奉仕部と私   作:ゼリー

35 / 35
第三十五話

       ◇

 

 タクシーの運転手ととりとめもない世間話をしていると、いつの間にか目的地に到着したようだった。

 そこは何の変哲もない住宅街の一角で、停車したのは小さなアパートの前だった。なぜか入口の前には人だかりができている。

 

「やや、来たか」

 

 車から降りると、近くにいた初老の男性がタクシーの運転手に料金を払った。晩秋も近いというのに、なぜかアロハシャツを着ている。

 私は頭を下げた。

 

「あ、すいません」

「いいとも、いいとも。それより君が赤玉先生のお気に入りかい。なんでも先生の窮地を救ったとか」

「はあ?」

 

 アロハシャツの男性は「おおい、矢一郎」と声を上げた。

 

「やって来たぞ。この子だろう?」

 

 人だかりを割って出てきたのはどこぞの若旦那風の和装をした精悍な青年だった。矢一郎と呼ばれた青年は私の頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めまわしてから言った。

 

「私は女性と聞いていたのですが」

「なに?」

「いや、矢三郎が言うには在りし日の弁天様のような美しい女生徒だったと」

「どういうことだ」

 

 アロハシャツの男性が首を傾げる。

 私は、その瞬間はっとした。おそらく、話題にあがっているのは雪ノ下さんのことである。そして赤玉先生と言うのは、昨夜の酔っ払いを指しているのだろう。ここまで徹頭徹尾何が何だか分からなかったが、ついに脈絡が腹に落ちた。

 昨夜の幻のような出来事の中で、老人が雪ノ下さんをいたく気に入っていた様子はしっかりと覚えている。つまりこれは昨夜の口説きの延長なのかもしれない。そしてこのアパートに赤玉先生とやらが住んでいるのだろう。

 

「では、化けているんじゃないか?」

「矢三郎が言うには人間だと。しかし、あの阿呆のことだから何か見落としがあるかもしれません」

 

 アロハシャツと若旦那風の青年は、私の方に視線を向けながらなにやらひそひそと話し合っている。その周りを幾人もの和装の男たちが囲み、事態の行く末を真剣な顔で思案している。

 もし、これが口説きの延長だとすれば、ここにいる連中は何者なのか。かりに遅きに失した老いらくの空しすぎる恋の援護射撃だとすると、大の大人が雁首揃えて平日の昼間からいったい何をやっているのか。恥ずかしくないのか。いや、そもそもこの連中は老人の恋の片棒を担いでいる認識がないのかもしれない。

 

「しかし、樋口が寄越したのだろう?」

「ええ。そう連絡がありました。鴨川の土手で見つけたと言って」

 

 どうやったのかは知らないが、あの黒い羽根を目印に私を探し当て、老人の元へ連れてくるのがこの連中の役目なのだろう。鴨川で出逢った年齢不詳の男もそうだ。しかし、相手が間違っている。私ではない。我々は昨夜、たしかに老人と出会ったし、凍死の憂き目から救っている。ただ羽根を貰ったのは彼女である。私は持っているだけだ。そこには乾坤の開きがある。

 

「赤玉先生と面識があるのは確かなのだろう。ならともかく、連れていこう。偽右衛門(にせえもん)選挙がかかっている」

「そうですね」

「ちょ、ちょっと待ってください――」

 

 私は事実誤認を正そうと口を開いた。

 

「なんだね?」

 

 アロハシャツと若旦那がこちらを振り向く。

 

「その天狗だかなんだかの黒い羽根をもらったのはぼくではありません。別人です」

 

 両者は顔を見合わせる。周りに控えていた連中も静かになる。

 

「黒い羽根は持っているのかい?」

「ええ、まあ」

「なぜ?」

「それは、昨夜、雪ノ下さん――そのあなたたちの探している女性に預けられたからです」

 

 若旦那は「なるほど」と言ってから続けた。

 

「つまり、君も昨夜、一緒にいたということですね? 赤玉先生――その老人が酔いつぶれているところを一緒に助けたと?」

「……ええ、まあ、はい」

 

