、やっぱりヒッキーもゆきのんも寂しそうにしてるんだよ」

「そんなこと、俺には関係がないですよ」

 

 文化祭の終わりの、あの何ともいえない置いていかれているような焦燥感を思い出し、私は柄にもなく突き放すように言った。

 

「もう辞めたんだ。未来永劫、奉仕部の敷居を跨ぐつもりはない」

「やだよ、そんなの」

「やだよなんて言われても、こっちにはこっちの都合があるもんですから」

「どんな都合?」

「それは、まあ、いろいろ将来のための布石を――」

「奉仕部、楽しくないの?」

 

 また私は言葉に詰まった。

 楽しくないと一言の下に否定してしまうことはむつかしい。しかしそれが、必ずしも有意義であるかどうかを大事にしたい私の人生哲学と交わるわけではない点には注意が必要だ。ここのところの繊細微妙な嗅ぎ分けを由比ヶ浜さんに強いるつもりはないし、そもそもそれを他の誰かが理解してくれるなどという甘い考えはとうのむかしに捨てている。他人に望むべきではない期待を敢えて託すことが諸悪の根源なのだ。私はそうやって何度も手痛い目に遭ってきたのだから、いい加減骨身に染みなければ愚の骨頂というものであろう。

 

「暗い顔してる」

「え、そうかい?」

「沙希も言ってたよ。最近、落ち込んでるみたいだって。文化祭で少しは元気になってよかったって」

「川崎さんが」

「うん。本当はさ、みんな心配なんだと思うよ。ヒッキーもゆきのんも、平塚先生だって」

「俺のことが」

「そうだよ」

「由比ヶ浜さんは」

「言わないとわからないの?」

 

 由比ヶ浜さんが目を細めてじっと私を見る。

 

「あ、いえ、どうも。そういえば、前もこんな会話した気がするよ」

「そうだっけ?」

「気のせいかもしれない」

「なんそれ」

 

 由比ヶ浜さんは笑った。それも大層キュートに。

 私はふと、こんなにも健気で可愛らしい由比ヶ浜さんが、妖怪ひねくれ小僧こと比企谷のことを憎からず想っているという宇宙の神秘に思いを馳せた。奉仕部のことよりも遥かに重大な事案と言わねばならない。彼女の胸に秘められた想いは少なく見積もっても間違っている気がするのだが、恋愛というもの自体が曖昧模糊としているだけに、断言することが難しい。とはいえ面と向かって「比企谷が好きなのかい」などと尋ねてみて、事態を決定的にしてしまうのも躊躇われる。イエスが返ってこようものなら、カフカ的不条理に絶望したあげく、鋸山の断崖に居を構えて遁世したくなること請け合いだろう。世俗を捨て去るには心残りが108つほどあった。やはりこの世にはハッキリさせなくていいこともある。

 それから私と由比ヶ浜さんは、彼女の母上がエステを終えるまで談笑した。由比ヶ浜さんは、折にふれて、奉仕部やその内情について委細漏らさず話すものだから、奉仕部に所属していたころよりもかえって奉仕部について詳しくなったみたいだった。活動内容が怪しげで意味不明な団体に明るくなったところで如何なる益があるというのだろうか。脳細胞の不必要な運動という気がしてならなかった。

 

「またいつもみたいに4人で集まりたいなあ」

「考えておきます」

 

 由比ヶ浜さんからの熱いラブコールを受け奉仕部復帰に対して考えを改めたかといえば、別にそういうわけでもなかった。なにせ、本物のラブコールではないわけだし、私はそんなに安い男ではないからである。ともあれ、休日に由比ヶ浜さんと地元を離れた地で出逢うというのは、何か運命的なものを感じる。今後、奉仕部とは一切かかわらないと決めつつも、私は由比ヶ浜さんとだけは密な連携を継続して行う必要性を新たした。

 新たにしたはずだったのだが、諸君もご存じの通り、奉仕部とは一切かかわらないという私の無垢な願いは、体育祭を機に校内の露と消えている。そうして、奉仕部とのぐずぐずに腐りきった縁は、思いもよらぬ形で続いていくことになるのだが、それはまだ未来の話である。

 

       ◇

 

 話は京都に戻る。

 私は鴨川の土手で暢気に昼寝をしていた。我ながら、本当にいい度胸をしていると思う。

 

「貴君、起きたまえ。こんなところで臍を出して寝ていると、腹を壊して便所の住人になること請け合いだよ」

 

 まどろみの恍惚と不安の間を絶え間なく揺れ動いていた私は、唐突に聞こえてきた声に死ぬほど驚いて反射的に体を跳ね起こした。

 

「君、修学旅行生だろう」

 

 目の前に、年齢不詳で蓬髪の茄子のようなしゃくれた顔の男が立っている。

 寝起きの判然としない頭では現状を正しく把握できなかったが、ともあれ、鴨川の土手で蓬髪の茄子のようなしゃくれた顔をした年齢不詳の男に話しかけられると怖い、というクリアな所感を抱くことはできた。

 

「どちらさまですか」

 

 私が尋ねると、男は満足げに笑った。

 

「近くの大学に通っている者だ」

「はあ」

 

 大学生なのか、はたまた講師、教授の類なのかはわからない。おっさんにも見えるし、大学生に見えないこともない。じつに、年齢不詳だった。まずもって不審者と断定して相違あるまい。

 男に注意が向いていた一方で、私は置き去りにされていることと、折り返しの連絡を待っていることに思い当たり、慌てて携帯電話を取り出した。携帯電話を操作している間、男は遠慮することもなく私の顔を眺めている。そうして「聞いていたのと違うなあ」と訝しんだり、「しかし、見所はありそうだ」などと一人納得したりしている。不気味に感じながらも、私は携帯電話を見て固まった。

 

「連絡が来ていない」

 

 そんなばかな。

 時間を確認すると、ホテルを出て1時間以上が経過している。さすがに到着していなければならない時刻のはずである。いくら京都のバスが混雑するとはいえ、たかだか数キロの距離に1時間もかかる道理はない。

 

「何をそんなに青ざめた顔をしている」

「いえ、べつに」

 

 私はぼんやりと立ち上がり、幽鬼のごとくふらふらと橋の方に向かって歩き出した。なぜか男もついてきて、当然のように傍らを歩いている。彼は葉巻を出して火を点け、ふわあと煙を吐いた。

 

「置いていかれた。ちがうかな?」

 

 私はぎくりとして立ち止まった。

 

「な、なぜそれを?」

「そして連絡もつかない。当たっているだろう?」

「あなたはいったい……」

 

 男は意味ありげに笑って、濛々とした煙を吐いた。

 

「私は京都のありとあらゆる情報を一手に網羅している。それは結城紬のごとく細かく張り巡らされ、どんな些細なことも見逃さない。たとえば、修学旅行でやってきた冴えない一学生が、学友に置いていかれて途方に暮れている状況の把握など、懐中時計を取り出して時刻を検めるくらい造作もないことだ」

 

 男は着流しの懐から懐中時計を取り出して、「9時45分だ」と言った。

 私はいよいよ気味が悪くなった。

 

「……失礼します」

 

 私は置いていかれている現況よりも、すべてを見透かしているようなこの男の不気味さに不安を感じ、足を速めた。しかしながら、彼はことさら急いでいるふうもないのに悠然と隣へ追いついてくる。まるで仙術のようであった。

 ああ、厄介なことになったと思っていると、男が言った。

 

「しかし、変だとは思わないか。考えてもみたまえ。たとえ君が、勉強ができないモテないぱっとしない、ないない尽くしのないない少年であろうとも、友人、知人の類はそれなりにいるだろう。連絡がつかないなんてこと、本当にあると思うか。ましてや修学旅行であるし、教諭だって同伴している。生徒の一人がいなくなったとあれば、普通、大問題になるはずだ。そうだろう?」

 

 確かに言われてみればそうである。比企谷はまだしも由比ヶ浜さんや川崎さん、それに平塚先生が私の連絡を無視しているとは考えにくい。その考えにくさを看過して、作為的に私を無視していると邪推するなどおこがましいほど、彼女たちは清廉潔白な人間であるし、教師である。

 たしかにこれはちょっと妙であった。

 

「何かあった、と考えるのが自然であろう」

「何かとは?」

「それは、わからない」

「え、いま、ありとあらゆる情報を見逃さないって――」

「しからば、貴君。そう何も急がなくても、万事はおのずから貴君の腋下に飛び込んでくるであろう。ビークールだ、貴君」

 

 橋を渡り切った先にある河原町丸太町の交差点で我々は立ち止まった。

 私はまじまじと男を見る。男は何食わぬ顔で葉巻を咥えている。

 

「それで、ぼくに何の用ですか」

 

 男はまた意味ありげに笑った。

 

       ◇

 

「桓武天皇が王城の地を定めてより1200年。今日、京都の町には150万の人間たちが暮らすという。だが、待て。人間などは我らの歴史に従属しているに過ぎない。歴史も町も造ったのは我々である、と大法螺を吹く狸もある。だが、待て、しばし。王城の地を覆う天界は古来、我らの縄張りであった。天界を住処とする我らを畏れ敬え、というようなことを傲然と言ってのける者がいる。天狗である。人間は町に暮らし、狸は地を這い、天狗は天空を飛行する。平安遷都この方続く、人間と狸と天狗の三つ巴。それがこの町の大きな車輪をぐるぐるまわしている。まわる車輪を眺めているのは確かに面白い。面白いが、忘れてもらっては困る。車輪も錆びてはまわらない。ガタが来る。ガタが来ないようにするには、油を差さねばならぬ。差すのは誰か。差すのは仙人である。仙人の汲々たる尽力があってこそ、この町は万事危うからず、ぎりぎりのバランスを保ってまわっていられるのである。