 ふたたび両者は顔を見合わせて、そうして安心したように頷いた。周りの連中も露骨に安堵してざわめき始める。

 

「では、問題ないな」

「ええ、問題ありません」

「君に我々の未来がかかっている。ただ、アパートの2階に行ってくれさえすればよいから」

「いきなり連れてきて申し訳ありませんね。しかし、そういうわけですから、何卒、宜しくお願いします」

 

 めいめい勝手なことを言って頭を下げた。

 

「しかしですね、おそらく、あのおじいさんが寄越してほしいのは、ぼくではない気がするのです。ぼくが行っても、なんの進展も――」

「いいからいいから」

 

 アロハシャツが私の背を押す。

 

「きっとお礼をいたしましょう。いまは何卒」

 

 若旦那に釣られて周りの連中も一斉に低頭する。

 

「いや、でも。ぼくだって用事があるんですから」

「悪いようにしません。そうですね、十万円でいかがでしょうか」

「やりましょう」

 

 私は引き受けた。

 

「いやいや、意味が分からないです。なぜぼくが、あなたたちの個人的な理由で動かなければならないのでしょうか。お断りです。はやく、クラスメイトたちと合流させてください」などと言っても、おそらく切り抜けられる状況ではないだろう。これだけの人数に囲まれているのだ。腕力に訴えたところで勝ち目はないし、腕力に訴えるのは私の主義ではない。ここはさっさと老人と面会して解放してもらうのが利口である。

 

「ありがたい! では、中に入って階段を上ってくれ。すぐそこが赤玉先生の部屋だ」

「勝手ではございますが、くれぐれも失礼のないようにお願いします」

 

 ふたりの言葉に私は頷くと、小さな戸口をくぐってアパートの中へ入った。

 十万円があれば、いったい何が買えるだろう。

 

       ◇

 

 階段を上がった先には、縮こまるようにして小さな男の子がぷるぷる震えていた。なぜか、お尻に狸のような尻尾が生えている。そういうアクセサリーであろうか。いやにリアルで、もふもふと顔を埋めたい欲求に駆られる。

 

「兄ちゃんかい?」

 

 足音を聞きつけて、男の子が顔を上げる。

 

「あれ、兄ちゃんじゃない。あなたはだあれ?」

「通りすがりの修学旅行生だよ」

「あーもしかして、兄ちゃんが言っていた赤玉先生を救った人?」

「まあ、おそらく、そうなります」

「よかった。先生ったら、天狗風を吹かせてひどいんだ。何とかしておくれよ」

「天狗風ってなんだい」

 

 ふいに、左手にある戸の向こうで物音がした。追って低い咳払いも聞こえる。

 

「機嫌が悪いんだ。ぷりぷり怒っているんだよ」

「年寄りとは、そういうものだからね」

 

 そう言って少年に笑いかけると、私は戸を開けた。

 ぼろぼろになった障子を引くと、そこはいかにも昔ながらの木造アパートにありがちな、こじんまりとした四畳半の部屋だった。中央にはいまだかつて日の目を見たことがなさそうな煎餅みたいな布団が敷いてあり、そのうえに卓袱台が置かれている。入って右手は押し入れ、前方と左手は窓になっており、ところどころ補習された跡があったが、強風が吹けば今にも砕け散りそうに心許ない。左手の窓枠の下には、小さな文机があって大量の本が並べられていた。他にも目につくものはいくつかあったが、最も存在の主張が激しかったのは、雑然と散らかされて放置されたワインの空き瓶だった。

 この部屋をして形容する言葉は数多くありそうだったが、端的に言えば、汚い、である。

 私は眉を顰めると、部屋の主である独居老人に軽く頭を下げた。

 

「何しに来た、小僧」

 

 見事な鷲鼻を持った禿頭の老人――赤玉先生は、作務衣なのか甚平なのかよく分からない着物をまとい、じっと胡坐をかいて私を睨みつけた。かりにも命を救われた相手に対する感謝とか謙遜を微塵も感じさせない、お手本のような傲岸不遜さに、私は怒りを覚えると同時に、ややたじろいだ。

 

「半ば強制的に、ここへ連れてこられたのですよ。おじいさんが呼んだのでしょう」

「おまえなど知らん」

「ぼくだって、あんたなんか知りませんよ」

 

 思わずそう言い返すと、赤玉先生はむっとしたようだった。

 

「人の子風情が生意気な。昨晩の娘はどうした」

「雪ノ下さんですか」

「そうそう、そんな名前であった」

「彼女ならたぶん今頃太秦です」

「なにゆえ太秦なんぞにおる。学生だろう。学校はどうした」

「修学旅行だからです。ぼくだって修学旅行中なんですよ」

 

 赤玉先生は、おや、というような顔をした。

 しばらく考え込んでいたと思ったら、葉巻に火をつけてぼそりと言う。

 

「そうか、それは都合が良さそうだ」

 

 私はなぜかぞくりとした。

 

「雪ノ下さんを呼んで、どうするつもりなんですか」

 

 恐る恐る尋ねると、赤玉先生は意味ありげな笑みを浮かべて、濛々と煙を吐いた。

 

「お前には関係のないことだ」

 

 私は赤玉先生の意図を測りかねた。おそらく雪ノ下さんに執心しているのは、昨日の挙措動作から鑑みても間違いないが、一方的なものであることは言うまでもない。いくら息巻いたところで、会ったばかりの見ず知らずの他人と恋仲になれるという、自分勝手な妄想が現実にならないことは百も承知のはずだろう。

 しかし、である。

 世界のどこかには誘拐婚なるものがある。意にそぐわぬ女性を拐かして、強制的に夫婦の契りを結ぶエキセントリックな風習である。中には家族ぐるみ、あるいは組織ぐるみで行われることもあるらしい。まさか現代の日本でと思いつつも、眼前の老人からは得体の知れない自信と凄みが見て取れた。アロハシャツが「にせえもん選挙」だかなんだか言っていたが、何かしらの交換条件があるとはいえ、大の大人をあれだけ動かしているのは事実である。じつは後ろ暗い権力を持っていると仮定しても何ら不思議はないように思われた。見るからに落ちぶれた独居老人ふうの成りは世を忍ぶかりそめの姿なのかもしれない。

 私はごくりと唾を呑みこんだ。下手なことを言えば、いまよりもっとろくでもないことに巻き込まれそうだった。慎重に言葉を選ぶ。

 

「彼女は少し乱暴ですよ。普通の人間には手におえない反骨心を持て余しています」

 

 灰皿に灰を落としていた老人の手がぴたりと止まった。ふいに赤玉先生は自信たっぷりに呵呵と笑った。

 

「儂は大天狗であるぞ。反骨心、大いに結構。それくらいでないと務まらないからのう」

「て、天狗って。それは、おじいさん、偉いもんですなあ」

「当り前だ。天狗は偉い。ゆえに、儂が一番偉い」

「あははは、は」

 

 これはまずい。天狗と自称する老人がまともであるわけがない。つい先だっても仙人と自称する年齢不詳の男と出会ったが、京都は阿呆を醸す酒樽か何かだろうか。老人ホームか場末のスナックなら満場大爆笑の冗談かもしれないが、男子高校生にはやや捻りが足りなすぎる。

 ともあれ、この赤玉先生なる老人は阿呆である。皮肉も通じないあたり筋金入りの阿呆である。そして阿呆が権力を持つほどタチが悪いものはない。加えて自信家にいたっては手に負えない。

 赤玉先生を一瞥すると、何が可笑しいのかニヤニヤと相好を歪ませつつも目はらんらんと輝き、むやみに私を威圧した。

 いけない。このままでは雪ノ下さんが、一休宗純もかくやとばかりの年の差婚で世間をお騒がせする羽目になってしまう。率直に申し上げれば、雪ノ下さんが誰と結婚しようが私には何ら関係がないのだが、さすがにその相手が、汚らしいアパートの一室で逼塞している自称天狗の老いぼれとなると、さすがに不憫で見過ごせない。