 だが悲しいかな、仙人はその並々ならぬ尽力を顧みられることもない。なぜだかわかるか。すなわち、人間も狸も天狗も、みな阿呆ばかりだからだ。阿呆が暮らし、阿呆が地を這い、阿呆が天空を飛行している、阿呆の見本市のような町が京都というところなのだ。仙人がちょこっと目を離してバカンスでも楽しもうものなら、あっという間にこの町はてんてこ舞い。常在戦場とはこのことで、気の休まる暇などまるでない。東奔西走で三つ巴の仲を取り持っている。そんなことだから、煙草を呑み過ぎる。髪が薄くなる。好物のカステラを食い過ぎる。漢方胃腸薬の世話になる。明け方に目が覚めてしまって睡眠不足になる。ストレス性の顎関節症になる。医者はストレスをなくせというけれども、人間と狸と天狗の運命を双肩に担って、へらへらとしていられるものか。

 それを天狗のやつらは、俺をいいように扱き使いやがり、狸は狸で阿呆な頼みごとを持参してくる。おまけに人間はプライドが高くて強情ったらありゃしない。どうして縁の下の力持ちとして、一番の功労者である仙人が評価されず、無造作に閑却されている現状に甘んじなければならぬのか。ふざけるな、ちくしょう。なんで俺だけ、毎日毎日こうも忙しく真面目に心を痛めて走りまわっているのであろう。何の因果でこんな道に進んでしまったのか。という思いになるのも無理なかろう。

 そう思わないか、貴君?」

 

 この妙な男は何を滔々と語っているのか。

 

「だから、あなたは何なんですか」

 

 交差点の信号が赤に変わる。

 ごごおという音を立てて10トントラックが通り過ぎた。河原町通りを挟んだ向かいの小学校では体育の授業が行われているらしい。児童の賑やかな声が聞こえていた。

 

「仙人だよ、貴君。私は仙人だ」

 

 男はどうでもよさそうに言った。

 

「はあ」

「貴君、信じていないな」

 

 私は頷いた。

 彼は「嘆かわしい嘆かわしい」と言いながら、そのくせちっとも嘆いているふうではない。良い匂いのする葉巻の煙をふわふわ秋風に流している。

 信号が青に変わった。

 私は葉巻を吹かしている男を後ろに残して、足早に歩きはじめた。こういう意味不明な人物と交わりをもっても、ろくなことはあるまい。

 

「まあ、待ちなさい」

 

 男は私に呼びかけた。

 

「君は昨夜、頭の禿げたジジイと気安げな若者に出会っただろう。一乗寺の路地裏で」

「なぜそれを」

「さっき言ったではないか。京都の情報はすべて掴んでいる」

「でも、置き去りにされている理由は――」

「些末なことは忘れなさい。私は君をある場所に連れていく。鼎立する阿呆どもの後始末とは何とも気苦労が絶えないことだが、これも仙人の役目だ」

 

 男は大きくため息をついた。

 

「とにもかくにも、ついてきなさい。べつに取って食おうというわけではない」

「お断りします。ぼくはクラスメイトと合流しなければなりません」

 

 男は「ふむ」としゃくれた顎をさすった。

 

「黒い羽根を持っているだろう」

「なぜそれを」

「貴君も分からん奴だな。京都で起きたことは何でも知っていると言っているだろう」

 

 私はズボンのポケットを触りながら次の言葉を待った。

 男は言う。

 

「それは天狗の羽根だ。なかなか手に入るものじゃない。そしてその羽根は、いわば招待状なのだ」

「招待状?」

「あるいは発信機ともいえる。いずれにせよ、もしかすると、もしかするぞ、貴君」

「どういうことですか」

「何かきわめて得難い経験ができるかもしれないということだ」

「はあ」

「ともかく、これは決まったことだ」

 

 そう言うと、右腕を高々と掲げて指をぱちんと鳴らした。

 とくに何も起こらない。

 ふいに、男は車道に身を乗り出して「タクシー!」と叫んだ。三つ葉のマークを冠した朱色のタクシーが停車した。

 

「さあ、乗った乗った。後でちゃあんと学友たちの元へ送り届けるから安心しなさい」

「本当ですか」

「私は仙人だ。嘘は言わない。送り届けられなかった場合、それは嘘ではなく、不都合、あるいは運命ということになる」

 

 男は不穏な言葉を残すと、タクシーの運転手に行き先を告げる。出町の桝形商店街というところまで聞きとれた。

 

「さらばだ、少年。また、どこかで会おう」

 

 最後まで名乗らなかった男は、京都御所に沿って丸太町通りを西へと去っていった。

 わけがわからぬ私を乗せてタクシーは進路を北にとった。

 


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