 雪ノ下さんの貞操を守るにはどうすればよいか私が考えあぐねていると、階下の方でざわざわと何やら騒動が持ち上がっている気配がした。

 赤玉先生は気にする素振りすら見せず、低い声で言う。

 

「小僧、お前はもう帰れ。太秦でも漢字ミュージアムでも好きなところへ行くがよい」

「雪ノ下さんは」

「むろん、連れてこさせる」

 

 私は思い切って言った。

 

「しかし、それは誘拐でしょう。彼女の気持ちはどうするのですか」

「どうもこうもあるものか。天狗は人を攫うものである」

「何を言っているんですか。あんた、それ犯罪じゃないか」

「やかましい! 天狗に人の法が通用するか、馬鹿者が」

「天狗の法だって人に通じませんよ」

「小僧。あまり儂を怒らせぬ方が身のためだぞ。儂は腹が立つと辻風を吹かす」

 

 そう言うと、老人はやにわに立ち上がって、卓袱台の上に乗り上がった。

 

「あっ、暴力はいけません。それに、そんなところへ乗ったら危ないですよ」

 

 その時だった。

 ふいに障子ががらりと開いた。私と赤玉先生は同時に視線を送る。

 そこには、ひどく美しい女性が立っていた。

 つやつやとした黒髪を頭上で束ね、真っ白なシャツに黒いスカートを履いた美女は私と赤玉先生を順に見遣ると、戦慄的ともいえる妖艶な笑みを浮かべ、ぞくぞくするような玲瓏たる声音で言った。

 

「先生、聞きましたわ。また弟子をおとりになられるのですね」

 

 時間が止まったかのように、しばらく寂とした間が空いた。

 美女は何が楽しいのか口元は笑っていながらも、目は奇妙に据わっている。

 

「ねえ、そうなのでしょう」

「……弁天」

 

 気が付くと、赤玉先生はいつの間にか卓袱台から下りていた。

 

「い、いや、儂の弟子は弁天ただひとりだ」

「うそをおっしゃい。矢三郎から聞いたのです。千葉から来た小娘にご執心なんですってね。オホホ」

「……何を言う。そんなのは毛玉の戯言だ」

 

 私は愕然として拍子抜けした。あれだけ気焔を吐いて、威圧感を撒き散らかしていた赤玉先生が、借りてきた猫のようにおとなしくなっていたからだ。あるいは、こそこそと隠れておやつを盗み食いした幼子が叱られたときのような、妙な焦りもあるようにも見受けられた。

 美女は涼しげな目元をきっと力ませた。すると、不思議なことにふいに四畳半の空気が冷たくなった。

 私はぶるりと体を震わせて腕をさすった。鳥肌が立っている。

 

「少し頭をお冷やしになられた方がいいですわ」

「う、うんむ」

「狸たちの言うことも聞いてあげなくってはいけませんよ。あんまり可哀そうなんですもの」

「……うんむ」

 

 いまや赤玉先生は借りてきた猫どころではなく、蛇に睨まれた蛙のごとき様相を呈していた。

 

「それと――」

 

 美女は流し見るように視線を私へ投げてよこす。

 

「この少年はわたくしが借りていきます。いいですわね」

「……うむ?」

「いいですわね?」

「う、うむ」

 

 口を挟む間もなく、美女は私の腕を取って、四畳半を出ていこうとする。

 開いたままの戸口から一歩廊下に出ると、美女は振り向いて片目をつぶってみせた。

 

「浮気はいけませんことよ、先生」

 

 美女の横顔は、陶器のようなつるりとした白く、非の打ちどころのない造形をしていた。

 赤玉先生は何か言いたげに口を開いたが、もごもごやった挙句に、言葉を発さずにしょんぼりとうなだれた。

 

「あ、あの。雪ノ下さんのことは」

 

 腕を引かれるがまま赤玉先生に問いかけると、代わりに美女が私の唇に人差し指を当てつつこたえた。

 

「大丈夫よ。あなたは私についてきなさい」

 

 私がコクコクと頷くと、美女はクスッと笑い、「それではお師匠様。ごきげんよう」と言い捨てて、私を四畳半から連れ出した。

 

       ◇

 

「わかっているね、きみたち。万が一ほかの先生に見咎められるようなことがあっても、関係のないフリをしてくれ」

 

 京都初日の夜、一乗寺でラーメンを平らげた我々は、タクシーを拾って帰路についた。念のためホテルからやや離れた、丸太町通りを一本脇に入った住宅街で下車する。聖職者としての義務と食欲を天秤にかけて、迷わず後者を取るような頭のオカシイ教師はごく一部である。ホテルの目の前で降りるという暴挙に至れば、修学旅行で規則過敏になっている教師連の説教を頂戴する可能性がある。むざむざとそんなリスクは冒さない。紳士はつねに内申に余念がないのだ。

 

「いいかい、ラーメンを食べていたのはきみたちだけだ。俺は先生に拉致されてラーメン屋の前で立たされていたことにするから」

 

 運転手に支払いを済ませている平塚先生に聞こえないよう、小声で比企谷と雪ノ下さんに言明する。

 

「すがすがしいほどクズだな」

 

 比企谷は呆れたように鼻で笑った。

 

「大盛にライスまで頼んでたくせして、面の皮が厚すぎるだろ」

「やかましい。それはそれ、これはこれだ」

 

 支払いを終えた平塚先生が、「では、私は酒盛りセットを調達しにコンビニに寄るから。気をつけて帰れよ」と言って煙草に火を点けた。

 

「あ、俺もコンビニ寄ります」

 

 比企谷が言うと、平塚先生は「もう奢らんぞ」と煙を吐いた。

 

「ちがいますよ。雑誌のチェックっす」

「ふうん。本当なら夜間の外出に注意するところだが、もはやいまさらだな。好きにしろ」

「なら、ぼくも」

「おまえは駄目だ」

 

 最後まで平塚先生のお供をしていた方がなにかと無難だとついていこうとしたが、にべもなく断られてしまった

 

「だれが雪ノ下を送るんだ」

「え?」

「夜中に女子の一人歩きは危険だろう」

「どうしてぼくが。比企谷でいいでしょう」

「聞こえていたぞ。だれがだれを拉致したって?」

「ささ、雪ノ下さん。夜道は危ないですからね、ぼくが送りましょうね」

 

 咄嗟に平塚先生から視線を外して、雪ノ下さんに笑いかけた。

 

「あなたの図太さには慣れたつもりだけれど、ここまで露骨だとさすがに腹が立つわね」

「うんうん、大丈夫だから」

「なにが大丈夫なのか、まったくわからないのだけれど」

「気をつけてな。では比企谷、いくか」

「うっす」

 

 丸太町通りの方に向かう二人をしばらく見送っていた私と雪ノ下さんは、どちらともなくホテルに向かって住宅街の中を歩きはじめた。

 夜更けの住宅街は静かだった。軒下の門灯やときおり通る車のテールランプが、きらきらとアスファルトに短い光を投げている。前方遠くに寺の山門とその先へと伸びる石畳の道が見えた。どこからかパッパというバイクの排気音が聞こえてくる。中秋らしく、袖や裾から忍び込んでくる夜気が冷たかった。

 横を歩く雪ノ下さんは黙っていた。珍しく口数が少なく、落ち着き払っているようだったが、とくに私から口火を切る気はなかった。そうこうしているうちに、交番が見えてきて私は思わず俯いた。べつに何も悪いことはしていないのだが、なぜか官憲を見ると縮こまってしまうのはどういうわけか。国家権力には、無辜で清廉な学生を屈服させる謎めいた力がある。

 そんな私を見て雪ノ下さんは怪訝な表情をした。

 

「出頭するの?」

「犯罪者ではない」

「紛らわしいわね。笹原を走るようなマネはよしなさい」

「どういうこと」

「脛に疵持てば笹原走る、ということわざがあるじゃない」

「知らないね。学を衒うのはよせ」

「あなたが浅学なだけ」

「おい、失敬だぞ。俺ほど深謀遠慮な男も、そうなかなかお目にかかれるもんじゃないよ」

「たくさんいるのではないかしら」

「どこに」

「どこでもいいでしょう、べつに。そこらじゅうよ」

「答えられない、ということでよろしいか。つまり、深謀遠慮な男イコール俺、ということになるね」

「好きにしなさい」

「うん」

 

 雪ノ下さんはくすくすと笑った。下らない会話でエンターテインされたみたいだが、私としては子供じみたやりとりを面白おかしくあしらえる年季の入った器の差を見せつけられたようで気に食わなかった。

 交番を通り過ぎて、さきほど見えていた山門の脇にある細い小径を抜けていく。肩と肩が触れ合うくらいの狭さだ。京の都には、こんなふうに趣はあるが窮屈な道が張り巡らされていてきりがない。繋ぎ合わせれば、きっと太陽系の外にだってたどり着けるだろう。

 

「窮屈な道だね。前を行きなよ」

「いやよ。あなたが行って」

「きみに合わせて歩いているんだ。俺が前を行けば、雪ノ下さんは路頭に迷うことになるぜ」

「そんな方向音痴ではないわ」

「よくいうぜ。さっきはぐれたばかりじゃないか」

「あれは方向音痴とは関係ないじゃない」

「逸脱していることにかけては同様だ」

「まったく細かい男ね。なら、前を行っても歩調を合わせてくれればいいのではないかしら」

「……まあ、そうだけど」

 

 住宅街を抜けると、やがて車が行き交う大通りに突き当たった。ホテルはもうすぐだ。

 激動の一日になるとは夢にも思わず、私は修学旅行二日目の翌日に思いを馳せた。ところが期待に胸を膨らませるつもりが、ことさら思い出したくもない戸部の依頼のみが念頭に想起されたのには業腹だった。明くる朝、朝食の席で比企谷に語ったように、本心をさらけ出せば戸部の依頼なんぞは打ち遣っておくつもりだった。それは言うまでもなく、依頼達成の判断を私が握っていることと、他人の恋路に通り一遍の関心も持ち合わせていなかったためである。私の知的好奇心は遍く無辺ではあるが、男子の懸想についてはその限りではない。

 しかしながら、由比ヶ浜さんを筆頭に奉仕部の連中はいたって真面目だ。戸部の後ろ盾という何の益もないことに一生懸命である。

 

「この世で最も難解な問題は何だと思う?」

 

 錦林車庫前行の市バスが通り過ぎるのを待って私が尋ねると、雪ノ下さんは首を傾げた。

 

「何よ、突然」

「俺はね、この世で最も難解な問題は恋愛なんじゃないかと仮定している」

「……それで?」

「ようするにさ、まだ戸部には早すぎるんだよ。三角関数も怪しそうなやつが、恋愛なんていう定義も公理も定理もないような滅茶苦茶な問題に挑むなんてどうかしてる。きわめて無謀だ」

 

 雪ノ下さんはふいに立ち止まった。遅れて気が付いた私が振り返ると、彼女は目をぱちぱちさせて私を見つめた。

 

「それは、サポートしている私たちも無謀だと言いたいの? つまり、あなたは依頼を放擲すると、そういうことかしら」

「いやいやいや、そうは言ってないだろ」

「そう聞こえるのだもの」

 

 ずばりその通りである。その通りであるが、私が依頼を放擲しようがしまいが、着地点は変わらない。戸部の依頼はあくまでも告白のサポートである。汚かろうが姑息だろうが、サポートをしたと私が認めれば依頼は達成であり、すなわち達成は約束されていると言える。

 

「飛躍だ。雪ノ下さんの悪い癖が出たね。俺はちゃあんと戸部を応援するさ」

 

 しかし、ときに自縄自縛に陥るほど、義務感への潔癖さがとめどない雪ノ下さんのことだから、そんな私の本心を知れば、決してタダでは置かないだろう。余計な話を持ち出してしまったと焦りつつも私は内心を韜晦すべく、わりあい真摯な口調でそう伝えた。

 

「ほら、いつまでも突っ立ってると先に行っちゃうよ」

「……」

「もうホテルも見えているし、いくら方向音痴の雪ノ下さんでもたどり着けるからね」

「待ちなさい」

 

 雪ノ下さんは小走りで私の横に立つと、何かを考えるように目を伏せた。

 なんだか雲行きが怪しげである。

 

「ここまで来たんだからお役は御免。先に帰ってるぜ」

「……待って」

「いや、だからね雪ノ下さん、そう額面通りに受け取らないでくれよ。ひとつの意見にすぎないんだから」

「そうじゃない」

「くそっ、余計なことを言っちゃったよ。はい、わかったわかった、真面目にサポートします。これでいいかい?」

「いいえ、そうじゃないの。あのね、私が言いたいのはもっと別のことなの」

 

 肩をすくめた私に対し、雪ノ下さんは意を決したようで、ことのほか真剣だった。

 私はほんの少し襟元を正した。

 

「なに」

 

 右折車のフロントライトが雪ノ下さんの顔をさっと照らして、また暗くなった。彼女の頬が上気しているように見えたのは気のせいだろうか。なにやら嫌な予感がする。私の予感は当たって欲しいときほど見事に外し、外れて欲しいときほど真芯を喰うことで知名を誇っている。

 私はつばを呑み込んだ。

 

「もしも私が騙すようなことをしたら、あなたは、その……許してくれる?」

 

 突拍子もない問いに、私は眉を顰めた。それが不快さの顕れだと感じたのか、雪ノ下さんはややたじろいだようだったが、私の目から視線は外さなかった。

 

「なんだよ、いきなり」

「いいえ、ごめんなさい。やっぱり、いまのは忘れてちょうだい」

「待ちたまえ。不穏すぎる。眠れなくなりそうだ」

「……それなら、真面目に考えて答えて」

「だ、騙すって何のこと」

「なにも聞かないでちょうだい」

「横暴じゃないか」

「……」

 

 雪ノ下さんのきらきらとした双眸は、私を一心に射すくめている。しかもその眼光は刻一刻と漲り張りつめ、今にも火花が散りそうな塩梅である。これはただことではない。

 過去に類を見ない強力無比な眼光に対峙した私は、「あ、悪意が無ければ」と情けなさ過ぎる回答を返していた。

 

「雪ノ下さんのことだから、きっと海よりも深い理由があるのでしょう?」

「……そうかもしれない、わね?」

「どうして、きみに自信がないんだ」

「ううん、そう。大事な理由があるわ」

「であれば、許すのもやぶさかではない」

「本当?」

「むむ、不安になってきたぞ。やはり撤回していいかい?」

「イヤ」

 

 そう言うと、雪ノ下さんはむっと口を結んで栗鼠みたいな顔をした。それが可笑しくて拍子抜けした私は、もう一度「うむ、許すよ」と言った。

 

「なんでも、巷では許せる男がイイ男だそうだ」

 

 私の寛容さの背後に、一抹の思惑もなかったと言えば真っ赤な大嘘になる。戸部の恋がどのような結末を辿ろうとも依頼の達成は覆らない、というある種の八百長に対する引け目が、これで帳消しになった気がしたのである。雪ノ下さんが何をどう騙すのか知らんが、瞞着の姑息さで言えば、恥ずかしながら私の方が上をいくに決まっている。まさに渡りに船だったのだ。

 

「ふふ、ありがとう」

 

 そんな私の思惑などは露知らずに、雪ノ下さんは、彼女にあるまじき朗らかな笑顔を浮かべていた。声音にもそれが表れていて、もしかするとラーメンでお腹が膨れて、気が緩んでいたのかもしれなかった。

 

「ねえ。戸部くんの依頼、なんとしても成功させるわよ」

「言われるまでもない」

「頼りにしているわ」

 

 そう言うと、雪ノ下さんは私のそばに寄った。

 

「お、おい。えらく近いね」

「そうかしら。夜道は危険だから仕方ないわ」

「もう目と鼻の先だけど」

 

 彼女は笑って取り合わなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。